いま、そこに、あなたが、あるのは

誰も『苦労』はひとそれぞれ。しかもすべて自分のオリジナル。つまり人間の数だけ誰にもみんな役目と役割りあって生まれてる

家族が本人を理解してやらない理由について

2021年10月11日 | 闘病



一部の心無い人というのは、
自分よりも更に立場の弱い相手に対して、
虐めるような振舞いを、平気でしてみるとか。
刃向かわない相手を選んで、攻撃をしてくるとか。
要は、その種の悪事を働く人間というのは、
自分の立場のなさというのを、
自身で、これを認めたり受け入れたりするのが苦痛だから、
それで不満の腹癒せというかたちで、弱い者いじめや、
一定の相手への偏見や差別というものに転嫁して、
その鬱屈した思いの吐き出し場所に利用してくる訳なのです。

これはパワハラというのも、結局そうなのだし。
障碍者の差別をすることも、そうした面で同じことです。

障碍者が差別されないようにするのは、
そういう差別を禁止するだけだと、
もしこれで指定した先に攻撃がいかないとしても、
また別のところへ矛先が変更されるだけで終わるのです。

これはつまり不当に扱われる不満が解消されていかないと、
本当の解決には結びつかない話ですから。

へんな話ですが、障碍者同士の間でも、
あるグループが、また別の一群に対して、
差別や攻撃を仕掛けてくるというのも現実ありますから。

だから根本解決は簡単にできないというのは事実でもあります。

では現実にそういう事態があるから、
それを避けるために、障害があるような家族を、
その人の障害がない状態に、なってもらおうというのは、
果たして成立することなのでしょうか。
これはどう考えてみても、物事の道理としては、
また出来事の抱えている成り立ちと致しましても、
そこには、あまりに無理繰りが酷すぎるというのは明らかです。

でも現実に真顔でそうした取り組みに明け暮れているのが、
何を隠そう精神障碍者の、取り分け統合失調症に関することで、
それが突っ走っているのであります。

これらに対して治療するというのは、
何らかの改善が、その目的なのだというなら、
私も妙な物の言い方をするつもりは持ちませんが。

でも、少し良くなっても不十分、
ああそうですかと、頑張ってみると、
いやいや、もっともっと一般の状態が目標です。

下手して付き合っていると、そこまでやらされます。
やって出来るのなら致します。
でも、無理をして頑張れば、必ずその反動が来る。
これは下手なダイエットも、やはりリバウンドするでしょ。
やってみて目標実現しても、無理した分だけ、
かえって酷い状態を引き起こす結果になります。
そこは私たちの養生でも同じことです。
確かに治りたい、治したいは、やまやまでも、
無理したら酷い目に遭う。これは脅しなんかじゃない。
実際に多くの方々で経験済みですもの。

だから、いまは自分に何ができて、何が無理か。
そこをワキマエルところまで体験を積んできましたから、
ようやくにして落ち着いた生活が送れるようになりました。

それは自分だけで実現させられたのではありません。
身近にいてくれる人と、いかに協業していくか。
どうやったら、自分も周囲も、等しく成立させられるのか。
それを一緒にやってくれる相手を得て、行えるようになった。
そういうことでもあります。

つまり人間は一人で生きているのではなくて、
いろんな繋がりの中にありながら、
その一人のひとが、
そこに、そのようにして、いままさにある。
ということなのです。

だから立ち行かない誰かを支援していくというのは、
そのひと一人だけを看ることで、実現なんかさせられません。

でも今現在のアプローチの方法というのは、
多くの場合、そのひとを、どうしたらいいのか。
そういう考え方を貫き通すことで、やっきになっている。
そんな傾向が顕著なのではありませんか。

故に病気や障害は、そのひと個人のなかにあるという考えです。

そのひと個人が、仮に無人島で単身孤立しているなら、
それも方法としてありなのかもしれない。
だから孤立した独居老人に追いやるのは、
そこが目的だというのは、悪い冗談だとして、


その人が自分一人だけで、その人であるというのは、
ある面これは錯覚にも等しい話なのです。

また妙な喩えに響くでしょうが、
愛玩動物の健康問題ということは、
それを誰がどう飼っているかという兼ね合い抜きには、
その取り組みの方針さえもが定まらない話ですよ。

そこは、ひとりの人の健康状態や障害問題というのだって、
現時点での身内や家族、また過去における関係においても、
そして将来の本人を取り囲むであろう存在等についても、
さらには身の置き所である地域社会やコミュニティの動向だって、
それら周囲全体を含みながらで見渡す考えが抜けてしまったら、
それで行くべき羅針盤が探せるような話じゃないです。
ほかならぬ本人の考えが主体なのは言うまでもなく。

どう治すかと、どう生きたいかは、同じ内容の言い換え語です。
だから、病気という狭い縮め方は、かえって遠回りをする。

どんな人生かと振り返った場面で、そのひとに何があったか。
それが病気は治ったのか、障害はどう変わっていったか、
もし話が、それのみで終わりだったら、いかがでしょうか。

人間いかに生きるか。
これは障害の問題であるとか。
病気を治せる・治せないとかの意味合いは、
およそ超えた話ですから。

病気や障害を解決してから人生をやり直すおつもりだと、
始める前に、それは終わりが来る公算になるから。

われわれは病気しながらの生き方であり、
障害を抱えつつ過ごす人生が身上で、本分なのです。
それが私たちの場合の一生の持ち方だと気付いて欲しいのです。
どうかどうか、そこをお察し頂きたい。
これは私からのお願いです。

生まれてきたのは、病気と闘うのが目的でもないし、
障害を無理までして消し去る試みが狙いでもない。
一見したようすには、多少とも特異な部分を備えつつ、
でも、その場合でも、ひとは人として生きていく人生を、
その人なりに全うする訳だし、それができるのですよ。
即ち、その人が、そういう人であるというのを、
受け入れる、認めるとは、イミジクモそういうことです。


蛇足を書けば、認知症も同じく汚点なんかじゃないのです。
長い人生には、そういう時期が生じることも含めて。
これは人として、人間の生き方として、アリです。
大アリです。それも含めて、人間は命を生きる。




うっかりミスな言葉の用い方で、怠りを正当化してしまう

2021年08月10日 | 闘病



自分がすべきことは、
キチンとやっていくべきものです。
え。それは当たり前だろう?
そうなんですけど。
ただ、それを見事に言い訳して、逃れる口実にできてしまう、
そんな文言が、いま世の中にハビコリ過ぎています。
それは「仕方がない」という言葉です。

もっと正確に言えば、その言葉を使用する場面について、
これを、どう選び、いかに使えているか、そっちの問題です。
やるべきことがあり、でもやらないで済ませる為に、
実に多くの人が言い逃れの口実に使っています。
その状況で、これを用いてしまったら、
最大に不味い誤用になるからと私は思うのです。

誤解のなきよう付記を致しますが、
私は、キチンとできていて、
他の人の間違いや、アゲツラいとして、批判に晒してみたり、
そこを吊るし上げにしてやる、なんかじゃないですからね。
私自身、自戒を込めつつ、
お互い、怠惰な生き方というのは、やっぱり不味い。
そういう趣旨で言葉にしたと、まずお断りをしておきます。



ただ、忘れてイケナイのはですね。
やらなきゃいけないというのと、
自分がしたいのか、それとも、したくないのか、
そこの吟味というのも、ここで極めて重要なのです。


建て前では、こうすべきだけど。
自身の本音としては、そんなことやりたくないんだ。


それは多くの場合で実際によくある話です。
そこについて、これらを上手に切り分けた上で、
そこの区別をハッキリ自分の中でも、
別々の異なるものとして、違いを味わっておいて、
そして、これらそれぞれで、各々に、
別個な認識なり、また感覚としても、共存させて、
自分の気持ちに持ちながらで。
当然、その各々は、それぞれで違う容れ物というか、
器の用意をしておいて、ちゃんと自分の心へ納まるような、
準備を心掛けることで、自分の気持ちが乱されたりしないように、
そういう工夫を身に着けていく。

そこさえ本当にシッカリと出来ていたら、
前掲のような誤用というのは、
本来そうそう起きるようなことではないのです。

したことがないと、一見、面倒臭いようだけど、
手順というか、スキルというか、そこが重要なポイントです。
もう少し実際的に例を示さないと、
どういう意味か話が分かりづらいでしょうから。
そこを、以下に説明をしてみます。

多くの人が、ついついゴッチャにしてしまうのは、
さっき述べたように、したいというのと、
やりたくないというのと、それぞれで自分の中に、
どういう位置付で心に収められるのかという、
そこの区別や意味合いで区分けをしてみることを、
ほぼ完全に、すっ飛ばしになっています。

それぞれは、自分にとっても各々で色合いは違うのです。
だから最初から、それらの気持ちというのは、
もともと同じ箱へ収められるような性質じゃない訳です。
そこを考えておかないから、結果として、
ここで二者択一にするしか、対応ができないという
誤解をしているから、最初の話みたいな問題が起きる。


ここをキチンとするか、しないかで、
自分の困りごとが、病気に発展するか、しないかの
分かれ道にすらなってしまうんですよ。


よく聞く、「自分は何々したいんだけど、
どうしても、そう出来ないんだ」という言い方も、
中身は、これなんですよ。


この場合の自分というのを、
まるで単純な一枚岩に見做しているし、
だから、そこでの自分とは、Aであるか、Bであるか、
いずれかであるはずだ。なのに、どっちなのかが、
区別ができないという話にまでモツレ込んでしまっています。


自分というのは、建て前もあれば、本音もある。
しかも2個だけに分けて、そのいずれかが自分だよ。
という見え方が、本当はオカシイんですよね。


おなじ人物がですよ。会社で仕事してるときは、
その部署の誰々さんだし、同時に社内では各々に立場関係であり、
しかも対外的に相応しい振る舞いが、それなりにある意味です。
しかも、退勤すれば、家庭に帰った時でも、
また街中に居るときでも、あるいは、お店に入ったら、
それぞれで別々に演じ分けるように顔が変わるのですよ。

なぜならば、われわれには社会というものがあって、
そこでは場面ごとの役割りや立場が生じてくるので当然そうなる。

職場にいたら、求めに応じて用件を片付けるでしょ。
でも家にいたら、別の立場で、違う用事をしていますよ。

この部分の仕組みが考慮できていないと、
さっきのような「したいけど、したくない」の
さっぱり意味が、ナンナンカ分からんようになりますけ。


学校へ行くのが期待される立場の自分としては、
そこは行く場所だから、行くべきことも期待されているし、
役割りを果たすという勤めとして、そこに行こうと思う。
だけど今はまだ登校する前の時点に身を置く以上、
ある面でいま同時に、この自分とは、
この家の家族を構成する一員としての子供でありますから、
いま家にいる私としては、これから学校へ行くよりも、
まだ家にいるほうが、自分がやりたいこととして
私の気持ちは向いています、という陳述なんです。

こうやって、それぞれ分かち書きしていけば、
各々で誰が何を感じて、それぞれで如何なる態度を、
銘々が述べていることなのか、
如実に話が見えてくるじゃあ~りませんか。

ここでややこしいのはですよ。
責任の所在として、誰にしたって、何かの役割上、
ある場面で、果たすべき事柄として、
こうでなくてはなりません。
その「こうでなくてはなりません」というのはですよ。

今言ったように、気持ちとか、思いとか、願いとか、
そういう私的な私情とは、かなり異なる色合いがあります。
子供にしろ、会社員にしろ、そこには責任上の
課せられた任務が定められている部分が、避けられないです。
任務なんだと割り切るから、仕事や役目として引き受けるが、
そこで成立している内容ですから。

もし任務が自分の出来る能力を超過するのであれば、
これを断ったり、回避しようというのは、
当然、人間誰にもキャパがあるから、これは起きる。
じゃあ。今日は無理だから、抜きにするという、
そういう構えもありだと思う。
また、そこでの選択にしても、ただAか、Bか、という、
二者択一で処すというのではなく、
気持ち的には、いま自分はBが優勢なんだよ。
でも立場上の自分としてはAも求められているのが分かる。
だから務めとして応じる、あるいは、選択として、
今日は遠慮しておく。
こうやって上手に分かち書きに区別をしていけば、
両論併記的に、自分の選びで、行動を考える。
という主体が損なわれることなく、実行できる訳です。


まあ。それしきの単純なことなんだけど。
それぞれ別個に違う箱を用意して受け取らないから、
郵便受けは満杯になって困ってるような事態です。
集合住宅には部屋ごとの郵便受けがあります。
自分の我が心というのも、ある面で、役割ごとの
それこそポストなんです。
銘々が受ける所を区分けしてこそ、
届いたメッセージにも、各々で承りましたができますから。

さてと。「仕方がない」の内容点検については、
詳細はまた別の機会に譲ることにしましたので、
今回は、悪しからずです。

昼メシ食ってきます。
今日少し涼しくない?
やっぱり立秋過ぎればねえ。

ではまた。サヨナラ~~


そこには想像しないような事情が・・・・(5)

2021年07月23日 | 闘病
この間までの書き方で、私の言いたいことが伝わる人と、あれでは意味がどうも伝わっていない人があるようなので、今回は、また違う表現で述べてみることにしました。


私の気が付いてきたのは、主に2点あります。


一つは、それが相手の気持ちなのか、
それとも自分の中で覚えている、そういう感覚であるのか、
それらの二つの違いについて、
これをキチンと区別した上で認めるのが、
なぜだか非常に下手クソな人がいるようなのです。


もう一つは、人というものは意識で考えるだけじゃなくて、
意識以外のものが、人の行動を大きく左右してくる訳なのですが。
これについて、自分が汲めているのかどうか、
そこをついつい忘れてしまっているので、
自分のやろうとしていることが、たいへんチグハグしている。
そういうことがあります。


それらを自分の記憶にある子供時代の体験を書きながら、
説明していこうと思います。


私には丸2歳年下の妹がいます。そのことと、
後年、私が陥ってしまった状況と深い繋がりがあります。


たまたま私の母が、
先で述べたような2つの問題を顕著な状態で抱えていたせいなのか、
知らずしらず、私に対して行っていたことが、
やがて私が困りごとに直面する背景にあったらしいのです。
もちろん悪意でも故意でもないのは、今の私は十分に理解しています。
誰が悪いとか、何のせいでとか、そういう犯人捜しをする気は毛頭ないです。
ただ気が付かないで、うっかり人というのは、そういうこともするので、
今そうなりかけている方へ、お伝えしたい気持ちが湧いてきます。


これについては同じように家族会へ行っても、
そこで親御さんたちの言葉から拾うことができますが。
例えば、子供の身体の健康を気遣うから、
心配のあまりに、ついつい声を掛けてみるときも、
それが起きていますが。


心配といえば、心配だし、
親心といえば、まさにそうではある。
だから人は、そこに何があるか、見落としてしまうのですが。


これは私の妻の母親も似通ったことをします。
私の妻には姉が一人います。
この人は、還暦を迎えるような年齢になっていますが、
そのひとの老いた母親は、小さい子供に対して言うような声掛けをする。
また気遣うことでも、そういう気持ちで思っていたりします。
要は、良い大人に対して、非常にお節介なことをする訳なのです。


そこを少し細分して切り分けてみるならばです。
これは相手がしていることですから、
その相手の判断で、それらの人が自分の行動を選んで、
それを自分で実行している。そういうことなのですよ。
だから、傍で見ている人間が心に浮かべることと、
その相手が行うことには、当然のこと隔たりがあるし、
自分だったら、そう考えるし、だから、そんなことはしない。
でも、その相手というのは自分と違う人間ですから、
その相手なりに思ったこと考えたことで、そうしているのです。


つまり行動の主体というのは、相手のことですよね。
それを見ていて何か思ったというのは他でもない、
傍で見ている自分の方な訳ですよ。
だからこれは、別個の人間の中で起きていますしね。
それをゴチャマゼにして、自分がこう思うのに、
どうして相手は、そんなことをするのだろう、を言い出したとて、
センナイ話はオビタダシイ。でしょ?
だけども、それらの人は、どうしたものだか、そういう時、
自分ならしないことを、相手がするのを、見逃せない。
だから、声を掛けたり、自分の思いで仕向けさせたりです。
これを、ついついしていますが。


それはまるで、知らずしらずに相手をハイジャックしている、
とでも言いたくなる状況が、そこでは繰り広げられます。
それがあまりに厳しいとどうなっていくか・・・・。
これは、そういう話でもあるのです。


また2つ目にあげた理屈や考えと違う部分を、
われわれ人間は持っているという側面を、
キチンと理解をしているかどうか、ということについてですが。


誰しも気分や気持ちというのは自然に湧いてきて、
それを感覚しているのですが、


私には、こういうことがありました。
小さいときに、あったことです。
誕生日にしろ、クリスマスにしろ。
親からプレゼントをもらったりして嬉しかった思い出を、
子供のころの記憶に持っている方は大勢いることでしょうね。
私の親も同じようなことをしていました。
ただ少し自分の場合に違っていたのは、
私は何々が欲しいから、それを買ってくれとは言えませんでした。
そういう時に私が考えたのは、
自分は何が欲しいと言わないといけないのか、
そういう何かの設問に対する、正しい回答の選び方のような、
そういう探し方で決めようとしていました。
つまり何が欲しいか、気持ちに湧いてくる思いよりも、
期待される答えを述べられるかどうか、というのが、
私の心を占めていましたからね。
というよりも、もしかして本当に欲しいものを伝えると、
それは後になって落胆をしないといけない、
そういう事柄が私には常にありましたからねえ。
これもまた、そうなってしまった理由の一部なのでしょうが。


先に自分の同胞のことを書きました。
下の子というのは、上の子が持っている物を、
自分も欲しい、お兄ちゃんだけズルいみたいにワガママな主張をしたりする。
そういう時に、まず母が考えたのは、公平性とか、均等であるかどうか、
そういった部分なんですよ。
兄弟で不公平があってはいけない。
それが金科玉条みたいなね、でも極めて表面的な場当たり的な内容で、
そこの部分を重んじようとしていましたからね。
妹が欲しいといえば、分けてやりなさい、また今度それを買ってあげるから。
でも、あとで買ってもらったことは、一度もありませんでしたし。
売っているものではない品物だった場合も、同じようにさせられました。
要は、妹は泣いて怒るので、これを避けるために、
私には聞き分け良くさせる、という押し付けをしていたのでした。


しかも、また違う背景がこれには絡んでいたのです。
妹を泣かせてしまったような場合、
私は物心がつく前から、叱られて叩かれていました。
言いつけを頭で理解ができる年齢でないのに、
物事の道理を言われ、タシナメラレテきた私です。


自然にそういった流れに沿って、母は、この私と妹については、
接してくるということを続けていました。


これは私だけではなくて、同じような病気障害の人で、
次のような心境になってしまっている場合がよくあります。


それは、その他多くの病気じゃない人の場合、
したい事・したくない事と、
やろうとする事と・やりたい事の、
それらの間に、それほど酷い隔たりは、きっとないだろうと思いますが。
病気の人間には、
自分のしたいことは、イコールしてはイケナイことで。
逆に、やらなきゃならないのは、自分が遣りたくないこと。
それが行動規範に完全に取り入れきった状態になっている人というのを、
よく見掛けます。
禁欲的というか、ストイックな人物に見えるけど、実は違うのです。

引きこもりの人で、それに陥ってる場合もあったりします。
それらの人々は、出たくないから出ないというより、
出てはいけないというのを自分に課すようになった果てに、
外に自由に出ないのは、自分にも苦痛に感じてるのに、
我慢をしてまで、出ない状態を頑張って続けていることが起こる。
妙といえば、確かに不可解ですが、これもそれが理由なのです。
そういうしたいことと、したくないことが不自然な組み立てだから。
そういう選び方に拘り続けていますし。
「やりたくないからこそ、しなくてはイケマセン」を、
周囲から強いられてきて、自分から取り入れざるを得なかった、
そこの原則が、いつまでも、これを強化をし続けていますから。

それらの場合も、自分というものをハイジャックされてきたから、
ハイジャック犯の意向には逆らえないパイロットと同じくで、
自分の意思選択と、これに基づく行動であるはずのところを、
自分と別個の人間から、過剰な感情移入をされてしまい、
その相手から、
それは、これこれこういう内容の問題だから、
あなたは、この場合に、何をどう感じて、
どうのように行動するかというのは、
私が言うように、これこれしかじかでこうなのです。


まあ、こんな執拗な決めつけで、人に接し続けていると、
その人はやがて、どういう風になっていくか・・・・。
そういうのが、病気と呼んでいる状態が示す内容なのです。

だから理解不可能どころか、
これはもうどう考えても、無理もない現象へと、
それらの人々は追い込まれていますから。
だから、「お前らはクスリを飲んでいろ」と、された場合にですよ。
何の意味合いで従うのかを、少しは考えてほしいものです。
そういう仕打ちに加担していると禍根を残すことでしょうね、実際。

さてさて、
最初にあげたように2つの部分から述べるのも可能だけど。
全体として、これらをまとめるとしたら、
それは次のようになるかと考えます。


人間は、各々で考えたり感じたりは、それぞれ個々の人の中で生じています。
しかも、見えるようで、見えないのが、その人の考えや思いです。
仮に相手が2才だろうが、いや新生児だって、
こっちが考えるように考えていないし、
傍目が感じるようには感じていないですから。
こうかな、ああかな、というのは、
どこまで行っても、永久に平行線な「類推」なのですよ。
的外れで、アテズッポウで、勘違いしかしていないし。
だからこそ、常々、これは心しておかないと、
そのズレが将来どうなっていくかが、非常にヤバい。


あたかも目で見えたから、それは「コレコレ」なんだな。
それは「自分のマナコ」に映すから見えている気分がしてきますが。
実は、「相手の気持ち」も、あなたとは別個に、そこにはあって。
この気持ちというのは、「相手の心」の中にあるのだけれど。
「自分の手」に、取れるはずないのですよ。
それを、まるであたかも「自分の手」に取ったみたいな錯覚でいるから、
「自分の考え」と「相手の気持ち」を混線させ同一視してしまい。
先回りをした押し付けを「相手の心」へネジ込もうとまでしてしまう。


それは自分の難儀をどこかで認めたくない、
そういう心性で自分の人生を活きているものだから。
あなたの見たくないソイツが、知らずしらずに、
あなたをして、行動を支配して来てしまう。
本当は認めたくないソイツは、
あなたに気が付いて欲しいから、
躍起になって訴えかけてきています。
それを逃れようなんて意気地のないことをしているから、
あなたを自由にしてくれないのです。
まさにソイツが他でもない、あなたの宿題なのですよ。


つまり、人に何かしてあげたいから、何々していますの、
その真底に何が潜んでいるのか、あなたに自覚ができていないと、
こういう繰り返しが終わらなくなるということでした。


え。やっぱり通じない?
まあね。自転車の乗り方や、水泳の泳ぎ方と同じでね。
覚えた人、身に着けた人、という人だったら、
そのやり方がわかっているんだけど。
これは言葉で言っても、説明ができかねるのと、
結局は、おなじですから。


覚えるなり、試すなり、工夫を凝らしてみてください。
それは、あなたのすることで。
私がさせるようなことでは、ありませんから。


私の人生は、私なりに生きていくし。
あなたの人生は、あなたなりの生き方です。
応援はするし、見守り続けていきたいけれども、
それは隣に居るだけが、隣人に出来る精一杯なんでね。


では、また今度。お元気で。お大事にね。





そこには想像しないような事情が・・・・(4)

2021年07月19日 | 闘病





休日が明けて「週日第一日目」ですね。

東京から西へと移住して5年余りが経つ私としては、

いま都内で、どうお過ごしなのか、思い巡らさずにいられません。

取り分け今週、一層大きく関心を掻き立てられる、

そんな月曜日を迎えております。

こちらも、そちらも、それぞれ暑い一日を、

味合わされることは請け合いなのでしょうから、

お互いに警戒心を配りつつで、やり過ごせる日が来るのを、

待つことが叶えばと、ただそればかりです。





さて、今日も先日来の内容の続編として、

これから投稿させて頂きますが。

まずは昨日あった私自身のプライベートな体験からで、

書き起こしていこうかなと思います。





いつもは街中のグループホームでお世話になっている、

わが家の次女を、毎週末、自宅まで連れて帰り自室で過ごさせますが。

その子の祖母も孫娘に会いたがりますので、月に二回ほど、

祖母の住む家まで、昼食を振舞われに3人で訪ねるのが習慣です。

そこの家では、今一人暮らしになっている妻の年老いた母、

その人の孫であるところの妻の連れ子、そして私たち夫婦で、都合4人が、

同じワンルームの一室で場を共にする一時が持たれます。





すると、その女性陣3人と、再婚により夫となった私とでは、

自ずと、そこに帯びる背景が異なるせいもあり、

居合わせる私には、3人を並列に見比べしていられるような、

そんな立ち位置も、そこにはあったりします。

そのお陰もあって、私は目の当たりの出来事をヒントに、

先日来の内容と深く関連する、ある気付きが浮かんだのでした。





あのとき最初、私は自分自身の体験から推し量ったので、

私なりに、これは家族の中で親が「いい子」を求めているから、

その親心と、その思いを被せられる側の子供とで、

それらの間に交わされた出来事を発端にして、起きるような現象だ、

と、そう推論づけてみましたが。





だがこれは、妻の知る現実から、疑問点が示される。

うちの場合は二人の娘が小さいとき「いい子」でないとイケマセン、

みたいな内容で何かを強いたりとか一方的に押し付けたり。

これはなかったし。そういう意味合いで自分の子供に、

指示するだとか、基準にしてみて、何かを望んでいたとか。

そんな気持ちを抱いたりしたことなかったよと言います。





成程そらそうだ。下の子とは会話というものが出来ない。

意思の疎通も言葉で伝えるにしても、その内容が届いたかどうか、

その取り交わし合いというのが、言葉を使って遣り取りするみたいに、

どちら側からも確かめるという行為自体が、成立させがたい。





ただ今でこそ落ち着いてくれてるから、こちらが言葉掛けをすると、

本人からの返事こそ期待できないが、様子を看ていると聞き分けてます。

だから東田直樹さんの指摘が、やはり事実なのだなと思います。

彼ら彼女らは考える力不足で会話が不成立だという見做しが間違ってて。

これはむしろ、言葉を遣り取りする上での支障を来していること。

乃至は、自分の表現を用いて相手と交流しあう場面での差し支えです。

そっちの問題だったのですよ。だから、周囲の様子を読む能力でも、

何が求められているか、これを察知したりは、ちゃんと出来てる。

これが実際です。というのは、つまり言葉というものだって、

その言葉の意味する中身も、彼ら彼女らとして理解力を発揮している。

ただ、それらの内容を周囲に伝えたり・返すというときに齟齬を抱えてる。

考えられても、行動へ反映させる面での、別の困りごとに遭遇してます。





だから昨日も、傍にいる私の眼には、子供は帰ろうとするのも、

見ていれば様子にも見て取れるし。子供は立ち上がって、

あの子の母親である妻のみならず、指を伸ばして私の手まで取って、

部屋を出ようとする仕草まで見せていました。あそこまでハッキリ、

あの子から意思表示を私にするのは、珍しいくらいなのです。

もうお昼ご飯も済んだし、夏の暑さで疲れているのか、

それとも、休日なのに早起きして、いつもと気分が違うのかは、

聞くことができないから、わからないけども。

席を離れようとしたのを見れば、思いを察することは充分できます。

ただ、お祖母ちゃんと母親の二人は、いつも訪ねた時ならば恒例の

ふだんしてくれるような行動を子供に対し求め続けようとしてました。

そうする能力が本人にあるはずだから、今日もして帰れと出る訳です。

確かに、この子はお愛想的サービス精神を発揮する面を持ち合わせてて。

その求めに、舞台で演技を期待される役者さんヨロシク付き合うのです。





また、こういう場面もそこにありました。

妻は妻で、自分の母親に対して、ウットオシさを感じてみるとか、

独りよがりな年寄りが疎ましく堪らないとか、これはまあ、

よく有り勝ちな思いとして妻の気持ちにも湧いてくるから、

私にも同意を求めるような、まったくね、みたいな言葉を、

こちらへ寄こしてきたりもします。

そのことは気持ちとして了解できるから、否定なんかしません。

ただ、妻と立場が違う私には、そうした老人も多いし。

自分と別段なにも利害関係がないし、だから気にするほどでなく。

ときには気持ちがウンザリするときでも、それだってこれは、

妻が感じる意味合いとは、また異なった内容として受け取りますよ。





そうなのです。これは娘は娘なりに、自分の世界で物事が見えているし。

私の妻も、妻の母も、この私も、みんな4人が4人とも、

そこでは場を一緒にしているくせに、

それぞれ、各々の「目」と「考え」と「思い」でいますから。

当然、何事もここでは、各々の其々で、別々の実相にいると汲むべきです。

そこに誰かと誰かが、もしいたのなら、どんな時でも、その人それぞれで、

まるで何か自分毎に自分の用意をしてきた弁当の持ち合いながらで、

それぞれ自分の持って来ているお弁当の味を、

自分の口と、自分の歯で噛み砕き、自分独自の舌で感じる味わいを、

膝突き合わせて、手持ち弁当の味覚を一緒に楽しんでいるというのが、

その席を共にしている場でおきた物事で認められる、

われわれの立ち会うところの現実たちなんですねえ。





だから当然、そうそう一致しないし、もし仮に一致を交わせたつもりでも、

それが同じことに関する同一見解の意味合いなんか、そこにない可能性大。





「自分ローカル」の手持ち弁当の中身を、各々で互いに確かめている。

それが「対話」ということの意味合いだったのでしょう。

それぞれで、からきし違うから「対話」なのであって、

その違いを確かめる必要があるのも、また確かめる行為が可能なのも、

それが「対話」の「対話」たるところで、それそのものだから。

片方が相手に一方的に自分の弁当がこうだから、物事はこうだの言い包め。

そこには夥しい歪みを孕んでいるのですから、そのことを、

一生懸命に訴えるための話法・語法がアレだったのでしょう。





向こうが見えることと、自分に見えることが、違うんだよというのは、

要は、この中身はそういう表現をしたことでして。

こっちの視えないことを言ってくるというのも、

こちらの聴こえないことが聞こえるという訴えも、

そうした内実を体験してるから、そのことを伝えようとしてるんです。





そっちの受け止め方をしようとしないから、いつまでも受け止めエラーを、

続けないといけない状況に追い込まれた相手が目の前にいるくせに。

これと、主張しあいの応酬を続けようとしているんですから。

こういうことだからこそ、やめようにも、やまらなくなるのです。

それは彼らの耳がオカシイからだじゃ、解決させるの無理ですよ。

相手の言わんとすることを、微塵も汲み取ってやろうとしてない。

相手する側もおんなじで「聞く耳」を正しく使えないのは周りも同罪。

だから聴力や思考力じゃないのです。この象徴から認めうる真意は。

考えるということでは、応じる側が本質的な勘違いをしていましたから。





じゃ、なんで薬が効くのか? だから、あれは神経の働きを少し阻止する

みたいな器用???な仕事をするので、いわば考える邪魔をすることで、

疑似的には効果に見て見えないでもない仕事をしよるかわからんけど。

だからこれ、周りの人たちの考え不足には、たぶん効いてないっすよね。





ああ。お腹が空きました。

書くのに夢中になってて、昼飯まだなんです。

食事してきます。またあとで。

お付き合いアリガトサンでしたん~~~。









そこには想像しないような事情が・・・・(3)

2021年07月17日 | 闘病





今朝は曇っているし、涼しい風が吹いています。

昨日は身体に堪えましたが、休日が過ごしやすいと、

休むのさえも捗るので、疲れも消えていくのが早いです。





さて、前回はツラツラ書き述べて参りましたが、

もしかすると、誤解を招く書き記し方もしたような、

そんな思いに駆られているので、もう一度、

その部分は、丁寧な述べ方でお伝えしたくなりました。

こんな拙い文章に、いつもお付き合い下さり、

本当にありがとうございます。





さて、この前の投稿を妻が読み、感想を言ってくれました。

自分が読んでもピンとこない理由が分かったと、

それは私の表現には「いい子」という、

そういう言葉が出てきますが。

これが妻の身にも、妻の娘に関しても、

そういう意味合いが当てはまらないからだと。

そう気が付いたといいます。





なるほど、私の場合には言える話でも、

個々のケースにすべて共通だなんて、およそ在り得ません。

それは当然なのです。こういう問題では。

何と言ったって、一人ひとりで状況も違えば、

環境や条件はそれぞれ異なるし、性格も人柄も別人毎の体験です。

だから、そもそもが一括りにした対策や対処で対応をしていい問題なのか。

もしかしたら、そっちまで、熟考し直すべきかも知れないです。





そこが、こうした取り組みに付いて回る難しさとして含まれています。

例えば家族会みたいなセルフヘルプ活動でも、

「うち」の場合はこうだった、「私の体験」からこう考えました。

その但し書きを付けた上での、伝え方、耳の用い方、というのが欠かせない。

自分はこうしたから、あなたもそうすればいい。というのは、

もっと一般化した述べ方が通用するような内容なら、

どういう場合はこうしたらが、言い切って構わないかも知れないが、

ただそれも「暑かったら窓を開けたら」というのだって、

外の気温が高くない時点で通用しても、気温が高い場所では意味ないし、

あるいは外気が極寒で暖房の調節が適切な対処であった場合、

そこで取るべき行動を、言われた側で判断できるのなら、まだしも、

もし機械的に真に受けて、言葉にした側で思いもよらない聞き方にされたら、

これだけは避けたいので、今日は慌てるみたいに書いておこうとしています。





なので、内容としては、これにも続きはまだありますけど、

取り敢えずで、気掛かりを覚えるので、この部分だけでも、

まず一旦、投稿させて頂きましたので、どうぞ悪しからずです。





朝起きた時より徐々に気温が上がりだしてる感じです。

体調管理お互い大事にしたいですね。ではでは。