一部の心無い人というのは、
自分よりも更に立場の弱い相手に対して、
虐めるような振舞いを、平気でしてみるとか。
刃向かわない相手を選んで、攻撃をしてくるとか。
要は、その種の悪事を働く人間というのは、
自分の立場のなさというのを、
自身で、これを認めたり受け入れたりするのが苦痛だから、
それで不満の腹癒せというかたちで、弱い者いじめや、
一定の相手への偏見や差別というものに転嫁して、
その鬱屈した思いの吐き出し場所に利用してくる訳なのです。
これはパワハラというのも、結局そうなのだし。
障碍者の差別をすることも、そうした面で同じことです。
障碍者が差別されないようにするのは、
そういう差別を禁止するだけだと、
もしこれで指定した先に攻撃がいかないとしても、
また別のところへ矛先が変更されるだけで終わるのです。
これはつまり不当に扱われる不満が解消されていかないと、
本当の解決には結びつかない話ですから。
へんな話ですが、障碍者同士の間でも、
あるグループが、また別の一群に対して、
差別や攻撃を仕掛けてくるというのも現実ありますから。
だから根本解決は簡単にできないというのは事実でもあります。
では現実にそういう事態があるから、
それを避けるために、障害があるような家族を、
その人の障害がない状態に、なってもらおうというのは、
果たして成立することなのでしょうか。
これはどう考えてみても、物事の道理としては、
また出来事の抱えている成り立ちと致しましても、
そこには、あまりに無理繰りが酷すぎるというのは明らかです。
でも現実に真顔でそうした取り組みに明け暮れているのが、
何を隠そう精神障碍者の、取り分け統合失調症に関することで、
それが突っ走っているのであります。
これらに対して治療するというのは、
何らかの改善が、その目的なのだというなら、
私も妙な物の言い方をするつもりは持ちませんが。
でも、少し良くなっても不十分、
ああそうですかと、頑張ってみると、
いやいや、もっともっと一般の状態が目標です。
下手して付き合っていると、そこまでやらされます。
やって出来るのなら致します。
でも、無理をして頑張れば、必ずその反動が来る。
これは下手なダイエットも、やはりリバウンドするでしょ。
やってみて目標実現しても、無理した分だけ、
かえって酷い状態を引き起こす結果になります。
そこは私たちの養生でも同じことです。
確かに治りたい、治したいは、やまやまでも、
無理したら酷い目に遭う。これは脅しなんかじゃない。
実際に多くの方々で経験済みですもの。
だから、いまは自分に何ができて、何が無理か。
そこをワキマエルところまで体験を積んできましたから、
ようやくにして落ち着いた生活が送れるようになりました。
それは自分だけで実現させられたのではありません。
身近にいてくれる人と、いかに協業していくか。
どうやったら、自分も周囲も、等しく成立させられるのか。
それを一緒にやってくれる相手を得て、行えるようになった。
そういうことでもあります。
つまり人間は一人で生きているのではなくて、
いろんな繋がりの中にありながら、
その一人のひとが、
そこに、そのようにして、いままさにある。
ということなのです。
だから立ち行かない誰かを支援していくというのは、
そのひと一人だけを看ることで、実現なんかさせられません。
でも今現在のアプローチの方法というのは、
多くの場合、そのひとを、どうしたらいいのか。
そういう考え方を貫き通すことで、やっきになっている。
そんな傾向が顕著なのではありませんか。
故に病気や障害は、そのひと個人のなかにあるという考えです。
そのひと個人が、仮に無人島で単身孤立しているなら、
それも方法としてありなのかもしれない。
だから孤立した独居老人に追いやるのは、
そこが目的だというのは、悪い冗談だとして、
その人が自分一人だけで、その人であるというのは、
ある面これは錯覚にも等しい話なのです。
また妙な喩えに響くでしょうが、
愛玩動物の健康問題ということは、
それを誰がどう飼っているかという兼ね合い抜きには、
その取り組みの方針さえもが定まらない話ですよ。
そこは、ひとりの人の健康状態や障害問題というのだって、
現時点での身内や家族、また過去における関係においても、
そして将来の本人を取り囲むであろう存在等についても、
さらには身の置き所である地域社会やコミュニティの動向だって、
それら周囲全体を含みながらで見渡す考えが抜けてしまったら、
それで行くべき羅針盤が探せるような話じゃないです。
ほかならぬ本人の考えが主体なのは言うまでもなく。
どう治すかと、どう生きたいかは、同じ内容の言い換え語です。
だから、病気という狭い縮め方は、かえって遠回りをする。
どんな人生かと振り返った場面で、そのひとに何があったか。
それが病気は治ったのか、障害はどう変わっていったか、
もし話が、それのみで終わりだったら、いかがでしょうか。
人間いかに生きるか。
これは障害の問題であるとか。
病気を治せる・治せないとかの意味合いは、
およそ超えた話ですから。
病気や障害を解決してから人生をやり直すおつもりだと、
始める前に、それは終わりが来る公算になるから。
われわれは病気しながらの生き方であり、
障害を抱えつつ過ごす人生が身上で、本分なのです。
それが私たちの場合の一生の持ち方だと気付いて欲しいのです。
どうかどうか、そこをお察し頂きたい。
これは私からのお願いです。
生まれてきたのは、病気と闘うのが目的でもないし、
障害を無理までして消し去る試みが狙いでもない。
一見したようすには、多少とも特異な部分を備えつつ、
でも、その場合でも、ひとは人として生きていく人生を、
その人なりに全うする訳だし、それができるのですよ。
即ち、その人が、そういう人であるというのを、
受け入れる、認めるとは、イミジクモそういうことです。
蛇足を書けば、認知症も同じく汚点なんかじゃないのです。
長い人生には、そういう時期が生じることも含めて。
これは人として、人間の生き方として、アリです。
大アリです。それも含めて、人間は命を生きる。