それにしても暑いです。
皆様、元気にしていらっしゃいますか?
私は家で過ごしながら、冷房の使い方とか、
夏の間の健康維持に、工夫をしているところです。
若いころ夏バテ知らずの私でしたが、もう60代ですから。
さて、前回の続きですが、そこを書くには、
さて、前回の続きですが、そこを書くには、
これから何回か、様々な事柄にも触れていかないと、
読んでみて理解して頂けるような中身になりそうもありません。
それなので暫く、まだこの続きがあるというのを、
まず、お断りさせて頂きまして、
一つ暑さしのぎの休憩がてらで、お付き合いくださいませ。
書き出しの開口一番なのですが。
書き出しの開口一番なのですが。
どんな物事も、言葉で書き尽くせるのかといえば、
それは言語化が不可能なものも御座います。
ただ「そうした事実がある」ということでも、
このように「コトバ」を用いてみるから、
そこを伝えるなり、共有したりが、可能であったりする訳です。
だから言葉を信じ、読んでくださる方に頼りながらで、
以下、書いてみようと思います。
物事は言葉通り字義通りの理解だけでも、
それで構わない、OKだと思っていても大丈夫、というものと。
それとは異なり、もう少し違った角度や、別の次元で、
更なる位置づけへと、再度の仕切り直しをしてみないことには、
全体の把握までがオボツカナイ場合とがあります。
そこの区別や区切りの存在が、そこにはあるのかないのか。
多くの場面で、多数の人たちが、案外それを素通りして、
何も気付かずに、見落としたままで、平気にしていたりします。
例を挙げないと分かりづらいですよね。
まず嗜癖にまつわる問題から取り上げてみます。
人の行動とは、意識で選びながら実行をしていることである。
これを、素のままの理解だけでも構わないかと言えば。
意識で選ぶ上で、やらない方を望んでいるはずだったのに、
それだけでは済ませられない状態になってしまう。
自分では、やめようと意識しているのに、意識すればするほど、
自分の意志だけで、やめたい行動が実はやめられなくなっている。
そうしたパラドキシカルな状態というのがあります。
無知な対応をしてしまう人は、固く誓えば、それで済むと考えて。
本気の度合いが足りないから実行できない問題だと思い込む。
そういう誤認した考えの方も大勢おられます。
だから周囲から、当の相手に念書を作らせるだとか、
ご自分でも、誓いを紙に書いてみたりとか。
それで解決するなら、その問題は終わっているはずですが。
それは意識の主体と、行動の主体が、
それは意識の主体と、行動の主体が、
あたかも別の人が行っているみたいだ、と受け止めた方が、
ここで起きていることを理解しやすいほどです。
でも実際に、それは当てずっぽうでもないことでして。
誰の何にしろ。これにはしている本人が行っているという面と、
している本人は、それをさせられている側になる部分と、
その両面が、そのなかで同時にあることなのです。
結果それらの合成をしたものとして、現実の行動という形へ
反映をしたものだと考えておかないと、
そこに起きている中身の意味合いについて、
トンデモナク見誤ったものとして受け取られてしまうのです。
次にあげる例は、家族会でも話題になることですけれど。
親世代は80代も出席をしますが。
毎月の例会に参加をしてくる気力体力の持ち主だから、
見た目、元気で、年齢を感じさせない人も多いぐらいですが。
その人々が、よく口にするのは、
「子供には言ってもショウガナイカラ云々」です。
そう、もう40代・50代の子供たちですけどね。
言ってみても、その通りにはしないし、反発させる結果に懲りて、
親の立場からは言いたい、だが声を掛けてみても不味い。
というのは、長年の経験から知っているのです。
でもそれらの人々は、それ以外に持ち駒の用意が出来ていないみたいで。
また、その部分には、どうも気が付けていない様子もあります。
そもそもが、それら子供たちの、まだまだ小さかったころ、
ただただ、子供というのは言いつけ通りの行ないができていれば、
それでヨシということなのだと、親たちは思っていました。
だから手取り足取り、ああしろ、こうするな、という。
もうずうっと、ずっと、そればかりを命じ続けてきたことでした。
でも、それは。
誰が考えて、その行動を選び実行をしていた意味だったか。
そこに関して、何一つ汲み取っていない迂闊さの問題が潜んでいました。
この点において、何が起きていた意味なのか、知らないままです。
つまり、どんな働きかけを続けた結果、引き起こされてくる現象か。
そこに考えが及ぶところまで理解が至っていない感じなのです。
子供がしていれば、見た目、子供がしている。風ではありますが。
子供がしていれば、見た目、子供がしている。風ではありますが。
実は子供たちは、言われるので、そうしたまでなのです。
それは考えて行えていた意味じゃないから、だんだんに自分が考え、
自分の選びで行う立場に移行をしだすとき、妙な問題へ直面してしまい。
それが、成長が進み自立の兆しが始まる段階で危機に陥る理由なのでした。
さらに問題が深刻なのは、それを命じてくる立場の人に対して、
これら子供たちに、逆らうような余地は残されていませんでした。
つまり、自分を人質に取られていたら、命令には背けませんからね。
身が危ういから、率先して言い付け通りな「いい子」です。
もしも、ここで反抗して、それで致命的な不利益を被るとすれば、
選択を相手に預ける以外には手段が残ってないし、
そこまで読むくらい理知な判断ができるような子供たちでした。
だから、そこは自分の気持ちを放棄してでも生き残ろうとしました。
知恵が使える生き物だからこそ、そう行動するのは当然の帰結でもあり、
それは火を見るより明らかなことだったのです。
もちろん悪意で陥ったシチュエーションではないのも知っている。
だからこそ、一層これに抗えはしないし、そうさせられている側として、
させられるのであれば、最早もう見て見ない振りみたいにここでは目を瞑り、
無私に徹して応じる以外、応えようがないという状況でもあったのです。
まあ、それを知ってみるならば、確かに奇異な構図に違いない。
それは虐められている子が、虐められるのに誰にもSOSを出さない。
それは虐められている子が、虐められるのに誰にもSOSを出さない。
というのにも、よく似ているような気がします。
何か問題があるよと周囲を煩わさないのが「いい子」であると、
そういう見做し方をされていたりするからです。
実際の困ったか困っていないかより、困っていないという振舞いが、
期待されているのだなと読むから、それを先回りするかのようにして、
期待に応えるべく「困りごと」を隠そうとしてしまいます。
これもやはり、本人自身の思いや気持ちよりも、親から見た見栄えに、
目を奪われている親の思惑が、その誘導をしてしまう背景だったのです。
これが長じて有望な職に就いたのち、過労死までするような人の生き方です。
さてさて、
まさか、相手の脅威を煽り、働きかけた関係がさせていた、なんて。
思いもよらなかったことでしょう。
そこに気付こうとさせてあげないので、いまだに問題は終わらない。
曰く、これは病気でドーパミンがこれこれで、薬を使うと然々、
でもそれは長年月してみて、どこまで成果上げたんでしたっけね?
そういうマヤカシ系は罪だと思うし、愚かな対処に堕している。
本当は何があって起きてる話か、もう見えているじゃないですか。
専門家と目されているのに、何処に誘うおつもりなのでしょう。
結局これには、そうした側面が、現実あることなのです。
故に、究極これ本人の生活の自立を考えないでは解決させられません。
故に、究極これ本人の生活の自立を考えないでは解決させられません。
つまり親掛かりでない生活の保障をしてやらないと取り組めませんからね。
物心がつく前から始まって連綿と今現在まで来ている問題です。
それは自意識のできあがる以前から、気が付くのも不可能な時代から、
続いてきているのですから、言葉を用いて届く世界より深いところです。
そんな容易く声の響く守備範囲にある災いとは次元が違うのです。
もう魂レベルの深い深い痛手は癒して癒える傷かどうかを考えてみないと。
子供と親は言葉未満の時代からの付き合いなんですよね。
言葉が始まる前から、言葉を換えるなら、記憶や意識未満から、
それは始まっていたから、言葉というツールだけで無理なのでして。
そんな小さいときから脅かされ始めてた訳ですから、
その時の安心感が失われた経験を埋め合わせるなんて大抵なことじゃない。
それらの子供たちが性愛を知る年頃で困難を味わうのもそこのせいです。
それらの課題は、言葉の上の誤魔化しで済ませられないことで、
何より信頼感を交わすことで阻害をされてきたような人にとって、
目の前の相手に心を開くのも、また気持ちを預けて信じることでも、
別の意味での不安が心を過るし、身が脅かされる思いに駆られます。
そうした一層に敷居が高い行動を求められる経験でもあるのです。
そういうことなのに、世間は家族の看る問題だと見做してしまう。
家族だけで立ち行かないので、8050だって起こります。
それに気が付こうとしていない社会に、責任が問われたのだと言ってもいい。
他人事にしている限り8050だって→9060だし、
親が亡くなった場合、0050でも0060でも、施設に入れろ!にすれば、
これまた悪夢の大増産を恨まれるだけで後悔しますから。
これは声を大にして、厳しく申しあげたいのです。
これは声を大にして、厳しく申しあげたいのです。
そういう問題だと聞いて、これに単純な付け焼刃の対処をすれば、
解決にも繋がらなければ、まるで、依存症者に念書の請求をしたなら、
必ずや実行されるはずだと信じた無理解にも匹敵します。
そういう同工異曲は無駄だし。念書を出さされる人間に対して、
心の傷を増やして、悩みを深めさせ、苦しみを舐めさせるだけなのだから。
いや、却って辛さが、逃避の度合いに混迷の拍車を駆けさせたのでしょう。
そんなの追い詰めたって、追い込むほうも、追い込まれるほうも、
余計に、救いから遠ざかってしまうだけです。
そう。今の時代は、これらは病気だとかいいますよね。
そう。今の時代は、これらは病気だとかいいますよね。
でも、ただ単に薬で治せるだとか、そんな生易しくないんです。
どれだけ傷付いて、生存が脅かされているような境遇を掻い潜って、
生きて残ろうとしてきた人々だったのか。という、そっちを考えないとね。
そんなにヤバイ目に遭ったような人々の場合、
命が保証されていたら、自分の人生も自由も人権もナゲウッテでも、
服従する方を選択してしまうのです。
それで不自由を味わう施設や病院にも甘んじる訳です。
無知な輩は病気だからと言うけれど。
そんな風に見ている連中にしても、健康からは程遠いのです。
事実関係から、どれだけ遠い対策に翻弄されている話なんだか。
人間は、そういう点では知恵を使うような能力を授かっているのでしょ。
なぜ、そこで、そう他人事風情をしていられるか。
キチンと考えて御覧なさい。
こんな可哀そうな境遇を見過ごしにする社会が許されていいはずがない。
見殺しみたいにしていたら、人間性を疑われるのは、
入れられた側じゃあなくて、入れて済ませられる側なのです。
言いたくはないけれど、自分がした人は、
言いたくはないけれど、自分がした人は、
今度は、それを他人からされる順番が来ますから。
挑戦してチャンピオンになるというのは、挑まれ負かされ倒されますから。
排除をする側には、必ず自分の排除される日がやって来る。
一人ひとりを大事にしない人というのは、人からも大事にはされません。
一人ひとりを大事にしない人というのは、人からも大事にはされません。
誰かを貶めているような人は、誰かから貶めを受けることですし、
自分の健康に無知でいたら、自分の健康は失う訳です。
自分のしたことは、自分に返ってくるものです。
私の最大に嫌悪する言葉は「仕方がない」なんです。
何があっても、世の中、そうなのだから「仕方がない」と、
平気で口にする人が多すぎます。あれ悪魔のセリフだ。
「仕方がない」で済ませていたら、「仕方がない」から、
もう首を吊ろうって。
そこまで追い詰められて、その煮え湯なんか飲んじゃった日には、
すべてがオジャンだ。
これじゃあ、われわれみんな、
一体あなたも私も、何の為に生まれてきて、
今なんで生きていられることなのでしょうか。
いや、もうとっくに死んでるんじゃないですか。
そんなことしているんじゃ。
そろそろもう人間らしく生まれ直す時期に来ていませんか。
そろそろもう人間らしく生まれ直す時期に来ていませんか。
私だったら、自分の人生は、そっちを選ぶ方に賭けます、断固。
でも、あなた。どっちですか。ご自分で選ぶのは、
恨み節じゃあないんですよ。
恨み節じゃあないんですよ。
まだ期待して待ちわびたいから、敢えてお話させて頂いたまで。
では、また今度。
今日のところは失礼致します。