いま、そこに、あなたが、あるのは

誰も『苦労』はひとそれぞれ。しかもすべて自分のオリジナル。つまり人間の数だけ誰にもみんな役目と役割りあって生まれてる

そこには想像しないような事情が・・・・(2)

2021年07月15日 | 闘病



それにしても暑いです。

皆様、元気にしていらっしゃいますか?

私は家で過ごしながら、冷房の使い方とか、

夏の間の健康維持に、工夫をしているところです。

若いころ夏バテ知らずの私でしたが、もう60代ですから。





さて、前回の続きですが、そこを書くには、

これから何回か、様々な事柄にも触れていかないと、

読んでみて理解して頂けるような中身になりそうもありません。

それなので暫く、まだこの続きがあるというのを、

まず、お断りさせて頂きまして、

一つ暑さしのぎの休憩がてらで、お付き合いくださいませ。





書き出しの開口一番なのですが。

どんな物事も、言葉で書き尽くせるのかといえば、

それは言語化が不可能なものも御座います。

ただ「そうした事実がある」ということでも、

このように「コトバ」を用いてみるから、

そこを伝えるなり、共有したりが、可能であったりする訳です。

だから言葉を信じ、読んでくださる方に頼りながらで、

以下、書いてみようと思います。





物事は言葉通り字義通りの理解だけでも、

それで構わない、OKだと思っていても大丈夫、というものと。

それとは異なり、もう少し違った角度や、別の次元で、

更なる位置づけへと、再度の仕切り直しをしてみないことには、

全体の把握までがオボツカナイ場合とがあります。

そこの区別や区切りの存在が、そこにはあるのかないのか。

多くの場面で、多数の人たちが、案外それを素通りして、

何も気付かずに、見落としたままで、平気にしていたりします。





例を挙げないと分かりづらいですよね。

まず嗜癖にまつわる問題から取り上げてみます。

人の行動とは、意識で選びながら実行をしていることである。

これを、素のままの理解だけでも構わないかと言えば。

意識で選ぶ上で、やらない方を望んでいるはずだったのに、

それだけでは済ませられない状態になってしまう。

自分では、やめようと意識しているのに、意識すればするほど、

自分の意志だけで、やめたい行動が実はやめられなくなっている。

そうしたパラドキシカルな状態というのがあります。





無知な対応をしてしまう人は、固く誓えば、それで済むと考えて。

本気の度合いが足りないから実行できない問題だと思い込む。

そういう誤認した考えの方も大勢おられます。

だから周囲から、当の相手に念書を作らせるだとか、

ご自分でも、誓いを紙に書いてみたりとか。

それで解決するなら、その問題は終わっているはずですが。





それは意識の主体と、行動の主体が、

あたかも別の人が行っているみたいだ、と受け止めた方が、

ここで起きていることを理解しやすいほどです。

でも実際に、それは当てずっぽうでもないことでして。

誰の何にしろ。これにはしている本人が行っているという面と、

している本人は、それをさせられている側になる部分と、

その両面が、そのなかで同時にあることなのです。

結果それらの合成をしたものとして、現実の行動という形へ

反映をしたものだと考えておかないと、

そこに起きている中身の意味合いについて、

トンデモナク見誤ったものとして受け取られてしまうのです。





次にあげる例は、家族会でも話題になることですけれど。

親世代は80代も出席をしますが。

毎月の例会に参加をしてくる気力体力の持ち主だから、

見た目、元気で、年齢を感じさせない人も多いぐらいですが。

その人々が、よく口にするのは、

「子供には言ってもショウガナイカラ云々」です。

そう、もう40代・50代の子供たちですけどね。

言ってみても、その通りにはしないし、反発させる結果に懲りて、

親の立場からは言いたい、だが声を掛けてみても不味い。

というのは、長年の経験から知っているのです。

でもそれらの人々は、それ以外に持ち駒の用意が出来ていないみたいで。

また、その部分には、どうも気が付けていない様子もあります。

そもそもが、それら子供たちの、まだまだ小さかったころ、

ただただ、子供というのは言いつけ通りの行ないができていれば、

それでヨシということなのだと、親たちは思っていました。

だから手取り足取り、ああしろ、こうするな、という。

もうずうっと、ずっと、そればかりを命じ続けてきたことでした。





でも、それは。

誰が考えて、その行動を選び実行をしていた意味だったか。

そこに関して、何一つ汲み取っていない迂闊さの問題が潜んでいました。

この点において、何が起きていた意味なのか、知らないままです。

つまり、どんな働きかけを続けた結果、引き起こされてくる現象か。

そこに考えが及ぶところまで理解が至っていない感じなのです。





子供がしていれば、見た目、子供がしている。風ではありますが。

実は子供たちは、言われるので、そうしたまでなのです。

それは考えて行えていた意味じゃないから、だんだんに自分が考え、

自分の選びで行う立場に移行をしだすとき、妙な問題へ直面してしまい。

それが、成長が進み自立の兆しが始まる段階で危機に陥る理由なのでした。

さらに問題が深刻なのは、それを命じてくる立場の人に対して、

これら子供たちに、逆らうような余地は残されていませんでした。

つまり、自分を人質に取られていたら、命令には背けませんからね。

身が危ういから、率先して言い付け通りな「いい子」です。

もしも、ここで反抗して、それで致命的な不利益を被るとすれば、

選択を相手に預ける以外には手段が残ってないし、

そこまで読むくらい理知な判断ができるような子供たちでした。

だから、そこは自分の気持ちを放棄してでも生き残ろうとしました。

知恵が使える生き物だからこそ、そう行動するのは当然の帰結でもあり、

それは火を見るより明らかなことだったのです。

もちろん悪意で陥ったシチュエーションではないのも知っている。

だからこそ、一層これに抗えはしないし、そうさせられている側として、

させられるのであれば、最早もう見て見ない振りみたいにここでは目を瞑り、

無私に徹して応じる以外、応えようがないという状況でもあったのです。

まあ、それを知ってみるならば、確かに奇異な構図に違いない。





それは虐められている子が、虐められるのに誰にもSOSを出さない。

というのにも、よく似ているような気がします。

何か問題があるよと周囲を煩わさないのが「いい子」であると、

そういう見做し方をされていたりするからです。

実際の困ったか困っていないかより、困っていないという振舞いが、

期待されているのだなと読むから、それを先回りするかのようにして、

期待に応えるべく「困りごと」を隠そうとしてしまいます。

これもやはり、本人自身の思いや気持ちよりも、親から見た見栄えに、

目を奪われている親の思惑が、その誘導をしてしまう背景だったのです。

これが長じて有望な職に就いたのち、過労死までするような人の生き方です。




さてさて、

まさか、相手の脅威を煽り、働きかけた関係がさせていた、なんて。

思いもよらなかったことでしょう。

そこに気付こうとさせてあげないので、いまだに問題は終わらない。

曰く、これは病気でドーパミンがこれこれで、薬を使うと然々、

でもそれは長年月してみて、どこまで成果上げたんでしたっけね?

そういうマヤカシ系は罪だと思うし、愚かな対処に堕している。

本当は何があって起きてる話か、もう見えているじゃないですか。

専門家と目されているのに、何処に誘うおつもりなのでしょう。

結局これには、そうした側面が、現実あることなのです。





故に、究極これ本人の生活の自立を考えないでは解決させられません。

つまり親掛かりでない生活の保障をしてやらないと取り組めませんからね。

物心がつく前から始まって連綿と今現在まで来ている問題です。

それは自意識のできあがる以前から、気が付くのも不可能な時代から、

続いてきているのですから、言葉を用いて届く世界より深いところです。

そんな容易く声の響く守備範囲にある災いとは次元が違うのです。

もう魂レベルの深い深い痛手は癒して癒える傷かどうかを考えてみないと。





子供と親は言葉未満の時代からの付き合いなんですよね。

言葉が始まる前から、言葉を換えるなら、記憶や意識未満から、

それは始まっていたから、言葉というツールだけで無理なのでして。

そんな小さいときから脅かされ始めてた訳ですから、

その時の安心感が失われた経験を埋め合わせるなんて大抵なことじゃない。

それらの子供たちが性愛を知る年頃で困難を味わうのもそこのせいです。

それらの課題は、言葉の上の誤魔化しで済ませられないことで、

何より信頼感を交わすことで阻害をされてきたような人にとって、

目の前の相手に心を開くのも、また気持ちを預けて信じることでも、

別の意味での不安が心を過るし、身が脅かされる思いに駆られます。

そうした一層に敷居が高い行動を求められる経験でもあるのです。





そういうことなのに、世間は家族の看る問題だと見做してしまう。

家族だけで立ち行かないので、8050だって起こります。

それに気が付こうとしていない社会に、責任が問われたのだと言ってもいい。

他人事にしている限り8050だって→9060だし、

親が亡くなった場合、0050でも0060でも、施設に入れろ!にすれば、

これまた悪夢の大増産を恨まれるだけで後悔しますから。





これは声を大にして、厳しく申しあげたいのです。

そういう問題だと聞いて、これに単純な付け焼刃の対処をすれば、

解決にも繋がらなければ、まるで、依存症者に念書の請求をしたなら、

必ずや実行されるはずだと信じた無理解にも匹敵します。

そういう同工異曲は無駄だし。念書を出さされる人間に対して、

心の傷を増やして、悩みを深めさせ、苦しみを舐めさせるだけなのだから。

いや、却って辛さが、逃避の度合いに混迷の拍車を駆けさせたのでしょう。

そんなの追い詰めたって、追い込むほうも、追い込まれるほうも、

余計に、救いから遠ざかってしまうだけです。





そう。今の時代は、これらは病気だとかいいますよね。

でも、ただ単に薬で治せるだとか、そんな生易しくないんです。

どれだけ傷付いて、生存が脅かされているような境遇を掻い潜って、

生きて残ろうとしてきた人々だったのか。という、そっちを考えないとね。

そんなにヤバイ目に遭ったような人々の場合、

命が保証されていたら、自分の人生も自由も人権もナゲウッテでも、

服従する方を選択してしまうのです。

それで不自由を味わう施設や病院にも甘んじる訳です。





無知な輩は病気だからと言うけれど。

そんな風に見ている連中にしても、健康からは程遠いのです。

事実関係から、どれだけ遠い対策に翻弄されている話なんだか。

人間は、そういう点では知恵を使うような能力を授かっているのでしょ。





なぜ、そこで、そう他人事風情をしていられるか。

キチンと考えて御覧なさい。

こんな可哀そうな境遇を見過ごしにする社会が許されていいはずがない。

見殺しみたいにしていたら、人間性を疑われるのは、

入れられた側じゃあなくて、入れて済ませられる側なのです。





言いたくはないけれど、自分がした人は、

今度は、それを他人からされる順番が来ますから。

挑戦してチャンピオンになるというのは、挑まれ負かされ倒されますから。

排除をする側には、必ず自分の排除される日がやって来る。

一人ひとりを大事にしない人というのは、人からも大事にはされません。

誰かを貶めているような人は、誰かから貶めを受けることですし、

自分の健康に無知でいたら、自分の健康は失う訳です。

自分のしたことは、自分に返ってくるものです。





私の最大に嫌悪する言葉は「仕方がない」なんです。

何があっても、世の中、そうなのだから「仕方がない」と、

平気で口にする人が多すぎます。あれ悪魔のセリフだ。

「仕方がない」で済ませていたら、「仕方がない」から、

もう首を吊ろうって。

そこまで追い詰められて、その煮え湯なんか飲んじゃった日には、

すべてがオジャンだ。

これじゃあ、われわれみんな、

一体あなたも私も、何の為に生まれてきて、

今なんで生きていられることなのでしょうか。

いや、もうとっくに死んでるんじゃないですか。

そんなことしているんじゃ。





そろそろもう人間らしく生まれ直す時期に来ていませんか。

私だったら、自分の人生は、そっちを選ぶ方に賭けます、断固。

でも、あなた。どっちですか。ご自分で選ぶのは、





恨み節じゃあないんですよ。

まだ期待して待ちわびたいから、敢えてお話させて頂いたまで。

では、また今度。

今日のところは失礼致します。





そこには想像しないような事情が。。。。(1)

2021年07月13日 | 闘病




まあ、人というのは、知恵を捻って世渡りを致します。

これは老若男女を問わず、その御当人の立場で、

どなたも、なさっていらっしゃることで御座います。




それは人生そのものも、結局、そういうことでありますし。

もっと目前の、非常に短いスパンのなかでも、

例えば、それが目の前の相手と、やり取りする中でも、

そこについては同様だと申せましょう。




これから、私がお伝えしたい話の前置きとして、

まず、そこの部分を、ご説明させてもらいまして。

以下、綴らせて頂こうとしておりますが。




さてさて。

目の前にイラッシャルところの、お相手が、

ご自分と、一体どういう関係の御仁か、だとか。

また、ご自身の立場が、この場合には、

果たして、どういう具合であるのか。

それら様々に異なる状況というのを読みながら、

その都度で、その事情の違いを踏まえつつ、

それらをご自分なりに読み解いた上で、

それぞれ、お互い、お相手に対して返そうとなさいますが。




つまり、要はこれが、

目の前のお相手の方が垣間見せるところの、

ときにヒョウキンさの理由、だったり、

また大真面目な構えで示された、

態度や考え方の根拠、だったりで、




それを周囲が、相手の心中を窺い知る材料として、

「ああ、そういうことなのだな」という了解をして、

内容を受け止め得ることなので、

その相手を知る情報として、活用をしてみて、

お互いの間柄で、相手のことを、察している。

ということなのですが。




これはコミュニケーションが、

そこに成立をしていると、そう読み取れるのです。




だから、そうした表現や態度を通しながらで、

これは同じく重ねて申し上げますが。




その相手の、人となりや、気持ちなり、

想像をしたり、感情移入などしてみたりで、

見聞きをした内容から、中身を推し量りやすいので、

お互いに、理解をしたり、受け止められてみたりが、

交わせている、ということが、そこでは起きたのだと。



これが、お互いで、見えやすく分かりやすければ、

そこに困難が生じることが、まだ少ないのですが。




もしもですよ、そこで、片側から返す時、

その片側へ簡単に平易に伝える方法が、

何らかの事情で、実は出来なくなっているとしたら、

これは如何でしょうか。




その返すことが出来ない事情が汲み取りやすければ、

まだ、何らかの察し方が出来るような時もあります。




でも、もしかしたら、そこに想像もしていないような、

あるいは窺い知ることの難しいような理由が、

そこに潜んでいたとしたら、どうでしょうか。




最近、私は東田直樹さんの著作をいくつか読ませてもらいました。

あれらの方々も、私とは違った形で、そこの問題で、

非常な困難を味わっているのだと教わりました。




それは、統合失調症という括りで称されるような立場でも、

そこが、ある意味では、似たり寄ったり、もしてることなので。




もちろん、すべての同じような立場の人が、同じように、

そこの有り様について、自覚をしているのかどうか。

というのは、過去には、自分も気が付けなかったし、

簡単な一言で断定的に伝えては、乱暴すぎるでしょう。

単純な共有が、しにくい面もございます。




個々人が、感じること、考えること、気が付くことは、

その時々で流動的なことでもあるし。

この内容が、誰にも通じるかどうかというのは、

共感できない人に、乱暴な決めつけをしたりするのは、

私だって、慎もうと思っていますしね。




ただ、何らかの返事や遣り取りの上で、

そこに困難さが生じてくる問題では、

とても似ていることではあります。




またそれは、國分功一郎先生の書かれた著作で紹介された、

ある依存症の方が、自分の伝えたいことが、

言葉で伝えても、なかなか伝わるようなことでないという趣旨で、

お話をされている事情とも共通性が伺えたりもするのです。




厄介ではあります。ただ、そこに何かが、

それも本質的な箇所として、それがあるから、

さっぱり理解をされてこないし、

しかも歪んだ推論で、非常に多くの人が、

とても酷い間違った受け取られ方を被っていることは、

指摘をすることが可能なので、その誤解の部分に関して、

次回は、続きを書いてみようかなと思います。




いま、梅雨が明けたばかりで、暑さが堪えるピークです。

どうぞ、ご自愛くださいませ。






まあ、病気といやぁ、病気のようでもあるけど、

2021年06月08日 | 闘病



だいぶ前から、こういうのは病気だから、

治療が必要なんだよと、

そういう風に説かれていますけど、

某ラップランドでは、違う考え方もするようです。

もちろん彼の地でも本人を放置しておくなんて言いません。

それはそれは非常に密接な関わり方をしますから。

それも見付けた時点で、即これを行うのが重要だというし。

つまり、コジレ抜いて簡単に接することも出来ないような、

そうなる前に、人らしい交わり方で対処をします。




そもそも特別に病気しやすそうな傾向が見受けられない場合も、

その人が何か身のカワシようがないような、

それも極めて切羽詰まった命の危険を感じるような、

そうした状況に、誰か個人が身を置いたとき、

「狂気」なる逃がれる為の術を使うよう出来てるのが、

われわれ人間の磨き上げたサバイバル・ツールなのです。

その用意をシッカリと発動しうる能力が働いてくれるのは、

取りも直さず、それは精神の機能が働いた賜物だからで、

どっか壊れたのでオカシクなった式の病である、の論法は、

その点、かなり無理があると言うべきでしょう。




例えば、拷問された人が発狂することもある訳で、

それは、あたかも小動物が強烈なショックに遭遇して、

その恐慌状態から心臓を止めて死ぬこととも似ています。

人間の場合、もう少し手前で、もっと別の非常手段として、

エマージェンシー・サーキットを使う意味で、

狂うことにより、辛くも身を守る、そんな高度な技が備わる。

しかも非可逆的に死んでしまうという逃れ方ではなくて、

上手くすると、その時に直面をした狂気そのものからは、

時間を経たら、一定の回復を遂げていくのも可能なのですから、

確かに知恵としても、極めて巧みな機能を発揮させている意味です。




そうであるのに、不味い方法で狂気と付き合っているから、

そこでした失敗により、その後の展開へ差がついてる話なんです。




誰であっても、困りに困り抜いたら、ほとほと参った末に、

これじゃあ、もうオカシクなりそうだ、みたいに感じません?

実際オカシクなるかどうかは、本人の才覚なんだし、

置かれた状況次第でもあり、すべての人が狂うということはない。

ただ、まだ若くて、困った経験は、十分にしてない状態だとか、

さまざまな保護者達の庇護のもと、それで目が届くが故に、

本人は判断や実行力の上で、実力が身に着けられていないとか、

決めること、考えることは、周囲が決定をしたり、命令を下す、

要は、半ば自分がお留守でも、言われたとおりにしていれば、

それで当面、困らず済ませてきたように見えていたけど、

それは本人自身の対処能力を痩せさせる結果に過ぎなかったり、




それで、こういう内容というのは若年層に多い意味であり。

同時に、親の言いつけを聞かないというのは、

そこに伴う力の関係上、どうしたって、抗えない相手が、

自分へと、直属に命令を出している立場の親なわけで。

親の側で気が付かなくても、子供が生き残れるかどうかは、

保護者と、いかなる関係を壊さずに付き合っていくかであり、

そこが左右されているのも、事実として否定できないです。

つまり、良い子じゃないと大事にしてやらないよの、

親なりの善意で思いやる気持ちですら、それが状況次第では、

強烈に危機感を募らせてしまうメッセージすら込められていて、

基本、子供は親の言うことを聞くし、聞くのが当然という構図は、

それが、働くから成り立ってる意味もあるわけです。怖いけどね。




まさかでしょ?

そんな馬鹿なと、多くの人が思うに違いない。

お医者さんは、そういう風に言わないよと。

確かにね。




でも、半分はお薬を作るメーカーさんと、

真っ向勝負で喧嘩できないのが、

彼らの職能としての限界だと汲んでやらないと。

でないと、そうした方々と、正しく付き合っていけません。

あれらの人々も職業人として、同職の都合を

まさか無視はしていられないんで。

賢くあるべきは、この場合も自分なんです。

消費者が愚かだと、ガセを掴まされるのは、

どんな業界も同じです。

コンシューマーが重要なのは、公民権運動が何を残したか、

かの国の知恵や苦労を無駄にしたらいけません。




誰だって耳障りの悪い話というのは嫌なもんです。

だからって、これは病気だから、

自分たちのせいではない、私には非がないを信じたい。

それも、まさか良かれと思い自分のしてきたことが、

思わぬ方向へと引っ張ってきたと考えたくはないでしょう。

でも、勘違いしたら駄目ですよ。

今から引き返して、もう一度やり直しは利かないんです。




物事というのはスベカラク、今の時点からで取り組む話。

事故の調査だって、原因を探すと、次の事故は未然に防いでも、

既存の事態は逆回りしませんから。

事故を被った人の救済と、今後の事故対策は別個です。




一旦こうなった以上、そこを踏まえ今後の組み立て、が現実論。

お皿が割れてから叱ったって、割れる前は来ません。

割れた陶器は、いま割れる運命だから。これ知恵です。

なったことの後帰りはしないんですもの。

起きたことは受けて立つ、なんであろうと、それが対処の本道。

見ても御覧なさいよ。

もうすでに身体を見ても十分に育って大きくなってます。

大人になれば、わが身に起きたことは、

本人の取り組む仕事なんです。

応援するよは、いいと思う。

こうなって済まなかった、と考えたとしたら、

そうなっている相手を暗に否定してるのに重なるし、

どんな人間にも、完全や完璧などあるはずないのに、

そこ忘れていると思う。

どんな事故も起きるのが現実だし。

事故を起こした人を懲らしめたところで、

これは懲らしめを与える側に、非がないならありでも、

誰も人を裁いてはならないの意を知らなさすぎ。

その意味で、悔いることで報いるのも違う話だと思う。

起きることは起こる必要があったから生じているんです。

起きたことを悔やんでるから、悔やんだ人の仕事だと、

そんなカド違いで、自分の責任を転嫁してしまう人も出る。

起きたことを踏まえて、これからの自分を生きる、が正解。

そうした出来事を引き受けるのは本人、並びに本人を取り巻く社会。

親の仕事は、子供の成長に付き合うところまで、です。

それ以上を行おうとするのは子供の親離れや自立を奪うだけです。




人生、いろいろあるものです。

一人ひとりというのは、誰もが別々の人生を歩むのです。

そこで違うこと、異なることは、当たり前に当然至極でして、

それぞれに、それぞれだから、それぞれが、いいんです。

それが様々な人がいるという価値なんです。

いわゆる障害も、そういう独自性の発揮だから、

そういう評価で受け止めないと、何が大切か、履き違えます。

多様性が担保されない社会には衰退しか残されていないのです。




大事にしよう、どんな違いであっても、それは価値なのだから。











「障害」という括り方、どう受け取っていますか?

2020年09月24日 | 闘病




今日は私が、その部分をどう考えているのか。

それを少しこれから書いてみようかなと思います。




というのも、私がいつも繰り返し述べている「統合失調症」とは、

これは「病気」ではなく、むしろ「障害」を意味します。




という私の持論が、そのこととも深く関係している事柄だからです。

そして、そこの考えについて、少し整理をしてお伝えしていかないと、

私の言わんとするところの、その真意自体そのものが、

もしかして、そこで誤解を受けているかも知れないなあ。

と、そんなことを思ったからです。




まず、いわゆる「障害」があるという場合の意味合いについてですが、

厳密な定義については、ブログ上だけで述べられる内容ではないし、

また、ここは私の日常語によって書かせて頂いていますから、

これは、まあ甚だ端的な言い方にはなるかなと思うのですが、




もしもですね。

これらの「障害」がある立場のひとたちが、いるというのに、

その状態の人たちに関しての、何らかの配慮を考えておかなかったら、

知らず知らずに、そのひとたちへ要らない不都合を押し付けるとか。

ほかのひとは困らないことでも、これらのひとに迷惑を被らせるとか。




要は、最近だとインクルージョンという観点もありますが、

そもそも人間の社会とは、それらの場合も最初から含んで構成をされている。

その大前提からいって、何かある条件が、この場合「障害」ですが。

その「障害」の場合、その条件によって社会から押し出されるとか、

摘まみだされるのではなくて、広く世の中の一員としても、

受け入れられ、認められていてこそ、それが当然のことであるし、

そういう受け入れられ方は、先ずもって普通のことであるから、と。

そうした感じに、私として、イメージをしていたりします。




それらは守られているのが当たり前のことだけど、

仮に、もしも「障碍者」の人権を、十分に保障しない社会があれば、

それは一市民に対して、間違った考え方によって遇するという、

そういう仕打ちをするのと、同じ誤りをしている意味だし。




そして、また。これは厳密な用語では「障害」に含まれなくても、

何らかの配慮なりサポートが必要と言えるようなひとたちなら、

今だと「認知症」のひとたちを、そこに括るというのもありだと、

そういう風にも、私としては考えたりしています。




ですから、一般的な推計の仕方で、人口の15%は障害者だと、

そうも言われますから、そこの枠とかも、ここに一緒に含めれば、

日本の人口比で言って、少なくとも日本に1800万人以上いると。

そういう比率になることです。

これは早い話が、ごく限られた一部の人では、まったくないし。

単純には、6人か7人に一人が、これに該当をする。

つまり、多いか少ないかでいえば、そういう割り合いになります。

誰がどう考えたって、この比率が、それらの場合は特殊だとか、

不利益を被るのが限られた立場の人だ、はありえないので。




その意味で、配慮をしていないような世間だったら、

そこは、社会そのものが否定された非文化圏だともいうべきでしょう。




故に、「障害」の事実があるというのは、

これは、何かを貶める意味だとか、価値を限定する内容であるとか、

そんなことは、サラサラ申してはいないことです。

むしろ、ウッカリすると、蔑ろにされかねないからこそ、

キチンとした人権を主張すべく、そういう拠り所を押さえるためにこそ、

「障害」の意味合いを強調しているのだ。というのが、

私の立場であると、これに関しては、そういう具合にお考え下さいね。




以上、そういう私の主張でした。

どうぞ東日本の皆様、台風にお気を付けください。ではまた。





「病気」の意味で解釈をしていると、なぜマズイのか。

2020年09月20日 | 闘病




あるひとが診断によって『あなたは、これこれの「病気」です』と、

そういう告げられ方で、医師から聞いていたとします。

そのとき本人が自分自身のことを、振り返った場合でも、

また家族から、その本人の様子について、何かを推し量るようなときでも。

これは「病気」のせいで、こういう何々なんだという<理解>をします。

これは一見、表面的に、理に適った考えのようにも受け取れますが。

しかし、よく考えてみると、ある妙なことにも気が付くのです。

例えば、何かそうした現象でも、また感覚についてもですが、

そうした状態は、「病気」だからという見做し方で考えている限り、

これは「病気」さえ治したら、そういう「症状」や「訴え」を、

終わらすことができるはずなんだ。そんな推論をしたりして、

この「問題」は治療を受けていれば「解消をしたり・解決させられる」

こういう図式に読むから、多くの人は、この期待をすると思います。

だがしかし、それからが、実は長い長い時間を要する話であって、

しかも、それは考えてみると、その状態に関しては慣れてきたけど、

この「症状」というのは、それはなくしたり、終わったりは、

結局、ほとんど実際には現実のことにはならないし、

当然、いくら「治療」しても、「病気」に罹る前には巻き戻りません。

これに、また多くの人が気を落として苦痛に感じることなのです。




でも、最初にこれを「病気」だから「治療」です、というのではなく。

これは「こころ」の上で起きているような現象ですから、これがもしも、

そこに目に見える実態が、物体的にも触れることができる身体の状態なら、

こうなる前、こうなった後で、誰の目にも一目瞭然な違いが判るけど、

素人目には理解のしづらい「こころ」の状態なので、

じつは、すでにかなり様子が違っていて、これは、障害を被るのが、

ほぼ避けられなくなるような問題に該当している状態なんですよ。

だから、これから、こういう障害を受ける前に戻せるかどうか、

それは受け合えないようなことですが、ただ身体の障害などと同じように、

工夫次第で、今のような生活面に起きてくる様々な問題に対して、

改善の余地は十分に期待をしていていいことです。

そして、治療を続けるのも一つの方法ですが、

同時に「こころ」の機能回復を図るような取り組みが何より大切になります。

服薬をはじめ治療を続けながら、日常的な生活のなかでの対処をする、

暮らし向きを支えていくためのリハビリテーションで対応を図るべく、

無理のない訓練やトレーニングをする方法のご案内をしていきましょう。




こういう提案を、一番はじめの診断時に行うのが、常識的接遇だと思うんだ。

そういう意味で、いまの方法は不適切に過ぎるやり方だと指摘しておきます。