いま、そこに、あなたが、あるのは

誰も『苦労』はひとそれぞれ。しかもすべて自分のオリジナル。つまり人間の数だけ誰にもみんな役目と役割りあって生まれてる

勘違いしてちゃイカンぞ

2019年09月22日 | 闘病


いいかい。いつも言ってる事だけど。これは障害なんだから。ただの病気みたいに、これを治したら〇〇云々な生活をしようかなあ、なんて悠長な具合に構えてたんじゃ、これはだいぶ不味いんだ。そんな風にウッカリしてたんじゃ、いつまで経っても物事を始られやしないんだぞ。例えばだ。病気で目が視えなくなって視覚障害の立場になった場合にだって。その障害の人が、目が見えるようになってから、自分の生活に取り組むんだと言ったりするかい?病気が原因で自分の目が視えなくなったのは、確かに残念この上ない話でも。今は、その視えない状態で、これからの生活を考えていく、これが順番なんだよ。じゃ、なぜ我々の周りで病気を治すように強いるのか。それは身体の障害や、知的の障害のように、社会一般からの理解がまだ十分には得られてないし。それ故、われわれの障害者としての地位だって、まだまだ確立していないからなんだと私は思う。いいか。物を知らない連中に言わせておけば、まるで俺達が怠けてるせいだと見てるんだ。要は、世間は無知なんだ。このまま黙っていたら、勘違いしてる連中の思い違いは、いつまで経とうが、ずっと正される日が来ないままに続くだけなんだ。それだからこそ、ここは声を大にして、われわれが病気としての治療を、どれだけ万全に受けてみたとしても。これは病気として完治させられるような問題じゃないと訴えていかないと、経験をしない世間としては知りようがない。治療を受けた後でも不自由や不具合が残り続ける訳だから、この「統合失調症」には「重度かつ継続」という括りで認め方をされてるのさ。だが、そこをだな。自分たちにとって不利益な烙印の意味に受け取る必要はないからな。そこはむしろ逆なんだ。そういう障害だという認め方をされてるのは、この場合に生じた自分たちの不都合に関しても、障害の範囲において権利が主張できる拠り所だと、そう胸を張り心得ていればいい。誰だって、わざわざ自分から好んで自ら障害者になる意味じゃないさ。言うなれば、世の中とは持ち回りなのさ。自分では望んでいなくても、誰かは短命を引き受けているんだし。他の誰かは、別の役回りが巡ってくるんだよ。この場合は、たまたま自分たちに精神の障害という役割りが来る順番だったのさ。だからこそ、将来また別の仲間が同じクジを引いたときにも、少しでも仲間を困らせないよう、今の自分たちが果たすべき役割りが、ここに付いて回ってくる。そこ忘れちゃだめだぞ。自分が泣けば済むじゃ、ぜんぜん良くないんだ。泣くのは俺達だけじゃない。あとから続く奴らにも苦痛を残したままにするか、それとも予め少しでも助けておいてやれるかは、これはある意味われわれ次第なんだ。その意味で、引き受けた人間には、自然とそこには仕事が出来るんだ。それだから、一人で泣かされてたんじゃ、いかんぞ。仲間と手を取り合って、これが使命なんだと知るべきさ。たまたまそういう時代なんだ。今のような、こうした社会があるのは。いいな。病気だって言われて、ああそうですか。じゃないんだぞ。病気でも、これは治らないから障害なんで。障害だから、不都合が重なる問題だという事実に関しては、知らない連中に教えてやらなきゃならん。知ってる立場、経験した人間の役割り。そういう真実がここにはあるのさ。そこを知れば、俺達が働くに力量不足な能力足らずだなんてトンデモナ誤認なんだぞ。俺達じゃないと、伝えられない、発信できない、そういう重要な経験を、ここには孕んでいる意味なんだから。それを無事に産み残せるかどうかというのは重責な大事業に違いない。それがわかったら、涙なんか流してないで、明日から仕事だ。昨日までの苦労が何だったのか。今の今、今日こうしてわかったんだから。さあ、心して取りかかろうじゃないか。われわれが引き受けた仕事を。最後に付け足しておくが、われわれは間違ってもコソコソとしないことだ。病気や障害が間違っているんじゃないんだぞ。それを正確には把握もしないで、全くの非常識な受け止め方を、常識だと吹き込まれて、勘違いしたまんま信じる
世間が迂闊なんだ。だが。われわれは本当のことを知ってる。実際に経験をして来ているんだ。だから間違いには道を譲る必要はない。知らないのに、いつまでも間違った情報を真に受ける社会こそが恥だろ。われわれも社会の成員なんだから、何が間違いなのか伝えるのも、われわれの役目で仕事だ。勘違いの片棒をわれわれが一緒になって担ぐわけにいかん。だから人目を憚るみたいにコソコソとは、したりしないことだ。







正しく理解できていますか その2

2019年08月14日 | 闘病




統合失調症というのは病気だと思いながら付き合ってると、それではどうも失敗につながりやすいようだから。
むしろ病気の部分より、これは障害(=)の意味であるなという受け止め方をしていかないと、その対応ひとつをとっても、ついつい間違った考えにも陥りやすいことなんですよ。
今後は統合失調症というのは一種の障害のことなんだと、そう受け取ってみませんか。
というのが私の持論であり、病気本人の自分からも強くオススメできる処し方なのですが。



それを、一つひとつ、これから分かりやすく説明していくので、ゆっくりと読んでみて、じっくり考えてもらおうと思いますので。どうぞ少しお付き合い下さいね。



よく統合失調症になった人の行動や言葉を、ヘンだとか、オカシイと、そんな風に感じている人は結構たくさんいるんじゃないでしょうか。
そこで、そういう方々に、今からご説明する話を気を付けながら読んでみて、ご一緒に考えていただこうと思います。



例えばですよ。
もし目が視えない盲人の方を未だかつて一度も見掛けたことがない、という人がここにいるのを思い浮かべてみて下さい。
その人は、盲人が手にしている白丈でも、あるいはまたハーネスをつけてる盲導犬にしても。
今まで知らなかったんですから、これらは相当に物珍しいだろうし、きっとかなり変わったものとして受け止めるのではないでしょうか。
さらには、目が視えないから、ああいうのが必要なんだよと横から誰かが説明したとしてもです。
世の中には自分の目で視ることが出来ない人間も生活している事実について、もしまったく聞いたことがなかったら、なぜ目が視えないのかについても、ずいぶんと不思議で奇異な物事であると感じてしまうことでしょう。



別にこれは突飛な想定でもなく、幼い子どもたちなら経験する出来事です。
そういう子供さんと街で盲人に遭遇をして、思わず声をあげるお子さんへ大人しくするように仰ったというお母さんもいらっしゃることでしょう。



これは他にも例えば、車イスを使うのをまだ見たことがないような人、実際には小さな子供の多くは、眼の前で実物を見るのが初めてだという場合はよくあります。
大人でも電動の車イスについて珍しいと感じる人があるかも知れない。
あるいは、酸素のタンクを携帯しながら外出してる人も、今でこそ見ますが、以前は街で出会う場面も少なかったですよね。
あるいは重度障害者の施設に行ったことのない人が、初めて訪れる機会があったりすると、驚いた経験をしたのを覚えてる方もあるだろうと思います。



このように実際には、われわれの世の中には、いろんな状況があって、様々な状態のなかで、それぞれの人々が、そういう事態で生活をしていることなんですよね。
でも、そういう状況へ直接、自分が目の当たりにするような経験にしても、そういった機会がない場合には、これは誰にしたって、それらの知らないこと、今までに見たこともない物事というのはあることです。
これはどんな人にだって当然あることなんですから。



妙なことでもあるんですが。
病気の人の家族だって。
家族の経験は自分にあっても、病気の経験は一度もまだしたことはないんです。
眼の前に病気の本人がいても、その人が何故そういう言葉や行動をするのか、経験がない以上は想像してみるだけですよね。
でも、同じ病気の人、同じ障害の人、これらは本人がどうなってる話か、自分の経験から推し測ることも出来たりする訳なんです。



そういう意味で、互いに血縁者でもないのに、家族の人より本人の気持ちや思いについて共感できたり他人事じゃなく共有できる経験でもあったりするんですね。



まあ、これは考えてみたら当たり前ではあるんだけど。



家族の人にしたら、どうしてそんなことするんだろう。
そう思って、頭を抱えたり、嘆いてみたりして、もう困ってしまうような病人の言動なのに。
そこを同じ立場の人は、そうなるのを、それはあるよ。
そうなる時は、自分にもあったから。
そんな具合に目に映ったりするんですから。



でも、病人も振り返るべきなんで、家族は経験がない以上、あなたの立場や思いは想像を超えるような話な訳なんだ。
それならば、こうしたらもっと分かってもらえるんじゃないかとか。
もう、いったい何で自分の思いが通じないんだろうとか。
そう感じて、よけい相手に知らしめてやらなきゃっみたいになって頑張ったとして。
それが通じたら理解してもらえるはずだと期待をしてみて、そこを励めば励むほどに空回りの酷さを増やしてるだけだったりするんで。
それをしてるんじゃあ結局のところ自分の苛立ちが膨らむだけなんで。
相手に分かってもらいたいのは山々でも、これは無理かもしれないんだ。
それよりもだよ。
わかってもらうよりも、自分がどうしていけたらいいのかな、なんだよ。
これから、どんなことをしたら打開していけるのか。
これは相手は、家族じゃないんだ。
自分のこれからで、将来なんだから。
こっちのほうが力点だと思わないとね。



少し、書き出しと流れが外れてきたけど。
まあ、私が文章を書くときにはままあることで。
書きたいことが固まってから、記述していくというより。
書き出しを見付けられたら、そこから考えが展開して、言いたいことが書き述べられていく格好だから、今日はこれで良しとしておきます。



蛇足ですが、これ読んでくれた家族の人も、この尻馬に乗って、間違っても本人をやり込めないでくださいね。
それこそ、その行動は蛇足以上に、相手を傷付けるんだし。
自信を削ぐような言葉かけは、ことごとく良い結果を潰していくだけですので。



また書きます。以下、次回に続く






正しく理解できていますか その1

2019年08月12日 | 闘病



これは別に何も脅かす訳じゃないけれど。われわれの精神の機能には常日頃から病気・障害(=障碍)がおきてるような状態にあるんですからね。これを忘れてるようじゃ不味いんで。だけどもいいですか。この精神の障害というのが何を意味してるか勘違いしないでくださいね。


これは用語的に、多くの人が誤解をするから明示的に書いて否定しておきますが。この精神の障害というのはですよ。あなたが気持ちの弛んだ怠け者だとか、精神力の脆弱な人物だとか、心の持ち方が卑劣な人間だとか。そんな意味とぜんぜん違う話を言ってるんですからね。


これはね、端的に言えば、物事を考えるとき、知らず知らずに不適切さが紛れ込んでみたり、実際にそれを行おうとしても不十分すぎる部分があったりで。その結果として、そういう障害がないような人であれば、およそ遭遇しないで済むような困り事が、どうもあなたの場合には周囲で起こりやすいようだから。それに対してのサポートや配慮は用意する必要があるみたいですね、というのを認めた意味なんですから。逆に言うと、われわれ自身も、この問題を意識できてないと、生活上の困難を減らしていくことなんか、なかなか出来ない訳ですよ。


じゃあ、単純に考え方が不十分な問題なのか、というとですね。そう簡単に受け止めていると、それも実はこの部分で誤解をしていることなんですよ。一見これは妙な話でもあるんだけど。われわれは考えた上で、答えを出して、それで実行に移してるのかと思えばですね。どうも案外とそうではないんですよね。ある意味、何か思いつくのと、それが何らかの行動になるというのは、いわば並列進行してるみたいな世界にいるのが実際なんです。


例えば、今あなたが食事のテーブルについてご飯を食べてるところを思い浮かべてみてください。身体の機能で特に不自由なく動かせる人の場合に、一々そこで飯茶碗を手に取るのも、皿に箸を運ぶのも意識はしてないと思います。この漬物は美味そうだなと思って、じゃあ食べようかと考えてみて、それでは腕を動かす角度はこうで、箸の使い方や、口への運び方を、意識をして考えながら食べてるなんて、普段はしていないと思う。でも、意識をそこへ持っていけば、物事を追うように確かめて食べてみようとするのも、それが可能だったりします。


さあ、考えてやっている行動なるものは、一体どういう意味でしょうか。


もう一つ、別の例をあげてみます。夕方になって涼しくなったから、近所を散歩してこよう。そんな場面を想定してみてください。散歩だから、特別どこか目的地がある意味でもない。それでいて、なんとなく、出てみると、その時の気分や、思いつきで、コースというのは。あるようで、ないようで、でも散歩というのにふさわしい行動を自然に選んでいる。あるいは最初の散歩のつもりが、切り替わって買い物になっていたり。そんな風に行動してるのがふだん人のやっていることですよね。


つまり、考えるということと、行動を起こすということは、ほとんどナイマゼ状態に展開しているとも言うべきであり、丸で渾然と連なるようにして同時発生していって、一連の流れを成していることである。というのが、われわれの行なう実際なんだろうと思われるんです。


でも、その無意識的にあたかも一連の繋がりの中でしているみたいなことでも、わざと意識をすれば、考えるのと、動くのは、あたかも別々の働きみたいに見えてくる一面を感じることも出来たりしますが。でも何度も繰り返し述べたみたいに、実際のところは、これらを一々のように、それぞれで考えて、逐一でそれぞれ別個に動いたのかと問えば 、そういう意識は特別に働かせなくても、もっと自然に繰り広げられて生活してたりします。確かに、あえて観察しようとすれば分解をして俯瞰するのが可能な現象みたいに認められもするのですが。


われわれ人というものは、このようにして、考えつつであって、同時にそこでは行動もしつつであり。さらにかつまた、そこでは一種フィードバックするように、その動いたことで、あらたに気が付かされたような点が、そこで反映されていくし、自然に流れるがごとく動き方へと修正を加えられていき、また動きは変わっていく。


これが実際の具体的な行動の上だけでなく、生きていく上での生活の局面においても、手酷い停滞を引き起こしたりせずに、その流れが止まったりしないよう、暮らすことで困らずに能力が発揮をできてるような人は、この場合でいったら精神に障害がない人なんだと思います。


もちろん障害のない人でも困ることはあるに決まってますよ。でも、それに対応できるかどうかという部分では、違いはあることで。そこで対処をしていく力のあるなしで比較をすれば、障害のあるような人とは、そこでの困り方にしても、対応の図り方についても、達者で巧みなのは、恐らく障害がない人の方に分があることなのでしょう。


とはいえ、経験のあるなしも大きいですから、障害者が馴れているような出来事であれば、障害者のほうが立ち回りで一歩も二歩も器用であったり、耐える方法も力が出せることがあったりしますよね。


精神の障害と呼んでいるものは、一口で言うなら、考えることと、実際の行動の上で、その連携が非常にギコチナクて不得手になってしまっているような状態。そのせいで生活の上で、自然な流れを失ってしまうか、またはともすると失いやすくなっている。そういうことを指している意味だと考えれば、より適切なんじゃないかなと思います。


つまり障害がなければ、自分の力を使いながら、また周りの様子に見習いながらで、やっていくようなことでも。われわれが生きていく上では、もっと別のギコチナサを併せ持っているような状態ですから。他の人であれば、特段に意識をしなくても行えるような場合も、われわれの場合は殊更に意識をしながらで行わないと、現実には上手く行かないこともある訳ですし。その時にする、思いつき方や、考え方の巡らし方でも、なかなか自分には気が付けないような不味さや問題点を孕んでしまっている可能性があったりするのも起きているのです。


しかも、それをフィードバックして行動を変えてみるのも下手な面が強いですから。これらをチェックしてみる意味で、援助職の人の力は進んで活用する気持ちを持つことです。それらの人に知恵を借りてみるのは、ちょうど歩くのが困る場合に、杖や車イスを用いることと同じような意味ですから。それを上手く活かせないと、自分の困り事からも抜け出しがたいことですよね。


援助するのを仕事にしている人も、あなたから具体的に、どういうことを、どうしたいのか、聞けないことには、どう手を貸すのかが見えて来ません。率直に話をできる関係を作っていくことは大切なんです。そういうのは、こちらが受け身で、何かをしてもらうような間柄ではないんですよね。こっちが受け手だと思っていたら、それは大きな勘違いをしています。


こっちは発信をしていく側であって、相手との通信の状態によって、これから何がどうなるかが決まっていくんですよ。つまり片側通行なんかじゃないんです。行き来のある相互関係だと知っていないと、待っていれば、受信ができるような関係とは違うんですから。自分から主体的に参加してこそ、話が進展します。


また、われわれが行っていく、これらの取り組み方に関して、一つ重大にして、逆説的でパラドキシカルな難点があるのを指摘しておかなくてはなりません。


このブログの文章の最初の方で、人というのは一々そこで意識をしたりせず、考えながら、同時に動くように、それは並列に進行するようなことだろうと、私は申し上げました。


つまりですね。考えるのと、動くという連携が、われわれみたいにスムーズには運べないような場合。他の人なら、わざわざみたいな意識をせずに自然に行動へと流れていって実施へと移していくようなことがですね。われわれの場合、そこのギコチナサがあるせいで、どうしても意識に昇る場面が、確率的にも、より起きやすくなります。


すると自然に流れていくよりも前にですね、意識過剰に陥ってしまう場面へ出くわしやすいことなんです。自然にやれてることが、自意識過剰で、そこで身動きが取れないという事態にも、その分だけなりやすい訳です。


これをクリアするには自分なりの工夫を探してみる他ないのですが。一つには人間というのは、習慣的にやっていることは意識しなくても動けるという習性を持っていますから。今日だけ特別に、こういう風にやろうと思っても、これは意識をしがちになりやすい。でも毎日、そうしているようなことは自然にできます。これを覚えておくと工夫をしてみるときのヒントに使えるかもしれませんね。




さてと、まだまだ続きがあるんですが。それは次回とさせて戴きます。





これは障害(=障碍)だなって、気付くべきなんです。

2019年08月06日 | 闘病


これから述べる話は病気の本人はもちろんですが。

家族に病気の人がいる場合にも大切なことなので気をつけて聞いてくださいね。

統合失調症というのは病気だなんて思って相手をしていたら、

それは非常に遠回りな目に合うことになるんだし。

そんな付き合い方をしているようだと必ず壁にブチ当たること間違いなしです。

そうやって時間を費やしてると貴重な自分の人生の時間が勿体無いです。

いい加減に無駄な回り道に時間を割くことからもう足を洗ったほうがいい。

もし、あなたが、この問題と本当に賢く付き合おうとするならばですね。

まず、これは障害(=障碍)の一種なんだと心得て腹を括ってかからないとね。

誰もが、これを病気と思いたくなる理由は私だってよく知っていますがね。

つまり病気なら治せることだからと欲出しちゃってるからなんですよね。

でも医学だって治って回復だと言いません。寛解という理屈を使うんですがね。

これを障害と考えたのでは損だとか得にならないとか腹算用は禁物ですから。

実人生というのはプラスとかマイナスとか、そんな軸上には存在してません。

それこそ、あるひとは、外に出たら、あっけなく交通事故で死ぬ人もあるし。

じゃあ、外は危ないと考えて家にいたら地震だって火事だってありますから。

早い話がですね。どこかで誰かに、それぞれで何かが、必ず訪れるのです。

言ってみれば、どんなことにでも順番というのは回ってくるんですよ。

今日は無事に過ごせたみたいでも、それだけ残りの分が日々短くなるだけなんで。

伸ばし伸ばしで先延ばしで生きてれば永久に何も来ないんじゃないですから。

だからこそ自分に来てるのに受けて立たないのは生きるの逃げてます。

どこかに逃げ道があるんじゃないか。そういうズルしようと考えてたら失敗します。

逆説的ですが受けて立つ覚悟さえ固めれば、もう恐れる必要なんかなくなります。

弱気の逃げ腰で背中を見せていたりするから追いかけられて捕まるんでね。

正面から受ければ本気を出して自分の本当の底力を見せられたりするんです。

都合のいいこと虫のいいこと頭の中なら思い浮かべることは出来ますよ。

でも現実の世界にそれが起こると期待してたら待ち惚けがあるだけなんで。

賭け事するひとは、もしかしたらの一攫千金を夢見ちゃうから、スルんでしょ。

でも物事というのは当たって儲かる宝クジだけじゃないのは分かりますよね。

それこそ自分は当たりでも他の人はハズレを握るだけです。逆もしかり。

胴元が金儲けをするために仕組んだバクチは結局トータルして利益にはならんですよ。

これは遊びだけじゃなく商売だって損をする目的で始めることじゃないですけど。

公算のない夢は散るのも易く失敗をして借金に苦しむのもあることです。

はなから儲かる見込みも立たない投資というのは回収ができなくなるのも想像がつく。

何事もそうですが現実的に考えてたほうが実に結ぶものは多いんだと言えます。

この統合失調症が病気だよという触れ込みも同じようなところがあるんです。

カラクリに騙されないためには単純に考えてみると理解をしやすいです。

障害でいうとですね。日本では障害の種別を大きく分けて身体障害・知的障害・精神障害。

そういう3つの区分けで見做すんだということに政治・行政でされていましてね。

これを、そういうクラスごとに考えてみれば話がわかりやすいのですが。

身体の障害というのが治療では回復しないのは誰にとっても理解できるでしょう。

もちろん、それに対して何らかのサポート手段があったりするのは当然なことです。

それは知的な障害でも同じことだなと別に考えるまでもなく周知の話でありましょう。

これらと比較をして、やはり精神の障害というのだって、その中身では同様なんです。

確かに浮き沈みというか悪化と軽快の繰り返しがあったりはするんですが。

これだって軽快したというのが治りました終わりましたと違うのは自明です。

本当の意味で病気ではない状態へ回復しないのになぜ医療で対処するんだろう。

そういうふうに治療へ持ってくのは、どうしてなんだろうと申しますとね。

一言で言えば経済的にキチンとした予算割を、この過去、国家的にしてこなかった。

もし身体や知的の障害並みに福祉の上でのサポートをすると今の予算では足らない。

さらに、だいぶ嫌な話ですが薬で治すんだと押し付ければ医療経済上で大儲け。

しかも驚くなかれ日本の入院病床の何割が精神科に使われてると思われますか。

こんなに精神病院が多いのは、この日本だけなんですが。これ昔の国家戦略でした。

医療にお金を割いても国家経済の全体で利益になるなら、という計算をしたのです。

それで高度経済成長を成功裏に運ぼうと、こういう我々を病院に入れてきたのでした。

まあ問題はあります。でも今大事なのは他人の責任追及なんかじゃないです。

今の自分がこれからどうするのか。どういう考えで自分の課題に答えを見つけるか。

そのためには誰が悪いんだとか。どいつのせいで、こうなったは放っておけばよい。

いま第一にすることは自分の取り組み方の骨組みを生み出すことなんです。

それには病気と考えていたんじゃ治すこと治し方ばかりに目がいっちゃうけど。

それで進めると良くなっても治ることじゃなくて積み重ねる意味が薄れてしまう。

だからこそ障害ということで生活の持ち方の工夫をすることこそ一番に大事。

この自分には障害のせいで考え方の端々に特徴的なぎこちなさがあることだから。

その部分が治療で回復するという誤解のままでいると足元からすくわれる。

自分には、消しようもなく、なくしようもなく、その面はあることなのです。

それ含めて私が生きていくって何だろう。この人生をどうやって展開していくのか。

これは、そういう問題なわけですよ。医療で治すなんて縮み過ぎもいいとこです。

もっと、うんと大きくて深くて、いっそう大切で大事な生きていくことそのもの。

そのとき念頭に置いとかないといけないのは、自分には障害という伴侶が、

これからの生涯ずうっと共にあり、それと付き合っていけないと成り立たない。

障害と伴いながら人生を歩んでいくという。これはそういうことなんですね。




病気じゃないよ。というのを少しは分かって戴けたかな。ではまた。






これは障害だなと気付くべきなんです。その2

2019年07月23日 | 闘病




昨日の続きを書こうと思います。前回ここで触れたのは、統合失調症が病気だとは知っているんだけれども。そこには同時に重なるようにして障害が引き起こされるという事実について、どうも多くの人が十分には理解ができていないようすではないのか。何よりも、この障害という件そのものに関しても、それをよく知らないのが原因で、ついつい無理解な態度になってしまう。


だから、そこにある偏見のせいで、勢い認めたくない気持ちが働いてしまうんであって。この病気や障害のことを触れたくない事実だとか、考えたくない問題だなんて思い込んでいたりするから、もうヤケのヤンパチ病気に任せて出鱈目な態度とかもワザととってみたりするとか。


もう考えるのも嫌になって、目を瞑りたい現実だという気持ちがあまりに強すぎてしまい、本来なら今こそ深く考えて解決を探らないと困るような問題を、まさに自分が目のあたりにしているというのに、この場面にキチンと向き合うのを避けてみたり、その相手に真面目な取り組みをするのが辛く感じられるので、とにかく困難から逃げ出したい気持ちに襲われてみたりする。


ここには、そういう困難がありますよね。そんなことを書いてみたいなと本ブログではじめてみたつもりでした。まあこれは自暴自棄になるのに近いんだけど、もっと複雑で思いは更に辛辣なところですよね。


これは病気になる前を考えてみれば、自分だって知らず知らずに世間の常識や非常識を共有している世界で一緒になって平気でやっていけるつもりで過ごしてきた意味なんですから。


そういう過去を、こうしてあとになって思い起こせばです。まずは、自分の中にあるような、物知らずや、無知だとか、誤解なんかを、ドシドシと取り除き、ゴシゴシ落としていく除去作業が、とにもかくにも第一にまず必要ですから、ということになるのだと思います。


だって、当事者じゃない人は、平気で無理解なまま、ずっと他人事のつもりだと思い続けて、馬鹿げた間違いを信じたままでいられて、それでもまだ無傷の気でいられたとしてもですよ。


今では、この場合に、その自分が当の病気・障害の本人の側に立っているんですから。まさにそういう事態に直面をしてて、遭遇していることなんですから。


このまま歪んだ見方で考えている世間の無知に付き合い続けていたのでは、どうしたって、それは自分で自分の首を締める形勢をいつまでも固持するという話になるんですから。


世間の人が持っている相手を貶めるような偏見のことをスティグマと呼ぶのは知っていますか。(スティグマとは烙印のことで、牛馬のような家畜の身体に押し付けて、これは自分の牧場の所有物だからという焼きゴテで付ける印です)このスティグマに対して、自分で自分に押し当てて我が身の価値を認められなくなるのをセルフ・スティグマといいます。


この内なる偏見は、仮にあなたの周囲の人々に理解を示すような態度が帰ってきた時にでも、いつまで経っても自分はもう駄目なんだという決めつけ方を続けるのをさせてしまうし。我が身の自信を自分の気持ちで削ぎ続けてしまうのですから、いわば出口を塞いでいるのは自分の偏見である訳です。


これが実は病気や障害の苦しさ以上に、自分に辛さとなって堪えてしまう厳しいダメージになっているんです。病気や障害に対して無知・無理解であった過去が、今度はその番が自分に巡って来たときに、悪さをしてその自分の無知・無理解が己を偏見で見てしまい自分自身を痛めつけてしまうことになるのです。




(以下、つづく)