いいかい。いつも言ってる事だけど。これは障害なんだから。ただの病気みたいに、これを治したら〇〇云々な生活をしようかなあ、なんて悠長な具合に構えてたんじゃ、これはだいぶ不味いんだ。そんな風にウッカリしてたんじゃ、いつまで経っても物事を始られやしないんだぞ。例えばだ。病気で目が視えなくなって視覚障害の立場になった場合にだって。その障害の人が、目が見えるようになってから、自分の生活に取り組むんだと言ったりするかい?病気が原因で自分の目が視えなくなったのは、確かに残念この上ない話でも。今は、その視えない状態で、これからの生活を考えていく、これが順番なんだよ。じゃ、なぜ我々の周りで病気を治すように強いるのか。それは身体の障害や、知的の障害のように、社会一般からの理解がまだ十分には得られてないし。それ故、われわれの障害者としての地位だって、まだまだ確立していないからなんだと私は思う。いいか。物を知らない連中に言わせておけば、まるで俺達が怠けてるせいだと見てるんだ。要は、世間は無知なんだ。このまま黙っていたら、勘違いしてる連中の思い違いは、いつまで経とうが、ずっと正される日が来ないままに続くだけなんだ。それだからこそ、ここは声を大にして、われわれが病気としての治療を、どれだけ万全に受けてみたとしても。これは病気として完治させられるような問題じゃないと訴えていかないと、経験をしない世間としては知りようがない。治療を受けた後でも不自由や不具合が残り続ける訳だから、この「統合失調症」には「重度かつ継続」という括りで認め方をされてるのさ。だが、そこをだな。自分たちにとって不利益な烙印の意味に受け取る必要はないからな。そこはむしろ逆なんだ。そういう障害だという認め方をされてるのは、この場合に生じた自分たちの不都合に関しても、障害の範囲において権利が主張できる拠り所だと、そう胸を張り心得ていればいい。誰だって、わざわざ自分から好んで自ら障害者になる意味じゃないさ。言うなれば、世の中とは持ち回りなのさ。自分では望んでいなくても、誰かは短命を引き受けているんだし。他の誰かは、別の役回りが巡ってくるんだよ。この場合は、たまたま自分たちに精神の障害という役割りが来る順番だったのさ。だからこそ、将来また別の仲間が同じクジを引いたときにも、少しでも仲間を困らせないよう、今の自分たちが果たすべき役割りが、ここに付いて回ってくる。そこ忘れちゃだめだぞ。自分が泣けば済むじゃ、ぜんぜん良くないんだ。泣くのは俺達だけじゃない。あとから続く奴らにも苦痛を残したままにするか、それとも予め少しでも助けておいてやれるかは、これはある意味われわれ次第なんだ。その意味で、引き受けた人間には、自然とそこには仕事が出来るんだ。それだから、一人で泣かされてたんじゃ、いかんぞ。仲間と手を取り合って、これが使命なんだと知るべきさ。たまたまそういう時代なんだ。今のような、こうした社会があるのは。いいな。病気だって言われて、ああそうですか。じゃないんだぞ。病気でも、これは治らないから障害なんで。障害だから、不都合が重なる問題だという事実に関しては、知らない連中に教えてやらなきゃならん。知ってる立場、経験した人間の役割り。そういう真実がここにはあるのさ。そこを知れば、俺達が働くに力量不足な能力足らずだなんてトンデモナ誤認なんだぞ。俺達じゃないと、伝えられない、発信できない、そういう重要な経験を、ここには孕んでいる意味なんだから。それを無事に産み残せるかどうかというのは重責な大事業に違いない。それがわかったら、涙なんか流してないで、明日から仕事だ。昨日までの苦労が何だったのか。今の今、今日こうしてわかったんだから。さあ、心して取りかかろうじゃないか。われわれが引き受けた仕事を。最後に付け足しておくが、われわれは間違ってもコソコソとしないことだ。病気や障害が間違っているんじゃないんだぞ。それを正確には把握もしないで、全くの非常識な受け止め方を、常識だと吹き込まれて、勘違いしたまんま信じる世間が迂闊なんだ。だが。われわれは本当のことを知ってる。実際に経験をして来ているんだ。だから間違いには道を譲る必要はない。知らないのに、いつまでも間違った情報を真に受ける社会こそが恥だろ。われわれも社会の成員なんだから、何が間違いなのか伝えるのも、われわれの役目で仕事だ。勘違いの片棒をわれわれが一緒になって担ぐわけにいかん。だから人目を憚るみたいにコソコソとは、したりしないことだ。
いいかい。いつも言ってる事だけど。これは障害なんだから。ただの病気みたいに、これを治したら〇〇云々な生活をしようかなあ、なんて悠長な具合に構えてたんじゃ、これはだいぶ不味いんだ。そんな風にウッカリしてたんじゃ、いつまで経っても物事を始られやしないんだぞ。例えばだ。病気で目が視えなくなって視覚障害の立場になった場合にだって。その障害の人が、目が見えるようになってから、自分の生活に取り組むんだと言ったりするかい?病気が原因で自分の目が視えなくなったのは、確かに残念この上ない話でも。今は、その視えない状態で、これからの生活を考えていく、これが順番なんだよ。じゃ、なぜ我々の周りで病気を治すように強いるのか。それは身体の障害や、知的の障害のように、社会一般からの理解がまだ十分には得られてないし。それ故、われわれの障害者としての地位だって、まだまだ確立していないからなんだと私は思う。いいか。物を知らない連中に言わせておけば、まるで俺達が怠けてるせいだと見てるんだ。要は、世間は無知なんだ。このまま黙っていたら、勘違いしてる連中の思い違いは、いつまで経とうが、ずっと正される日が来ないままに続くだけなんだ。それだからこそ、ここは声を大にして、われわれが病気としての治療を、どれだけ万全に受けてみたとしても。これは病気として完治させられるような問題じゃないと訴えていかないと、経験をしない世間としては知りようがない。治療を受けた後でも不自由や不具合が残り続ける訳だから、この「統合失調症」には「重度かつ継続」という括りで認め方をされてるのさ。だが、そこをだな。自分たちにとって不利益な烙印の意味に受け取る必要はないからな。そこはむしろ逆なんだ。そういう障害だという認め方をされてるのは、この場合に生じた自分たちの不都合に関しても、障害の範囲において権利が主張できる拠り所だと、そう胸を張り心得ていればいい。誰だって、わざわざ自分から好んで自ら障害者になる意味じゃないさ。言うなれば、世の中とは持ち回りなのさ。自分では望んでいなくても、誰かは短命を引き受けているんだし。他の誰かは、別の役回りが巡ってくるんだよ。この場合は、たまたま自分たちに精神の障害という役割りが来る順番だったのさ。だからこそ、将来また別の仲間が同じクジを引いたときにも、少しでも仲間を困らせないよう、今の自分たちが果たすべき役割りが、ここに付いて回ってくる。そこ忘れちゃだめだぞ。自分が泣けば済むじゃ、ぜんぜん良くないんだ。泣くのは俺達だけじゃない。あとから続く奴らにも苦痛を残したままにするか、それとも予め少しでも助けておいてやれるかは、これはある意味われわれ次第なんだ。その意味で、引き受けた人間には、自然とそこには仕事が出来るんだ。それだから、一人で泣かされてたんじゃ、いかんぞ。仲間と手を取り合って、これが使命なんだと知るべきさ。たまたまそういう時代なんだ。今のような、こうした社会があるのは。いいな。病気だって言われて、ああそうですか。じゃないんだぞ。病気でも、これは治らないから障害なんで。障害だから、不都合が重なる問題だという事実に関しては、知らない連中に教えてやらなきゃならん。知ってる立場、経験した人間の役割り。そういう真実がここにはあるのさ。そこを知れば、俺達が働くに力量不足な能力足らずだなんてトンデモナ誤認なんだぞ。俺達じゃないと、伝えられない、発信できない、そういう重要な経験を、ここには孕んでいる意味なんだから。それを無事に産み残せるかどうかというのは重責な大事業に違いない。それがわかったら、涙なんか流してないで、明日から仕事だ。昨日までの苦労が何だったのか。今の今、今日こうしてわかったんだから。さあ、心して取りかかろうじゃないか。われわれが引き受けた仕事を。最後に付け足しておくが、われわれは間違ってもコソコソとしないことだ。病気や障害が間違っているんじゃないんだぞ。それを正確には把握もしないで、全くの非常識な受け止め方を、常識だと吹き込まれて、勘違いしたまんま信じる世間が迂闊なんだ。だが。われわれは本当のことを知ってる。実際に経験をして来ているんだ。だから間違いには道を譲る必要はない。知らないのに、いつまでも間違った情報を真に受ける社会こそが恥だろ。われわれも社会の成員なんだから、何が間違いなのか伝えるのも、われわれの役目で仕事だ。勘違いの片棒をわれわれが一緒になって担ぐわけにいかん。だから人目を憚るみたいにコソコソとは、したりしないことだ。