前置きが、うっとうしい人は、飛ばして《本題》から読んでください。
私としては『この状態は<病気>じゃなくて、<障害>の問題ですから』
というのを持論にしています。なので、ここに記した内容についても、
単に「病気の養生」というよりは、ある種「生活の工夫」みたいな、
そうした観点から述べていきたいところでもあります。
そんなつもりで書いたのだと、そう読み替えをして頂けると幸いです。
先週末も家族会に行ったり、今日は訪問看護師さんが来たりで、
そうした場面で、いろいろと感じることがあります。
また、今日は、自分の奥さんに話したい内容があって、
ただ、それは相手の娘だから、継父の私からツベコベ言われるのは、
ハッキリ言って好まれないし、疎ましそうな顔もされる。
それなら、ここに書いてみようかなと考えたのです。
(補足すると、私が参加している家族会とは、
これは連れ子が病気・障害本人で、私としては家族の一員であり、
同時に病気障害・当事者の参加についても拒まない家族会であり。
訪問看護は、私が利用者で、同時に娘のところにも訪問してくださいます)
《本題》ここから、
今日ここで触れてみようかと考えたのは、
「ひきこもり」状態にあるのようなひとに、ありがちな側面に関してです。
ついつい何をするのも「オックウ」に感じてしまい、
そこにもし選択肢があったら、やらない方を選びがち。
だったりする件に関して、私なりに気付いている事柄があって、
それを書こうと思った次第です。
それは、われわれのように薬を服用する場合、自分で気が付く以上に、
物事への取り掛かりを、気の重さとして感じていたりします。
それは、ある部分、仕方のない面もあります。
というのも、クスリは、病気が激しくなるのを抑えたり、
また症状を和らげたりするのが期待されて、用いている訳ですが。
これは効いていると同時に、病気に対して選択的に働くかといえば、
そうそう都合よくは問屋が卸してくれない事情があります。
実は、効かなくても構わない、いや、効いてくれたら困る部分にも、
同じように働きかけるのが、薬の持つ効き方でもあります。
結果、どうなるかといえば、悩まなかったり、困らなかったりするのと、
おなじように、動きたくなくなるし、意欲は感じなくなるのです。
もちろん、これは程度の問題です。最低限の使用量に近づくほど、
その場合、行動のやり難さについても減らすのは可能です。
ただ、効いてる限りは、支障となる可能性もゼロには出来ない。
薬がダメなんじゃないですよ。症状的な具合があまりに悪いと、
今度はそのせいで思うような生活は、ままならなくなります。
基本的に、本人としては薬を使いながらの生活をしているのです。
その分、周囲から配慮やサポートをしてやれないと、困る場合が起きる。
上手に促してやり、いわば呼び水的な助け舟を出すような関わりです。
ただ口で言うのは簡単でも、それを家族の関係内で、声を掛ければ、
自立をしていく年頃の子供たちに対して、相反する応対になってみたり。
声を掛ける側が、全てを自分の頭の中だけで引き受けたりするから、
それでヤヤコシいことになるのです。相手は幼児じゃないです。
どういう意味合いで、こちらとしては何を言いたくて伝えているのかを、
その手の内を打ち明けてしまえば、かえって通じやすくなる筈で、
こうした内容についても、お互いの間で事前に了解を取り交わしておいたり、
その上で確認をしあいながらであれば、まだ方法があるのかなと思う。
そうした意味で、本人の側にも、いまの自分の病気や障害について、
また、そこから来る問題との付き合い方に関してもなのですが。
これらについて、自分なりに学んでいこうとする姿勢を持つことが、
これから是非必要になるんだろうなと思います。
自分の病気に関して、いつまでも自分がお客さんのままでは、
いずれ手も足も出せないような目にあうのは避けられないでしょう。
自分の病気は、自分の工夫で考え、試しながら、処していくような生き方。
自分の病気・障害について、自分の問題として受け止められる自覚。
もし、そこで困れば、誰かに自分から教わりにいく立場になれること。
それを行うには第三者からの助けを借りられないような人では困ります。
手を借りる自分が、支援者の力が活かせる才覚を持たないと適わない。
もし家族が、他人に知られちゃ不味い「病気」だなんて頭で付き合ってたら、
その人は、自分から人に病気のことで相談するなんて出来るはずないです。
また横から、助け船が出してもらえる場所では身に付かないことですよね。
自分で困ることを味わって。失敗して不味かったなと気付ける場面だし。
一言でいえば、楽にいくような出来事だけで、身に着くはずもない。
家族にすれば、可哀そうにと感じることもありますし。
見ていられないから、手を貸してしまうのも無理もない。
ただ、家族が尻拭いをしていれば、本人が学ぶ機会にはなりません。
可愛い子には旅をさせろというのは、ここでも同じことなのです。
そうなんです。目の前にいて、くっ付いているから手を貸す。
でも目の前にいて、手も貸さないし、知らないと見放せば、
それはそれで、相手を傷つけることになる。
いい距離感を持つのが、やはり大事なことなんだと思う。
横目で見ながら、本人以上に一喜一憂をしていれば、
この場合は、本人の自立を、その傍で切り崩していくような関係だし、
なんか説教めいてきましたから、少し戻します。
薬を使いながらで生活している場合に、
本人は、ある部分で、毎日を生き生きと楽しむというより、
もう少し、物事から距離を取るような面持ちで周囲と接しています。
その隔たりの分だけ、病的な部分にも引っ張られない代わりに、
それは面白そうだなあ、楽しんでみたいなあ、という気持ちも、
何かピンと来ないのですから、興味を持って気持ちがそそられるというより、
わざわざ面倒臭いよとか、そんなのしてみても仕方がないから、
そういう気分が、知らず知らずでベースになって来ていたりします。
ですから、長い目で見て、調子がいいときは、
なるべく服薬量を減らしていく工夫であるとか。
またこれは病気の症状がどうだとか、こうだとか、が主題ではないのです。
症状を消すのを狙った取り組みで、それを極めていく仕事でもありません。
そこがゴールではなく、今から生活を立て直そうというのがテーマです。
自分自身の生き方が問われており、それを見詰め直すというのが眼目です。
その目標こそが、自分の目指すべき方向だと受け止められるような、
そういう暮らし向きの在り方を、身に着けていくのが大切になります。
目標の据え直しを、緊急な課題とすべきかもですよね。
一朝一夕には行かないことです。
それは家族の側だって、もう一度、別の意味で覚悟を入れ直すべきで、
散々、子供の病気に振り回されてきたから、
もう問題さえ起こしてくれなかったら、今のままでいいんだ、
これについては、いまこそ再考をしておかないと、
すべての場合に、誰の上にも8050問題という
ブーメランが返ってきます。
でも、もしそれを分かっていても、自分には出来ませんというのなら、
その場合に、不健康で、その不健康さの問題が起きているのは、
何もそれは、お子さんだけではなくて、ご自身をも侵されているという。
これはまさに、そういう意味で、
「病気」を「治す」かどうかというよりも、
それは「健康さ」の問題が、そこにある核心なのだと気付くべきです。
「病気」という姿で現れているのは、生き方が問われている象徴なのです。
「治療」で応じるだけの話に聞いていると、仕事にすべき内容が縮み過ぎる。
何を相手にした作業が控えているのかで、的外れなシクジリで終わります。
いかに生きるか、そこを豊かにする機会が、ここまで訪れて来ているのです。
それが、そこに表れた中身の正体なんですから。
つまり、人生を賭けるだけの大仕事が、いまここにあることです。
これは目を覚まさないとね。
要は、「障害」があるひとも、とくに「障害」がないときも、
誰の場合でも、等しく、その人なりに自分の「人生」を活きるというお話。
じゃ、また。お元気で。