いま、そこに、あなたが、あるのは

誰も『苦労』はひとそれぞれ。しかもすべて自分のオリジナル。つまり人間の数だけ誰にもみんな役目と役割りあって生まれてる

養生のこと また健康について(少し長いです)

2020年09月17日 | 闘病





前置きが、うっとうしい人は、飛ばして《本題》から読んでください。

私としては『この状態は<病気>じゃなくて、<障害>の問題ですから』

というのを持論にしています。なので、ここに記した内容についても、

単に「病気の養生」というよりは、ある種「生活の工夫」みたいな、

そうした観点から述べていきたいところでもあります。

そんなつもりで書いたのだと、そう読み替えをして頂けると幸いです。




先週末も家族会に行ったり、今日は訪問看護師さんが来たりで、

そうした場面で、いろいろと感じることがあります。

また、今日は、自分の奥さんに話したい内容があって、

ただ、それは相手の娘だから、継父の私からツベコベ言われるのは、

ハッキリ言って好まれないし、疎ましそうな顔もされる。

それなら、ここに書いてみようかなと考えたのです。

(補足すると、私が参加している家族会とは、

これは連れ子が病気・障害本人で、私としては家族の一員であり、

同時に病気障害・当事者の参加についても拒まない家族会であり。

訪問看護は、私が利用者で、同時に娘のところにも訪問してくださいます)




《本題》ここから、

今日ここで触れてみようかと考えたのは、

「ひきこもり」状態にあるのようなひとに、ありがちな側面に関してです。

ついつい何をするのも「オックウ」に感じてしまい、

そこにもし選択肢があったら、やらない方を選びがち。

だったりする件に関して、私なりに気付いている事柄があって、

それを書こうと思った次第です。




それは、われわれのように薬を服用する場合、自分で気が付く以上に、

物事への取り掛かりを、気の重さとして感じていたりします。

それは、ある部分、仕方のない面もあります。

というのも、クスリは、病気が激しくなるのを抑えたり、

また症状を和らげたりするのが期待されて、用いている訳ですが。

これは効いていると同時に、病気に対して選択的に働くかといえば、

そうそう都合よくは問屋が卸してくれない事情があります。

実は、効かなくても構わない、いや、効いてくれたら困る部分にも、

同じように働きかけるのが、薬の持つ効き方でもあります。

結果、どうなるかといえば、悩まなかったり、困らなかったりするのと、

おなじように、動きたくなくなるし、意欲は感じなくなるのです。

もちろん、これは程度の問題です。最低限の使用量に近づくほど、

その場合、行動のやり難さについても減らすのは可能です。

ただ、効いてる限りは、支障となる可能性もゼロには出来ない。

薬がダメなんじゃないですよ。症状的な具合があまりに悪いと、

今度はそのせいで思うような生活は、ままならなくなります。




基本的に、本人としては薬を使いながらの生活をしているのです。

その分、周囲から配慮やサポートをしてやれないと、困る場合が起きる。

上手に促してやり、いわば呼び水的な助け舟を出すような関わりです。

ただ口で言うのは簡単でも、それを家族の関係内で、声を掛ければ、

自立をしていく年頃の子供たちに対して、相反する応対になってみたり。

声を掛ける側が、全てを自分の頭の中だけで引き受けたりするから、

それでヤヤコシいことになるのです。相手は幼児じゃないです。

どういう意味合いで、こちらとしては何を言いたくて伝えているのかを、

その手の内を打ち明けてしまえば、かえって通じやすくなる筈で、

こうした内容についても、お互いの間で事前に了解を取り交わしておいたり、

その上で確認をしあいながらであれば、まだ方法があるのかなと思う。




そうした意味で、本人の側にも、いまの自分の病気や障害について、

また、そこから来る問題との付き合い方に関してもなのですが。

これらについて、自分なりに学んでいこうとする姿勢を持つことが、

これから是非必要になるんだろうなと思います。

自分の病気に関して、いつまでも自分がお客さんのままでは、

いずれ手も足も出せないような目にあうのは避けられないでしょう。




自分の病気は、自分の工夫で考え、試しながら、処していくような生き方。

自分の病気・障害について、自分の問題として受け止められる自覚。

もし、そこで困れば、誰かに自分から教わりにいく立場になれること。

それを行うには第三者からの助けを借りられないような人では困ります。

手を借りる自分が、支援者の力が活かせる才覚を持たないと適わない。

もし家族が、他人に知られちゃ不味い「病気」だなんて頭で付き合ってたら、

その人は、自分から人に病気のことで相談するなんて出来るはずないです。




また横から、助け船が出してもらえる場所では身に付かないことですよね。

自分で困ることを味わって。失敗して不味かったなと気付ける場面だし。

一言でいえば、楽にいくような出来事だけで、身に着くはずもない。

家族にすれば、可哀そうにと感じることもありますし。

見ていられないから、手を貸してしまうのも無理もない。

ただ、家族が尻拭いをしていれば、本人が学ぶ機会にはなりません。

可愛い子には旅をさせろというのは、ここでも同じことなのです。

そうなんです。目の前にいて、くっ付いているから手を貸す。

でも目の前にいて、手も貸さないし、知らないと見放せば、

それはそれで、相手を傷つけることになる。

いい距離感を持つのが、やはり大事なことなんだと思う。

横目で見ながら、本人以上に一喜一憂をしていれば、

この場合は、本人の自立を、その傍で切り崩していくような関係だし、

なんか説教めいてきましたから、少し戻します。




薬を使いながらで生活している場合に、

本人は、ある部分で、毎日を生き生きと楽しむというより、

もう少し、物事から距離を取るような面持ちで周囲と接しています。

その隔たりの分だけ、病的な部分にも引っ張られない代わりに、

それは面白そうだなあ、楽しんでみたいなあ、という気持ちも、

何かピンと来ないのですから、興味を持って気持ちがそそられるというより、

わざわざ面倒臭いよとか、そんなのしてみても仕方がないから、

そういう気分が、知らず知らずでベースになって来ていたりします。

ですから、長い目で見て、調子がいいときは、

なるべく服薬量を減らしていく工夫であるとか。




またこれは病気の症状がどうだとか、こうだとか、が主題ではないのです。

症状を消すのを狙った取り組みで、それを極めていく仕事でもありません。

そこがゴールではなく、今から生活を立て直そうというのがテーマです。

自分自身の生き方が問われており、それを見詰め直すというのが眼目です。

その目標こそが、自分の目指すべき方向だと受け止められるような、

そういう暮らし向きの在り方を、身に着けていくのが大切になります。

目標の据え直しを、緊急な課題とすべきかもですよね。

一朝一夕には行かないことです。

それは家族の側だって、もう一度、別の意味で覚悟を入れ直すべきで、

散々、子供の病気に振り回されてきたから、

もう問題さえ起こしてくれなかったら、今のままでいいんだ、

これについては、いまこそ再考をしておかないと、

すべての場合に、誰の上にも8050問題という

ブーメランが返ってきます。

でも、もしそれを分かっていても、自分には出来ませんというのなら、

その場合に、不健康で、その不健康さの問題が起きているのは、

何もそれは、お子さんだけではなくて、ご自身をも侵されているという。




これはまさに、そういう意味で、

「病気」を「治す」かどうかというよりも、

それは「健康さ」の問題が、そこにある核心なのだと気付くべきです。

「病気」という姿で現れているのは、生き方が問われている象徴なのです。

「治療」で応じるだけの話に聞いていると、仕事にすべき内容が縮み過ぎる。

何を相手にした作業が控えているのかで、的外れなシクジリで終わります。

いかに生きるか、そこを豊かにする機会が、ここまで訪れて来ているのです。

それが、そこに表れた中身の正体なんですから。

つまり、人生を賭けるだけの大仕事が、いまここにあることです。




これは目を覚まさないとね。

要は、「障害」があるひとも、とくに「障害」がないときも、

誰の場合でも、等しく、その人なりに自分の「人生」を活きるというお話。




じゃ、また。お元気で。












そもそも「病んでる」とか、「病んでいない」とは違うんだよ

2020年09月13日 | 闘病




つまり、病気があるので、オカシクなったと思っていたら大間違いだ。

その時代、その社会ごとで、何がオカシイか。この基準自体が動くわけ、

何を治さなきゃいけないか。どれは放っておいても構わない問題か。

その物事の捉え方の尺度が、まずもって融通無碍な決まり方なんだ。

表現を変えれば、同じ状態を、病気と呼ぶし、病気じゃないとも言うしで、

つまり、治すべき状態か、治すような問題がないか。これすらが御都合さ。

なのに、それを何より優先で絶対とは、端的に言って権威主義の権化だもん。

いかなる権威だろうとも、その判断で誰か一個人の人生が左右されては、

これは人権上、由々しき問題だし、聞き捨てにはできない。

本人の側にすりゃ、人権の蹂躙は自分から認める訳にいかなくて当然だ。

その意味で、宣告を受け入れずに否定するのも無理はない。

どんな犯罪者の裁判も、弁護士をつける権利があるのと同様のことかな。

だって、国家権力と一個人の力関係を考えたら、擁護すべきは個人でしょ。

とはいえ、真っ向から挑んで、勝ち目の公算極めて低いの間違いないし。

本気で勝ちたいと思えば、そこで玉砕してては命捨てるだけで、

闘うなら、それなりに戦略がないと、ドブに捨てるよりも明らかな御破算。

頑固な頭でいれば失敗するからね。譲れるところは飲んだほうが賢い。

少なくとも、自分にも、周囲にも、そこに困りごとがない限り、

何か問題ありという件で、自分の咎が問われる話は持ち上がらないよね。

冒頭に書いたの読んでくれたでしょ。これは「病気」の意味とは違うんだ。

わかりやすく言えば、「健康さ」の度合いに関した内容なんだ。

例えば「健康な」食生活というのは、イコール病気の話と言えないことで。

また、知的障害が治療で治す問題と違うのは常識の範囲だけど。

それだけど都合上、いま「病気」という言い方にされている訳だけども。

だから、これは「治療」の成否ということで解決はしない問題だし。

なぜなら、世の都合で「病気」呼ばわりにはされているが、

どう考えても「治す・治さない」に属するような事象でないからさ。

最初から「治そう」とする側に、目的を成就する能力が有り得ない。

向こうに「治せる」力なんて持てないし、仮にこっちも「治され」たとして、

それで自分の何かを変えられてしまうとか、その心配も不要なんだ。

それでも気にしてしまうのは、いま自分の「健康さ」が危ういからなんだよ。

そこの「健康さ」という面の問題がある。周りが恐れてるのもそれだから。

自分が困っているのも、その「健康さ」の度合いを発揮する仕方なんで、

「病気」を「治す」図式に見るから、一層「健康さ」が盲点になってしまう。

でも「病気」を「治す・治さない」は取りあえず、脇に置いていい。

在る無しで言えば、「病気」は、そこには無いんだから。

そこに在るのは「不健康さ」で、

しかもそれは、或る無しというより、むしろ程度とか頻度とかそっちだよ。

より一層「健康さ」を充実させていくかどうか、そういう取り組みなんだ。

「治す・治さない」には、「治った・治せてない」という結果があるんだが。

「健康さ」の度合いが高まるかどうかとは、ずうっと連続した話だよ。

「健康」と「不健康」の二分は便宜的だ。それでは読み間違えをしている。

より「健康」か、より「不健康」か、という言葉が端折られた表現さ。

「病気」を「治す・治さない」という構えで挑む事柄ではなくて、

いかにして、「健康さ」を求めるかで、考えてもらうほうが、

最終的な成果物として、手中に入るモノを得やすいのは間違いないね。

また付け加えて、どういうのが「健康」、何が「不健康」、というのは、

これは、きっと各々で、見付けられるものや、見付かるものが、

その時々で、相当に違う形になると、そんな想像もしています。

でも、そのときに感じた自分の「健康さ」という見当で探したらいいと思う。

その方が、体験も背景も異なる人間が助言するより、自分が納得すると思う。

そう、納得というのが大事だからね。腑に落ちるかどうか。

判断の基準は、そこに求めた方が、所期の目的は達成されると信じるべき。

いろいろ迷うときは、迷うもので、それは、そういう時期があるもので、

でも、迷ったから、捨てる、諦めるよりは、探すからこそ見付かるものだし、

自分の探しているものが、案外と近くの目の前にあるとか、それもあるよ。

ただ、見ていても、それが見えているか、見えていないか、というのが、

目に入っても、気に留めてるか、留めてないか、だったりするので。

そこに気が付いてるか、それとも気が付いてないか、という。

まあ、探して見付かった、というのは、そんな世界だったりもするから。




さてと、随分涼しくなりました。今日は読書三昧させてもらってます。デハ




再発は忘れた時でも、やって来る。或いは病気・障碍と言うのは一生モノなので、大事に付き合ってこその価値ですから。(その8)

2020年08月25日 | 闘病



さてさて、このところ連載を続けてきた内容も、

今回で、そろそろ、その大詰めを迎えかけているようです。




過日、私がクリニックの診察室で、ドクターから言われた言葉、

「私は自分の奥さんのことを独占しようとしている」

という部分に関して、どうしても解せない謎があるのです。



そこの気持ちについてですけどね、ホント不思議なことに、

私は、これを自分の「気持ち」だとか「思い」の上においてですね。

未だかつて、それを自分の「感情」の中で自覚をした経験がない。



どう考えても、これについては気持ちの上で感じるような事柄です。

だから指摘をされたら、人間には当然あるような気持ち、と理解する。

だけども、これを自分の中では、スルーしたみたいに何も感じてない。



そして、これが「感情」や「願い」として、私の気持ちへ湧く代りにです。

そうした場面に遭遇した私が、反射的に取る行動というのが、

例の、あの訳も分からず暴れ出し、物でも破壊してみたりする。



感情というよりも発作的な状態へと自分が襲われてしまっている。

一体これは何のことでしょうか。わが事ながら「意味不明」です。

どう考えても、自分でも「何でそうなるの????」ですからね。



うちのクルマのナビシートで妙だなあと、私は首を捻りながら、

何となく耳に残っていたのは、ドクターが原因や理由を探すよりも、

これからの事をどうするか、そういう言葉を口にしていたことです。



これは確かに、その通りなのです。多くの人が、そこで間違うけど。

何かに対処するというのは、すべて同じにそういう意味ですから。

どこかで何かの事故でも起きるでしょ、それで原因究明するのは、

次の災難を回避できたら儲けもの、だから、そうする場合があっても、

今もう既に起きてしまった事故が、取り消しに出来るからじゃない。

ほかの人まで、同じことに巻き込まれるとか、それが避けられたら、

避けられた方が、やはり得策なので、それが事故後の時点で

何故そうなったかを調べてみたりする取り組みであったりするのです。

だから、極論、誰かの責任を問うことで、解決するのかといえば

そういう中身とは、そもそもが違う意味ですよね。いいですか、

仮に、そこでの責任の所在を明らかにできたつもりになれて、

そう感じても、残念だが発生後の事故は、もはや非可逆的事象です。

どんなに拘っても、悔やんでも、時計の巻き戻しは出来ません。



事故になぞらえてみましたが、病気や障害も同じなのだと考えてほしい。

何故ここで命を落とす結果で、病気にピリオドが打たれたか。

あるいは、あの時、これこれ何々しなければ、起きなかった。

確かに、そういう状況であっても、現実そうなった以上は、

そうなったことを踏まえて、次に備えるのが取り組みなのです。

ただ、理由を知るのは、今まさに自分の背景がどうだったかを、

これに気が付くという大事な役目を果たすことはあります。

あるけれど、責任というものは、常に自分から負うべきものです。

誰かに擦り付けたら、自分には免罪符にできる、これはない。

それをしたら真に無責任な行為をしていると知るべきだと思う。

何故かといえば、ひとは失敗をするし、間違いもする、これは

自分だって例外じゃないからです。何々は誰々のせいだを言うと、

あなたは別件で、ほかの人から、貴方のせいを言われますよ。

自分に責任がないというのは、自分から口にしていい言葉じゃない。



病気や障害をしているというのは、まさに自分の実人生の上ですよね。

誰か別の責任者が、あなたに代行して人生を活きるはありませんから。

たとえ自分が何事を被ろうとも、それを引き受けるのは自分だけなのです。

養生するのも闘病するのも、誰かに手を借りるというのは大事だけど、

そこで本人以外が、その人の人生を負えるのかといえば不可能。

その意味では、専門に関わる立場の人だって、傍らにしか居られません。

これこそ誰もが自分の命によって、自分の人生を活きているということです。



さて、そういう意味でこれから記す内容を読んでいただきたいのだが、

紙面の都合で、続きは繰り延べにして投稿することにします。



毎度、お待たせで長々と書いてしまっていますが、

まあ、もしも続きを楽しみにしていただけるのなら、

それは取っておくというのも、楽しみ方の一つでもあります。



ではね。また伺います。




本日、読了しました。

2020年08月24日 | 闘病



市立図書館で借りてきた本です。

書名「こころの病を生きる」

副題「統合失調症患者と精神科医師の往復書簡」

佐野卓志、三好典彦=共著

出版:中央法規

著者の佐野さんとは、以前に某SNS上で知り合って、

作業所の通信である「ムゲン・ニュース」を送って頂いてました。

当方が、現在の住所地に転居してから、やり取りが途絶えております。

お元気にしていらっしゃるでしょうか。

図書館の棚に見付けて、思わず借りてきて読ませていただきました。

その昔、九州大学病院に入院されてたそうで、

何の御縁か、今の自分は福岡県民になっています。

私みたいに経験のある人間は、読んでいて、とてもよく分った。

興味のある方は、ぜひお手に取られることを、お勧めします。




いろいろあるのは歓迎しよう

2019年11月06日 | 闘病



朝晩は寒いくらいの季節になりましたが、読者の皆様はお元気にお過ごしでしょうか。



我が家にしばらく居候していたワンコ君、また妻の長女のところに引き取られ生活するようになりました。お約束の犬の散歩についても、まだ母親に見守られながら同道してもらう条件の下ではあるけれど。娘は自分でワンコを連れ出して、近所を散歩で一緒に歩いてみたりと、そんな暮らしを始め出しています。



ただですね。そもそも私が子供へ言葉を掛けてみたのは、何も、犬を飼うなら、そこは義務や責任を含んで果たすべきだみたいな、そんなつもりで言おうとしたはずじゃなかったのですが。だけども、どうも子供の耳には、そこの意味もニュアンスも伝わらなかったらしいのです。だから、丸で何だか自分の負担を率先して自分から積み上げてしまうみたいな、とってもキツそうな取り組み方をしているみたいなんですよ。傍で私からうかがっていても非常にシンドイ思いをしながら頑張っている様子なんです。



でもこれはですね、われわれのような人間には、極めて望ましくないスタンスに陥っていることですからねえ。無理して自分を駆り立てて克己するような生き方、これをまず最初に卒業できてないと不味い関門なんです。

世間のモノを知らない阿呆どもは、病人というのは結局これらは怠けているから駄目なんで、だから厳しく律すれば、それで治せることだと、真顔をして平気で口にするような大バカどもがいます。

だけどこれは本来あってしかるべき態度とは、まったくの正反対な間違っている理解と接し方なんです。言うならばですよ、出来ないのを無理までしてゴリ押しになっているから、それで折れてしまうんだよという話ですからねえ。

そういうのが本質にあるから、こういう場合に自分のやり方で、なかなか対処がしきれなかった←ということはですよ。まずもって、これは、その方法からして、どっかが不味いからでないのかい、と疑うべきところなんです。

そこで知恵と(自分の工夫で足りなければ他の人から知恵を借りること含めて)手段を切り替えてみて、もっと別の違った工夫がないかを探すという局面であったはずなのに、これが凡そ下手クソだから、それでギアチェンジをしないで突っ込むから、これで結局は出来ないまま抱え込んでしまった。という状況にあることなんです。


(この性質は、家族についても同様なところがありまして。だから身に余って凡そ無理なのに、こうした問題は家族があたる事柄だからと世間に押し付けられると、できないのにやろうとする。本当の責任を果たすとは、出来ることと、出来ないことに、まずキチンとした判断が下せることですよ。もし無理を認めたなら、降参して、この当該問題の依頼先である世間に対し、この課題は非常に難題でして、自分たちには解決することができないような大事業でした、ついては別途ここには助けが要りますので援助を求めますのSOSを発信していく必要があるはずなんです。この場合、まずはそれを行うことこそが責務です。知らない世間としては任せたよと投げてはきます。投げてはきますが。でも、こちらが黙ったままでいれば、そこでシッカリと情報が返されて来ない限りは、再度こちらへは振り向かないだろうし、振り向けない、振り向く契機というのが持てません。それを振り返らせる仕事というのはですね。引き受けを託された側からするような作業です。これって筋でしょ?だから、まず世間は冷たいから云々とかいう前にですね。そこの部分を、この相手方に対し、自分たちは分かりやすい訴え方を出来ていたのかなと、ちょっと考えてみてもいいと思うんだよね。)


問題を抱え込んでいても、まだ頑張ろうとモガクから、ますますドツボに嵌まり込んだ状態に至る。端的には、これこそが、病気・障害の人間が捕まってしまう生き難さ・生きづらさなのでしょう。

ここから脱出するためには、まず最初に力み過ぎになる癖を一刻も早く緩めて、要らない力が入ってしまう習慣を早々に終わらせておく、そこから始めないとね。これ怠ってると、少し良くなっても繰り返しますから。

頑張って乗り切れるというのは、対症療法ですから、本当には解決していない。

でも頑張りすぎないという第三の手段が身につけられると、これは根治療法的な対処になる方向です。

もしこの人が、本当に無理することを卒業できていたら、同じ頑張りすぎ式の再発については、かなりの高率で避けられるようになることです。

その意味で、ここへ差し掛かっても、それで別の生き方とかを編み出さないでいても、目前の症状についてだけなら、ある程度は抑えるのも可能なんだよという「クスリ」による手段で解決をさせたものというのは、根治的な発想に関しては、ほとんど何もしていないのに近いですから。

結局、「クスリによって治った」というのは、飲み続けるという限定された条件を満たさないと「治る」は、履行をされない意味なんでしょうね。



もう私は代謝が低下する年齢ですし。
今は差し迫った具合の悪さから猶予されてる時期なんで、今の間にチビチビとお薬の減量を続けている最中です。



自分のところの子供には、先般の声かけが誤解されていたようだから、私の真意はもっと違うところにあって、これこれしかじかという具合に考えてるんだよ、と書き記した手紙を綴り自分の奥さんに渡してくれと託してあります。



また、後日どうなったか、報告させていただきますね。ではでは