某放送局の制作によって「ひきこもり」にまつわる事件を取り上げるかたちで、それをルポルタージュの形式にまとめた番組にして、TVで放映されたものがありました。本放送は昨年冬でしたが、これを録画しディスクにしたものを、家族が知人に貸してもらったので、私も一緒に視聴する機会がありました。
そこには支援が不十分で、本人の衰弱死という結果があったのですが。これが何ともはや真正直にというか、「あっけらかん」とでも言いたくなるような映し出され方にされており、こういう表現は番組のあり方としても、その適切性を疑いたくなるし。また報道の自由という観点から、何か物を言うつもりなら、そこは自ずと義務と責任の両輪を踏まえてしかるべきですが。これは、それすら履き違えた野放図な取り上げ方と叱られてもしょうがないような配慮のなさも感じました。
ただ、陰口を文言にし、ここへ長々書き連ねてみたところで仕方ないことで。
私の手で、ここへ記そうと思うのは、おそらく多くの人が番組を見ながらも、ほぼ見落としたであろうことを、私なりの視点から書いてみることにします。
なので、今回ここに、こんな書き出しで、こう取り上げてみた次第でありますが。
そういう訳ですから、早速そちらの本題へと、まずは内容を転じようと思います。
どうか、しばらくの間、私の話にお付き合いください。
顕著に、あの放送のなかにも、伺える「あるもの」なんですが。
それは、意外と多くの人々が、「このこと」について考えずに、物事の組み立てをしようとする、あるひとつの「忘れ事」に関した部分についてなんです。
こんな持って回った言い方で中身が通じるはずもありませんから、具体例にしてお伝えしてみることにします。
例えば、ちょっと外出してお昼休みの食事にでも出るときを想像してみてください。
今日は、どこそこの「うどん屋」へ行って昼飯にしようと思ったとします。
もし、行ってみて休みであったら、別の考えが必要になるのは言うまでもありません。仮に休業日だったら、コンビニで買い物をしてこようというのもありです。
でも、そこをウッカリ代りになる案を持たずに遂行していたとしたら、これは下手すれば食事をし損ねる話になるのも見えていることです。
というか、どこで何を食べるかよりも、いかに昼食を入手するか、こちらの方こそ、この場合の核心になる部分のはずです。
もし遠くに出かけるとして、開いているか開いていないかを確かめる方法もなければ、また別の店なんかが周辺にないようなポツンと山中に一軒だけあるお店だったら、これはどういう結末になるでしょうか。
喰いはぐれるだけじゃなくて、空腹で動けなくなって、山の中で遭難しかけることになる危険さえ隣り合わせかも知れないですよね。
どんなことでもそうですが、もし仮に計画通りにいかなくても、その場合は、どうすれば困らないで済むのか。そういった下準備というか、ひとつの含みは常に用意をしておかないと不味いことになる場合は、よくあるものです。
何か商売の上で投機を考えたときでも、狙い通りなら儲かるはずだというのは当たり前だとしても。狙ったことが目算通りに行かない状況も視野に入れておかなければ、遠からず事業は失敗、立ち行かなくなるに違いありません。
上手くいけば儲かるから、だけで考えていたら博打打ちと同じくで、いつかはスッテンテンに身包み剥がれて借金まで抱えることになる意味です。
端的にはリスクの管理のようでもあるが、でもただそれだけではない。つまり、狙ってみるというのがチャレンジとして間違いだとは思いません。ただそこは、すべての事柄について、後先考えない捨て身のような一か八か式だけで決めていけば、それが思うように叶うことならいいとして、そいつが望み通りにはいかない場合も、そのときはコレコレシカジカにしておくという。これはどこかに必ず怠りなく備えをしておかないと、それは迂闊にすぎる人生設計でしかありません。
また、自分の努力でどうにかしようというのだって、一定のノウハウの持ち合わせがあって、はじめて実行ができるのであり、どうしていいかが皆目これを自分で分からない人なのに、それを頑張ればどうにかなるというのは、乱暴すぎた頭の使い方です。
そんな飛躍した論法によって世渡りができるほど、現実というのは絵空事の中にあるお話ではないですから。これでは直に息詰まるに違いないのも目に見えています。
つまりそこなんです。誰のどんなことであれ、何かに挑んでみようというのは、必ずそれは、できなかった場合も、見え隠れしつつ付いてまわるということなんですから。
頑張って試験を受けてみようと、この話と表裏一体にくっ着いてくるというのは、だから合格した場合は、こうなります、と同時に、不合格の場合は、こういう対処にしよう、それを考えおかなければ手抜かりです。
ここには、そういった少なくとも二つの面のいずれかが、すぐこれから出てくる、そうした可能性の分岐路にいるんだ。その状況にあるぞと、これが、こうしたことに認めうる局面なのです。
成功を夢見て何かを企てようというのも、成功に結び付かなかったら、その場合どこに繋げていけばいいのか。といった具合に、必ずそれは、こういった物事に着いて来ていて切り離しようがない、現実の事柄の持ち合わせた中身だということです。
でもなぜか、ひとは叶った場合は、どうなるけれど、もうただただこれのみで、これだけを頼りに、多くの計画を平気な顔してやってしまう。そういうのが、意外とあったりしますよね。
クルマで行けば、早いし、楽だよ。けれど状況次第では、不測の出来事にも遭遇をするのです。それを頭のどこかに間違いなく用意しているかどうかなのです。
ゲームやスポーツなら万が一に賭けて思い切って楽しみを爆発させてみるのも面白いかもしれません。でもホンコの実人生を、そんな使い方をしていたのでは命がいくつあっても足りません。
もし一か八かに賭けて挑んでみて、悪くすれば、それで破産をしてしまうというのであれば、これはもはや遊びとか遊興の範囲なんかじゃないんですから。それは、れっきとした博打も博打の紛れもない大博打な賭け事に当てはまることなのです。それを口先で言いくるめるなんて、現実の社会の性質上これは通用しません。
まあ、ともかく物事これから何かしてみよう、そういう場合に、これは、それが出来たという状況と、できなかったという状況と、必ずどっちか間違いなくやってきてしまいますから。
何かが、できたという場合だけ、思い描いていたら、片手落ちがあまりにも酷すぎるんです。
やってみて、できなかった、というのだって。また、やってみればいい。
そうでしょうか。すべての場合に。
これも、そういうものばかりだとは限らないことです。
できなかったというのを、キチンと引き受けた上で、
次なるまったく別のものへ変更するほうに運ぶというのが、
正しい選択肢の選び方である、そうした場合もよくあるのです。
これは、諦めを含むようでもあるけれど。
もっと別のことを、始めなくてはいけない場合に、
単純な諦めだけではなくて、
新たな始まりに着手するスタートをも孕んでいますから、
シクジリというよりも、
それは新規な更なる決意にも結ばれる事柄です。
それを自前でこしらえる気概あってこそのチャレンジで。
手の届くところに、自分で手を伸ばす用意があって、
はじめて何かに挑むという行為が裏打ちされてくるのです。
「上手くいかなかった」というのは失敗のようであって、
次に繋ぐ用意を始める「入り口」でもある。
ひとは、勝手なものだから、自分のことを棚に上げたみたいに、
周りに、こうしたら、ああしたら、
誰だって、そういう風に声を掛けるものです。
あなたの口から、
もし、こうやったら、こうなるはずだから。
こういう風にしてみなさい。
そういう声をかけたかったら。
これが、そうならず、そうしてみても、そうできなかったら、
その時には、これこれ、こういうことも、考えておきなさいを、
本来なら、伝えておくべきだったでしょう。
でも、もしその人から、そこを伝えてくれていなかったら、
これは、言われて試しにしてみた側で、
上手くいかなかった人間が、
その場合は、どうしたらいいか、これを考えなければなりません。
確かに、そういう望みの託し方というのも、
これは酷く一人合点な虫の良いご都合すぎる下心だと。
こうしたらいいんじゃないかと、
そうやって、できなかったら、どうしなきゃ、いけないんだ。
これは二つで一つの1セットではある。
でも、リスクをすべからく用意して、
これを手取り足取りしていたら、
これはこれで誰が誰の人生を生きているんだか、
よくわかりませんから。
問題は、生きてる人生、失敗すること含めて、
何かがうまくいかないことが、必ずやある訳です。
大事なのは、上手くいかなくて、
困ってる、悩んでる、苦しんでる。
そういう時に、どういう関りを周りが用意して、
接してあげることが、できるかどうかです。
それは、社会という成員を為すところの、
人間には必ず付いて回ることですから。
困ってないときは、自分でできることを、
自分がするように、していくことですが、
自力で解決できないことは、
ひとの助けであるし、周囲のサポートですから。
敢えて、困っていない人に、ああしろこうしろ、というより。
困ったときに、どう支えてあげられるか。
むしろ、そっちが力量としては、ひとの本分なんだろう。
これをなぜか、ヒトは忘れるようだ、というのが今回のお話でした。