先ほどの続きです。
子供は自分で取り組まないと、
自分らしい人生が始められないのだけど、
それと並んで、親の側だって、同じように、
自分の未消化で済ませてきた事柄を認めることと、
そのことに取り掛かることをしないと、
自分も同じように次の段階へと入っていけませんし、
そういう方向に進んでいかないと、
今までしてきたような疑問な振る舞いというのが、
終われないし、やめられないままなのです。
子供が同じことをしてくるから、
自分も同じことを続けないといけなくなるですって?
それは少し、いやいやだいぶ違いますよお。
われわれと別の動物の子離れについて知ってますか。
もちろん種ごとで、それぞれに違うことも多い。
ただ非常にたくさんある事柄ですけど、
巣立つときや、親離れするときに、
それまで食べ物を運んできた育て親たちが、
ある範囲まで成長したら、
親の側から、食べるものを運び続けるのは止め始めます。
子供の側で食べるのを、食べないから、
食べさせなくて済む、ではないんですよね。
ずっと与え続けて来たけれど、それは、ここで終わりだよ、
だから、これからは、もう自力で賄うようにと、
その促しを進めていくのは、親の判断ありきで始まるのです。
子供が今までのように欲しがってねだっても、
切り上げることを行うというのは、育てている側でした。
でも、ほかの動物のことを猿真似することで、
それでいいというのでない、これも分かってはいますけどね。
だから、ここで述べたいなと思うのは。
前の投稿とも繋げて書いていく意味なのですが、
子供が一定の成長に達するような時期、
今度は、自分の親世代。
つまり自分の子供の世代からみて、祖父母ですが。
その人たちの発揮できる能力が以前とは違ってきます。
それはつまり、自分と親との関係の持ち方が、
そこで次第次第に別の状態へと移行するのが始まり出す。
人と人との関係は、その時期その時期で、変化します。
自分がしていること、していくことが、変わっていく、変えていく。
これは自分の判断で、それを行っているという様子は、
傍らから見て、気が付いていくのは自然なことです。
判断の主体すら、イニシアチブを取る側が、そこでは動くし。
この変化を見せて上げられていたんですねえ。
それ見ながら、お祖父ちゃん、お祖母ちゃんが、
もっと自分が小さかったころと、変わっていけば、
自分ではやれなくなっていくことへ、周りの応じ方が変わる。
生活の上で、実行は能力に無理が認められる。
その場合は、肩代わりをする立場から手を貸すという。
この当たり前を知らない人々は、障碍者とは何か、
そこにも気が付けないし、トンデモな勘違いしています。
老人の施設が増え出して来たのと、
発揮する力の上限が、低めな相手への配慮というのを、
無知なままでいる人々が増えた時期は相関してることでしょう。
何かが変わっていけば、その相手とするような、
やり取りも、変わっていくし、変えていく。
ここが見える化されてる機会が、いまとても少ない。
最後には命を終えて死んでいくんだというのすらもが、
そこでの生きてる命の在り方にしても、
目の前で、同居していて同じ家の中で、それを迎えること。
今時ないことです。
知らず知らず目にしていて、身をもって触れながらで、
気が付いたり、その出来事から教わっていくような学び方が、
今は減りつつあることです。
まして今の時代は、近隣とすら、
交流するのもハバカラレル事情があったり。
だから、昔なら、ある程度は自然にいくように流れてきた。
そういうことにだって、今であれば、意識をしながら、
気を配りながらで、意図的な取り組みを持つことが必要です。
それが出来るか、出来ないかが。
ここで問われてくることです。
一見、困ったこと、なくてもいいことに思えるような。
そんな難局であっても、
そのピンチをチャンスにすることができるのは、
これがピンチであるからこそ、取り組める機会にもなるのですから。
なくてもいいこと、あってほしくないこと。
これが感じられるのは、実際です。
でも、現実に起きてるし、迎えてるんですから。
なくていいことが起きた話は、もうしている場合じゃない。
起こったことには対処をしていく、それが行うべきことです。
繰り言の言い換え語を探すのは、もういい加減に終わりにしていく。
いつまでもそれしていれば、先になんか進めません。
先に進むのには、今日、昨日とは違うことを試してみる。
やってみて工夫を重ねる。
日々そうしていれば、振り返った時の過去が、
そのとき既に、まだ短いながらも変わりだしているんです。
生きているとは、時間と付き合うことです。
生きている間、これを続けていくことです。
それが営みだということですから。