いま、そこに、あなたが、あるのは

誰も『苦労』はひとそれぞれ。しかもすべて自分のオリジナル。つまり人間の数だけ誰にもみんな役目と役割りあって生まれてる

60年経っても、影響しますから、

2021年09月21日 | 日記


だいぶ涼しくなりました。
秋の夜長、いかがお過ごしですか。
夜が明けるのも、ずいぶんと遅い時刻です。
まだ家人は、よく眠っていますよ。
寝室で、ゴソゴソと用事をすれば嫌がられます。
なので、隣室で、これを書いています。

私には、80代の母親がおります。
母は都内に住む私の妹の家で暮らしています。
今にして思い返せば、あの母はどうして、
あのようにして、私の養育をしてきた意味なのか。
私も、この歳にして自分なりに考えたりしています。
いま60代の初老の老人の目から、
そこがどんな具合に映るか、その辺りを、
今朝は書いてみますので、お付き合いくださいね。

例えばの話、何かを育てるというのは、
動物だって、植物にしたって、
育つ相手の都合がありますから、
これを、もし無視なんかしていたら、
育ててやるなんて、とうてい出来る話じゃない。
これぐらい、どちらさんでも理解はしていると思う。

植物に、どういう風に花を咲かせろとか、
どんな実り方をするようにと、声を掛けたりして、
そう命じるから、それで草木が育つのではありません。
そこは、むしろ、反対なのです。
どうしたら花を咲かせるのか、いかにして実らせるかでも、
これは、あたかも、相手に尋ねるようにして、
そこを聞き出すみたいに、世話を致しますから。
それで自分がどう世話をしたら、相手はどう応えるか。
これを探り出すように、見付けたりしていき、
やがて、いかに世話をすべきかを「育てる」側で、
ようやく知るところとなって、それを知れるからこそ、
どう働き掛ければ良いか、ここで必要な仕事が出来まして、
それで、はじめて「育てる」が、可能になります。
ですから、その相手を知ろうとしない人には、
これが出来るようにはなることは、まずありません。

もし、機械の操作か何かであれば、
これは正しい扱い方をする限り、そのマシンが、
オペレーターが命じたとおり、装置として、
それが働いてくれるはずであるのは、
取りも直さず、相手が、そういう機械だからです。

じゃあ、機械の操作をしようというのと、
動植物を相手に、それを育てようというのは、
果たして、どこが一番に違うのか。
それはコマンドを命じたら応じる装置と、
動植物が、何かの働きかけに対して、どう応じるか。
そこを比べてみようとは、ムリな比較ではあります。
ただ機械操作なら、レバーやハンドルを動かすとか、
何かのボタンを押してみるというのだって、
それはダイレクトに、そう出来るし、そう働きます。
でも、それが、もし相手が生き物であった場合、
その相手の都合というのが、そこには介在してきます。
例えば、人間ならば、その人の自分で考える余地があります。
こうしろと命じるのは可能でも、そうするかどうか、
これは相手の合意する部分あって、為せることですから。

世の親たちは、よく口にしますが。
いえの子供がなかなか言うことを聞かないと。
一面これは当然でもあるのです。
なぜなら、機械や道具とは違いますから、
その相手は自分で考え、自分が主体で動くことです。
不承不承に注文に応えるのだって、そうです。
でも、そこに、このワンクッションあるというのが、
実は、とても大事で、また肝心なことなのです。
なぜなら、これが行為する主体あっての行動だからでして、
声を掛けたから、そうしますだけでは、
その声を掛ける人が、いない状況になれば、
その行為は、そこには起こらないし、
いや、そうする必要があるの判断さえも、
そこには一切ないのと同じことになるのですから。

機械や装置が、オペレーターの不在で、
動きません、動かせません、と同様なことが起きる。

つまりは、育てるとか、育てようというのは、
命じるとか、命令に従わせるとか、そういう世界とは違い。
根本的に、そういう状況と異なったことなのですから。

そこを往々にして、世間の「子育て」に従事する人たちが、
理解していないから、私のような「病気現象」を、
抱える者を、いつまでも作り続けてしまうのでしょう。

今も記憶にありますが。
あの母が、よく感嘆して素晴らしいと驚いていたのは、
言うことを聞かない子供に対して、徹底して厳しくする家の話。
極端な人になると、食事を与えないといって、
よくそこまで出来ると、羨ましそうにしていました。
まあ、だから、ある部分、私も大同小異な目に遭いましたが。

それで、その場面で子供が言うことを聞いているのと、
その後、その人が、いかなる人生を歩む話かというのは、
これは、また別の問題なのですが。
母には、これは、そういう物事だぞという理解は、
恐らくなかったようです。
まあ、そこに悪意がなかったことは、私も知っています。
敢えて指摘するとしたら、そこに幾分かあったのは、
単に無知と愚かしさ、であったと。
それを60余年かけて、次世代の知るところとなった。
これは、そういう出来事でありますから。
世の中の方々には、是非とも知って頂きたいからと、
切に切に願うばかりの今日日の私であります。

以上、朝から、重かったでしょうか。
まあ、それでも、私の場合は、どっこい生きていますから。
ではまた、お邪魔します。バイチャ!

ああ、そうそう。これは病者の側にも生じてきます。
曰く、自分では、そうしようと思うのに、
そういう風にできないんだと。

これはね、あなた。
そうなれと命じるから、そうなるでは、
ないことなのだと、まず知ることからですよ。
そこが重要なポイントですね。
どうすればいいかは、自分流で編み出すしかないのです。
つまり、とにかく自分で、まずしてみる。
そうやりながら、また工夫をする、この繰り返しです。
究極これを身に着けるしかありません。
そういう練習ができていなかったから、
そこに尽きるから、そういうことが起こっているのですね。

ではでは。









夜は秋の虫が鳴いてますね。

2021年09月10日 | 日記



「こころ」の上に生じた「病気」というのが、
はたして、一体何の問題であったのか、と。
そこから、まず問うのであれば、
これはやはり、それらの方々が、ご自身でも感じておられた、
気持ちの上の辛さ、苦しさといった、そういう悩みであって、
それ自体が、こうした病気のおおもとである、というのは、
誰にも共有されるのではないかと思うのですが。

ただ、あまりに極端な状態へ発展をしてしまえば、
傍から見ても、その心情は簡単には汲み取りがたいです。
もはや心が完全に壊れ切ってしまったのではないか。
そんな具合にも、周囲の目には映るくらいですから。
その心の中を伺い知れない傍目にすれば、
これは気持ちの範疇というのは通り越していて、
すでに精神の状態が機能を喪失したなと、
うっかりミスにも了解してしまい、接するような人も。

けれど、これはトンデモナイ誤解ですからねえ。
それこそ、知的障害という括りの扱いにある人々だって、
東田直樹さんの著作等を読めばわかりますが、
これらも、そこに知性が欠けている意味ではなく、
あまりにも周囲と、やり取りする上での支障が酷くて、
そのせいで本人の気持ちというのは理解をされず、
それで、そこを察してもらえないがために、
その周囲で、この障害の状態というものが、
考えられない人、考える上で能力不足がある障害。
そういう問題と受け取っていた過去がある。

確かに、考え方が独特ですが、推測するような、
単純な考え不足の結果ではないのです。

精神の障害というのも、同工異曲な面がある訳です。
こころが機能を失った障害というのは、
あまりにも不正確過ぎた傍観者目線な捉え方であったと、
それを今こそ知るべきです。

ただ、そこにも一種の独特さというのを抱えていて。
だから、そこ配慮なく、相手を糺したりしたら、
それは無理な付き合い方ですから。

言ってみれば、身体の障害で真っ直ぐに、
自分の身を起こせないような人がいたとして、
この人を相手に、ちゃんと身体を起こせというのが、
どれだけ酷い暴言に当たるか、これと同じことですもの。

人間に限りませんが、生きている相手というのは、
あまりに事態に窮すると、通常しないような行動をとる。
それは窮鼠猫を噛むじゃないけど、危機に瀕すると、
奇策を講じざるを得なくなりますよ。
特に身を守らないとヤバい時っていうのは、
そういう機転を使ったりする意味が、そこにはあります。

これは通常しないパターンを発動させます。
動物にしても、死んでないのに死んだふり状態だってします。
これはショックで気絶をしちゃうんですが、
結果として身を守れたりします。

つまり、それぐらいマズイ事態にあるんですから。
どれだけ困っているかを、きちんと察してあげないと。

いくつか例を挙げてみますと。
ある人は、全裸になって外出してしまうケースがあって。
若い男のひとですから、多くの人は猥褻な意味で、
これを受け取ってしまったんだけど、
実は、本人には真剣な理由がありました。
この人は、自分は誰にも危害を及ぼすような凶器は、
持っていませんと、それを見て取って欲しいから、
丸裸になって、そうしていたそうです。

あるいは、別の方は、風呂場で奇声を張り上げる。
大柄で暴れたりもする人だから、家族は怖がります。
でも、この本人が、ご自分で最大に恐れていたのは、
実は入浴時に水がピシャっと跳ねる水音が脅威で、
その恐ろしさのあまり、叫んでいたのでした。

また刃物沙汰というのが時にあります。
周囲は刃物を持つ人が怖いので危険を覚えます。
これも、その本人自身は周囲に危険を感じているので、
そこから身を守るべく包丁を手にします。
そんな場合というのが、よくある。
だから、必死で身を守る人に対し護身道具を手放せとは、
口で言うほど簡単な声掛けが通じる話じゃないんです。

これら押しなべて、そこに知るべきところがあるとしたら、
本人の心のなかで、自分なりに考えた部分というのは、
周囲が想像を働かせ察するところと真逆な場合がよくある。
しかも本人に取って、周囲に対しても、言い知れないような、
恐怖や危険を覚えていて、必死に頑張っている状態。
そうした事態にまでエスカレーションしています。

もっと別の観点から言ったらば。
家族が、それも親というのが保護者だとしたら、
保護者から危害を加えられる恐れを感じているなんて、
日常、想像もしないから、想像がつかない以上、
これは考えていることが、ヘンだ、オカシイになる。

でも、これも人間が何かという面と繋がった話です。
要は言葉を使う、つまり概念で考えたりする。
ということは、それそのもの即物性な面とは異なり、
形而上学的な存在としての人間の精神の仕組みや構造があって、
そこを同時に、人々で共有もしています。
だから共有ができた面においては、言葉でも、意味でも、
通じていたり、通じているつもりだったりが、
表面的に成立をしているから、一見齟齬はなさそうでも、
本当にそうかどうか、突き詰めたら確かめられない。
一定のルールの上にのっとり、共有されているだけであって、
もし少しでも、日常から離れたりすれば、そこの曖昧さは、
脆くも突き崩されてしまう不確かさなのです。

そういう背景を私たちが抱えているからこそ、
ウッカリそちら側に転落しない術の一つとして、
日常を大切にしながら、生活を安定させるのは、
日々の暮らしに、逸脱する隙を増やさない工夫であり、
習慣化した暮らしを淡々とする生活者になるのが、
案外、調子を安定させるのに、効果が高いのです。

ベタな言い方をすれば、普通に暮らすよう心がければ、
その分だけ、当たり前なことというのも、続くし。
続けるほどに、それだけ当たり前になっていきます。

ただこれも、自分の分を超えて、欲張った無理をすれば、
その無理な頑張りが疲弊を生み、無理した以上、
同じ続け方が、どこかで途切れますから。

その疲れて途切れたところで、危ういポケットが入口を作る。

頑張っちゃダメだよというのは、そこを言うんですよ。

無理しないで、頑張らないで、けど生まず弛まず、
コツコツと、かつ休み休みを、必ず織り込みながらです。
節句働きなんかしたりしない、のらりくらり、
のんびり続けられる良い加減さこそ大事なのです。


今日はここまで。また書きます。

いや、涼しくなりました。9月ですもの。
週末の台風にご用心です。
ではでは




今日<8月27日>はオープンダイアログが生まれた日だそうです。

2021年08月27日 | 日記


今日、ふと手元にあった新書を開きました。

先日、私の妻が図書館から借りてきた、

「感じるオープンダイアログ」森川すいめい著

講談社現代新書 2641

を夕方から読みだしていましたら、

1984年8月27日のケロプダス病院で、始まった。

オープンダイアログの誕生日だと、書いてあります。

え。それ、今日じゃないか。

驚きましたねえ。

ただ、この本読んでいて、

私はまだ入院で拘束された経験がないのですが。

なんて言ったって、畳の大部屋が中心だった、

今から、30年以上前の病院では、

ベッドは特別な個室にしかなかったですから。

括りつけようがない訳で。

それが、進歩するはずの今の時代に深刻な人権侵害が、



結局、病院やなんかで、解決しないのに、

こういう、やり方、まずいからなあ。



ボヤキ節は今夜はやめておきます。

誕生日祝いにしますから。

じゃあ、また。

オヤスミナサイ


大雨どうも危ないですね。怖いなあ。

2021年08月14日 | 日記


どうも大雨が列島全体で激しいですね。
ちょうど今お盆休み時期です。
雨の続く中、いかがお過ごしでしょうか。
私のところでは、下の娘が泊り掛けで帰宅中です。
この時節、お盆の帰省を控えた方も多いことでしょう。
でも、帰っていたから、年寄りの避難が手伝えたとか、
様子を確認出来て安心しあった家族もいらっしゃることでしょう。
何を優先すべきは、ケース・バイ・ケースの判断ですよね。
そういう意味で、どうしたらいいんじゃないかだって、
一概な声掛けは通用がしにくいし、聞くほうも自分の中で、
自分都合にローカライズをする必要があります。
一人ひとりで条件が違うから、違うなりに、全部が全部、
何か一つの原因で、その影響により、
みんながみんな同じ被害を受けてしまい、
それで全滅をするという事態には至らない訳だし、
結局ここが多様性の重要さでもあるのですから。
仮に、どこかで犠牲があっても、それを知恵にすれば、
別のところのサバイバルに、寄与できたりする。
だから何の条件で、どういう事態になって、
これについて、どういう対処をしてみました。
そうしたら、これこれこういうことになりました。
そこに関する情報を知る時も、その内容については、
受ける側一人ひとりで違う価値・意味があるのを示唆しています。
何が誰の役に立つか、それがまだ流されている時点で、
ハッキリとしない場面だ、ということです。
どれが必要で、不要かも、流れる時点では、判然としていません。
だからこそ多くの情報が多数の人々に共有されているのって、
とっても大事で、これは確保しておくべきだなと思う。
そのために、横の流れで物事が伝わるルートというのを、
太く大きくしておくのは良さそうなことです。
外からの知らせというのを間違いなく受け取れるのと、
また内のなかでの気付きを外へ届くようにするために、
これを壁で囲んでみたり、窓を閉め切っていれば、
流れていくべき情報という風は堰き止められてしまいます。
内と外で、通れていく風が吹き抜けていくような環境を、
いつも整えておくことなのでしょうね。
そして、流れてくる情報については、その風の匂いを嗅ぎ分ける。
そんな感覚も磨いておく大切さなんだと思います。
同じことを聞いたとしても、そこに何を知るかというのは、
これは聞く側に委ねられている面が大きい訳です。
ローカライズして受け止めるからこそ、そこに取捨選択があり、
どこを取り入れて活かしたら役に立つかというのも、
まさに個々のケース毎で、みんなで違った作業があります。
その意味で、情報内容の解釈というのは、聴く側の仕事です。
これが正解ですというのは、ほかの人から教われません。
なぜなら違う条件であれば、同じ条件のときなら通用することが、
別のケースに、そのままで運用などできない相談ですから。
だからこそ、自分の置かれた局面を自身が把握できているか、
また、そこを掴み取った上で、実際に行動へ移せているのか。
これも本人次第で、現状ありきの判断になるということです。
その当人が、状況を読んで、考えを決めたら、自分で動くこと。
他の誰かが、それに取って代わる事は出来ないからです。
その部分での自分本位を、大事にしながら行動も判断もしていく。
こうした現場主義こそが、そこで求められた実際にソグイますからね。
もちろん、さらなる情報を得るのが必要な場合もある。
こうしようかなと、浮かんだとしても、もっと第三者の判断を、
そこで聞けるようなシチュエーションを自分が持っているか。
そこが考えを深めていくには重要なキーポイントになる場合も。
思い付きだけで、行動してみる、それも、ありだと思う。
けれど、もし、単なる思い付きだけで、上手くいかなかった場合、
その上手くいかない理由を見つけ、そこを修正するという、
そこの作業が必要になっても、自分で見つけられると限らない、
だから傍から見ている視点を、そこでフィードバックできるかどうか。
これが次の局面へ進むときの必須条件になるかも知れません。
その意味で、一緒に傍らにいてくれる相手を持つことは、
そうした意義深さなんだと考慮をしておくべきでしょう。
特に、自分だけでやってみて、困難を感じることが多い人だとしたら、
そこを自分が活かせているかチェックをするといいと思います。
そういう使い方をするかしないかで、同じ自分が事態を打開できるかで、
まったく違った結果が出てくるのです。
他人の知恵のようですが。それを活用するかどうかは自分の知恵です。
これは誰かに聞いてみて、相手の命令を受けたいではありません。
こうしてみたいんだけど、これについて、そっちから見て、
今どんな風に見えていますか?そういった意味合いなのです。
声を掛けられる側も、その意味内容で、見えていることを、
聞かれた相手に、その都度で返していく必要がありますから。
必ずしも判断を求められたと考える物事ではないです。
むしろ、聞いた相手が、何をどう考えたのかをこそ確かめるべきです。
そこへ向けて自分側からの見え方を告げる役目なのですから。
なんといっても、どうするかも、どうしたいかだって、
それを行うのは、本人が請け負う仕事ですから。
変な肩代わりを引き受けてしまうと、動く本人の無責任を、
そのことが助長させるようなことに繋がるのです。
相手が、無理や無茶を言い出す背景というのが、きっとそこです。
これを援助する側が心得ていないと、サポートになりません。
援助を得ようとする側だって、これから自分がすることは、
ほかでもない自分の引き受けることとして全うできないと。
自分と相手の関係というのは、こういうのが複層的に重なり合っている。
ということになるのでしょう。一方的な命令の伝達じゃあなくてね。
そういう流れというのが自然に確保をされているかどうかであり、
そこに滞りがあるかないかというのが、後の結果を生んでいたのでしょう。


さてさて、今どこも大水が流れそうで大変です。
狭い日本列島です。
海まで速やかに流れ切ってくれることを、
ただただ願いながら、ここまでにします。
どうぞ皆さん身の周りには、お気を付けくださいませ。
雨中お見舞い申し上げました。




なぜ他人事というのは成立しないのか

2021年08月13日 | 日記


他人に見られたくないものを、
見えないように隠すというのは、
いろいろあったりすることですが。

見てほしくないものを
見られないようにしておけば、
外からは見られたりしないかも知れない。

でも、その見られたくないものが、
そこにあるというのは、
誰よりも隠した本人が一番よく知っています。

一度、知られないところに隠すのを始めたら、
これを知られないようにする為に、
隠さなきゃいけない事というのは、さらに増えます。

嘘をつくと、その嘘がバレないように、
また別の嘘をつく必要があるのと、よく似ています。

似ているというか、隠すというのは、
いわば嘘をつくのと同じことをするのですから。

他人に何かを黙っているのも、
それを見えないようにしておくのも、

他の人の目を騙したのと同じ意味が、そこにはある。

隠し事というのは、隠す側には意図するところがあって、
それで、敢えて「知らせない・教えない」というのをします。
そこに表面的な悪意はなさそうでも、
隠すという行為には、騙すという行為と同義に、
ある部分、悪意と見做されてショウガナイものも意味しています。

しかも自分から、
別段なにか積極的な働き掛けをした訳ではないですからと、
身勝手で好都合な名目を、大義名分よろしく担ぎ出せば、
「自分は別に悪いことはしていない」と強弁する余地も残しつつ。
そういう卑怯というか、まあ、巧妙にして、悪知恵です。

でも、人が迷惑するような問題を隠していたら、
いつまでも、そうは言い張ってもいられないでしょうけどね。

もちろん、知られることが自分に不利益な場合、
これから身を守るために、そこを知られないようにする。

言ってみれば暴力行為に対する正当防衛のような、
攻撃へ対抗する手段としての反撃なら、
腕力をふるうという行為も、一定の範囲のもとに、
それを「許す・認める」の範疇がありますよね。
でも、行き過ぎた過剰防衛にまで至るなら、
これは「暴力行為」ですし、そうなれば、
もはや防衛ではなく、攻撃そのものに、これは該当します。

だから、自分の身を守るために、
攻撃の矛先を自分以外の誰かに仕向けるというのも、
身を守る以上の過剰防衛をしているのと同じ内容がそこにある。
そこでは示し合わせて矛先が向かうようにされた相手にとって、
これは、だから紛れもない攻撃行為で暴力そのものです。
「自分は別に何もしていません」という言い逃れはできません。
そこを敢えて見て見ない振りで押し通してしまうというのが、
「虐める・虐められる」に認められる訳です。

一見、身勝手に自分都合上では、消極的に回避行動をも装いつつで、
その実、これは暴力に関しては積極的に関与をしてる立場。
もしかしたら、二重三重に卑怯な態度と言うべきです。
している側で自分の心が痛むというのは、そこがあるからです。

話を隠しごとに戻しますが、

それでは、なぜ必要以上に隠さないといけないのでしょうか。
これは、過剰な被害想定の見積もりをしてしまうから、
それで、別に隠さなくてもいいようなことまで、
何か、それを知られ、逸失利益が生じる問題ではない部分まで、
これを一々そうやって秘そうとする気持ちになると思われます。

また隠すことで不利益を減らそうと同じくで、
隠すことで得られる利益を、さらにもっと追求しようという。
そういう正当性を欠いた利益を、いかに増やせるかという。
そういう強欲な面が働いているとも言えそうです。

それはまるでアコギな商売さながらですよね。
金銭経済の利益のためなら、手段を選ばないのと同じ世界です。
食品メーカーが利益を追求するばかりに、安全性の危険度から、
自分の家族には食べさせたくないような食品を作っておいて、
売る上では、これを商売のタネにして平気を装ってしまうみたいな。
あらゆる業種で同工異曲なのが、常識だったりしますが。

結局、これだって、そこには他人事なんてありませんから。
回りまわって、全部それが自分に返ってくることなのです。
当たり前といえば、確かに自明なことなのですが。
表面的な数字ばっかり追っかけているから、
そこまで視野が届いていないようなことです。

要は、今の世の中これで動いていますから、
親は世の中みんなこうだから、「仕方がない」を、
そこで使うんですけど。
これを家の中から見て知っている家族である人間には、
世界というのは、どんだけ不信感に満ち満ちていることか。
しかも率先して生業として仕事にして平気でいられる人を、
心の底から「ヘンだ・オカシイ」と、考えているのに、
どうも世の中は、そうやるように出来ているらしいので、
そんな危うい場所に参加をする気なんて、コトゴトク失せる。
これが「ひきこもり」という身の守り方の理由だと思う。

だから、今の世相における異常な騒ぎというのも、
あるいは何らかの形で、
いつかは棚卸しするように、決済のし直しをキッチリとすべきで。
お金都合から来る行き詰まりは、考え直していかないとマズい。
誰の立場であっても、これが切実なのだろうと思います。
もちろん、どの部分を、どういう格好で、決着させたいかは、
各々、自分の選びを発揮させる問題でもありましょう。
だって、それぞれで自分の立場があるし、
そこで何を選ぶかは、これから、どうしたいか、
その部分について、銘々で考えてみる必要があるし。

ただ、それ選ぶときだって、周りから、どんな風に見られるから、
そんな風に見られたら嫌だから、そこを気付かれないように、
勘ぐられたりがないよう、こっそり何々は隠しつつで密かに行おう。
という過去のセオリーは、先にも述べてきたように、
いまの事態を招いてきた遠因というか、理由になったようだし。
そういう自分都合だけが成立させられるんだ式な一種錯覚は、
ここで、きれいさっぱり捨て去る覚悟になって、考えておかないと。

ここでは他人目線な他己基準なんかじゃなくて、
他人に囚われて、そればかりを気にしているじゃなくて、
もっと自分の素のまま、自分本来な心で感じる思いや気持ち、
そこを優先させた、感性を取り戻すのが先決です。

そこは、やはり過剰な情報に身を任せたままでいたのでは、
自分の頭で考えたり、自分自身の気持ちで感じたりするような、
そういう手間暇かけられるだけの時間が持てないと思いますよ。

話をタイトルに戻せばですよ、
あなたにとって、自分の問題というのは、
別の人にとっては、もしかしたら、それが他人事だし、
また、あなた以外の人の、他人事というのは、
これは、あなたが抱えている問題の意味かも知れませんよね。

ある人が言いました、
自分は欧米の白人を見かけたら、外人だと思っていた。
でも、自分が海外に旅行してみれば、
仏国パリでは、白人に囲まれている黄色人種の自分が、
「そこでは外人なんだ」といって、気が付きましたとさ。

自分から見て何々というのと、
他人から見て何々というのは、
そういう方向で等価でもある。

しかも、そうでありつつも、自分側と相手側がここにはある。
相手目線に自分を明け渡すみたいに同化してみたところで、
これでは自分自身が立ち行かないことになるのだから、

これはつまり、自分と、相手というのが、どう関係するかです。
そういう確かめ合いこそ、コミュニケーションや関係性であり。
それがあるのが、ここで言うところの他人と自分なんでしょう。

え。自分は家に「ひきこもってる」から別に関係ない?
うう~ん。気持ちは分からないじゃないです。
自分だって、同じようなことに陥っていましたし、わかるから。
けど、「ひきこもり」も、そうしなきゃいけない理由というのが、
自分から、部外者に身を置こうっていう試みですよね。

でも、ここで部外者というのが成立する要件というのは、
世間があるから、そういう構えも出来ていることでもあって。
家の中にいるというのと、世間が世界に存在していないとは違って、
真逆に世間の大きさを最大限に意識してるから、
そういう選択肢が存在してるような気にもなりますけどね。

これを、もっと全体ということで見渡したら、
問題は、ここで、どこにいるかじゃあなくてですよ。
自分が果たして、どういう生き方をするかなんです。
あるいは、どんな風に、したいのか、やってみたいのか、
また、試みてみたいか、取り組めるのなら、取り組んでみたいか。
だったりすることのほうなんです。

これはね。誰から見てどうかでいえば、
他人から見てみて、どうだからじゃないですよ。
真正、ほかでもない自分から見て、自分はどうしたいか。
どうしたくないか。そっちのほうです。
だから、私は、他の人を自分の働き掛けで引き出そうなんて、
微塵もないんですからね。これは明言しておく。
ただ、自分も何か、同じような時期に考えていたことは、
今だから、そういうときもあったなと感じるし。
ひきこもってる場合でも、それ以前の生活を行う時期もありました。
いま敢えて選びつつというか、選ばざるを得ずというか、

どういう風に生きているか、そっちが誰にとっても、
それが自分ですもの。

それをもっとフランクに考えたり選んだりする、
何かの足しになるのなら、そんなことは感じているから、
それで今回は、こんな風にも書き起こしをさせて戴きましたよ。

以上です。
どうもお邪魔しました。

また書きます。
では、お元気で、お大事に。
失礼致します。

大雨、そちらはどうですか。