いま、そこに、あなたが、あるのは

誰も『苦労』はひとそれぞれ。しかもすべて自分のオリジナル。つまり人間の数だけ誰にもみんな役目と役割りあって生まれてる

(私見としての)家族会の果たす役目について

2021年08月11日 | 日記


家族会というのがあります。
そこにはセルフヘルプグループ的な側面もあります。
そうであれば、この問題について、
もっと当事者側の集まりも、充実していいはずなのに、
保護者側の団体ほどは規模も組織力でも限られていたりです。

自然発生的に、病気障害の本人たちの集まる場所で、
入院中の病棟や、通所先の施設とか、グループホーム等々にも、
そういう場で、集まったなりに横並びな繋がりも出来る。
仲間に出会い、自分だけじゃないと知るし、
共通のバックボーンを持つ同士ならではで、
互いに共有できる体験は、自分の支えにも感じられるし、
他の人の工夫は、自分のヒントになることも多い。
結構そこで、メリットになることが見付けられたりもする。

でも、共通の目的を目指しながら、
意識的に自分たちのグループを発展させていくかは、
先にあげた家族会みたいな規模や結束力を、
当事者側の集まりでは見かけないことも多いです。
自分たちの会として、主体性を発揮させようとする機運でも、
家族の側の会ほど、モチベーションも高まらなかったり。

一つには、少し嫌な物の言い方に聞こえるかも知れないが。
ある部分、家族会というのは、二つの意味で、
被害者団体の結束力が、働いてる側面が認められますから。

それはまず、過去において、病気の家族が居ることで、
家族たちは社会的に不利益を被ってしまうという現実があるし、
もう一つ、病気になっている相手から、その家族は、
事実上、被害者側になる場合も、多々起きてしまいますから。

家族は周囲に知れ渡ると不利益を被るから、隠そうとします。
隠すというのは、同時に必要な対処を図るのも遅くなりますよね。
手当てが遅ければ、病気障害の程度や状態についても重くなる。
極度に具合が悪くなった場合、よく発生するのが暴力。
本人が家族に対して手をあげることも起きるが、
それに対抗しようとする家族が、病人を打擲してみるとか、
虐待してしまうというのも、起きてきたりします。
その結果、さらに悪循環で、この事態はどんどん酷くなっていく。

だから、やっぱり家族で対処しろという構図は、
どう考えても、あんまり賢いと思えません。
じゃ、単純に家族と引き離せばいいのかと申せば。
過去も、現在も、入院措置という手段がありますが。
これが意外と片手落ちな対策になりがちです。

一旦は、これで本人は落ち着く場合も、よくあったりする。
じゃあ、それで解決するかと言えば、たいていの場合は、
軽快した後に、家族の家に戻るとか、元の環境に帰すとか、
でも、そこにいた時点で生じているようなことですから、
同じ場所に戻れば、同じことの再現を繰り返すという局面が、
非常によく起きてしまうことなんです。

要は入院というのも、結局は対症療法に過ぎない訳です。
入院しても、根本治療になる意味じゃないんですから。
対症療法で落ち着いているだけだというのは、
いつまた悪化するかも分かりませんから、
ちょっとした切っ掛けがあれば、また再度そこで悪くなる。
これは、世間でよく言うような再発なんかじゃないですからね。
それは一旦、小康状態になっていただけですもの。
そもそも根治なんかはしてないのに、そんな表現は不適切でしょ。

というか、いつも言うように、障害は治療ができませんからね。
病気という呼び方がミョウチキリン過ぎるだけです。
一定の障害状態にあって、その人が身を置く環境の影響により、
障害の状態というのは顕著になったり、目立たない程度だったり。
結局、これは本来そういった内容の現象ですからね。

つまり、
治療をして治しましょうという取り組みは、徒労になりますからね。

だから、
これは障害のある人の地域生活をどういうサポート体制で工夫するか。
それこそが実際に即した方策です。そこやらないと解決しない。

いや、そっちからアプローチするのなら、マジ解消するんです。
さまざまな困難というのがね。ホントですよ。
本当の意味で、落ち着いて生活ができているケースを、
つぶさに調べれば、そういう対処に成功しているからだと。
そこを見て取れるの間違いない。これ太鼓判を押します。

結局、お家で家族が看ている限り、それを行うの至難です。
もっと、距離を置いて、専門性を備えた職域に本人を託し、
そういう暮らし方が整えられるように考えていかないと。

なぜならば、障害というのは治せないんですから、

家族と一緒に暮らしていこうというのは、治ってこそ可能だけど。
治らないものである以上、家族たちがどんなに頑張っても、
生活を互いに壊し合わずに両立をさせようなんて、絶望的です。

これは、心の面で生じる不都合としての精神障害なんです。
だから気持ちのやり取りにおいて、スムーズにいくのは無理です。
家族とは、家族ならではの気持ちの通い合いが前提ですが。
そこに差し支えの生じている障害です。結局、家族としては機能し難い。
家族として機能しない人々に、家族役割りを振るんですよね。
そこの構造そのものに、有り得なさ過ぎることを強いている面がある。
こういうのが、そこにある現実です。

でも、諦める必要もないです。なぜなら、人というのは、
生まれた家から離れて、自立した生活をするようになるのが、
誰であっても、実際の人間のたどる人生なんですからね。
ただ、そうする背景や理由で、こういった障害の場合には、
それなりに違うコースで、そうしていくんだというだけですもの。

確かにね、多少とも譲り合いながらで、
同居をして生活を共にする場合は世間にもある。
あるにはあるが、これは家族も本人も負担に応えてる意味。
本来的な、自分らしい生活は、互いで犠牲にしつつの暮らし方です。
納得づくで、そういう選びをする人を止めはしませんが。
一人ひとりの生活の持ち方を大事にしたいのなら、
もっと自分にあった相応しい暮らし方をさせてあげたいものです。

なぜって、100人に一人は本人として体験するんです。
これには付随する少なくとも2人の親があることで。
また姉妹兄弟もそこにいたりします。
計算すれば100人に3人から、それ以上が直面することなのですから。
20人に一人は、そういう場面にあるとしたら、
なんで、これを世の中の仕組みを考え直すための機会にしないのか。
これは、そっちの方が、むしろ異常なんだと言うべきです。
当たり前のことを、当たり前にすることが、
ここでしていくべき取り組みのはずですよねえ。

家族会があっても、家族だけがする話なんかじゃないし、
家族内で完結をさせられる取り組みだなんて、
有り得ない話だと世間は知って気が付くべきなのだし。
それを、こういう問題であると訴えて働きかけていくというのは、
ほかでもなく家族会が果たすはずの仕事じゃないですか。

個人的には、そんな風に思っていますし。
そこを切望して止まない気持ちで一杯なんですよ。
一人の人間が60余年かけて、辿り着いた考えなんですけどね。






生きる命は、誰しも道半ば

2021年08月09日 | 日記



この間から。いや前々からですね。
ずっとずっと自分なりの思いからで、
こうして書き起こし続けてきたのですが。

そもそもが、このブログというのは、
他でもないこの私が自分の目線を通して、
こうした文章として書いてますから。

これは、どうしたって、私にしても、
自分が帯びた属性ありきで、
そこに立脚しながら、
物事を、見たり、考えたり、述べていて、
というのを繰り返していた訳です。

だから知らずしらず、どうも何か立場的に、
病気障害問題における当事者サイドで、
書いていたりもするでしょ?
しかも、多少なりとも、ある程度は渦中からも、
今じゃあ少しは距離を取りながら、
半ば眺めていられる立ち位置にあって、という。
そんな感慨も心に認めつつで、これ書いてますよ。

けれども、この問題というのは、
当然、親や家族の側もそこに等しく同席をしているし、
さらにはまた、いまだ暗中模索状態にあって、
頭の痛くなる思いを抱えながら、
途方に暮れるぐらい困り抜いている真最中にあり、
だから到底まだまだ振り返るなんて、とても及ぶような状況になく。
ホットな燃え盛る火事場が現状です、という人もいらっしゃる。

今回は、そちらに触れながら、この立場へ思いを馳せて、
そこら辺りを、書いてみたいと思います。




まず私が、そんな具合に思ってみたというのは。
ふと目の前の自分の妻へと目をやれば、
次のような気分に、
この私の心持ちが襲われたからなのです。



これは、どこの家族も、きっとそうだろうと思うのですが、

こんな風に接したら、これからどうなることか、といえば、
まさか後になって、今みたいな事態が起きるとは、
予想だにしていなかったし、
その時点では、良かれと考え、一生懸命に頑張ったし、
今日まで必死にやって来たはずなのに、

でも今日になって、こうした想定外の状況をいま迎えると、
ああ、あの時にこうしなかったら、
あんなことを私の口から言ったりしたせいで・・・。
そうした繰り言をしながら、過去を顧みたりになってしまう。
そういうの、あったりしません?



わざわざ悪くしてやろうとか、何もぶち壊しにしてやろうとか、
微塵も意図なんかしてなかったのに、
振り返れば、ああ、ああ、なんと私としたことが。
そういう後悔の念から、厳しく自責感に苛まれているというのも、
これは、とても有り勝ちな話ですからねえ。



ただ、ずっとそこに踏み止まっていると、
そこから次に何が起きるのかといえば、
まず何よりも、あなた自身、顔の表情は苦しさに歪みます。
この表情を目にして、その様子を人一倍辛く感じるのは、
ほかでもない、そこの病気障害の本人です。




ある本人は、こう言いました。
「お母さんの悲しそうな顔を見るのが、
僕は一番辛いんだ」そう漏らしたそうです。

でも、そのとき病気が酷い状態にあった、
本人の側としては、もうやむに已まれずで、
自分の抱えている病気障害なりの苦しさ辛さというのを
ただただ参っているのだという、それを周りに訴えんがために、
症状なり、病状を通してですが、その表現になっていたのですから。




じゃあ、そのことで、
苦しいよと言った訴えが、受け止めてもらえたのかと言えば、
訴えれば訴えるほど、逆に今度は自分の気持ちが、
これで更にさらに責め苛まれるみたいな構えなんです。




辛いと言ったら、
まあまあと言って、ナダメルような目線や返事をもらえたならば、
その苦しさから漏らした穴には、埋められるだけの1ピースが
自分へ与えられることになるのですから。
この超難しいパズルも、その一コマ分だけは、
取り敢えず一つが解けていたはずだったのですけども。

これが、そうは行ってくれなくて、
このジグソーパズルというのが、
困れば困るほど、その難度が増していく。

いわば解こうとして、自分が取り組めば取り組むほど、
ますます級数的にパズルの規模が拡大する局面へ進むことです。

そういう逆説的なジレンマが、この厄介にはあるのです。

出口を探そうと藻掻けばモガクほどに、一段と出口からは遠ざかる。

もうこれじゃ取り組む側は自棄にもなりますし。
出鱈目なことも言い出したくなるのも無理ない世界で。
ホント消耗させられること極まりないようなシチュエーションですよ。
仮に病気じゃなくても、まったくどうかなりそうな身の置き所です。

しまいにはマジ暴力になっちゃって、
そういう足掻き方が一層周囲を困らせるのだから、
ますます分かってもらいたい気持ちというのが、
更にさらに、理解なんか、されなくなっていきます。
本当に打開をしなきゃいけないのは、
今の陥ってる困難な事態の方なんですが。
これは、そんな簡単に行かないから、
あたかも象徴的に家の壁だとか破壊して、
困り事の出口を穿ちたくなっているみたいなね。
でも、周囲としては暴れる本人が怖くてしょうがない。
だから、耳を貸そうなんて思いもよらない。
ここで闘うべき相手というのは、
本人の罹った病気がターゲットなのに、
もうそうなると、子供本人と戦う気満々で立ち向かう。
こうなると、窮地に陥る本人は身を守るべく、
さらに拳を奮う力が湧いてしょうがないですから。
そういう狂騒曲がエスカレートしていく。
こういう暴走系には、そういうシステムが、
ここにあるんだという実態を、わかっていないと、
これまた出口が遠退いてしまう結果になるだけですから。




某日、家族会にお招きした、
ある引きこもり対策の専門家の人は言いました。
本人に元気をもたらすには、家族が暗くなっていては困る。
家族が明るく楽しく元気でいてこそ、
引きこもっている本人を力づけることができるのだと。


理屈は分かります。
ただ具体的にどうすれば。そうできるんだ。
そんな感想を多くの人が持つと思う。


そこで、私の頭には次のような考えが浮かんできたのです。


これは一種のリフレーミングだと思ってもらうと、
それが理解しやすいと考えるんだけど、

(リフレーミングというのは、
ここにコップに半分の水があって、
これを「もう残り半分しかない」とみるか、
「まだ半分残っているじゃないか」と受け取るか。
中身の量は同じコップ半分でも、見方一つで意味合いが違ってきます。
同じことでも、ときに真反対に評価し直すことさえもが可能なのです。
こういうのを、リフレーミングと呼びますが)


よくありがちなパターンは、
あの時に、こうすれば、こうならなかったとか、
こんな接し方をするから、失敗したんだな。


これは、そこでネガティブな部分だけで評価をしてるから、
こうした引き算的な発想により、結果が、現状はダメだ、良くない。
悪いことになっている、悪しき事態だ、という結論になってしまう。
ていうか、そう見做して、思い込んでしまった、ということです。


だけども少し考えれば、同時に、もっと別の、何かはしていなかった。
だから、その最悪に関する回避はしてた、これも含まれている。




それは例えばこういうことです。
確かに交通事故には、なってしまった。
だけど怪我人を出すような結果は招かなかった。

この場合に、飽くまで事故が起こった結果に拘ってしまい。
何もなくて済むはずのところを、事故にしてしまったと思うのか。

事故にはなったけど、誰も負傷はしなかった。
人身に及ばなくて、その点ではヨシと思うことにして、
今後は一層の気配りで気を付けように繋いでいくことにするか。

それらも、やはり同じことの見方一つなのです。
しかも、これは、すでに起きていることなのですから。
後になった今では、これが起きる前というのを、
頭には浮かべられるとしても、
もしそうでなければという仮想点に立つ取り組みなんて、
巻き戻せないものを、いかにして巻き戻すという話であって。
これは、どう考えようとも、無理ですからね。

ここで同じ考えるのなら、次はどういう工夫をしようか。
これを考えた方が、よほど実際的で、現実的な対処なのです。
しかも実効性が期待できる方法でもある訳です。



確かに今回の結果は酷いことになったというべきかも知れません。
でも、それ以上の悪いことにまでは至らなかったのですから。
ここで、いつまでも繰り言で続け、後ろばかり見ていれば、
また進行方向上の障害物には気付かないままに避けがたく激突です。
そのコースに再度また進んでいくことになりかねません。

まったく、そういうことを繰り返していることに、
今こそ、まさに知るべきだから、
それで過去に続けてきた評価の内容について、
今一度の、もっと別の観点を持ち出してで、
見直し方の点検に、変える覚悟をしてみないと、
そこでしている堂々巡りの悪循環に終わりが来ません。
そういう提案として、ここで、これを述べているつもりです。

もし欠点が一つもないのは、確かに素晴らしいとしても、
ダメなことを一つ許す代りに、
もっと大切なもの三つが手に入るとしたら、
この場合に、トータルして、どっちが得られるのか考えるべきだ。
取り柄を探せとか、強みを評価しろというは、そこを言ってる話。

完全主義・完璧大好きで生きていこうと願っていたって、
これ不可能です。
なぜって現実とは妥協の産物なのだし。
最終的な成果物というのは、すべてトータルしての結果です。
完璧なもの1個を作るより、8割及第点を10個も設ける方が、
得策な賢い選択なのが、実人生における真実だと知るべきでしょう。

しかも、この場合の理想の完成度というものにしても、
日々これは塗り替えられていくことです。
今の世界一は、次の世界一には劣るんですから。
その中での完璧なんて、
そもそも最初から完璧には程遠いレベルかもしれない訳です。

まあ、長々と書き連ねてきたのですが、
言い換えれば、見方一つで、気持ちが切り替えられるんだし、
そこは率先して、こうやって気持ちの持ち替えをすると、
考え方や受け止め方も、別のレーンに置き変えられることだから、
一緒にやっていきましょうの声掛けが出来るような関係を、
家族の中で、工夫することが出来たら、良いかもしれません。

しかも、言葉で言われることで、傷付いてきた人達ですから、
口先で言われることよりも、
黙って目の前で、今までと違う方法というのを、
ただ見えるようにして、見せてあげるだけに留めておくのが、
それを、受け取って聞く側も聴いて、聞き取りやすいはずなのです。
言葉で書くのも変ですが、言葉が難儀なんですよ、人間には。

ずうっと聞くための耳は塞いでいないと、
生きるのも処していかれない立場に居たような人達です。

物を言って聞かせようは、余計に届かない手段になるし、
彼らが反発するのも、これから自立する人間が通る道だからです。
言葉で注文を付けるのは、控えておくのが宜しいですよ。

そして、ここがまた大事なところなのですが。
家族が抱えているだけで、なかなか解決はしないんです。
家族で対処できるのなら、最初からこうなっていませんもの。

自分の力で無理なことというのは、
他の人の力を借りて、その助けを活かす必要があるのです。

誰だって困って窮することは経験をする話です。

もし誰かが困っていたら、
今まだ困ってない人が力を貸さないといけないし。
それを支えにすることを困っている側でやろうとしないのなら、
解決なんて迎えがたいんだと気が付く潮時が今なのです。

助け合って、支えあって、というのが、つまり社会がある理由です。
人間が社会を成しているのは、自分で全部するのが不可能だからです。


考えの足らない、おバカな人は、いいえ自分は全部できています。
そう仰るかもしれない。
あなたのお召しのお洋服はご自分でお作りですか?
今朝のご飯は、おうちの畑で作って取ってきましたかね。
これを読んでいらっしゃる端末は、ご自作でしたかしら。
何にしても、パン一つ、米粒一個も、どこかの誰かと、
すべからく持ち回りで世界があるというのが人間ですから、
何かで困ったときには、臆することなく。
頼める相手を見付けて、
そのことを仕事にしている立場の相手を使うというのが、
社会で生きる人間らしい生活の持ち方なんです。


世の中が回るというのは、誰かのお陰で、こうやって暮らしている。
そういう生き方が自分で承知しているか無知でいるか。
これも考え方・見方一つの持ち方を工夫しているか、できていないか。

仮に無人島生活を志そうとしてもですよ、
その場合に使う知恵にしろ、生きていく身体にしろ、
すべて自分以外の何かを由来とするから、
今そうあるのだ、ということですものね。


あたかも自分で持っているようで、
すべて他から与えられたもので出来ていることです。
またそれは順繰りで、いま手にあるようなものは、
また別の他のものに、それを渡していくように出来ている。






7月も終わりですね、8月並みに暑いけど。

2021年07月31日 | 日記




さっき、ある閃いたことがあったので、
今朝はそれを少し書いてみることにしました。
ふと気が付いて分かっただけのことで、
まとまった内容として書けるかどうかはわかりません。
ただ、とても腑に落ちる感覚が浮かんだので。
取り敢えず、ここに書き留めてみることにしました。



普段いつもは長女の家で飼っているワンコを、
昨夜から我が家で預かり中でして、
このところ毎週金曜夜から翌日の土曜朝まで、
私たち夫婦の所で、その犬の世話をしてやる習慣です。
週一で、可愛いワンコを看てやるのが、私の楽しみでもあります。

今朝、テレビ中継のトライアスロンを観戦している妻の傍らで、
私は膝の上に抱く小型犬をヨシヨシと撫でていました。
そうしながら、犬の身になり想像をしていました。

もし自分の何倍も大きいような相手から、
自分の背中いっぱいぐらいのデッカイ手のひらで、
優しく背中を撫でてもらったりしたら、
いま大人の自分にしたって、きっと気分も子供返りして、
それはさぞかしウットリ、心地の好い思いを味わうことだろなと。

それは犬を可愛がりつつ、可愛がられる側の感覚も覚えながらみたいな・・・で。

かたや小さな動物であり、もう片方は、その何倍も大きな動物です。
その向こう側と、こちら側の両者の間に、
横たわっているような関係性とでも言えば宜しいでしょうか。

それは向こう側からも味わうことだし、こちら側にも感じられることです。
むこうであるのか、こっちなのか、それすらも、あまり区別がなく、
もはや混然と一体化した感触が、そこにはあります。
そう言い切って間違いじゃないと思うんです。


ここで自分がどっちの側か、わざわざ分ける必要もいらないんだし、
どっちも、こっちも、むこうと、こちらの、その両方の間で、
これを味わっているのだなと、そうも思いました。

だから、それは相手の中にあるじゃなく、自分の内に持つのでもない。
お互いの間に、それはあるから。ということです。

関係性における云々とか、コミュニケーションの上にある然々でも。
そんな旧くて硬い言い方の表現にすれば、そうなります。

立ち会う自分というのが、仮に両者いずれの側にあっても、
これらは並列横並びに両者眺め渡しつつで、そこで感じ取るみたいな、
そういうことでもありましょう。



さて、少し飛ぶみたいだけど、次のような場合はどうでしょう。

仮にここでもし、
右手にAを持っていて、左にBというのを手の中にして、
その両方を同時に持つ自分から、それらを使い何かをするならば、
両者を、自分の手でコントロールしたり操ったりしつつで、
両手を使って、それらで何かをします。だからこれは道具ですね。
これは頭を使いながらで、何か行為をしたりする訳です。

でも自分そのものが、もしそのAや、B自体の場合にどうか。
これら両者が、どう使われて、いかに動いて、働かされるか、というのは。
実はA自身でするんじゃなく、Bが行ってるというのでもない。
いわば、双方間に仮想され得る、もっと何か別の視点を通してこそ、
それが起こせていた意味にはなりませんか??

 

つまり自分自身Aであり、Bを見る場合に、そこでは何が起きているか。
これは既に、自分は系の内に最初から含まれています。
それ自体、あたかも盲点なので、自分の目では見えていませんが。

Aである自分の目で、Bを覗き観察したというのは、
もしかして、Aでも、Bでもない、別のCを通した上でしか、
物事として何があるのかさえ視られない話かも知れない。

観察する人間が、現象として起きることに、
覗こうとするから、結果へも関与をしてしまうという。
あれは、そうした真意で起きていたのじゃないのでしょうか。

そうするとですよ。
そもそも自分自身がAだとか、Bだとか、
ここに何か確固とした固定することができる拠り所が、
そこに存在するみたいな仮定が出来ると見做して考えたのは、
ここのセッティング自体が、まず成立なんかしてないのではないか。

これは、あまりに引き付け過ぎた、捉われた立場の目の付けどころかも。
ほとんどまるで偏見や因習のような拘り過ぎた無知同然だったかも。

これは、そこにある何かすべてに、同じように当てはまるはずです。

間にある別の何かを通してなら、両者を知る視点が在り得るが、
A側から観た見方で、相手Bを見て視えることでなく。
逆にB側から、A側が観たことが通用する話でもない。

間にある「何か」を通した、その含みの上でなら、
それらについての何らかの共有を図ろうとするのが可能だとしても。

その肝心な部分を無視して素っ飛ばせば、この事態がどんな現象か、
片方の当事者の立場ですから。外から視えているのでないくせに。
自分の見え方に拘るあまり、偏見的な決め付けた声掛けになる。
つまり、文言の中には相当強烈に指示・命令が、
また困惑や非難が含まれることですから。
それ自体相手を傷付けるし、視線を向けることすら中傷になりうる。

これらの事象というか、某現象を呈する背景には、
ほかでもない自分の側も、そこには映り込んで起きている証拠。

続けても為すべき仕事も成らぬまま次々に積み残されて終わりますから。

ここオープンダイアログに重ねることができると思うんだよね。



だから、またしても飛ぶような話し方だけど。

いま自分の母の状態に少し困ったことが持ち上がっておりまして。
年寄りに在りがちなボケ症状の面が進んできました。
ある程度、顕著になってきているのですが。
でも何といっても1000㎞遠方で生じていることで、
今すぐここから、ほとんど何も直接に出来ないのです。

その母を同居して抱える私の実の妹が、
同件についてやろうとしている対応・対処で、
こちらが頭を抱えちゃうような部分があり・・・・。


でも、これも前だったら、何か相手のコレコレの問題だから、
その本人をどうこうさせるしかない、という論法で受け止めると思う。
でもそれでは、さっきの気付きの観点から言うと、
目で見ていても、何も視えてはいない関わり方でしかありませんから。

私ら双方の間にあるところの何かを通じて、
それらについても考えていくという、そういったやり方が、
この場合も手段としても正解なんだろうと、そんな風に思うのです。

そこには自分を力点に、テコを使ってでも相手が動いたらいい。
そういうクレージーは、入り込む余地がありません。

だから、これ世の問題ごとを抱えている方々にも、
それを共有させて頂きたくブログとして上げさせてもらう次第です。

何分稚拙な表現です。
言葉が伝わるかどうか無理かも知れない。

しかしこれとて、間にある何かが仕事をしよるんやないかと。
期待をする今日日の私です。

では、週末ゆっくりと休めたら好いですね。
涼しい朝のうちに。
いや、もう暑くなってきましたか。
夏ですからね。

最後まで、お付き合いありがとうございました。



お暑うございます。

2021年07月29日 | 日記



今日も暑かったです。
あと、北九州だと、空の霞み具合も感じました。
とても青く雲なく晴れているのですが、皿倉山が、
何か白っぽい視界を遮っているモヤの濃い空模様でした。



さて、わが家では、この週末ごとに同じくで、
次女と長女たちとで変わりバンコに、付き合って過ごす日が続きます。
昨日と今日だから、平日からです。それぞれ通院同行です。
この後、明日まだ、今度は、その子たちのお祖母ちゃんである、
妻の母親の通院とかも予定しています。
家族がいると、それなりに用事もできたりします。
でもこれはこれで、私としては場面ばめんで手伝いつつも、
妻と一緒に居られる時間ができた分は、半ば歓迎しているのです。

今日は、その妻にマツワル事柄から始め、
二つ三つ私なりに気付いたことなど綴らせて戴くことに致します。



私の妻は高校生のころ、ファーストフードでアルバイトしておりました。
そのせいもあってか、店員さんのサービスには点が辛いのです。
いかにお客さんに感じ良い接遇ができているか、チェックが入ります。
妻の言うのを聞くと、なるほど確かにね。

今日は、入店した某ファミリーレストランで。
そこは安価なだけあって、店員さんが一人でホール全体を見ます。
ドリンクバー等々で、それをするのが可能なのです。
ただ、何かあったとき、すぐには応じきれない。

まあ。個々の件まで必要ないので書きません。
ただ、私なりに感じたのは、良い店員さんと同様に、
お客さんにも良し悪しがある訳です、当然です。

よく、傍若無人な「お客様は神様」ぶりなモンスター客層もいます。
でも店員側に求めるのと同じで、お客さんも自分は利用をする側として、
そこに適切性のある好感度を旨にした対し方をしているのか。
そこにも、やはり紳士的なマナーが求められて然るべきですよね。

でも相手にばかり、自分の目と注意が向かい過ぎるような人たちは、
自分が、相手の目にどう見えるか、完全に失念してたりする。

そういうのは当事者より、第三者に、ここで今何が起きたか。
そこを手に取るように見てたりします。

そういうことでは、自分一人だけで困っているより、
同じような困りごとを抱えた人間同士が集まってみるのも、
いま自分には何が起きてるか、それについて今後どうしたらいいか。
これを知るのに、セルフヘルプが、とても有効な場合がある。

それだから、引きこもりは、余計に出口の設けにくい袋小路だと、
そこも察しがついたりします。

さて、物事は何でも、自分と相手があるならば、
こちらが向こうを見るごとく、相手もこちらを目にします。

これは病気障害状態にいる人の場合、そこの双方向性で、
ついつい見えていない状態に陥っていたりします。

その人々を見守る保護者にも、そこについての同質さはあります。
だから、これをモデルに見習う側にも、同じことが生じるのだとも。

その相手のことのようで、その中に自分の側も映り込んでいます。

初めの店員さんの接遇で言えば、お客さんは店側の態度を見ますが。
そこには、期せずして自分も、その場に居合わせればこそで、
そのシチュエーションへ、わが身を置いた上の話です。

なにかまるで中立的な透明人間が、事象の観察をしていて、
そこから店員さんの良し悪しの値踏みをする意味じゃないのです。
これは量子物理学の怪奇な現象も、それを言ってるし。

即ち、もし感じの良いお客さんというのが目の前にいれば、
目前の店員さんの応じ方にも、知らない間の反映が起こっている。

それは例えば、単純な声の掛け方とか、挨拶の交わし方の端々でも、
お客さんが自身が、それを意識するかどうかは別にして、
そこに居るだけで、兎に角、自分の雰囲気が醸し出されてます。
その場で目の前へ立つ時点から、いやもしかして視界の端に来た段階で、
もうコミュニケーションの入り口は、始まったような。
そこなんですよねえ。

相手がどう思っているかを忘れてしまうような態度とは、
自分の周りを見渡して、そこに応じた内容が何かというのを、
自分に、それが見えていないのか、あるいは見ようとしないのか・・・。

そのコミュニケーションの巧みさでは、ギコチナさの持ち主かもです。
それで、目の行き所が、相手のサービスを気にするのじゃないか。

実際、そういうタイプの人たち。どうも緊張感が強かったり、
気安く相手の人と声を掛け合うのは、あまり上手じゃないとか。
呼吸というか、間というか、間髪機敏に振る舞うのが、
どうして出来ないのかというと、違うことへ気持ちが行ってますよね。

それは常にどこか被害的な構えで周囲を伺うみたいな人が多いのも、
そっちへ、すっかりアタマが往っちゃってますから。

まあ、それは性分だから、そうした性質を一概に良い悪いで、
指摘したところで解決なんかしないのも、私は了解しているのです。

ただ、そういう背景を帯びたような人は、どこにもたくさん居ますし。
それら多くの人々とも同様なんですから。
それが自分にもあるというのは、変な気後れとかを持たないで、
もっと図々しくなったつもりで、自分もその口だからと、
平気で自認をしてると良いと思います。

そこが、出来ないから降りられないのは分かる。
でも意地を張るかどうかで言えば、そんなことする必要ないです。

その我慢が、のちのちシンドイ尾を引く御本尊ですからね。
これは心のどこかで素直に認めておくほうが楽。
つまり、無理して作らないといけない ← これこそが問題の種です。
それが今の厄介や困りごとの核となり雪ダルマを背負ってしまう。

出来ないのは百も承知ですが、出来ませんと虚勢を張って開き直れば、
それでは只の痩せ我慢にしかなりません。
素直というのは、まず自分が楽だし、物事シンプル簡単にする方便として、
是非にと、おススメなんです。

結局、身の丈に応じた生き方をする覚悟が出来るか出来ないかです。
これに尽きるなと思うのですよ。

「自分」に相応しいことを行っているかどうかが重大なんで、
「相手」が分に相応しいことを行うかどうかは、枝葉末節でして。
まず自分がしてないから、棚に上げて他人のアゲツライニ堕してる。
というと、今度は私が叱られますけどね。

そこを森川すいめい先生が体験をされた話として
本にも書いていらっしゃいますけど。
自分が問題を抱えていて、そこの自覚をしていないと、
別の相手に、それが影落とすように、他人にも変な関わり方をしてしまい、
見ようとしない自分が、そこには映り込んで来ているような。

仕事にするなら、実は自分のことをこそ、まず気が付けという部分です。

私は言葉が下手で上手く伝えられませんが。
今日は、これで勘弁してください。

また、伺います。
では、暑さに負けず、どうぞお大事にです。




盛夏の候いかがお過ごしでしょうか。

2021年07月25日 | 日記



私は昨夕、家族と海まで行ってきました。
夏の海水浴でした。
関東地方と違って浜辺は混まないし、
ここは行き帰りのクルマの渋滞もありません。
都会を離れないと海に出ないほど、街も大きくないし。
住む上で、そうした面の快適さはありますね。
もちろん、東京に生まれて半世紀ほど暮らしていましたから、
ここに来た頃、確かに不便を感じたことはありました。
それも5年余り居ると、もう慣れました。


また、私のような仕事に就いて働かない人間にとって、
ここの生活費は都内とだいぶ違いましたから、それには助けられたし。
とりわけ地産地消の強みを感じたのは、食料品が安いし美味しいことです。
特に海産物は鮮度も味も違いますし、農産物も種類が豊富です。


それは大量消費が前提だから、そこで大規模な商業行為を行うには、
同等の品物が一定量確保できないと、物販自体が無理な都会とは、
そこの事情や背景が違います。
大量仕入れの品揃えに迫られていない強みです。
そこの小回りが利く分、これは売る人たちだけではなく、
きっと生産者の側でも助かっているはずです。
小規模な農家も、地場の漁業も、そこの地域特性があるので、
ここの暮らしを支え合っていますし、お互い生活を助け合えますから。


交通にしたって、今はクルマこそ必要にはなったけど。
ひとの移動にしろ、ものの輸送にしろ、
そもそも市街地そのものの規模が知れていますから。
住んでいる場所と、働く場所が、数十キロとか離れているは、
まずここにはありませんよね。
ひとが暮らすには、人の等身と釣り合うサイズがありますから、
それが暮らしやすさの理由ですよね。
街中に住んでいても、人間の足で歩く距離には、自然環境も豊か。


物事に対する見方・受け止め方だって違うんじゃないかなあ。
それが違うんで、引っ越してきて、ここに慣れた今だと、
東京にいたころ、服用の限界量まで使ったクスリが、
10年経たずに処方の上の最低量まで減らせた要因の一端でしょうね。
もちろん信頼しあえる人と暮らしているのが一番のクスリだからですけども。
そういう人薬は大きいんですよ。
口から入れるクスリより、うんと大きく人の状態を左右します。
確かに効くときは効きますよ、クスリなりに。
でも、ある一定の効果を発揮して、それでまだ解決がしなかったら、
それは薬をイジルことより、今度は周りを変えるのが効くはずですよ。
ホント騙されたと思って試すといいです。
私は経験しました。
もちろん、これも私の体験ですから、
それぞれで、どう生かしていくかは、人それぞれの工夫次第です。
もし、まだここに言葉を添えるとしたら、
即決で答えを選ぶよりも、試しながら、様子見つつで、工夫を重ねること。
そのあたりですね。


まあ、生きている限り、それは続けていくことですから。
お互い気長に構えたつもりで、銘々に与えられている時間と、
自分らしい暮らし方で、付き合っていきたいものですね。


さてさて。またにします。

今日は妻の次女と過ごすので、グループホームまで
夫婦一緒で迎えに行きます。

昨日は、上の娘と海に行ってきました。
その三十路の子も引きこもっていますが、
迎えに行くと一人暮らしの家から、
出てくる日もあるようになりました。
一人暮らしじゃないなあ、あの子のところは、
ワンコがいます。その室内犬も海に連れて行きました。

まあ、誰でも、そんな風なことですから。
今、これこれだから、自分はこうなんだというのは、
答えを即決し過ぎていると思います。


では、今日はここで失礼致します。