家族会というのがあります。
そこにはセルフヘルプグループ的な側面もあります。
そうであれば、この問題について、
もっと当事者側の集まりも、充実していいはずなのに、
保護者側の団体ほどは規模も組織力でも限られていたりです。
自然発生的に、病気障害の本人たちの集まる場所で、
入院中の病棟や、通所先の施設とか、グループホーム等々にも、
そういう場で、集まったなりに横並びな繋がりも出来る。
仲間に出会い、自分だけじゃないと知るし、
共通のバックボーンを持つ同士ならではで、
互いに共有できる体験は、自分の支えにも感じられるし、
他の人の工夫は、自分のヒントになることも多い。
結構そこで、メリットになることが見付けられたりもする。
でも、共通の目的を目指しながら、
意識的に自分たちのグループを発展させていくかは、
先にあげた家族会みたいな規模や結束力を、
当事者側の集まりでは見かけないことも多いです。
自分たちの会として、主体性を発揮させようとする機運でも、
家族の側の会ほど、モチベーションも高まらなかったり。
一つには、少し嫌な物の言い方に聞こえるかも知れないが。
ある部分、家族会というのは、二つの意味で、
被害者団体の結束力が、働いてる側面が認められますから。
それはまず、過去において、病気の家族が居ることで、
家族たちは社会的に不利益を被ってしまうという現実があるし、
もう一つ、病気になっている相手から、その家族は、
事実上、被害者側になる場合も、多々起きてしまいますから。
家族は周囲に知れ渡ると不利益を被るから、隠そうとします。
隠すというのは、同時に必要な対処を図るのも遅くなりますよね。
手当てが遅ければ、病気障害の程度や状態についても重くなる。
極度に具合が悪くなった場合、よく発生するのが暴力。
本人が家族に対して手をあげることも起きるが、
それに対抗しようとする家族が、病人を打擲してみるとか、
虐待してしまうというのも、起きてきたりします。
その結果、さらに悪循環で、この事態はどんどん酷くなっていく。
だから、やっぱり家族で対処しろという構図は、
どう考えても、あんまり賢いと思えません。
じゃ、単純に家族と引き離せばいいのかと申せば。
過去も、現在も、入院措置という手段がありますが。
これが意外と片手落ちな対策になりがちです。
一旦は、これで本人は落ち着く場合も、よくあったりする。
じゃあ、それで解決するかと言えば、たいていの場合は、
軽快した後に、家族の家に戻るとか、元の環境に帰すとか、
でも、そこにいた時点で生じているようなことですから、
同じ場所に戻れば、同じことの再現を繰り返すという局面が、
非常によく起きてしまうことなんです。
要は入院というのも、結局は対症療法に過ぎない訳です。
入院しても、根本治療になる意味じゃないんですから。
対症療法で落ち着いているだけだというのは、
いつまた悪化するかも分かりませんから、
ちょっとした切っ掛けがあれば、また再度そこで悪くなる。
これは、世間でよく言うような再発なんかじゃないですからね。
それは一旦、小康状態になっていただけですもの。
そもそも根治なんかはしてないのに、そんな表現は不適切でしょ。
というか、いつも言うように、障害は治療ができませんからね。
病気という呼び方がミョウチキリン過ぎるだけです。
一定の障害状態にあって、その人が身を置く環境の影響により、
障害の状態というのは顕著になったり、目立たない程度だったり。
結局、これは本来そういった内容の現象ですからね。
つまり、
治療をして治しましょうという取り組みは、徒労になりますからね。
だから、
これは障害のある人の地域生活をどういうサポート体制で工夫するか。
それこそが実際に即した方策です。そこやらないと解決しない。
いや、そっちからアプローチするのなら、マジ解消するんです。
さまざまな困難というのがね。ホントですよ。
本当の意味で、落ち着いて生活ができているケースを、
つぶさに調べれば、そういう対処に成功しているからだと。
そこを見て取れるの間違いない。これ太鼓判を押します。
結局、お家で家族が看ている限り、それを行うの至難です。
もっと、距離を置いて、専門性を備えた職域に本人を託し、
そういう暮らし方が整えられるように考えていかないと。
なぜならば、障害というのは治せないんですから、
家族と一緒に暮らしていこうというのは、治ってこそ可能だけど。
治らないものである以上、家族たちがどんなに頑張っても、
生活を互いに壊し合わずに両立をさせようなんて、絶望的です。
これは、心の面で生じる不都合としての精神障害なんです。
だから気持ちのやり取りにおいて、スムーズにいくのは無理です。
家族とは、家族ならではの気持ちの通い合いが前提ですが。
そこに差し支えの生じている障害です。結局、家族としては機能し難い。
家族として機能しない人々に、家族役割りを振るんですよね。
そこの構造そのものに、有り得なさ過ぎることを強いている面がある。
こういうのが、そこにある現実です。
でも、諦める必要もないです。なぜなら、人というのは、
生まれた家から離れて、自立した生活をするようになるのが、
誰であっても、実際の人間のたどる人生なんですからね。
ただ、そうする背景や理由で、こういった障害の場合には、
それなりに違うコースで、そうしていくんだというだけですもの。
確かにね、多少とも譲り合いながらで、
同居をして生活を共にする場合は世間にもある。
あるにはあるが、これは家族も本人も負担に応えてる意味。
本来的な、自分らしい生活は、互いで犠牲にしつつの暮らし方です。
納得づくで、そういう選びをする人を止めはしませんが。
一人ひとりの生活の持ち方を大事にしたいのなら、
もっと自分にあった相応しい暮らし方をさせてあげたいものです。
なぜって、100人に一人は本人として体験するんです。
これには付随する少なくとも2人の親があることで。
また姉妹兄弟もそこにいたりします。
計算すれば100人に3人から、それ以上が直面することなのですから。
20人に一人は、そういう場面にあるとしたら、
なんで、これを世の中の仕組みを考え直すための機会にしないのか。
これは、そっちの方が、むしろ異常なんだと言うべきです。
当たり前のことを、当たり前にすることが、
ここでしていくべき取り組みのはずですよねえ。
家族会があっても、家族だけがする話なんかじゃないし、
家族内で完結をさせられる取り組みだなんて、
有り得ない話だと世間は知って気が付くべきなのだし。
それを、こういう問題であると訴えて働きかけていくというのは、
ほかでもなく家族会が果たすはずの仕事じゃないですか。
個人的には、そんな風に思っていますし。
そこを切望して止まない気持ちで一杯なんですよ。
一人の人間が60余年かけて、辿り着いた考えなんですけどね。