これまでの人間が生きてきた長い歴史を考えてみると、
ヒトという生き物は、どんな物事であれ、そこに不完全・不十分な事柄を見つけ出しては、その何かについて、さらにいっそう完成を遂げた状態だとか、また少しでも堅固なしっかりとした何かに置き換えたくて止まないみたいな、そうした衝動に突き動かされ、今日まで、その活動を絶え間なく繰り広げつつ歩んできような存在である。
と、そんな定義さえしたくなる気がしますが。
これは社会全体もそうですが、一人ひとりの個人にも、それは同じように作用していたりもする訳です。
例えば、ある集団や、グループ。それは地域や国であっても、また職場のような組織や、家族のような単位でも、それらを構成するメンバー同士のあいだで、同じように、目的や方向を重ねつつ、その活動のなかに発揮してみたり、
また一個人でも、その自分の生き方・考え方に、何かこれをいっそう納得できるような状態にしてみたいと願って、そこに働きかけたりします。
そういった事柄にも、やはりここで、ヒトという存在の本来から備えるらしき性質の働きかけが、おなじように見出せると思います。
さて、もしもですね、これらのなかにですが。そこへ何か不一致や不確実なものを、誰かが見付けられているとか、気が付きかけていたとしたらですが。
これは、やっぱりヒトであれば、それは取り除くべき事柄として、もっと違う何かに置き換えてみたりして、そこをより完成をしたような状態にしてみたいと、そう願うだろうし、またそれを実現させようとするのも、これは流れとして当然と、そんな風に考えられることだと思います。
しかしながら、これは一個人で自分のなかだけで行いうる場合と、もう一つグループや集まりで指向している状況とでは、そこには一定の違いがあると指摘可能なのも自明でしょう。
つまり、それが自分単独であれば、自身が自己によって変更することで、それを完結させられるということかもしれませんが、
もしこれが一定の複数の成員で、それらことに挑むような局面であれば、その何か、ここで気が付きつつある事柄・対象についての共有を、そこでいったん図りつつ、そのうえで、これについて共同で問題にあたらなくては、その何かに関して所期の目的の達成は遂行しようにも、これを行いえないことですよね。
もしその際、仮にそこを構成するメンバー間で動かしがたい序列があり、上からは命令が下る。だけど、下から提案しようにも、そこを汲み取る仕組みが十分でなかったり、これが欠けていたりしたら、その場合どうなるでしょうか。
ここで明確な指摘をすることができるぐらい、言語化が可能で明示しうる事柄として、伝えらえたなら多少は困難が小さいかもしれない。
でも、何となく不十分さを感じている程度であったら、これは言う側も聞く方でも、そこの話が届きにくいのは間違いない。
しかもですよ、構成する単位が非常に小さく、一対一で、それらを相手とやり取りするのだとしたら、これはどうでしょうか。
つまり、相手とこちらが対等ではなくて、何かを伝え合う、やり取りしあわなくてはいけない。そういう状況で、これが1対1であれば、これは力を持つ側と、力が弱い側の、たとえ小さな力量の差だとしても、そこでの立場の違いというのは、圧倒的な差であるというのが、この二者関係の間に生じてくる差です。
要はここで、社会というのは、その二者ではなく。もうひとつ第三者という存在が、ここに働きとして、あるかないかで、ことの当事者同士と違う別の視点からの立場が、そこにキチンと噛んで存在をしてるか、それともまったく噛んでおらず何の存在もしない。このあるなしで、そこでの人と人の間柄が、決定的に異なる形勢の違いとして喫してる意味です。
仲介・仲裁する立場としての第三者を持てるかどうかで、当の二者の公平性を担保するか・しないかのカギになる。
つまり二者関係で、もしもその相手が対等に耳を貸すよ・聴いてあげるよと思ったとしても、そこは成立させようにも、最初っから、機能なんかするはずありません。
そこを多くの親が無知だったり、気が付いていない。意地悪く言えば、知らないふりをして、かさに着つつで傍若無人をしていることすらある。
一見したところ目に見えないようでいて、実は暗にこの力による抗争や支配が、そこへ潜んでいるといっても過言じゃない訳です。
結局、病人の側が苦しむ、困難で壁に遮られる、というのは、そうした構えが、ここに立ちはだかるのを、その場に立ち会う人間が認めていない、向き合っていない、気が付こうとしていないと、そうとしか言いようがないのが。この問題にある一番に根深くて悩ましい根幹の部分です。
さて、いかがでしょうか。そういう話であるのに、それを家族が抱え続ける話だよというのは、これでこの問題にあたろうとするのは、あまりに無理難題が酷すぎませんか。
そういう不可能な作業に従事をさせられ続けて、これで何にも解決なんぞするはずないな、と。その理由が、これがあるからだと。少しはご理解いただけましたでしょうか。
しかも、ひとは誰しも自分自身には認めたくない受け入れたくない、そういった盲点をどんな人でも心の中に持ち抱えていたりしますが、これは生理的な目の中の盲点が現実ここにあるがのごとく、絶対に避けられない事実ですが。
この部分があることに、身近な人間のだれか、その多くは子供の側ですが、妙だな、そこオカシクナイみたいな気付きというのを何となく見えていたり、気が付きかけていたりするのは、一番近しいだけに如実に感覚したりするのですが。そこを伝えようにも、今度は聞き届ける側で、聴こうとする耳というのが働いてくれないというのも、これが盲点という見えないところだから、気が付きようがないのだと。そういうことがおきてくるのです。
つまり、これは第三者が、第三者だなんて、そこが、そもそも捻じ曲がっている話だと理解すべきです。事実上、現に必須であるべき第三者の介在というのが、ここで微塵も機能していない、そうした致命傷があるからこそ、そこで起こる困難が取り除きようもなくなってしまう訳なんです。
子供から、お父さん顔に何か付いてるよ、という物理的な現実なら、お母さんだって、「あら、ホント。お父さん顔に○○が」
でもね、多くの場合もっと抽象的な目に見えない。言葉で指摘しがたい内容ですし。夫婦というのは知らず知らずお互い似たり寄ったりで、同じように同じものを持ち合わせていたりして、お互い自分たちでは無自覚なことも多いです。
これ自体が悪いとか、良いとかではないのですが、ただ、
この第三者の不在というのが、そこに、そのままあるかぎり、肝心の二者関係の谷間に横たわっている見え難い支配・被支配という深い溝というのが、結局いつまで経とうとも、両者を隔て続けたままになってしまうのだし。
そういう一種の不健康さとでもいうべき、いくらかの歪み具合というのが、修正をされないままに残って、やがて時間とともに固定化もしていく。
結局、その予期せぬ隷属した関係から、当の親子も家族も、永遠普遍に抜け出せないような袋小路になったままで。これを世間から知ってやろうともしていないし、それを汲み取って、ここに自分たちの役目があるから、それを果たすべき事柄として、一肌脱ぐこともしてやらない。
これは、最初から、そこに世間が、まず存在もしていなければ、機能を果たすこともしていないということであり、無に等しい話です。
ここで、敢えて申せば、親たちも、ことによって子供たちすら、世間体に目が行くという、それ自体も、そういう具合で、世間について意識しているのに、その世間というのは、この家族を見て見ない知らないふりをするといっても、いいなのかもでして。
これが、じつは、これ自体こそ、まずもって引きこもりそのもんだし、だから社会自体が、家族に対して「引きこもり」状態に陥っているというべきです。
そういう入れ子の構造・構図があるというのを知るのが、ここにある入り口であって、それが出口で突破口なんでしょう。
これは社会そのものが、その存在証明を問われた。そういった危機です。
社会が不在で、人間が立ち行かないのは自明です。人間は如何にして人間かというのは、人というのが社会性を帯びているからこそ、ヒトはヒトでありますから。
見ない・聞かない・言わない・ふりしつづけて。そういうイワナイお岩さんみたいな幽霊社会こそが引きこもりというモノノケの真実の正体なのです。
つまり、各家庭のお家にあるのは、その社会が映り込んでいる鏡のなかの吹き出物の状態だという、怪談話がこれでしょう。
これが成仏できないというのは、そうした道理があることなのです。
お岩さんの話だって、欲に目がくらんだ人間がいたから起こった話で。
これも、現実に自分が引き受けるはずのことを果たさないで、逆に怠ろうとした姿勢が社会にあるからだと、そういう結論を、お伝えして、今回の締めくくりと致します。