たとえば、
何かの影響によって、
「これこれは、しかじかになりました」
そういった理由なり、もしくは原因?
みたいな、いまある現状について、
その繋がりと思しき過去のものを、
ときに考えたり、探してみたりして、
そのときに思い浮べたことで、
これは、
どこに元となるモノがあったのか、
ひとが、知ろうとしたがったり。
こういうのって、よくありますよね。
神話というのも、そうだし。
歴史を学んだりするのにも、
そうした面はあるでしょうね。
もうちょっとパーソナルな、
自分の家の家系や、
それら由来来歴についても、
そうやって理解をしたいという、
ひとびとの知りたがる謎について、
それが、こたえの一つだと言えますし。
それらは、自分がどこからきたのか、
自分たちは、何者なんだろうかも、
いま自分がどこにいるのかしらだって、
これら漠然とした問いを、
少しでも、もっと掴みやすいような、
よくわからないものを、
いくらかであっても、
ちょっとでも腑に落ちる納め方を、
したいからと「こころ」が思うというのも。
結局ひとの心が、自然にそうしたがるからという、
これは、その一端といえるでしょう。
それは取り敢えずであっても、
落ち着きどころに置いてみないと、
それを、どこかに据えられないことには、
ひと心地つけないという性分を、
われわれが持っているからですが。
でも、それらは、
仮の安置場所に過ぎないのも事実です。
あることを、
それは、〇〇の関係で、こうですよと、
そう言っておいて、
その口が乾く前に、すぐ別の、
いや、あれは、これこれだったんです。
これも実によくある話です。
だから、決定しているつもりでも、
厳密には、宙ぶらりんな、
常に(仮)つきの座りというのが、
どれにもこれにも付いて回ります。
ただ、あらゆることに、これが備わるから、
とりあえずであっても、仮の置き場に、
ここだなと、しておかないと、
また、別の切羽詰まったことが、
次々と差し迫ってきますから、
妙だけど、決まったつもりになっておかないと、
対処ができないし、収拾もつかない、
そういった混乱に巻き込まれるのも、
目に見えていることです。
だから、その事態を避けるために、
こういうのも方便の一種だからと、
こころの片隅にであっても、
そう意識をしておくことが大切です。
それを愚かにも失念していたりするから。
どこかに真に永久普遍の収まり方が、
理想的に存在をするはずだという。
そういう、あり得ない想定してしまうから、
絶対に確かな〇〇はどこだろうって、
これに陥ってしまうのが、
いわゆる強迫症的な対処の理由だと、
そういって良いのかもって思ったりします。
それらの人が求めている完全・完璧は、
どこにあるのかといえば、
これ現実には存在しないんだけど。
だって、そもそも、すべてが(仮)の、
取り敢えずで構成されているに過ぎないんだし。
変わりつつ、移ろいゆくことが、
過ぎゆくままに、経ていくという、
諸行無常じゃないけど、
その何かが、もしそこに、
間違いなく確かにあるのだとしても、
それだって、今だけバージョンが、
今の今だけ、そこにあるという。
それだけといえば、それだけですから。
いつまでも、ある。
これを確かめようと願っても、
そこに立ち会う自分自身だって、
限られた時間それに付き合えるだけですし。
要は、組み立て方そのものが、
最初っから錯誤を孕んでいるから、
こういう脱線は解決しえないコースになる。
そういう話だよと、
理で解さないと、
あるはずの出口を、ないないと、
右往左往してしまう羽目になります。
すべては仮初(かりそめ)です。
これを悟ることが、賢いと思いますよ。
あとは、長年やっていると、
苦痛な行為すら癖になりますから、
放っておいても、気持ちが自動的にいってしまう。
これは、改めて別の方法が身につくまで、
そこを練習し続けることです。
必ずできるようになります。
だって、いまの強迫症状だって、
そうした身につけ方で学習をしたのですから。
あとは、仕切り直しに、
自分の中で上手な通過儀礼
イニシエーションを工夫されてみては、
いかがでしょうか。
ではまた、今度
今日は、ここで失礼します。