いま、そこに、あなたが、あるのは

誰も『苦労』はひとそれぞれ。しかもすべて自分のオリジナル。つまり人間の数だけ誰にもみんな役目と役割りあって生まれてる

60年経っても、影響しますから、

2021年09月21日 | 日記


だいぶ涼しくなりました。
秋の夜長、いかがお過ごしですか。
夜が明けるのも、ずいぶんと遅い時刻です。
まだ家人は、よく眠っていますよ。
寝室で、ゴソゴソと用事をすれば嫌がられます。
なので、隣室で、これを書いています。

私には、80代の母親がおります。
母は都内に住む私の妹の家で暮らしています。
今にして思い返せば、あの母はどうして、
あのようにして、私の養育をしてきた意味なのか。
私も、この歳にして自分なりに考えたりしています。
いま60代の初老の老人の目から、
そこがどんな具合に映るか、その辺りを、
今朝は書いてみますので、お付き合いくださいね。

例えばの話、何かを育てるというのは、
動物だって、植物にしたって、
育つ相手の都合がありますから、
これを、もし無視なんかしていたら、
育ててやるなんて、とうてい出来る話じゃない。
これぐらい、どちらさんでも理解はしていると思う。

植物に、どういう風に花を咲かせろとか、
どんな実り方をするようにと、声を掛けたりして、
そう命じるから、それで草木が育つのではありません。
そこは、むしろ、反対なのです。
どうしたら花を咲かせるのか、いかにして実らせるかでも、
これは、あたかも、相手に尋ねるようにして、
そこを聞き出すみたいに、世話を致しますから。
それで自分がどう世話をしたら、相手はどう応えるか。
これを探り出すように、見付けたりしていき、
やがて、いかに世話をすべきかを「育てる」側で、
ようやく知るところとなって、それを知れるからこそ、
どう働き掛ければ良いか、ここで必要な仕事が出来まして、
それで、はじめて「育てる」が、可能になります。
ですから、その相手を知ろうとしない人には、
これが出来るようにはなることは、まずありません。

もし、機械の操作か何かであれば、
これは正しい扱い方をする限り、そのマシンが、
オペレーターが命じたとおり、装置として、
それが働いてくれるはずであるのは、
取りも直さず、相手が、そういう機械だからです。

じゃあ、機械の操作をしようというのと、
動植物を相手に、それを育てようというのは、
果たして、どこが一番に違うのか。
それはコマンドを命じたら応じる装置と、
動植物が、何かの働きかけに対して、どう応じるか。
そこを比べてみようとは、ムリな比較ではあります。
ただ機械操作なら、レバーやハンドルを動かすとか、
何かのボタンを押してみるというのだって、
それはダイレクトに、そう出来るし、そう働きます。
でも、それが、もし相手が生き物であった場合、
その相手の都合というのが、そこには介在してきます。
例えば、人間ならば、その人の自分で考える余地があります。
こうしろと命じるのは可能でも、そうするかどうか、
これは相手の合意する部分あって、為せることですから。

世の親たちは、よく口にしますが。
いえの子供がなかなか言うことを聞かないと。
一面これは当然でもあるのです。
なぜなら、機械や道具とは違いますから、
その相手は自分で考え、自分が主体で動くことです。
不承不承に注文に応えるのだって、そうです。
でも、そこに、このワンクッションあるというのが、
実は、とても大事で、また肝心なことなのです。
なぜなら、これが行為する主体あっての行動だからでして、
声を掛けたから、そうしますだけでは、
その声を掛ける人が、いない状況になれば、
その行為は、そこには起こらないし、
いや、そうする必要があるの判断さえも、
そこには一切ないのと同じことになるのですから。

機械や装置が、オペレーターの不在で、
動きません、動かせません、と同様なことが起きる。

つまりは、育てるとか、育てようというのは、
命じるとか、命令に従わせるとか、そういう世界とは違い。
根本的に、そういう状況と異なったことなのですから。

そこを往々にして、世間の「子育て」に従事する人たちが、
理解していないから、私のような「病気現象」を、
抱える者を、いつまでも作り続けてしまうのでしょう。

今も記憶にありますが。
あの母が、よく感嘆して素晴らしいと驚いていたのは、
言うことを聞かない子供に対して、徹底して厳しくする家の話。
極端な人になると、食事を与えないといって、
よくそこまで出来ると、羨ましそうにしていました。
まあ、だから、ある部分、私も大同小異な目に遭いましたが。

それで、その場面で子供が言うことを聞いているのと、
その後、その人が、いかなる人生を歩む話かというのは、
これは、また別の問題なのですが。
母には、これは、そういう物事だぞという理解は、
恐らくなかったようです。
まあ、そこに悪意がなかったことは、私も知っています。
敢えて指摘するとしたら、そこに幾分かあったのは、
単に無知と愚かしさ、であったと。
それを60余年かけて、次世代の知るところとなった。
これは、そういう出来事でありますから。
世の中の方々には、是非とも知って頂きたいからと、
切に切に願うばかりの今日日の私であります。

以上、朝から、重かったでしょうか。
まあ、それでも、私の場合は、どっこい生きていますから。
ではまた、お邪魔します。バイチャ!

ああ、そうそう。これは病者の側にも生じてきます。
曰く、自分では、そうしようと思うのに、
そういう風にできないんだと。

これはね、あなた。
そうなれと命じるから、そうなるでは、
ないことなのだと、まず知ることからですよ。
そこが重要なポイントですね。
どうすればいいかは、自分流で編み出すしかないのです。
つまり、とにかく自分で、まずしてみる。
そうやりながら、また工夫をする、この繰り返しです。
究極これを身に着けるしかありません。
そういう練習ができていなかったから、
そこに尽きるから、そういうことが起こっているのですね。

ではでは。









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