「こころ」の上に生じた「病気」というのが、
はたして、一体何の問題であったのか、と。
そこから、まず問うのであれば、
これはやはり、それらの方々が、ご自身でも感じておられた、
気持ちの上の辛さ、苦しさといった、そういう悩みであって、
それ自体が、こうした病気のおおもとである、というのは、
誰にも共有されるのではないかと思うのですが。
ただ、あまりに極端な状態へ発展をしてしまえば、
傍から見ても、その心情は簡単には汲み取りがたいです。
もはや心が完全に壊れ切ってしまったのではないか。
そんな具合にも、周囲の目には映るくらいですから。
その心の中を伺い知れない傍目にすれば、
これは気持ちの範疇というのは通り越していて、
すでに精神の状態が機能を喪失したなと、
うっかりミスにも了解してしまい、接するような人も。
けれど、これはトンデモナイ誤解ですからねえ。
それこそ、知的障害という括りの扱いにある人々だって、
東田直樹さんの著作等を読めばわかりますが、
これらも、そこに知性が欠けている意味ではなく、
あまりにも周囲と、やり取りする上での支障が酷くて、
そのせいで本人の気持ちというのは理解をされず、
それで、そこを察してもらえないがために、
その周囲で、この障害の状態というものが、
考えられない人、考える上で能力不足がある障害。
そういう問題と受け取っていた過去がある。
確かに、考え方が独特ですが、推測するような、
単純な考え不足の結果ではないのです。
精神の障害というのも、同工異曲な面がある訳です。
こころが機能を失った障害というのは、
あまりにも不正確過ぎた傍観者目線な捉え方であったと、
それを今こそ知るべきです。
ただ、そこにも一種の独特さというのを抱えていて。
だから、そこ配慮なく、相手を糺したりしたら、
それは無理な付き合い方ですから。
言ってみれば、身体の障害で真っ直ぐに、
自分の身を起こせないような人がいたとして、
この人を相手に、ちゃんと身体を起こせというのが、
どれだけ酷い暴言に当たるか、これと同じことですもの。
人間に限りませんが、生きている相手というのは、
あまりに事態に窮すると、通常しないような行動をとる。
それは窮鼠猫を噛むじゃないけど、危機に瀕すると、
奇策を講じざるを得なくなりますよ。
特に身を守らないとヤバい時っていうのは、
そういう機転を使ったりする意味が、そこにはあります。
これは通常しないパターンを発動させます。
動物にしても、死んでないのに死んだふり状態だってします。
これはショックで気絶をしちゃうんですが、
結果として身を守れたりします。
つまり、それぐらいマズイ事態にあるんですから。
どれだけ困っているかを、きちんと察してあげないと。
いくつか例を挙げてみますと。
ある人は、全裸になって外出してしまうケースがあって。
若い男のひとですから、多くの人は猥褻な意味で、
これを受け取ってしまったんだけど、
実は、本人には真剣な理由がありました。
この人は、自分は誰にも危害を及ぼすような凶器は、
持っていませんと、それを見て取って欲しいから、
丸裸になって、そうしていたそうです。
あるいは、別の方は、風呂場で奇声を張り上げる。
大柄で暴れたりもする人だから、家族は怖がります。
でも、この本人が、ご自分で最大に恐れていたのは、
実は入浴時に水がピシャっと跳ねる水音が脅威で、
その恐ろしさのあまり、叫んでいたのでした。
また刃物沙汰というのが時にあります。
周囲は刃物を持つ人が怖いので危険を覚えます。
これも、その本人自身は周囲に危険を感じているので、
そこから身を守るべく包丁を手にします。
そんな場合というのが、よくある。
だから、必死で身を守る人に対し護身道具を手放せとは、
口で言うほど簡単な声掛けが通じる話じゃないんです。
これら押しなべて、そこに知るべきところがあるとしたら、
本人の心のなかで、自分なりに考えた部分というのは、
周囲が想像を働かせ察するところと真逆な場合がよくある。
しかも本人に取って、周囲に対しても、言い知れないような、
恐怖や危険を覚えていて、必死に頑張っている状態。
そうした事態にまでエスカレーションしています。
もっと別の観点から言ったらば。
家族が、それも親というのが保護者だとしたら、
保護者から危害を加えられる恐れを感じているなんて、
日常、想像もしないから、想像がつかない以上、
これは考えていることが、ヘンだ、オカシイになる。
でも、これも人間が何かという面と繋がった話です。
要は言葉を使う、つまり概念で考えたりする。
ということは、それそのもの即物性な面とは異なり、
形而上学的な存在としての人間の精神の仕組みや構造があって、
そこを同時に、人々で共有もしています。
だから共有ができた面においては、言葉でも、意味でも、
通じていたり、通じているつもりだったりが、
表面的に成立をしているから、一見齟齬はなさそうでも、
本当にそうかどうか、突き詰めたら確かめられない。
一定のルールの上にのっとり、共有されているだけであって、
もし少しでも、日常から離れたりすれば、そこの曖昧さは、
脆くも突き崩されてしまう不確かさなのです。
そういう背景を私たちが抱えているからこそ、
ウッカリそちら側に転落しない術の一つとして、
日常を大切にしながら、生活を安定させるのは、
日々の暮らしに、逸脱する隙を増やさない工夫であり、
習慣化した暮らしを淡々とする生活者になるのが、
案外、調子を安定させるのに、効果が高いのです。
ベタな言い方をすれば、普通に暮らすよう心がければ、
その分だけ、当たり前なことというのも、続くし。
続けるほどに、それだけ当たり前になっていきます。
ただこれも、自分の分を超えて、欲張った無理をすれば、
その無理な頑張りが疲弊を生み、無理した以上、
同じ続け方が、どこかで途切れますから。
その疲れて途切れたところで、危ういポケットが入口を作る。
頑張っちゃダメだよというのは、そこを言うんですよ。
無理しないで、頑張らないで、けど生まず弛まず、
コツコツと、かつ休み休みを、必ず織り込みながらです。
節句働きなんかしたりしない、のらりくらり、
のんびり続けられる良い加減さこそ大事なのです。
今日はここまで。また書きます。
いや、涼しくなりました。9月ですもの。
週末の台風にご用心です。
ではでは