この前に引き続いて今度は中国史に挑戦したいと思います❗️
学生の頃は中国史を専攻していたので、実は日本史より中国史が得意だったりします❗️
ちなみに卒論は明代の王府をテーマとして研究しました❗️
一度歴史スイッチ入りますと一段落するまで落ち着かないです🍀😌🍀
日本史を五大転換点としたのに対し、中国史を五大転換期としたのは、歴史が長く、また流れを点として表現するのは難しかったからです😣
そういえば、今はまだ子供達は夏休みの子が多いですよね😁
夏休みの宿題に励んでる子も多いとは思いますが、お子さんやお孫さんにこの記事そのまま使って自由研究などにしてもらえたら嬉しいですね✨
さて、本題に入ります❗️
まず、中国史を約4000年として、中国は日本と違い易姓革命の連続で成り立った国です❗️
易姓革命とはその時代の天命を受けた人間が世界(国)を支配するというもので、日本のようにずっと同じ国が続いてきたわけではありません❗️
日本はその点、現存する世界最古の国であり、同時に世界最古で最長の皇室を保持しているわけです❗️
まずは①に入る前に、夏王朝問題を取り上げます❗️
中国史における最古の王朝は何かというと、中国以外の国は殷(商)としますが、中国は夏としています❗️
その違いは何かというと、夏を証明する史料が何も発見できていないからです❗️
実は殷も同じ理由で、19世紀までは世界でその存在が認められておりませんでした❗️
しかし、前漢の時代、司馬遷が編纂した歴史書『史記』には殷王朝の系譜が記されておりました❗
20世紀に入って遺跡の発掘調査が進み、発見された甲骨文字(漢字の起源)を解読すると、史記の殷王朝の系譜と甲骨文字に記された当時の殷王朝の記録が半分以上合致したのです❗️
こうして、殷王朝はその存在が世界的に証明され、中国史約4000年が確定したのです❗️
この文字史料の発見が超重要なのです❗️
勿論、殷王朝の前代にあたる何かしらの文明が大陸にあったことは既に世界的に認められています❗️
しかし、それが史記に記された夏王朝なのかどうかというのが重要なんですね❗️
人間が猿からいきなり進化したのではなく、猿人、原人と段階を踏んで進化したように、文明もまた段階を踏んで発展します❗️
そのため、夏なる文明が存在したことは認められても、それが夏王朝であることの証明には当時の文字史料の発見が絶対条件になるのです❗️
当時の文明レベルから考えても、小規模な村落共同体と想定されますが、殷より前にあった文明がどのような存在であったかは今後の研究と発掘が待たれます❗️
以上が序章です❗️
①皇帝の誕生
これは中国史では珍しく点で表現できる出来事です❗️
現在、キングダムという漫画が大人気ですが、ストーリーは秦が中国史上はじめて天下を統一するというものです❗
殷王朝もその後の周王朝も支配者の称号は王でした❗️
しかし、周の時代も後半に入ると支配力が弱まり、各地で王を名乗って王という称号が乱立します❗️
つまり王のバーゲンセールなわけです❗️
そこで天下を統一した秦の始皇帝は、王を超える存在である「皇帝」という称号を生み出しました❗️
そして彼は、「始」皇帝になったわけです❗️
皇帝とは天下に一人❗というわけです❗️
実際には時代が進むと皇帝号もまたバーゲンセールになりますが、ついに皇帝を超える称号はでてきませんでした❗️
ちなみにこの皇帝という称号は日本もかなり影響を受けていて、大化の改新で天皇号を創った時、皇帝を参考にしたといわれています❗️
大陸の皇帝と、いにしえの日本神話からくる神道の観念を結びつけて天皇が誕生したわけですね❗️
時を支配する元号を大陸から輸入したことからもそう考えるのが自然でしょう❗️
②漢王朝400年
秦は天下を統一したものの、悪政をしいて始皇帝の死後あっけなく滅びます❗
その後、秦の先進的な王朝システムを継承したのが劉邦が建国した漢王朝です❗️
漢王朝は途中一度滅びますがすぐに再興され、トータル約400年大陸を支配します❗️
漢王朝は現在の中国人にとって文化的源(みなもと)であり、人口の大半を占める漢族の名称もここからきています❗️
日本人でいえば国風文化が栄えた平安時代に該当するでしょうか❗
後漢滅亡後は大陸は乱れ、三國時代や一旦は晋によって統一されるも異民族の侵入もあって約400年乱れに乱れます❗️
しかし、この時代の異民族の侵入は部族単位的、戦争における傭兵的なものであり、その後の時代の異民族による支配を考えると限定的なものになります❗️
③唐王朝によるアジア支配
隋による大陸統一を経て、唐による300年に渡る安寧がもたらされます❗️
隋と唐の関係は秦と漢の関係に非常によく似ていると思います❗️
隋は大陸を統一した点、またその後に続く王朝システムの基盤を整えたところなどは秦と状況が本当に一緒ですね❗️
大運河建設や高句麗遠征の失敗で滅びるところなども、秦が民に重税を強いて、万里の長城を再構築するなどした点と瓜二つです🍀😌🍀
漢も唐も前王朝の良い点(最新の王朝システム)をそのまま導入したからこそ、長い大陸支配をすることが可能だったんです❗️
その意味では歴史上、秦も隋も悪者にばかりされて可哀想な気もします😣
唐変木(とうへんぼく)でお馴染みの唐❗️
我々日本人からすると、平安時代に遣唐使を盛んに送って先進的な仏教や文化を取り入れたことで皆さん御存知だと思います❗️
しかし、朝鮮半島での日本の利権をかけた白村江の戦いで唐・新羅連合軍と日本・百済再興軍で大規模な戦争もあり、最初から良好な関係であったわけではありません❗️
日本は白村江の戦いで大敗北を喫したことで、国防体制を充実させ、唐との関係を模索していくことになります❗️
唐は大陸において、秦や漢を上回る大帝国を築き上げました❗️
その最大版図は後の明や清にも決してひけをとるものではなく、世界史的に見ても例をみない当時アジア最大の帝国でした❗️
また、朝貢貿易といわれるものが大規模に展開されたのも特色だと思います❗️
朝貢貿易とは、唐の力を認めて臣従し、その地の支配を認めて貰い、貢ぎ物を献上することによってそれを上回る賜下品をいただく上下関係のある貿易のことです❗️
日本の言い分はどうあれ、日本の遣唐使もまたこの朝貢貿易の一つとされ、唐によるアジア支配の一環と見なされています❗️
だからこそ、菅原道真は遣唐使の廃止を主張し、実行されたのですが❗️
こうした唐(大陸)を中心とするアジア支配を冊封体制と言い、後の王朝もこのシステムを踏襲していくことになります❗️
④異民族による支配と漢族復興
大陸では古代から中世まで漢族といわれる黄河、長江流域で生活していた民族が中心となって王朝を作り、支えてきました❗️
それが魏晋南北朝以降、周辺、特に大陸北部に由来する異民族が豊かな地を求めて南下してきます❗️
最初は部族での移住だったり、戦争における傭兵としての移民でしたが、唐の後の宋以降、部族としてまとまりをみせはじめ、ついには国として大陸に建国するまでに至ります❗️
その最初が大陸北部、今の遼寧省を中心に契丹族により建国された遼王朝です❗️
遼は明確な異民族王朝であり、文化的にも大陸の王朝とは由来を異にしますが、王朝システム自体はそのほとんどを取り入れています❗️
遼は宋に対して軍事的に脅威であり、何度もその存在を脅かしますが、さらに北方に誕生した満州族の金に滅ぼされます❗️
その金もモンゴルに滅ぼされ、ついには宋もそのモンゴルに滅ぼされます❗️
ついに大陸は有史以来、はじめて黄河、長江流域で発生した文化に由来しない、異民族により支配をされてしまうのです❗️
モンゴル族は伝統的な王朝システムに倣って元という王朝を大陸に建てました❗️
モンゴルはユーラシア大陸の大半を支配しましたが、しばらくすると内紛が起こり、元はモンゴルから切り離された単独勢力となります❗️
そして元も大陸での支配は長続きせず、長江以南より興った明によって大陸から駆逐されることになります❗️
こうして、漢族による大陸支配が取り戻されたのです❗️
⑤王朝の終焉
明から大陸最後の王朝である清までは、王朝交替はあれどこれまでのような群雄が割拠するようなことは少なく、比較的落ち着いた時代でした。
そのため、明清期は文化的に成熟し、王朝システムも完成して明と清の最盛期にはアジアで最も豊かな国でした❗️
清(後金)は金と同じ満州族の王朝であり、明が力を失うと北方より侵入して明を滅ぼします❗️
元と同じ異民族王朝を建てますが、漢族を大いに取り込んで長い大陸支配に成功して約250年征服王朝として君臨しました❗️
中国史上でも名君といわれる皇帝が数人輩出されています❗️
特に太祖ヌルハチから数えて第4代康熙帝は優秀で、私は中国史上で最も優れた皇帝は誰かといわれたら彼を推します❗️
しかし、世界史そのものが激変し、アジア、ヨーロッパ等の時間的な距離が急速に縮まるにつれ、大陸もまたこの激変に取り込まれていきます❗️
19世紀に入ると、清は力を失いヨーロッパ列強国に半植民地化されていきます❗️
日本も明治維新を期に急激な文明開化を成し遂げ、日清戦争で清は国家としてトドメをさされます❗️
こうして、古代より続いた大陸の統治機構としての王朝システムは限界を迎えました❗️
皇帝専制主義は清の滅亡と共に終焉し、民主化、そして共産化の道を歩んでいくことになります❗️
かなり大雑把ではありますが、中国史の転換期を中心にして自分なりにわかりやすく説明できたのではないかと思います❗️
いかがだったでしょうか❗❓
私が考える大陸三大発明❗
「漢字」「史料編纂」「王朝システム」
御覧いただきありがとうございます😉👍️🎶