代表の久田です。
2023年3月15日(水)〜25日(土)に、トルコ・シリア地震の震源地から南西27km、ガジアンテップ県ヌルダウ郡(人口約4万人)を訪問しました。目的は次の2点でした。
①被災した子どもたちと遊ぶこと。
②ヌルダウで両親を亡くした子どもたちに応援金を贈る方法を探ること。
以下、10泊11日の活動を報告します。(かなり長文です。)
パーフェクトだ!
今回のトルコボランティアはパーフェクトだ!
3月22日(水)午後2時すぎ、ガジアンテップ市バリアフリー生活センターの施設を出て、私は小さくガッツポーズを作った。興奮していた。今回のトルコボランティアには、2つの目的があり、その2つともかなえられたからだ。
時間を5日前に戻す。
3月17日(金)
午前11時すぎ。ヌルダウでワゴン車バスを降りた。ヌルダウ中心部から少し通り過ぎた所で降りたため、周囲に人はいない。瓦礫を満載した大型トラックが土埃を舞い上げて何台も走っていく。あちらこちらで重機がマンションを解体している。
数多くのつぶれたマンション、つぶれかけのマンション、、、。見たことのない光景。神戸は火災、東日本は津波、パキスタンは山奥の小さな家、フィリピンは台風で吹き飛ばされた家、土砂ままれの豪雨水害。
ここでは、つぶれかけのマンションが余震で倒れるかもしれない不安と恐怖。
1ヶ月少し前、ここで多くの人が亡くなり、助かった人たちは直面する死への恐怖と闘っていた。緊張する。多くの犠牲者(ヌルダウでの犠牲者は約1,600人)を思うと目が潤む。
写真を撮れる気分ではない。笑顔が大切とは思うが、口角を上げられない。とんでもないところに来てしまったという不安感。
それでも中心部と思われる方向に歩いた。
壊れなかった店が営業している。「メルハバ(こんにちは)」とやや硬い顔で挨拶。みんな硬い顔。不安は募る。
当初の予定では、ヌルダについて報道した朝日新聞記者の英語通訳兼ドライバーが、空港から私をAFAD オフィスへ連れて行き、ボランティア許可申請を手伝い、予約したホテルへ私を送ることになっていた。しかしイスタンブールで購入するつもりでいた国内線航空券は満席のため購入できず。仕方なく長距離バスで約900km、18時間。そのため全てのスケジュールはキャンセルで、ドライバーさんにはバスターミナルからホテルまで送ってもらうことに。支払ったお金は交渉費用も含
んでいたが、安心、安全代金と考えた。帰国時にわかったが、通常のタクシー代の2倍以上だった。ホテル着は午前5時30分。セントレアを出て36時間。
AFAD(首相府防災危機管理庁)はなんとなくこっちだなと思う方向に歩き、すれ違う人に尋ねる。指を指して教えてくれる。方向は正しかった。
私に余裕が少し生まれてきたためか、口角が少し上がるようになったが、ぎこちない笑顔。でも、私の「メルハバ」に笑顔で返してくれる人が増えてきた。
途中で保健省のテントや役場的な建物はあるが、AFADではない。そこに入って聞けばよかったが、なんとなく気後れして素通りした。これが結果的に「奇跡」の出会いをもたらした。
しばらく歩きまわったもののAFADらしき施設は見つからない。仕方がないので、先ほどの公共的施設に。
そこで、「メルハバ、(英語で)私は子どものためのボランティアをするために日本からきました。私は高校の先生です」と、大きな声でしっかりと言った。するとワラワラと何人かが集まってきた。しかし、殆ど英語を解さない。その中の一人は「妻は英語ができるのスマホで話せ」みたいなことを言って、私にスマホを渡す。そんなの無理に決まってる。別の男性(ムサ=中学の体育教育)が「俺がAFADへ連れて行くから車に乗れ」というようなことを言った。ムサは次から次へとヌルダの扉を私のために開いていってくれた。
AFADといってもいろいろなセクションがある。場所も違う。ムサはあちこちで尋ねて、ボランティア申請の窓口へ。ムサはいろいろ説明している。私はその横でドラえもんの着ぐるみを着た。すると担当の若い女性がドラえもんを知っていて、大喜び。一緒に写真を撮ったり、彼女のスマホにある白雪姫のコスプレ写真を見せてくれたり。ボランティア許可はなんとこれでOK。メーテレの取材許可もと、メーテレの私への取材依頼書を見せるとこれもあっさり了解。許可証をもらっていないがいいのかとは思った。
2月にトルコ入りした日本のNGOがボランティア認可をAFADで得るのに3日を要したという。そこで事前に東海OBの今枝宗一郎衆議院議員にトルコ行きの連絡を入れ、少しでも認可を短縮できないだろうかと相談した。そして今枝事務所から外務省、在日トルコ大使館に私のトルコ行きは伝えられた。その際、AFADのボランティア認可はかなり緩くなっているとの情報があった。実際はドラえもんが功を奏したというより、AFADの認可が緩くなっていたからなのだとは思う。
3日目にカメラを回して潰れたマンションを撮影していると、警察官に呼び止められ、パスポートを見せろ、リュックの中もといわれ見せた。さらに何を撮影したか見せろと言われた。これはめんどうなことになりそうだと思い、AFADの撮影許可をもらってるというと、じゃあいいよってことになった。ボランティア申請が緩くなったとはいえ、AFADの威力はすごいようだ。
AFADに続き、ムサは私が行きたいと考えていた朝日新聞に紹介されていたガジアンテップ市の子どものためのテントに連れて行ってくれた。彼の説明と、私の笑顔と、ドラえもんとメルハバは最強で、そこにいた6〜7人の先生や大学生スタッフたちとすっかり打ち解けることができた。ここではドラえもんではなくミツえもん。ミツえもんは東海高校での授業中にトルコでドラえもんの着ぐるみを着ると話したら、生徒がミツえもんがいいじゃんと名付けてくれた。私のことをミツと呼んでくれと言った。ヌルダでは私を「ミツ」と認識している。
子どもテントスタッフとスマホを介して話をしたときの質問の中で、重要と思われる私の解答を紹介する。
Q:なぜトルコに来たのか?
A:私は約30年前から震災孤児遺児の応援をしている。その中で多くのことを学んだ。そして、その経験が私の心の中でトルコへ行けと言ったからだ。
Q:今、子どもたちにはどんなことが必要と思うか?
A:被災した子どもたちは親が大変なことをよく理解し、抑圧的になっている。それを開放することが必要だ。そのために、子どもたちが身体を使い、大声で遊ぶことが大切だと思う。そして、そのために私は日本から来た。
Q:どうしてヌルダへ来たのか?他にもっと被害の大きなところがある(と言ってハタヤ市の動画を私に見せた)
A:被害の大きなところには国際的な支援がたくさん入る。私はこれまで、支援の少ない所で活動してきた。そして、ヌルダのこのテントを紹介した新聞記事を見て、ここに行かなければならないと思った。
私が解答するたびにスタッフたちからはホーというような声が上がった。それらは、私を試す意図はなかったものの、私への口頭試問のようなものだったと思う。こうした私の発言もスタッフの信頼を得ることに繋がったものと思う。
翌日から私は「ミツセンセイ」「ミツティーチャー」と、スタッフのウズマン(養護学校教員)や何人かの子どもたちから言われるようになった。
いつしか子どもたちがテントに集まってきた。私の笑顔とミツえもんは子どもたちの警戒心をあっさりほどき、私に抱きついてくる子どもが何人もいた。
子どもためのテントスタッフは、私が50km離れたオスマニエのホテルに泊まり、1週間ここを手伝わせて欲しいという依頼を大歓迎。わずか半日で、私が考えていた以上の関係を結ぶことができ、トルコまで来た意味があってよかったと心から思った。
子どもたちのプログラム終了後、ムサは私を最初に出会った公的機関の中にある小さな小屋へ連れて行った。地元住民の溜まり場のようなところと思った。しかし、よくみるとみんな腰に拳銃をぶら下げている。警官の詰所だった。警官の皆さんと記念写真。その後、軍人にも私を紹介。いろんな人に紹介されるのヌルダでの活動を考えるとプラスになるのは間違いない。面識のない警官からは誰何されたが、その後、私の前を歩いていた軍人が振りむきざまに、「ミツ!」と声をかけてくれた。こういうことはうれしい。
ムサは「帰りはホテルまでオレが送っていくよ」と言った。50kmも離れているので、遠慮したが、結局彼に送ってもらった。ムサは大音量でトルコ歌謡を流す。日本の演歌に似て、コブシを回すよう感じがある。そこをムサと一緒になって歌う。動画を撮る。バカなおっさんたちだが、なんだか楽しい。
2日目 3月18日(土)
ヌルダ。道ゆく人たちに「ギュナイドゥン(おはよう)」。みんな笑顔で「ギュナイドゥン」と返してくれる。すれ違った女性2人連れ。午後にまた会って、分かったがムサの姉妹だった。
ムサから電話。ハローというと、目の前の警察官詰所の窓にムサの顔。すごい偶然。結果として、私とムサは相当な深い繋がりがあるようだ。
しかし、ムサファミリーは今日の夕方に、200kmほど離れた別の県に引っ越すという。出会って意気投合し、私をヌルダの中に入れてくれたムサ。残念。ここからは自分でやれ、ということだ。
子どものためのテントは土日はお休み。ムサは子どもがいるところへ行こうとあちらこちらへ。ステージトラックのステージ上には子ども用の乗り物やエアホッケーが5台ほど並び、子どもたちは順番に遊べる。子どものための幼稚園的テントは何箇所もある。机や椅子もあり、子どもたちの絵がテント一杯に貼ってある。
さらに別の幼児テントでは私を覚えていた子どもたちが「ミツ!」と、手を振って挨拶してくれる。
テント村の中には、ミニ動物園、遊具もある。フットサルコート、フィットネスの道具もある。遊園地にきたのかと勘違いしそうなくらいだ。中学生、高校生の学習テントもある。参考書があり、先生もいる。私が話を聞いたのは数学と哲学の先生。生徒たちは真剣に勉強している。後日、訪問したシリア人キャンプにも幼稚園的な施設、学校的なテントがある。
高校教員である私が子どもや学校、教育に関心があるせいもあるだろうが、子どもたちのケアにはかなりしっかりと取り組まれているように見えた。
他にも、トルコは日本より、被災者に対応していると感じたことがいくつもある。
広い空き地がかなりあるため、避難所は学校や公民館ではなく、AFADと書かれた避難用テントが林立するテント村が、各地にある。
テントには煙突がついていて、ストーブを焚ける。家族同士のプライバシーは守られる。体育館の雑魚寝より、私ならテントの方がうれしい。
まだ地震発生から2ヶ月もたっていないが、仮設商店街もある。
その他、日本の被災地で私が見たことのないものは、
○トイレトラック(荷台に男女別トイレ。男性用は小2、大2)、
○仮設シャワー付きトイレ(トイレの隣にシャワールームとか、トイレとシャワーが同じとか)、
〇ランドリートラック(ドラム式洗濯機を何台も設置)、
○スマホ充電トラック(トラックの荷台が充電ルームになっていて、座ってチャイでも飲みながら充電できる)。
○ミシンが20台ほど並ぶ手芸テント。愛知ボランティアセンターは鮎川浜仮設住宅談話室で手芸や刺し子などを被災した女性たちと行った。こういう施設はないので、ミシンは用意した。
トイレは総じて清潔。嫌な匂いはない。私が通っていた子どものためのテント近くのトイレは、ボランティアと思しき人がいつも掃除をしていた。阪神大震災で大便の山と格闘した高校生ボランティアがいた。
宮城県気仙沼市小泉浜の仮設トイレは防臭マスクがなければ使用できなかった。石巻市十八成浜の避難所のトイレは被災者の手作りトイレだった。
排泄排便は健康に直結する。12年前、私は十八成浜の手作りトイレを絶賛した。しかし、被災者がトイレを手作りしなければならないような日本の被災者対応の問題を痛感した。ただし、障がい者対応仮設トイレまでは見かけなかった。もしかしたら、障がい者は見かけなかったので、バリアフリーエリアがあるのではないかと推察する。
3月19日(日)
ホテルから市内バスに始発のバス停から終点のバスターミナルへ行く。バスがまだきていないので、近くを歩く。野菜や果物、チーズを販売する店に入ってみた。もちろん、ギュナイドゥン。日本人か?とお客の男性から声をかけられる。イエスと答えると、ついてこいという仕草。もちろんついていく。するとすぐ向かいの公園の避難テント村。日本人来てるから来いよってな感じで人をんでいる。ギュナイドゥンを連発。
そこで朝食にあずかった。ホテルで朝食バイキングは食べた。しかし、せっかくなので勧められるままに頂く。ナンにピーナッツバターやハチミツをつける。おいしい。豆腐のようにみえるチーズは濃厚。後日、ビールのアテにらその店で購入。おいしかった。テントの中も見せてもらった。ここでは男女別に暮らしているようだ。高校生くらいの男の子はボクシングをしているという。その後、バスの中や、ケバブレストランで彼と出会った。顔をあわせるとニコッと笑う。なんだかかわいい。
ヌルダではメーテレのカメラを持って撮影。初日とは違って撮影する余裕ができた。コンテナハウスの中で少女が笑って手を振っている。メルハバと近づくと若い女性が中でチャイ飲むと。もちろん。やはりいろんな人たちがやってきてひとしきり大騒ぎ。私を招いた女性は新婚さんで、家が潰れた。結婚式の写真を見せてもらう。彼女の妹は中学生。英語で話しかけてきた。今は教会で勉強しているという。勉強すきそうだねと尋ねると、イエスと。ガハハと笑う陽気な姉と違って、ちょっとはにかんで笑う利発そうな子。おばあちゃんはアゼルバイジャン出身という。確かにちょっと面立ちが違う。アゼルバイジャンはいいところだから一度行ってねと。
さらに撮影していくと、広い庭のある家で、家の前でチャイを飲む10人ほどの自宅避難者。メルハバと挨拶すると中においでと手招きされる。もちろん中に入れていただく。今日は何杯目のチャイだろう。聞くと親戚、友人12人が亡くなったと涙目で語る女性。仕事がないんだと嘆く若い男性。明るそうには一見みえても、深い悲しみを抱えている。
撮影しつつ、招かれるままにおじゃまさせていただく。なんだかNHKの「鶴瓶の家族に乾杯」のような一日だった。
3月20日(月)
ムサはいないが、警察官詰所へ朝の挨拶。せっかく繋いでくれたのだから、繋いでおかないともったいない。警察官に顔をうっておくのは何かあったときに生きるはず。結局はお世話になることはなかったが。
子どものためのテントへ行く。金曜日とメンバーはかなりかわっていた。大学生スタッフは日替わりのような感じだった。ウズマンはいた。メンバーはかわっても私のことは引き継ぎされているようで、歓迎される。
紙飛行機大会をやってみた。1位賞品はチェキ撮影。私が折り方を教えて、自分で折ってねと思った。小学生くらいの子はきれいに折れる。しかし、幼稚園くらいの子には難しいのか、どの子もまったく折れない。しかたがないので、私が作って渡した。さて大会。ウズマンが紙飛行機に名前を書こうと提案。こういう積極的な提案は大歓迎。小学生男子が優勝。紙飛行機を手にチェキで記念撮影。なんだか誇らしい顔をしている。
大量の折り紙を日本で頂いた。折り紙を教えたいが、すっかり忘れている。折り紙の折り方の本を持ってきたが、よくわからない。情けない。次の機会までには少しは覚えておこう。日本語で書いてあるけど、折り方は絵にある。あなたたちなら理解できる、と強引に折り紙たくさんと本を渡した。ウズマンはこういうことは大切だと思うと言って、本と折り紙を持ち帰った。ウズマンは私を信頼しているし、彼女に期待していいなと思った。
そこで、ホテルに帰って、ウズマンとインスタのメッセージで以下のような依頼をした。
私のトルコボランティアの目的は2つ。1つは、被災した子どもたちと遊ぶこと。子どもたちの笑顔を見ること。2つ目は、震災で両親を亡くした孤児へ応援金を贈るための道筋をつくること。その道筋を教えてほしい。
すると、なんとこのテントを主管しているガジアンテップ市バリアフリー生活センターが孤児遺児を把握しているとのこと。早速マネージャーやセンター長と相談してくれた。翌日センター長がテントへ来るとのこと。なんという運のよさだろう。実はど真ん中のところで活動していた。
3月21日(火)
中高校生の学習テントを覗くと、哲学の先生(たぶん50歳代、女性)がお昼を食べにいこうと誘ってくれる。いつもなら喜んでいくのだが、センター長に会うことが最重要なのでそうもいかない。親の介護がたいへんなのよと。私の家でも妻が苦労している。どこの国も同じようだ。今晩はミートボールを作るって。同じ名前でも味つけはちがう気がする。哲学の先生とは思えない普通の会話がおもしろい。もう一度、お昼を食べようと誘われた。日本でこんな経験をしたことがない。この人とならおもしろい話ができそう気がしてランチに行きたかったが、やはりお断りした。後になって、行ってもかまわなかったが、それは後の祭り。
いつものテントへ行く。マネージャーが来ていた。よくわからないので、彼女が一番の責任者と思ったら違っていた。そこでセンター長に連絡を入れて、翌日、ガジアンテップのセンターを訪問することにした。
ウズマンは熱心で、理解が早い。さっそく折り紙を覚えて、子どもたちに教えている。大学生スタッフも子どもたちが折るのをサポートしている。私が教えるより、この方が断然いい。いい光景だ。
3月22日(水)
スマホはほんとうに便利だ。インスタで位置情報を送ってもらえばバリアフリー生活センターの所在地が正確に分かる。ガジアンテップバスターミナルから約22km。タクシーでいくしかない。金額の推測もできるようになった。タクシーにナビはついていない。私のスマホがナビ。ドライバーが助手席にこいと手招き。ドライバーにスマホみえるようにする。これもなんだか楽しい。
ドライバーにここだと降ろされる。けっこう立派な建物に入る。受付で名前をいうとすぐにセンター長につないでくれる。すれ違った女性スタッフは、「ミツ!」と。
センター長のデイデム、担当の心理学者ヒラルも私のことはご存知で、私の希望はすでに伝えてあり、話は早い。日本から来て1週間活動することで、私への信頼が生まれ、目的2の遺児応援金に繋がるだろうと考えていた。その通りになっているようだ。
私は日本で1995年阪神淡路大震災以降、30年近く震災孤児遺児応援活動を続けている。私が理事長を務めるNPO法人被災者応援愛知ボランティアセンターは、東日本大震災孤児遺児応援金ワンコインサポーターさんたちから毎年約6000万円もの孤児遺児応援金寄付を頂いている。ほんとうは遺児も含めたいが、高額な寄付を募るの難しいと考え、今回は孤児に限定せざるをえない。
2月6日に発生したトルコ大地震の震源地はヌルダの北東27km。震源地至近の街ヌルダの人口(地震前)は約41000人。犠牲者数3531人。孤児は31人、母親死亡42人、父親死亡127人。合計200人。ガジアンテップ県全体の孤児遺児総数471人、ガジアンテップ県の人口は約860万人。人口から考えるとヌルダの被害が大きなことがわかる。
心理学者のヒラルから細かな数字が出ることは信頼できる証。施設を見学させて頂く。2階建ての施設はカウンセリングルーム、工具室、遊戯室、調理室、そして25m温水プールまである。ここで震災で傷ついた子どもたちのケアにあたるという。もともとは障がい者を対象にしているようだが、この地震で心の傷をおった子どもたちのために少し模様替えの工事も行っている。
あなたは彼らに何か提案できますか?と尋ねられた。子どもたちが大声を出し、身体を動かす、笑うことが大切。もちろん、時には涙も流す。2つ簡単な、でもとてもおもしろく、孤児遺児との交流で大騒ぎして楽しんでいるゲームを紹介する。
一つは水鉄砲大会。もう一つは座布団投げ。水鉄砲は頭に金魚すくいのポイをつけて、水でポイが破れたらアウト。座布団投げは何十枚もの座布団を投げるだけ。勝ち負けはなし。これら2つのゲームを8月に楽しみたい。
バリアフリー生活センターへは、バスとタクシーを乗り継いでホテルから4時間近くかかった。メールでもいいとセンター長は言っていたが、やはりリアルが大切だ。この施設を見て、私はガジアンテップ市の子どもの心のケアに感嘆した。時間をかけてきた意味があった。
このセンターに来て、目的2の応援金を贈る道筋は見えた。
それが冒頭の「パーフェクト!」の意味だ。
私が滞在していたのは外務省の渡航制限がかかっていないオスマニエ県オスマニエ市。隣のガジアンテップ県は渡航制限レベル2(不要不急の渡航制限)。ガジアンテップ県南部のシリア国境近くはレベル4(退避勧告)。ヌルダはガジアンテップ県だが、オスマニエ県とは県境。ガジアンテップ市では、バスターミナルとバリアフリー生活センター間の20kmはタクシー移動。危険なことは何もなかった。
「不要不急」は主観。自分の活動を「不要不急」ではないと言い切るだけの自信は、出国時点では正直なかった。今は自信を持って「不要不急」ではないと言い切れる。
3月23日(木)
今日がヌルダでの活動の最終日。前日、ガジアンテップへ行くバスの中で私に声をかけてきたのは、シリア人のモハメッド。ワンピース、呪術廻戦、ナルト、ドラゴンボールなど、日本のアニメをスマホ見て楽しんでいるという。ウチのテントへ来ないかと言われたので、午前はシリアキャンプを訪問。いつものテント村からは1km以上は離れている。歩いているとトラクターに乗った親子が乗っていけというので少し乗せてもらう。不思議な国だ。途中にもキャンプがあり、子どもたちが駆け寄ってくる。プレゼントできるようなものを何も持っていないので、チェキで写真撮影。
シリアキャンプに着く。連絡するとすぐにモハメッドが迎えにくる。ここではアラビア語。「こんにちは」は「アッサラームアライクム」、「ありがとう」は「シュクラーン」。以前に、災害ボランティア関係でパキスタン、カタールに、観光でエジプトに、行ったことがあるので、「メルハバ」よりなじみがある。
モハメッドは20歳。左足の膝に障害があり、日常生活に大きな支障はないが、走ったり、踏ん張ったりすることは困難。重い錘がついているようだと言う。地震前の月給は約2万円。障がいがあるから安いそうだ。彼が勤めていた工場は潰れ、経営者も貧しいので再建のメドはない。5人家族で10年前にシリアからトルコへ来た。父親は大工。52歳だが、顔に深い皺がいくつもあり、私よりずっと14歳年下には見えない。私より年長だと思った。人生の苦労が顔にでる。私の顔は全く苦労していない顔だと思った。トルコで家を立てたが、地震で破壊。大工の父親に仕事がたくさんくることを祈るばかり。水とお菓子を頂く。申し訳ない。が、出されたものはシュクラーンといってありがたく頂くのが礼儀だと思う。
モハメッドの案内で子どものテントを見学。机と椅子があり、教室のようだ。子どもたちが駆け寄る。お菓子などなくても寄ってくる。分かってきたのは、外国人と分かると駆け寄ってくるのは、私たち外国人は彼らにとって非日常。同じような毎日に倦んでいるからだ。だから誰が行ってもとりあえず駆け寄ってくる。そこだけ動画で切り取れば、とってもステキに見える。
モハメッドは盗難に気をつけてとアドバイス。最後まで私にまとわりついてきた10人ほどの男の子たちは、みんなお金をくれという。トルコ人キャンプでそんなことは一度もなかった。と思っていつものテントへ。途中、20代の兄弟が話しかける。「お金が必要なんだ。お金をくれないか?」と。またお金か。一番必要なのはお金であることは間違いない。でもあげられない。一人にあげれば、他の人にあげない理由がなくなり、みんなにあげなければならなくなる。際限がない。「オレもお金が必要だ。日本に帰れない」。「じゃあタバコ買ってよ。でないと死んじゃう」、「オレはタバコの煙で死んじゃう」などと返して、写真を撮り、手を振って別れた。
午後からは子どものためのテントの最終日。しかし、この日はテントの修理で子どもは集まらないとのこと。チェキのフィルムが70枚あるので、テントの外で子どもたちと写真を撮りたい。子どもたちを整理する人2人と、写真を撮る一人1人、合計3人に手伝っもらえないかとお願いする。OK。でも、結局薬10人全員が手伝ってくれた。テントの修理をしたようには見えない。
先生や大学生もチェキに大喜び。私も私もと。先生たちのおかげもあって混乱することなく、70枚撮影。私一人ならこんなに整然とはできなかった。ほんとうにうれしい。スタッフはガジアンテップ市のワゴン車で帰る。男性リーダーが、ミツ、ミツ、車に乗れという。私が乗るバスの乗り場まで徒歩10分くらい。乗せてもらえるのはうれしい。バスを降り、バス停へ向かう。するとオスマニエ行きのバスの運転手が、オスマニエ行きだ、早く来いというように手招き。1週間毎日乗ったので認識されている。こういうささやかなことでもうれしい。
トルコ大使館や赤十字への寄付を否定するつもりはない。だがそれは寄付した人の顔は被災者には見えない。日本の寄付が世界中で一番多かったそうだが、たぶんそんなことを彼らは知らない。もちろん現金給付はされないだろう。被災者はおしなべて困っている。その中でも、両親を亡くした子どもたちは経済的な困窮と、大きな精神的ダメージを受けている。私は寄付して下さった方々のメッセージも添えて応援金を贈り、遠く日本からも皆さんを応援している人たちがたくさんいるからねと、励ましたいと思う。
ヌルダだけではなく、全孤児を応援したい。しかし、かっこいいスローガンを掲げて、全孤児をと、できないことは言わない。ささやかでも、わずか31人でも、日本から応援のメッセージを応援金とともに届けたい。
当面の募金目標金額は100万円。一人あたり約3万円。シリア人のモハメッドの月給は約1.7万円。トルコと日本の最低賃金で考えると、5万円くらいの価値になる。金額は多いにこしたことはない。しかし、金額の多寡よりも大切なことは、遠く日本からの顔の見える多くの人からの応援だということ。遠くからの応援の眼差しがささやかでも両親を亡くした子どもたちへの応援になる。頑張って募金を集めたい。
最後に、イスタンブール国際空港でウズマンから以下のインスタメッセージをもらった。
私たちはあなたのトルコ訪問をとてもうれしく思いました。
今日、子供たちはテントの中であなたについて尋ねました。 あなたは子供たちの心の中にいます。
本当にありがとうございました。8月にあなたが帰ってくることを期待しています。
8月下旬に応援金を持参し、メッセージとともにヌルダの孤児に直接渡したい。
2023年3月15日(水)〜25日(土)に、トルコ・シリア地震の震源地から南西27km、ガジアンテップ県ヌルダウ郡(人口約4万人)を訪問しました。目的は次の2点でした。
①被災した子どもたちと遊ぶこと。
②ヌルダウで両親を亡くした子どもたちに応援金を贈る方法を探ること。
以下、10泊11日の活動を報告します。(かなり長文です。)
パーフェクトだ!
今回のトルコボランティアはパーフェクトだ!
3月22日(水)午後2時すぎ、ガジアンテップ市バリアフリー生活センターの施設を出て、私は小さくガッツポーズを作った。興奮していた。今回のトルコボランティアには、2つの目的があり、その2つともかなえられたからだ。
時間を5日前に戻す。
3月17日(金)
午前11時すぎ。ヌルダウでワゴン車バスを降りた。ヌルダウ中心部から少し通り過ぎた所で降りたため、周囲に人はいない。瓦礫を満載した大型トラックが土埃を舞い上げて何台も走っていく。あちらこちらで重機がマンションを解体している。
数多くのつぶれたマンション、つぶれかけのマンション、、、。見たことのない光景。神戸は火災、東日本は津波、パキスタンは山奥の小さな家、フィリピンは台風で吹き飛ばされた家、土砂ままれの豪雨水害。
ここでは、つぶれかけのマンションが余震で倒れるかもしれない不安と恐怖。
1ヶ月少し前、ここで多くの人が亡くなり、助かった人たちは直面する死への恐怖と闘っていた。緊張する。多くの犠牲者(ヌルダウでの犠牲者は約1,600人)を思うと目が潤む。
写真を撮れる気分ではない。笑顔が大切とは思うが、口角を上げられない。とんでもないところに来てしまったという不安感。
それでも中心部と思われる方向に歩いた。
壊れなかった店が営業している。「メルハバ(こんにちは)」とやや硬い顔で挨拶。みんな硬い顔。不安は募る。
当初の予定では、ヌルダについて報道した朝日新聞記者の英語通訳兼ドライバーが、空港から私をAFAD オフィスへ連れて行き、ボランティア許可申請を手伝い、予約したホテルへ私を送ることになっていた。しかしイスタンブールで購入するつもりでいた国内線航空券は満席のため購入できず。仕方なく長距離バスで約900km、18時間。そのため全てのスケジュールはキャンセルで、ドライバーさんにはバスターミナルからホテルまで送ってもらうことに。支払ったお金は交渉費用も含
んでいたが、安心、安全代金と考えた。帰国時にわかったが、通常のタクシー代の2倍以上だった。ホテル着は午前5時30分。セントレアを出て36時間。
AFAD(首相府防災危機管理庁)はなんとなくこっちだなと思う方向に歩き、すれ違う人に尋ねる。指を指して教えてくれる。方向は正しかった。
私に余裕が少し生まれてきたためか、口角が少し上がるようになったが、ぎこちない笑顔。でも、私の「メルハバ」に笑顔で返してくれる人が増えてきた。
途中で保健省のテントや役場的な建物はあるが、AFADではない。そこに入って聞けばよかったが、なんとなく気後れして素通りした。これが結果的に「奇跡」の出会いをもたらした。
しばらく歩きまわったもののAFADらしき施設は見つからない。仕方がないので、先ほどの公共的施設に。
そこで、「メルハバ、(英語で)私は子どものためのボランティアをするために日本からきました。私は高校の先生です」と、大きな声でしっかりと言った。するとワラワラと何人かが集まってきた。しかし、殆ど英語を解さない。その中の一人は「妻は英語ができるのスマホで話せ」みたいなことを言って、私にスマホを渡す。そんなの無理に決まってる。別の男性(ムサ=中学の体育教育)が「俺がAFADへ連れて行くから車に乗れ」というようなことを言った。ムサは次から次へとヌルダの扉を私のために開いていってくれた。
AFADといってもいろいろなセクションがある。場所も違う。ムサはあちこちで尋ねて、ボランティア申請の窓口へ。ムサはいろいろ説明している。私はその横でドラえもんの着ぐるみを着た。すると担当の若い女性がドラえもんを知っていて、大喜び。一緒に写真を撮ったり、彼女のスマホにある白雪姫のコスプレ写真を見せてくれたり。ボランティア許可はなんとこれでOK。メーテレの取材許可もと、メーテレの私への取材依頼書を見せるとこれもあっさり了解。許可証をもらっていないがいいのかとは思った。
2月にトルコ入りした日本のNGOがボランティア認可をAFADで得るのに3日を要したという。そこで事前に東海OBの今枝宗一郎衆議院議員にトルコ行きの連絡を入れ、少しでも認可を短縮できないだろうかと相談した。そして今枝事務所から外務省、在日トルコ大使館に私のトルコ行きは伝えられた。その際、AFADのボランティア認可はかなり緩くなっているとの情報があった。実際はドラえもんが功を奏したというより、AFADの認可が緩くなっていたからなのだとは思う。
3日目にカメラを回して潰れたマンションを撮影していると、警察官に呼び止められ、パスポートを見せろ、リュックの中もといわれ見せた。さらに何を撮影したか見せろと言われた。これはめんどうなことになりそうだと思い、AFADの撮影許可をもらってるというと、じゃあいいよってことになった。ボランティア申請が緩くなったとはいえ、AFADの威力はすごいようだ。
AFADに続き、ムサは私が行きたいと考えていた朝日新聞に紹介されていたガジアンテップ市の子どものためのテントに連れて行ってくれた。彼の説明と、私の笑顔と、ドラえもんとメルハバは最強で、そこにいた6〜7人の先生や大学生スタッフたちとすっかり打ち解けることができた。ここではドラえもんではなくミツえもん。ミツえもんは東海高校での授業中にトルコでドラえもんの着ぐるみを着ると話したら、生徒がミツえもんがいいじゃんと名付けてくれた。私のことをミツと呼んでくれと言った。ヌルダでは私を「ミツ」と認識している。
子どもテントスタッフとスマホを介して話をしたときの質問の中で、重要と思われる私の解答を紹介する。
Q:なぜトルコに来たのか?
A:私は約30年前から震災孤児遺児の応援をしている。その中で多くのことを学んだ。そして、その経験が私の心の中でトルコへ行けと言ったからだ。
Q:今、子どもたちにはどんなことが必要と思うか?
A:被災した子どもたちは親が大変なことをよく理解し、抑圧的になっている。それを開放することが必要だ。そのために、子どもたちが身体を使い、大声で遊ぶことが大切だと思う。そして、そのために私は日本から来た。
Q:どうしてヌルダへ来たのか?他にもっと被害の大きなところがある(と言ってハタヤ市の動画を私に見せた)
A:被害の大きなところには国際的な支援がたくさん入る。私はこれまで、支援の少ない所で活動してきた。そして、ヌルダのこのテントを紹介した新聞記事を見て、ここに行かなければならないと思った。
私が解答するたびにスタッフたちからはホーというような声が上がった。それらは、私を試す意図はなかったものの、私への口頭試問のようなものだったと思う。こうした私の発言もスタッフの信頼を得ることに繋がったものと思う。
翌日から私は「ミツセンセイ」「ミツティーチャー」と、スタッフのウズマン(養護学校教員)や何人かの子どもたちから言われるようになった。
いつしか子どもたちがテントに集まってきた。私の笑顔とミツえもんは子どもたちの警戒心をあっさりほどき、私に抱きついてくる子どもが何人もいた。
子どもためのテントスタッフは、私が50km離れたオスマニエのホテルに泊まり、1週間ここを手伝わせて欲しいという依頼を大歓迎。わずか半日で、私が考えていた以上の関係を結ぶことができ、トルコまで来た意味があってよかったと心から思った。
子どもたちのプログラム終了後、ムサは私を最初に出会った公的機関の中にある小さな小屋へ連れて行った。地元住民の溜まり場のようなところと思った。しかし、よくみるとみんな腰に拳銃をぶら下げている。警官の詰所だった。警官の皆さんと記念写真。その後、軍人にも私を紹介。いろんな人に紹介されるのヌルダでの活動を考えるとプラスになるのは間違いない。面識のない警官からは誰何されたが、その後、私の前を歩いていた軍人が振りむきざまに、「ミツ!」と声をかけてくれた。こういうことはうれしい。
ムサは「帰りはホテルまでオレが送っていくよ」と言った。50kmも離れているので、遠慮したが、結局彼に送ってもらった。ムサは大音量でトルコ歌謡を流す。日本の演歌に似て、コブシを回すよう感じがある。そこをムサと一緒になって歌う。動画を撮る。バカなおっさんたちだが、なんだか楽しい。
2日目 3月18日(土)
ヌルダ。道ゆく人たちに「ギュナイドゥン(おはよう)」。みんな笑顔で「ギュナイドゥン」と返してくれる。すれ違った女性2人連れ。午後にまた会って、分かったがムサの姉妹だった。
ムサから電話。ハローというと、目の前の警察官詰所の窓にムサの顔。すごい偶然。結果として、私とムサは相当な深い繋がりがあるようだ。
しかし、ムサファミリーは今日の夕方に、200kmほど離れた別の県に引っ越すという。出会って意気投合し、私をヌルダの中に入れてくれたムサ。残念。ここからは自分でやれ、ということだ。
子どものためのテントは土日はお休み。ムサは子どもがいるところへ行こうとあちらこちらへ。ステージトラックのステージ上には子ども用の乗り物やエアホッケーが5台ほど並び、子どもたちは順番に遊べる。子どものための幼稚園的テントは何箇所もある。机や椅子もあり、子どもたちの絵がテント一杯に貼ってある。
さらに別の幼児テントでは私を覚えていた子どもたちが「ミツ!」と、手を振って挨拶してくれる。
テント村の中には、ミニ動物園、遊具もある。フットサルコート、フィットネスの道具もある。遊園地にきたのかと勘違いしそうなくらいだ。中学生、高校生の学習テントもある。参考書があり、先生もいる。私が話を聞いたのは数学と哲学の先生。生徒たちは真剣に勉強している。後日、訪問したシリア人キャンプにも幼稚園的な施設、学校的なテントがある。
高校教員である私が子どもや学校、教育に関心があるせいもあるだろうが、子どもたちのケアにはかなりしっかりと取り組まれているように見えた。
他にも、トルコは日本より、被災者に対応していると感じたことがいくつもある。
広い空き地がかなりあるため、避難所は学校や公民館ではなく、AFADと書かれた避難用テントが林立するテント村が、各地にある。
テントには煙突がついていて、ストーブを焚ける。家族同士のプライバシーは守られる。体育館の雑魚寝より、私ならテントの方がうれしい。
まだ地震発生から2ヶ月もたっていないが、仮設商店街もある。
その他、日本の被災地で私が見たことのないものは、
○トイレトラック(荷台に男女別トイレ。男性用は小2、大2)、
○仮設シャワー付きトイレ(トイレの隣にシャワールームとか、トイレとシャワーが同じとか)、
〇ランドリートラック(ドラム式洗濯機を何台も設置)、
○スマホ充電トラック(トラックの荷台が充電ルームになっていて、座ってチャイでも飲みながら充電できる)。
○ミシンが20台ほど並ぶ手芸テント。愛知ボランティアセンターは鮎川浜仮設住宅談話室で手芸や刺し子などを被災した女性たちと行った。こういう施設はないので、ミシンは用意した。
トイレは総じて清潔。嫌な匂いはない。私が通っていた子どものためのテント近くのトイレは、ボランティアと思しき人がいつも掃除をしていた。阪神大震災で大便の山と格闘した高校生ボランティアがいた。
宮城県気仙沼市小泉浜の仮設トイレは防臭マスクがなければ使用できなかった。石巻市十八成浜の避難所のトイレは被災者の手作りトイレだった。
排泄排便は健康に直結する。12年前、私は十八成浜の手作りトイレを絶賛した。しかし、被災者がトイレを手作りしなければならないような日本の被災者対応の問題を痛感した。ただし、障がい者対応仮設トイレまでは見かけなかった。もしかしたら、障がい者は見かけなかったので、バリアフリーエリアがあるのではないかと推察する。
3月19日(日)
ホテルから市内バスに始発のバス停から終点のバスターミナルへ行く。バスがまだきていないので、近くを歩く。野菜や果物、チーズを販売する店に入ってみた。もちろん、ギュナイドゥン。日本人か?とお客の男性から声をかけられる。イエスと答えると、ついてこいという仕草。もちろんついていく。するとすぐ向かいの公園の避難テント村。日本人来てるから来いよってな感じで人をんでいる。ギュナイドゥンを連発。
そこで朝食にあずかった。ホテルで朝食バイキングは食べた。しかし、せっかくなので勧められるままに頂く。ナンにピーナッツバターやハチミツをつける。おいしい。豆腐のようにみえるチーズは濃厚。後日、ビールのアテにらその店で購入。おいしかった。テントの中も見せてもらった。ここでは男女別に暮らしているようだ。高校生くらいの男の子はボクシングをしているという。その後、バスの中や、ケバブレストランで彼と出会った。顔をあわせるとニコッと笑う。なんだかかわいい。
ヌルダではメーテレのカメラを持って撮影。初日とは違って撮影する余裕ができた。コンテナハウスの中で少女が笑って手を振っている。メルハバと近づくと若い女性が中でチャイ飲むと。もちろん。やはりいろんな人たちがやってきてひとしきり大騒ぎ。私を招いた女性は新婚さんで、家が潰れた。結婚式の写真を見せてもらう。彼女の妹は中学生。英語で話しかけてきた。今は教会で勉強しているという。勉強すきそうだねと尋ねると、イエスと。ガハハと笑う陽気な姉と違って、ちょっとはにかんで笑う利発そうな子。おばあちゃんはアゼルバイジャン出身という。確かにちょっと面立ちが違う。アゼルバイジャンはいいところだから一度行ってねと。
さらに撮影していくと、広い庭のある家で、家の前でチャイを飲む10人ほどの自宅避難者。メルハバと挨拶すると中においでと手招きされる。もちろん中に入れていただく。今日は何杯目のチャイだろう。聞くと親戚、友人12人が亡くなったと涙目で語る女性。仕事がないんだと嘆く若い男性。明るそうには一見みえても、深い悲しみを抱えている。
撮影しつつ、招かれるままにおじゃまさせていただく。なんだかNHKの「鶴瓶の家族に乾杯」のような一日だった。
3月20日(月)
ムサはいないが、警察官詰所へ朝の挨拶。せっかく繋いでくれたのだから、繋いでおかないともったいない。警察官に顔をうっておくのは何かあったときに生きるはず。結局はお世話になることはなかったが。
子どものためのテントへ行く。金曜日とメンバーはかなりかわっていた。大学生スタッフは日替わりのような感じだった。ウズマンはいた。メンバーはかわっても私のことは引き継ぎされているようで、歓迎される。
紙飛行機大会をやってみた。1位賞品はチェキ撮影。私が折り方を教えて、自分で折ってねと思った。小学生くらいの子はきれいに折れる。しかし、幼稚園くらいの子には難しいのか、どの子もまったく折れない。しかたがないので、私が作って渡した。さて大会。ウズマンが紙飛行機に名前を書こうと提案。こういう積極的な提案は大歓迎。小学生男子が優勝。紙飛行機を手にチェキで記念撮影。なんだか誇らしい顔をしている。
大量の折り紙を日本で頂いた。折り紙を教えたいが、すっかり忘れている。折り紙の折り方の本を持ってきたが、よくわからない。情けない。次の機会までには少しは覚えておこう。日本語で書いてあるけど、折り方は絵にある。あなたたちなら理解できる、と強引に折り紙たくさんと本を渡した。ウズマンはこういうことは大切だと思うと言って、本と折り紙を持ち帰った。ウズマンは私を信頼しているし、彼女に期待していいなと思った。
そこで、ホテルに帰って、ウズマンとインスタのメッセージで以下のような依頼をした。
私のトルコボランティアの目的は2つ。1つは、被災した子どもたちと遊ぶこと。子どもたちの笑顔を見ること。2つ目は、震災で両親を亡くした孤児へ応援金を贈るための道筋をつくること。その道筋を教えてほしい。
すると、なんとこのテントを主管しているガジアンテップ市バリアフリー生活センターが孤児遺児を把握しているとのこと。早速マネージャーやセンター長と相談してくれた。翌日センター長がテントへ来るとのこと。なんという運のよさだろう。実はど真ん中のところで活動していた。
3月21日(火)
中高校生の学習テントを覗くと、哲学の先生(たぶん50歳代、女性)がお昼を食べにいこうと誘ってくれる。いつもなら喜んでいくのだが、センター長に会うことが最重要なのでそうもいかない。親の介護がたいへんなのよと。私の家でも妻が苦労している。どこの国も同じようだ。今晩はミートボールを作るって。同じ名前でも味つけはちがう気がする。哲学の先生とは思えない普通の会話がおもしろい。もう一度、お昼を食べようと誘われた。日本でこんな経験をしたことがない。この人とならおもしろい話ができそう気がしてランチに行きたかったが、やはりお断りした。後になって、行ってもかまわなかったが、それは後の祭り。
いつものテントへ行く。マネージャーが来ていた。よくわからないので、彼女が一番の責任者と思ったら違っていた。そこでセンター長に連絡を入れて、翌日、ガジアンテップのセンターを訪問することにした。
ウズマンは熱心で、理解が早い。さっそく折り紙を覚えて、子どもたちに教えている。大学生スタッフも子どもたちが折るのをサポートしている。私が教えるより、この方が断然いい。いい光景だ。
3月22日(水)
スマホはほんとうに便利だ。インスタで位置情報を送ってもらえばバリアフリー生活センターの所在地が正確に分かる。ガジアンテップバスターミナルから約22km。タクシーでいくしかない。金額の推測もできるようになった。タクシーにナビはついていない。私のスマホがナビ。ドライバーが助手席にこいと手招き。ドライバーにスマホみえるようにする。これもなんだか楽しい。
ドライバーにここだと降ろされる。けっこう立派な建物に入る。受付で名前をいうとすぐにセンター長につないでくれる。すれ違った女性スタッフは、「ミツ!」と。
センター長のデイデム、担当の心理学者ヒラルも私のことはご存知で、私の希望はすでに伝えてあり、話は早い。日本から来て1週間活動することで、私への信頼が生まれ、目的2の遺児応援金に繋がるだろうと考えていた。その通りになっているようだ。
私は日本で1995年阪神淡路大震災以降、30年近く震災孤児遺児応援活動を続けている。私が理事長を務めるNPO法人被災者応援愛知ボランティアセンターは、東日本大震災孤児遺児応援金ワンコインサポーターさんたちから毎年約6000万円もの孤児遺児応援金寄付を頂いている。ほんとうは遺児も含めたいが、高額な寄付を募るの難しいと考え、今回は孤児に限定せざるをえない。
2月6日に発生したトルコ大地震の震源地はヌルダの北東27km。震源地至近の街ヌルダの人口(地震前)は約41000人。犠牲者数3531人。孤児は31人、母親死亡42人、父親死亡127人。合計200人。ガジアンテップ県全体の孤児遺児総数471人、ガジアンテップ県の人口は約860万人。人口から考えるとヌルダの被害が大きなことがわかる。
心理学者のヒラルから細かな数字が出ることは信頼できる証。施設を見学させて頂く。2階建ての施設はカウンセリングルーム、工具室、遊戯室、調理室、そして25m温水プールまである。ここで震災で傷ついた子どもたちのケアにあたるという。もともとは障がい者を対象にしているようだが、この地震で心の傷をおった子どもたちのために少し模様替えの工事も行っている。
あなたは彼らに何か提案できますか?と尋ねられた。子どもたちが大声を出し、身体を動かす、笑うことが大切。もちろん、時には涙も流す。2つ簡単な、でもとてもおもしろく、孤児遺児との交流で大騒ぎして楽しんでいるゲームを紹介する。
一つは水鉄砲大会。もう一つは座布団投げ。水鉄砲は頭に金魚すくいのポイをつけて、水でポイが破れたらアウト。座布団投げは何十枚もの座布団を投げるだけ。勝ち負けはなし。これら2つのゲームを8月に楽しみたい。
バリアフリー生活センターへは、バスとタクシーを乗り継いでホテルから4時間近くかかった。メールでもいいとセンター長は言っていたが、やはりリアルが大切だ。この施設を見て、私はガジアンテップ市の子どもの心のケアに感嘆した。時間をかけてきた意味があった。
このセンターに来て、目的2の応援金を贈る道筋は見えた。
それが冒頭の「パーフェクト!」の意味だ。
私が滞在していたのは外務省の渡航制限がかかっていないオスマニエ県オスマニエ市。隣のガジアンテップ県は渡航制限レベル2(不要不急の渡航制限)。ガジアンテップ県南部のシリア国境近くはレベル4(退避勧告)。ヌルダはガジアンテップ県だが、オスマニエ県とは県境。ガジアンテップ市では、バスターミナルとバリアフリー生活センター間の20kmはタクシー移動。危険なことは何もなかった。
「不要不急」は主観。自分の活動を「不要不急」ではないと言い切るだけの自信は、出国時点では正直なかった。今は自信を持って「不要不急」ではないと言い切れる。
3月23日(木)
今日がヌルダでの活動の最終日。前日、ガジアンテップへ行くバスの中で私に声をかけてきたのは、シリア人のモハメッド。ワンピース、呪術廻戦、ナルト、ドラゴンボールなど、日本のアニメをスマホ見て楽しんでいるという。ウチのテントへ来ないかと言われたので、午前はシリアキャンプを訪問。いつものテント村からは1km以上は離れている。歩いているとトラクターに乗った親子が乗っていけというので少し乗せてもらう。不思議な国だ。途中にもキャンプがあり、子どもたちが駆け寄ってくる。プレゼントできるようなものを何も持っていないので、チェキで写真撮影。
シリアキャンプに着く。連絡するとすぐにモハメッドが迎えにくる。ここではアラビア語。「こんにちは」は「アッサラームアライクム」、「ありがとう」は「シュクラーン」。以前に、災害ボランティア関係でパキスタン、カタールに、観光でエジプトに、行ったことがあるので、「メルハバ」よりなじみがある。
モハメッドは20歳。左足の膝に障害があり、日常生活に大きな支障はないが、走ったり、踏ん張ったりすることは困難。重い錘がついているようだと言う。地震前の月給は約2万円。障がいがあるから安いそうだ。彼が勤めていた工場は潰れ、経営者も貧しいので再建のメドはない。5人家族で10年前にシリアからトルコへ来た。父親は大工。52歳だが、顔に深い皺がいくつもあり、私よりずっと14歳年下には見えない。私より年長だと思った。人生の苦労が顔にでる。私の顔は全く苦労していない顔だと思った。トルコで家を立てたが、地震で破壊。大工の父親に仕事がたくさんくることを祈るばかり。水とお菓子を頂く。申し訳ない。が、出されたものはシュクラーンといってありがたく頂くのが礼儀だと思う。
モハメッドの案内で子どものテントを見学。机と椅子があり、教室のようだ。子どもたちが駆け寄る。お菓子などなくても寄ってくる。分かってきたのは、外国人と分かると駆け寄ってくるのは、私たち外国人は彼らにとって非日常。同じような毎日に倦んでいるからだ。だから誰が行ってもとりあえず駆け寄ってくる。そこだけ動画で切り取れば、とってもステキに見える。
モハメッドは盗難に気をつけてとアドバイス。最後まで私にまとわりついてきた10人ほどの男の子たちは、みんなお金をくれという。トルコ人キャンプでそんなことは一度もなかった。と思っていつものテントへ。途中、20代の兄弟が話しかける。「お金が必要なんだ。お金をくれないか?」と。またお金か。一番必要なのはお金であることは間違いない。でもあげられない。一人にあげれば、他の人にあげない理由がなくなり、みんなにあげなければならなくなる。際限がない。「オレもお金が必要だ。日本に帰れない」。「じゃあタバコ買ってよ。でないと死んじゃう」、「オレはタバコの煙で死んじゃう」などと返して、写真を撮り、手を振って別れた。
午後からは子どものためのテントの最終日。しかし、この日はテントの修理で子どもは集まらないとのこと。チェキのフィルムが70枚あるので、テントの外で子どもたちと写真を撮りたい。子どもたちを整理する人2人と、写真を撮る一人1人、合計3人に手伝っもらえないかとお願いする。OK。でも、結局薬10人全員が手伝ってくれた。テントの修理をしたようには見えない。
先生や大学生もチェキに大喜び。私も私もと。先生たちのおかげもあって混乱することなく、70枚撮影。私一人ならこんなに整然とはできなかった。ほんとうにうれしい。スタッフはガジアンテップ市のワゴン車で帰る。男性リーダーが、ミツ、ミツ、車に乗れという。私が乗るバスの乗り場まで徒歩10分くらい。乗せてもらえるのはうれしい。バスを降り、バス停へ向かう。するとオスマニエ行きのバスの運転手が、オスマニエ行きだ、早く来いというように手招き。1週間毎日乗ったので認識されている。こういうささやかなことでもうれしい。
トルコ大使館や赤十字への寄付を否定するつもりはない。だがそれは寄付した人の顔は被災者には見えない。日本の寄付が世界中で一番多かったそうだが、たぶんそんなことを彼らは知らない。もちろん現金給付はされないだろう。被災者はおしなべて困っている。その中でも、両親を亡くした子どもたちは経済的な困窮と、大きな精神的ダメージを受けている。私は寄付して下さった方々のメッセージも添えて応援金を贈り、遠く日本からも皆さんを応援している人たちがたくさんいるからねと、励ましたいと思う。
ヌルダだけではなく、全孤児を応援したい。しかし、かっこいいスローガンを掲げて、全孤児をと、できないことは言わない。ささやかでも、わずか31人でも、日本から応援のメッセージを応援金とともに届けたい。
当面の募金目標金額は100万円。一人あたり約3万円。シリア人のモハメッドの月給は約1.7万円。トルコと日本の最低賃金で考えると、5万円くらいの価値になる。金額は多いにこしたことはない。しかし、金額の多寡よりも大切なことは、遠く日本からの顔の見える多くの人からの応援だということ。遠くからの応援の眼差しがささやかでも両親を亡くした子どもたちへの応援になる。頑張って募金を集めたい。
最後に、イスタンブール国際空港でウズマンから以下のインスタメッセージをもらった。
私たちはあなたのトルコ訪問をとてもうれしく思いました。
今日、子供たちはテントの中であなたについて尋ねました。 あなたは子供たちの心の中にいます。
本当にありがとうございました。8月にあなたが帰ってくることを期待しています。
8月下旬に応援金を持参し、メッセージとともにヌルダの孤児に直接渡したい。