言われますが“悪魔”たちの出自とは ・・・
いったい彼らはどこからやってきたのでしょうか
きょうはのっけから直球勝負で主題に入ります。
古代ローマ帝国の存在が、現代もなお、我々に及ぼす
影響力が少なくないことは否定しようのない事実ですが、
その長きに亘(わた)る盛衰の歴史をみると、版図を拡大
していく過程で異文化(ギリシャ・ペルシャ・エジプトなどの
諸宗教を含む)を積極的に取り入れ、取捨選択を繰り返し
ながら発展・隆盛していったことが窺えます。
当然、そこには人間の営み以外にも人的な交流が伴う
わけで、その多様性には目が眩むものがありますが …
各宗教の要素は島嶼(とうしょ)的に異端排除されつつ
も、最終的にはキリスト教に収斂されることになります。
大航海時代とルネサンス(再生・復活)の只中にあって、
もともと、ローマにおいて「光の神」であったものが、
悪魔に貶(おとし)められたまま、今日に至っているのは
忌忌(ゆゆ)しきことだと、ダ・ヴィンチは考えていました。
そこで、
「光の神」=「LUCETIUS(ルケティウス)」
が悪魔にされたとはどういうことなのかというと、彼らの
出自には、大きく分けてふたつの流れがあるのですが、
『ダ・ヴィンチの罠 堕天使』にあるように、
http://sun.ap.teacup.com/japan-aid/406.html(参照)
ひとつは、かつて天使として「神」とともにあったものが、
「神」に反逆して、堕天使となり「悪」を信奉する悪魔
になったもの。
その代表格が
ラテン語で「光を運ぶ」 (lux 光+fero 運ぶ)
を意味するLucifer(光の運び手)と呼ばれ、輝ける
暁の星と称えられていたルシファーです。
もうひとつは、ユダヤ・キリスト教(旧約・新約聖書)以外の
異教の神々たちが勢力を拡大するユダヤ・キリスト教
によって悪魔とされるようになったものです。
後にギリシャ神話のゼウスと同一視されるローマ神話
の主神ユピテル(ジュピター)でさえも降格処分となって
墜天使ともども「サタン」の一派に組み込まれ、
悪魔のひとりとして名を連ねることになります
LUCETIUS(ルケティウス)=光をもたらす者という
別名を持つ主神ユピテルは、インド・ヨーロッパ語族の
天空神で気象を司る神から人間の世界を治める神
となり、やがてはローマの命運を司る神(守護神)として
崇められるようになっていったわけですが、
どうやら、もともとの天使にしろ、もともとは神にしろ、
シンボリックな「光」の存在がジャマだったようで …
そのどちらも、最大の象徴である「光」を奪われて
「善」と対立する邪悪な闇の世界の住人へと
むりやりに変身させられたというわけです
「善」なる神と敵対する「悪」なる神 ・・・
「善」と対立するサタンとしての悪魔と言っても、
その「善」や「悪」は、単にユダヤ・キリスト教における
「善・悪」に過ぎず、異教の神々であった者たちは
、その異教の神を信奉する人々にとっては「善」
そのものであったということです。
普遍的という意味を持つカトリックが、なんらの普遍性も
絶対的な意味合いも持たないままに、相対する「善」
なる者と「悪」なる者(魔物)の存在があって、初めて成立
する性格の宗教を標榜し推進する …
何千年もの長きに亘って、『絶対神』に抗い続ける
異教の神々と天使たちの飽くなき戦いは、言わば、
「神と神」の不毛な修羅場 ・・・
つまるところ、それこそが「サタンの正体である」
と喝破するのが『ダ・ヴィンチの罠』なのです。
宗教(ユダヤ・キリスト教)の歴史に鑑みて、「悪」とは、
明確に「善」と対立する者たちであって、その対立関係
には、現代でいうイデオロギーや思想・哲学・美学の違い
を感じるに十分なもので、そうした永遠の思想闘争を
繰り広げる姿は演出家でもあるダ・ヴィンチにとっては
さながら、格好のページェント(宗教劇)やアート
(芸術)の題材でしかなく、
況(いわん)や“悪魔”などとは名ばかりの方便で、
ユダヤ・キリスト教の「神」を「善」となすだけの詭弁
の産物ではないか、とダ・ヴィンチは訝ったのです
およそ、宗教と名のつくものの大半は何者かの恣意的な
実践統治に必要となる民衆のコントロール(思想制御)に
使われる手段に他ならず、
大雑把に捉えれば、
キリスト教が欧米その他の地域で支配的な世界宗教に
なり得たのは、神の子イエス自身のカリスマでも十二使徒
や他の弟子たちの存在でもなく、偏(ひとえ)に天才パウロ
のヒラメキと情熱によるものです
そのヒラメキと情熱を隠していたのがパウロの目を
塞いでいたウロコなのですが …
ユダヤ教徒(パリサイ派)だったパウロ(ユダヤ名 サウロ
またはサウル)は、その熱心さゆえにキリスト教徒を迫害
する側に立っていました。
あるとき、
「サウロ、サウロ、なぜ、
わたしを迫害するのか」
天からの光とともにイエス・キリストの声が聞こえ、その後
にパウロの目が見えなくなってしまいます
アナニアというキリスト教徒が「神」のお告げによって、
パウロ(サウロ)のために祈るとパウロの目から鱗のような
ものが落ちて目が見えるようになり、パウロはユダヤ教徒
からキリスト教に改宗するのですが …
このAD34年の経験は「パウロの回心」と言われ、
「目から鱗が落ちる」の語源となります。
こうして、イエスの死後になってから
イエス・キリスト教団に加わることになったパウロですが、
その劇的なる回心の後には、積極的な異邦人伝道に従事
し、前後3回の伝道旅行でエーゲ海沿岸一帯に福音を宣べ
伝えた後にエルサレムで捕縛され裁判のためにローマへと
送られます。
伝承によれば、皇帝ネロの時 (AD60年後半)にローマで
殉教したとされていますが、彼が「異邦人に布教・伝道する
のに邪魔になるからユダヤ教の戒律とは縁を切ろう」という
アイデアを出すとそれが何故だかアッサリと通り、パウロは
独自の理論展開(イエスが「磔刑により、犠牲の死を遂げる
ことで人類の罪を贖い、救いをもたらした」というキリスト教
の中心的教義)の構築を開始します。
この時を境にして、それまでは単なるユダヤ教徒の一派
(ユダヤ教ナザレ派)に過ぎなかった初期キリスト教団は、
世界宗教への歩みを始めるわけですが …
後にコンスタンティヌス帝によって公認(AD313年)される
キリスト教は、その甥のユリアヌス帝の時代に迫害と弾圧
を一時的には受けるもののテオドシウス1世によって国教
(AD392年)となってからの驚異的な発展と分裂については
、今更書き記す必要はないでしょう。
そうした意味からは、キリスト教とは「イエスが説く宗教」
ではなく、「イエスがキリストであると説明する宗教」で、
強弁すれば、パウロの説く「キリスト・パウロ教」
でもあるのです。
もしも、パウロの存在がなければ、おそらくはキリスト教
の繁栄は起こり得ずに、ナザレのイエスを救世主と崇めた
小教団が一時期、ユダヤ教世界を脅かしたが早々に姿を
消したと歴史の授業で習うことになっていたでしょう
そうした歴史背景をベースに、聖母マリアを異常なほど
に崇拝する「アヴェ・マリア教」へと変貌しつつある
ローマ・カトリック教会の現実と商売熱心な修道士たちの
目に余る打算を見るにつけ、ダ・ヴィンチの心には教会
への不信と「神」への疑心が渦巻き、その瞳には
真のサタンの姿が映し出されていたのかもしれません。
先に、
悪魔の出自には2通りの流れがあるとしましたが、
ダ・ヴィンチはこのように考えたのではないでしょうか
もともとは「光の神」であったルケティウスが、
キリスト教が国教となった段階で、ローマの守護神から
キリスト教の神に次ぐ一級天使(熾天使 or 智天使)
であるルチーフェロ(ルシファー)に格下げされた後
に、さらにそこから叛逆の濡れ衣を着せられて堕天する
悪魔(ルシファー)にされたに違いないのだと …
マリオ・ラピサルディの詩集 『ルチーフェロ』
神の言葉はひどく甘美で愛に満ち溢れているが、
それは仲間内や身内への愛の言葉であって、それが
異教徒に向けて投げかけられる段になるとたちまちの
うちに悪魔の言葉へと豹変してしまう
結局、我らの
神には悪魔が同居しているのではないか
甘美な言葉は神のタテマエであって、ホンネの部分は
11世紀の終わりから計8回(約200年間)に及ぶ十字軍の
遠征や13世紀頃にはじまる魔女裁判の極悪非道な行為
にも見ることができるし …
その残虐性と独善性と排他性の激しさには、
言語を絶するものがある
ダ・ヴィンチは真実そう思っていたの
に相違ないのです。
ところで、
「どんな部分も、全体に組み込まれる
ようにできている。だからそれ自体は
未完成から逃れられる」
前々回の『ダ・ヴィンチの罠 謎の人』での
http://sun.ap.teacup.com/japan-aid/410.html(参照)
ダ・ヴィンチが残したこの言葉は、
「部分が全体を構成して全体が部分を完成させる」 と
いう主旨ですが、『ダ・ヴィンチの罠』として作品に
偲ばせたミステリーの意図を鑑賞者のひとりひとりの
判断に委ねることで芸術として最終的に完成させる
という意味の他にも、アンチ・クリスチャンである
ダ・ヴィンチ個人の教会批判や主義・主張の咎
(とが)をカモフラージュするものでもあるのです。
さて、
サタンはともかくも、悪魔はタテマエではなくホンネ
で勝負をします。
平穏や心身を退屈させるだけのやすらぎよりも刺激を
尊び、無気力さが言葉を変えただけの優しさよりも厳しさを
優先させる積極的なパワー(欲望)を好みます。
観念よりも実存を是とし、真実に忠実で神のような偽善
を弄する夢想家ではない現実主義者です。
現代においては、
面白味のない神の存在よりも断然に悪魔的な魅力
の方に人気が集まるのかもしれませんが
それは「悪」が放つ強烈な魅惑のオーラに「善」が
太刀打ちできないのか、それとも、元来、「善・悪」は
相対的であり、絶対的な「善」も絶対的な「悪」も存在
しないのならば、悪魔が「悪」で、神が「善」である
という正当性も必然性もなくなるわけで、
従来から悪魔的なものとしてのマイナスイメージや
欠点とされる以下の熟語も …
高慢は自信に、憤怒はエネルギーとなり、
嫉妬は目標に変わり、怠惰は余裕やゆとり
となって貪欲はパワーに変換されるのです
人間の欲望の数に見合うだけの存在が悪魔たち
にあるのならば、それに相当するだけの希望を持った
神々も、また存在しているということを、ダ・ヴィンチは
未完成の作品を通して訴えているようにも感じます。
「善」の中にも悪があり、「悪」の中にも善がある。
この世界には、
「恐ろしく怖い天使もいれば、優しくて
親しみやすい悪魔だっているのです」
「善と悪」や「正と邪」にしても、「闇と光」や
「陰と陽」にしたところで、いつなんどきに、突然として
ひっくり返るか、誰にもわかったものではありません
ただ、
「神」と「神」との不毛なだけの争いは、
もういい加減に止めましょう
きっと、ダ・ヴィンチならば、こう言うと思いますよ。
「隠された『悪』を注意深く拒み、見え透いた『善』を
それとなく避け続けることが肝要であって、それこそが
処世の究極の奥義です」・・・ ってネっ
… to be continue !!
「おいおい、ヤバイぜ 」
「怖い天使と優しい悪魔だってよぉ」
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