「快楽とはすなわち
最大の悪の餌である」
――― プラトン ―――
レオナルド・ダ・ヴィンチが敬愛してやまない
古代ギリシャの哲学者プラトンの言葉ですが、
「アテナイの学堂」 プラトン(部分)
ここで言う「快楽」とは、うれしい、楽しい、
心地いい、爽々しい、快い、といった心理的な
境地を含めた多岐に及ぶ事柄を指していると
思われますが、単純に解釈すれば、肉体的な
気持ち良さ、つまり身体的な脳の快楽に還元
できるものと思います。
詳しくは、
「快楽について」という副題を持つ後期の
対話篇『ピレボス』を参照してください。
さて、
レオナルド・ダ・ヴィンチは、かく語ります。
「これはまさに不快を伴う快楽である」と、
出典:jfuits.com
「お互いに決して離れることがないのだから
、双生児として描いてある」
「互いに反対なのだから、背中合わせに
描いてある」
「二人は同一の土台を持っているのだから
、同一の胴体の上に、すわっているように
描いてある」
「人生論―快楽と不快」jrea.jo.jp
というのは、
「快楽の土台は このとおり不快を伴う労苦
であり、不快の土台もこのとおりさまざまな
不埒な快楽である」
(レオナルド・ダ・ヴィンチ)
として一元論的な解釈を導いています。
この世界を物質世界と精神世界(イデア界)
に分け、後者こそが本当の世界であるとする
プラトンの思想に影響を受けたダ・ヴィンチ
は、我々が通常 感覚的に認識している世界
は「虚構」であり、「嘘の世界」であって、
ウィトルウィウス的人体図 mnsatlas.com
我々は今で言う「シミュレーション世界」の
住人であるという驚愕の結論に到達して
いたものと推測されます。
その流れから言えば、
この世界がシミュレーションだとして、どこか
のプレイヤーがリセットしたり、プログラマーが
「お前を幼子に戻してやろう」と言ったとしても、
小生は丁重にお断り申し上げたいと思います。
幼子に立ちかえり、もう一度、一から人生を
やり直す気持ちなどさらさらもないからです。
「わが生涯に一片の悔いなし」と胸を張れる
ような一生を送ってきたわけではないですが、
生を惜しんで嘆いてみたり、後悔に落涙する
余裕がないほどに、日々の生活に苦痛を感じ、
汲々とした困窮する状況の下にあるとしても、
所詮は、“この世は仮の宿”です。
この世にずっと住み続けることは出来ないし、
いずれは立ち去らなければならないのです。
ならば、
「悪の餌」の「誘惑」に釣られることなく、
あるがままの人生をまっとうしたいのです。
・・・って、
(ホンマかいな)
ところで、
日本は恒久的なる「平和主義」を表向き
には標榜し、実践しているわけですが、
『ダ・ヴィンチの罠 現代考』
『ダ・ヴィンチの罠 善と悪』
の中でもそれとなく問うているように、
果たして、
「戦争とは真に“悪”なのか」
という疑問が常に小生を悩ませるのです。
過去記事において、デカンショ・トリオの内の
デカルトとショーペンハウエルには触れたので
、残るカントにつきましても、何か語らないわけ
にはまいりませんが、
デカルト カント ショーペンハウエル
「平和主義」の全貌を捉えるには、古典的な
平和主義から現在の戦争肯定主義的な流れ
までを俯瞰する必要があり、その起点はカント
が著した『永遠平和のために』で示された
平和構築の方法に求めることができます。
イマヌエル・カント iyashitour.com
そこには、常備軍の全廃や世界政府の樹立、
イマヌエル・カント cocolog-nifty.com
言わば、協和的な国際連合の枠組みを定め、
世界統一共和国を形成することで平和の維持
が可能であるとしたわけです。
さて、
日本国憲法が「平和憲法」と呼ばれるのは
憲法の前文の記述および第9条に由来します。
第9条は、「戦争の放棄」、「戦力の不保持」、
「交戦権の否認」の3つの規範的要素から構成
され、平和主義を基本原則に置いた資本主義
によって裏打ちされる条項です。
しかしながら、第1項における「戦争の放棄」を
自衛のための戦争や武力行使など一切合切の
実質的な戦争のすべてを放棄した規定であると
理解してしまうと、第2項にある「戦力の不保持」
や「交戦権の否認」は有名無実となり、9条2項
を削除しても自衛隊は合憲ではないし、国軍の
保持も適わないということになってしまいます。
この条項の主旨は、
イマヌエル・カント colorfl.net
あくまでも、国際紛争を解決する手段としての
「戦争の放棄」であって、自守防衛を目的とした
「戦力の保持」や「自衛のための交戦権」を否認
するものではありません。
「自衛のための戦い」=「自衛権」は、
カント先生のみならず国際的に認められる至極
当然の権利(正当防衛)なのです。
ここで話はガラリと変わりますが、
サスペンスの巨匠と崇められた最も偉大なる
映画監督のひとりに、アルフレッド・ヒッチコック
がいます。
アルフレッド・ヒッチコック fc2.com
彼は必ずと言っていいほどに自身の作品の
なかに何らかのかたちで登場していました。
このことを指して、当然の権利と言えるのか
どうかは、甚だ疑問ですが、
ダ・ヴィンチも、いくつかの作品に その姿を
変えながら自らの分身を投影させています。
時空劇『最後の晩餐』でのそれぞれの
舞台上(第一幕~第四幕)において、まず最初
に登場する人物たちにダ・ヴィンチのメタファが
隠されていることに気がつきましたか
第一幕では、遠く未来を見つめるバルトロマイ
のなかにダ・ヴィンチの姿が投影されています。
ここで重要なことは、この舞台での脚本及び
演出を手掛ける人物は誰かということですが、
それはダ・ヴィンチであり、当然、彼は舞台の
全域が見渡せるポジションにスタンバイします。
舞台に出演し、且つ、すべてが見られる位置
にいる人物はバルトロマイだけですよね。
バルトロマイについては、
『ダ・ヴィンチの罠 四神獣』
を参考に、上演プログラムについては、
『ダ・ヴィンチの罠 時空劇』
を参照してみてください。
続く、
第二幕では、告発者たるイスカリオテのユダ
にダ・ヴィンチの意思が仮託されます。
それは「裏切者」の汚名を被ったユダの姿
に「告発者」たる自分自身を重ねているから
であって、その事実に気づいた人物のひとりが
引きこもりの画家ヤコポ・バッサーノなのです。
この辺りの考察に関しては、
『ダ・ヴィンチの罠 陰謀論』
を参考にしてください。
第三幕では、顔と人差し指を天に突き立てる
手だけの登場となったの疑いのトマスです。
第二幕において、ユダの選択に自身を託した
ダ・ヴィンチの苦悩とトマス及び大ヤコブに暗示
される洗礼者ヨハネの告発の行方 ・・・
こちらの推理に関しては、
『ダ・ヴィンチの罠 告発者』
を参考にしてみてください。
第四幕では、グローバル化による文明の衝突
、イデオロギーおよび宗教上の対立から自壊を
経て、自滅へと向かう世界に対し、「真善美」
すなわち、愛と誠と仁義を未来に問い掛ける
マタイ(青年のダ・ヴィンチ)に投影されています。
東方三博士の礼拝(部分)amazing-trip.xyz
この点に関しては、
『ダ・ヴィンチの罠 裏付け』
を参照してください。
これらを端的に言い換えれば、
第一幕は「起承転結」の「起」にあたり、
第二幕は「承」で、 第三幕が「転」であり、
第四幕が「結」ということになります。
そして、
その前後に序幕と最終幕がセッティング
され「アルファであり、オメガである」
「時空劇」が繰り返し上演されるわけです。
こうして、「起承転結」を永遠に繰り返す
「仮想劇」は究極のウロボロスとなって、
ウロボロスの蛇(切折り紙)by Kawai Msakazu
「罠」は完結するはずだったのですが、
それでも、尚もまだ、ダ・ヴィンチにすれば、
引き受けた役柄のすべてが「役不足」で
しかなかったのです
そこで彼は天を指さす人差し指をテーマに
『聖アンナと聖母子』『モナリザ』『洗礼者聖ヨハネ』
『聖アンナと聖母子』
『モナ・リザ』
『洗礼者聖ヨハネ』
を集大成として手掛けることになるのです。
しかも、そこには、
デッサンでの幼児ヨハネがキリストの象徴
である「神の子羊」に変えられ、
洗礼者聖ヨハネの右手の人差し指が
、首だけとなったトマスの右手に移行して、
出典元 レオナルド・ダ・ヴィンチの小部屋
偽りのイエスに真実の開示を迫る場面
が『最後の晩餐』での重要なシーン
の一コマとなっているのです。
このように
その意図はいくつかの彼の作品において
、かたちを変えて表現されているのですが、
たとえば、
『モナ・リザ』の目元 meisterdrucke.jp
「モナリザの微笑み」 と言っても、
彼女の目元は笑っていません
むしろ、猜疑心に満ちたドヤ顔に映る目で
睨まれているようにも感じます
こうした、
『モナ・リザ』の謎めいた目の秘密を
端的に表現すれば、この世界の森羅万象
と、私の真実の姿が「何者」であるかを
「疑え !!」と問うているようです。
「ダ・ヴィンチの罠」における主題の
ひとつは、『モナ・リザ』の目が物語る
ように、すべての事柄を「疑え !!」
ということでもあるのです。
疑っている自分自身の存在をも含めて、
そのすべてを疑い続けることによって、
『聖アンナと聖母子』『モナリザ』『洗礼者聖ヨハネ』
はじめて、
『聖アンナと聖母子』
『モナ・リザ』
『洗礼者聖ヨハネ』
に仮託された「罠」の全貌が見えてくる
のですが ・・・
・・・ って、ねえねえ、
ちょっと、待ってよ
いい子ね、ヒツジさんをイジメちゃだめよ
『聖アンナと聖母子と幼児聖ヨハネ』
のデッサンのあたりから隠し絵や鏡絵を通して
怪しい異形の輩たちが散見されていて、
「天を指さす人差し指」が、やたらと登場する
ようになるのよね
そのサイン(天をさす人差し指)の始まりは、
修復版『東方三博士の礼拝』
『東方三博士の礼拝』からじゃがのぅ、
それに、
『モナ・リザ』には、黙示録に登場する
獅子、牡牛、人間のような生き物、鷲などが、
隠し絵にされているうえに、鏡絵では
マントを羽織った奇妙な姿の人物が出現し、
『洗礼者聖ヨハネ』では、グレイ似の
異星人らしき人物が浮き上がってきますが、
出典:deskgram.net
いったい、何を、どこまで疑い続ければいい
というのでしょうか
はてさて、
「自分も含めたこの世のすべてが虚偽だと
しても、そのように疑い意識する自分だけは
その存在を疑い得ない」
すなわち、
「自分は存在していないのではないか
と疑っている自分自身の存在を否定すること
はできない」として ・・・
ルネ・デカルト reomsd.com
フランスの哲学者ルネ・デカルトは
「我思う、ゆえに我あり」と言いました。
フランスの哲学者デカルト clubt.jp
本当にそうでしょうか
ダ・ヴィンチが、「罠」 として思い描いた
「仮想劇」とは、妄想が現実をバックアップ
して試行錯誤する世界を繰り返し上映・上演
しているバーチャル・シアターにおける
「シミュレーション劇」なのだそうですが、
その空間が、
どのような次元で どんな領域のスケールの
ものか見当もつきませんが、仮想現実の住人
には自分がシミュレーションの世界で暮らして
いることに気づくことはないと言います。
ならば当然、小生も皆さんも、ダ・ヴィンチも
想像を巡らすことしかできないはずですが、
500年も前にダ・ヴィンチはシミュレーション
世界を模した「罠」を構築していたのです。
そこに思い至るには幼少時における洞穴
(洞窟)での神秘体験が影響していたのでは
ないかと推測されますが、
その詳細については、
『ダ・ヴィンチの罠 松果体』
『ダ・ヴィンチの罠 白日夢』
などを参照してみてください。
経験の弟子にして万能の天才と謳われ、
壮年から老年の彼をして、漸く本当の意味
での世界的な名声を手にしたダ・ヴィンチは、
1519年5月2日、故郷から遠く離れたフランス
(アンボワーズ城近郊のクルーの館)において
永眠します。 67歳でした。
こうして、
その名声と共に、「罠」に隠された謎も
また、永遠の「役不足」という状態のままに
今日に至っているのです。
ところで、
現在における「役不足」と言えば、日本の
紙幣から完全にその姿を消し去った感のある
聖徳太子の存在があります。
有名な「和を以て貴しと為す」は、
突き詰めれば「絡合」の意味です。
そして、
その意は「すべてはひとつ」という
ダ・ヴィンチの思いとも通底しています。
臨終に際して、
聖徳太子 colorfl.net
聖徳太子は、「世間虚仮、唯物是真」
【この世の中は、なんとも虚(むな)しい仮の
もので、唯一、仏のみが真である】
と呟いたとされています。
仏(ほとけ)を唯一なる真の実在とすれば、
それは、『イデア論』と同じシナリオです。
この件に関する記事としては、
『ダ・ヴィンチの罠 真善美』
を参照してください。
ところで、
ダ・ヴィンチが投影された4人の人物たち
が、それぞれに「役不足」だったとすると、
ひょとして、
ダ・ヴィンチが仕掛けた「罠」は、未だに
完成していないんじゃないの
「えっ !!」
だとしたら、これは、
大変な問題よ !!
あんたもそう思うかのぉ。
じゃが、その「罠」と ここで問題にして
おる「罠」とが同じものとは限らんぞい。
なにせ、
「役不足」が前提の話だし、わしでは
ペテロ役は、「役不足」じゃからのぅ。
まったく「寝不足」のジイさんの戯言ね。
「役不足」の意味を完全に間違えてるし、
アンタの場合、100%「力不足」なのよ!
って、
そっち(力不足)かい !!
出典:globe.asahi.com
… to be continue !!
(… to be continued !!)
imagesCAVD5WC2
出典:blog.livedoor.jp
ではまた、次回に ・・・
うわっ !!
出典:iStock.com(BlackJack3D)
出典:muragon.com
銃口と引き金 104ban.info
おしべが花粉を出して、
めしべが花粉を受ける。
それが受粉(受精)であり、
人間においては受胎となる。
「え~、やだぁ、わたし妊娠するの」
(ゲロゲロ ・・・)
『洗礼者聖ヨハネ』 1513-1516年
(いったい、何の印象操作やねん)

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