というのが、マーク・トウェイン先生の主旨であることは、
拙稿 「嘘、うそ、ウソの話」 のなかでも紹介しましたが、
つい口を突いて出てしまうのが無意味な嘘です。

日常生活のほとんどは、所詮、どっちでもいいことばかり
なのですが、そんなどうでもいいことに、無い頭をつかって
嘘をつくのは、馬鹿げているし、エネルギーの浪費にもなる
し、ちっともエコ(この場合にはエコロジーよりもエコノミー)
ではないのです。
でも、自分も含め、そういう人間は少なくないのです。
あからさまに分かるような遅刻の理由や寝坊の言い訳…
あることないことのホラ話の達人や話半分以下の信用度で
辛くも世渡りをしているような連中に虚言癖のある輩など、
それこそ枚挙に暇(いとま)がありません。
虚言癖とまではいかなくても、「あいつは嘘つきだ」 とか
「奴の嘘には気をつけろ」 とか名指しをされるようになって
しまうと肝心なときに、一般的な意味での“オオカミ少年”
になってしまう恐れは確かにあります。
そうしたレッテルを貼られたまま、無意味な嘘を繰り返し
使っていると、いずれは自業自得、因果応報の憂き目を
見ることになる運命を十二分に予測・想像させるわけです
が、個人的には“オオカミ少年”の話は、無意味な嘘では
なく有意義な嘘(言動)であるとの見解をもっていますので
、わざわざ、一般的な意味での“***”と断ったのです。
「オオカミが来た!」と叫ぶ少年の言動に対する見解は、
別の機会に譲るとしても、世の中に嘘をつかない人間など
は存在しないにもかかわらず、「私は嘘はつきません」など
と大真面目な顔で言う人がいます。
これこそが、嘘、うそ、ウソのまっかっかで、嘘をつかず
に生きている人などただのひとりもいないのです。
ニコニコ顔で「ウチの娘、今度、中学にあがったんだ」など
と携帯の待ち受け画面にある写真を見せられたら、たとえ、
どんな感想を持ったとしても「へェ、可愛いお嬢さんですね」
とか「利発そうな顔をしていますよねェ」 とか、さもなければ、
せめて「セーラー服がとても似合ってます」 ぐらいのことは
言わざるを得ないわけで、こうした社交的な儀礼やお世辞
は、嘘ではあるけど必要な嘘でもあるわけです。
ほかにも、セールスや勧誘などの断りや夫婦・親子・友人
その他の間柄でのあらゆる場面や社会一般の状況下でも
嘘はいろいろとかたちを変えて多用されています。
いちいち列挙するのもバカバカしいほどに、商売の世界
では言わずもがなであって、好むと好まざるとにかかわらず
毎日のように嘘のつき合いをしているのが人間の社会生活
というものなのです。
嘘を意識するしないで言えば、おそらく当人が意識しない
ままに吐いている嘘を含めれば、真実や事実が語られる
以上に大量の嘘が流布されているに違いないのです。
大半の嘘は、他愛のないもので、毒にも薬にもならない
ような罪に問えない内容の嘘でしょう。
ただし、そのなかには、許されざるべき “黒い嘘” や、
狡猾な “赤い嘘” や、注意すべき “黄色い嘘” も、数多く
混じっていますのでくれぐれも ご用心 を…。


さて、「嘘はムダに使うな」 と言ったマーク・トウェイン先生
の 嘘 とは、“無意味な嘘”であって、「無意味な嘘 という
ものは、ムダに使ってはいけない。 いつ 意味のある嘘 が
必要になるか、わからないから」 ということなのでしょう。
それでは、“無意味な嘘”の定義とはなんでしょうか

2号 の考えるところによれば、その嘘に費やした労力
(エネルギー)の総和に対する結果としての効果や利益の
バランス・シートがマイナスとなるような嘘だと思うのです。
代表的なのが、太平洋戦争時の 大本営発表 でしょう。

だからと言って、結果として、マイナスの勘定になる嘘の
すべてが無意味というわけではありません。
先週土曜に放映されたTVドラマ 『樅ノ木は残った』 の
主人公、原田甲斐の行動は、結果として意味のある嘘を
つき通したかたち(伊達62万石安泰)で終わっています。
それまで定着していた原田甲斐の悪人説を覆す内容に
なっている山本周五郎氏の歴史分析に言及するつもりは
ありませんが、その解釈に従えば“意味のある嘘”
をついていたこととなり、従わなければ己の欲に忠実なる
正直者の原田甲斐であったということになります。
不純な動機の支配による価値ではなく、真に有意義なる
価値が生じる嘘を“意味のある嘘”だとすれば、その対極
に位置するのが“無意味な嘘”です。
遅刻や寝坊の言い訳は、保身から出る“無意味な嘘”の
典型例ですが、何の価値をも生まないだけではなく、むしろ
人事考課のうえからも人間性の問題からもマイナスの資産
として計上されてしまいます。
非を認めて素直に謝ることが、正しい対応でしょう。
さて、
意味のある〇〇、意味のない〇〇でいえば、「約束」も
「嘘」と同様に微妙ですね。
仮に、


と規定します。
「約束」は守るためにあるのか


と、問われたならば、おそらく破るためだと答えます。
「約束は破るために存在し、条約は裏切りを前提に締結
される」 (なんとなく、そんな感じ…)
つまり、約束と条約は破られるかも知れないというような
状況のなかで、初めて、その価値と意義とが見い出される
もので、確実に履行される約束や条約には何の値打ちも
生まれないような気がするのです。
逆説的な言い方ですが、一方の真実だと思うのです。
反古にされてはたまらないから、約束事を交わすわけで、
破ることが前提にあるからこそ、仮に不履行となった場合を
想定して約定するわけです。
そして、その約定すらも踏み躙(にじ)り、反古としても
平気の平左、“知らぬ顔の半兵衛”なのが政治の世界と
古今東西の歴史における国際間の約束=条約でしょう。
先の大戦で言えば、独ソ不可侵条約 がそうです
し、日ソ中立条約 もしかりです。
そうなると、どちらも意味のない約束だったということに
なってしまうわけですが、それは、一方においては意味の
ないものでも他方においては意味のある場合や双方ともに
意味のない約束ではあっても、一時の便法や機会の調整、
つまり好機到来までのつなぎとしての便宜上のストッパー
としての約定なのでしょうね。
終戦の一週間まえに突如として条約を破り、雪崩の如くに
満州に押し寄せたソ連軍のことを、許せない裏切り行為だと
して母は、よく話の弾みにひき合いとして出しますが…、
北方領土(4島の領有権)の問題も含めて、当時のソ連も、
現ロシアの政権も、臆面どころか何の痛痒も感じてはいない
でしょう。
そもそも、破られることを前提にドイツとの相互不可侵を
約束したソ連は、日本との間に後顧の憂いをなくしたうえで
、心置きなくドイツ軍と戦おうする目的があったわけで、日本
に対して中立条約(相互不可侵)を締結した裏にはそうした
腹黒い戦略があったわけです。
結局、ナチスドイツが予定通りに条約を無視して侵攻した
結果、連合軍の巻き返しを食らいドイツ軍の無条件降伏と
なった以上、いつ中立の立場を崩してもおかしくないわけで
、ソ連が勝ち馬に乗らないはずはなかったのです。
律義に約束を遵守していたら、ソ連にとっては、それこそ
「正直者が馬鹿をみる」(資本主義体制の席捲する)事態と
なっていたでしょうし、その後の朝鮮戦争もベルリンの壁も
冷戦時代も、ベトナム戦争もなかったのかもしれません。
正直、そうなると本当はどうなのかな

生じてくるけど、歴史は必然ということで、収拾がつかなく
なるまえに適当にお茶を濁すことにします。
とにかく、意味のある約束はしても、“意味のない約束”
や“無意味な嘘”は、極力、控えることにしましょう。
ところで、『樅ノ木は残った』 の主人公である
原田甲斐 は、やはり謀略を駆使していたのでしょうね。
幕府側か、伊達藩側かは別としても…、
腹高い(原田甲斐=はらだかい)って名前だし

それって、腹黒いの間違いだろ!
いえね、相当に計算高いってこと

だから、言ってるように“意味のない約束”や
“無意味な嘘”は、つく 甲斐 がない !!
なんちゃって ネッ

