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透明人間たちのひとりごと

ダ・ヴィンチの罠 無意味(改)

 「無意味」、まさに、そんなブログの引っ越し作業の結果、

100を超える記事の画像が表示できなくなり、非公開としました。

記憶を呼び起こしつつ、漸次、復活・再生させるつもりですが、

正直、皆目見当のつかない画像も多々あります。

 

ダ・ヴィンチの罠 無意味 - 透明人間たちのひとりごと

このページの画像は、故あって表示されませんが、連続性を担保する意味合いからも、そのままで公開し、別途、新しく作り直すことにしました。同じ内容ですが、画像はその限...

goo blog

 

 『ダ・ヴィンチの罠 無意味』

 上記のように、連続性を維持することは、このシリーズの

重要なファクターですので、時間がかかっても復活・再生を

果たさなければならないのですが、漸くこれで12作目です。

 さてと、それでは、ここからが、

『ダ・ヴィンチの罠 無意味(改)』

 の記事になります。

 (以下、本文) 

 
 ポーランドの画家、ベクシンスキーが
描いた絵画にはタイトルがありません。
 
 彼にとっては、タイトルこそが無意味
な存在なんだ、という意見があります。

 そこには、タイトルに縛られ、先入観
を持った目で作品を観て欲しくないという
願望や意思があったとか、彼の意識の根底
には、ナチス・ドイツによるホロコースト
(虐殺)やソ連による抑圧の歴史が脳裏に
刻み込まれていて、その暗く恐ろしい記憶
がゆえに、気味の悪い絵を描かざるを得な
かったとか、そういうふうな解釈をすれば、
確かに一応の恰好はつくわけですが、彼は
作品の詮索やら理論づけや物語的な解釈を
されることを嫌い頑なに拒んだのでしょう。

  

 彼の画集(Pan-Exotica)の帯には
「荘厳なまでに美しく静寂にみちた
終末世界」とのキャプションがあり、
ほかの画集では、「死、腐敗、損壊。
言い知れぬ寂寥感と恐怖に支配され
永遠の廃墟と化した時空。そこには
ただエロスの魂だけが、虚ろに木霊
している」と・・・
 
 それでは、「終焉の画家」である
ズジスワフ・ベクシンスキーの絵を
観てみることにしましょう。

 自作に何らかの意味付けや物語的
な解釈を嫌った彼の作品に、敢えて
タイトルをつけてみたのはどこかで
ダ・ヴィンチの作品と一脈通じると
いうのか、共通する意識が作用して
いるように感じてならないからです
が、早速、比較してみましょう。


 【人間の姿をした天使の幻想物語】


 『人間の姿をした天使』ルーブル美術館蔵
 

 【受胎告知とマギの礼拝での聖母子】


      『マギの礼拝』での聖母マリアと謎の足

 『マギの礼拝』での聖母マリアと謎の足


 【聖アンナと聖母子と聖ヨハネの物語】


 『聖アンナと聖母子と幼児聖ヨハネ』


 【聖ヒエロニムスが持つパンドラの箱】


    『聖ヒエロニムス』 1480-1482年
 

 【進撃の巨人と化した聖ヒエロニムス】


        骨格図(骨格筋)
 
 
 【苦悩する聖ヒエロニムスの残酷物語】


                   『聖ヒエロニムス』


 【ウィトルウィウス的人体移動分解図】

     
       出典:www.studio-corvo.com
 
  『ウィトルウィウス的人体図』 1492年


 【東方三博士(マギ)の礼拝の物語】


 『東方三博士(マギ)の礼拝』 1481-1482年


 【洗礼者聖ヨハネの首とサロメの物語】 

 
『音楽家の肖像』『ウィトルウィウス的人体図』『自画像』
 

 『音楽家の肖像』1485年頃  『サロメ』フランツ・フォン・シュトゥック 1906年


 何かとご不満もございましょうが、そのように
小生にはイメージされるのであしからず  '_';

    
     続けます。
 

 【大いなるバビロンの大淫婦(大娼婦)】
   
      『若い女性の頭部』の習作


 【アダムとイヴとリリスとマリアと天使たち】





 【神のメッセンジャー大天使ガブリエル】

 

 【岩窟の聖母での大天使ウリエルの正体】
   
    

 ★ 異論のある方や異議を申し立てたい方は、
 コメント欄にて大いに爆発させてください。


 【ジーザス・クライスト・スーパースター ① 】


  『醜い頭部』Grotesque.Head の素描

 【ジーザス・クライスト・スーパースター ② 】

 

 【ジーザス・クライスト・スーパースター ③ 】


   

 
 【ジーザス・クライスト・スーパースター ④ 】




 【荒野で男の子を産む女(マリア)の物語】


     『リッタの聖母』 1490-1491年 
 

 【鉄杖を持つ子を抱く荒野の女(マリア)】



 【封印が解かれ、第七のラッパを吹く天使】


     骨格解剖(骨格筋及び腱)図


 【聖アンナと聖母子と幼児聖ヨハネの関係】


   『聖アンナと聖母子』部分 1510年


 『聖アンナと聖母子と幼児聖ヨハネ』 1498年
 
 
 【白貂(ガレー)を抱いた貴婦人の末路】


     『白貂を抱く貴婦人』 1490年頃


 【旧約聖書+新約聖書(66巻)のライブラリー】



 【悔恨の苦しみに悶え狂う裏切りのユダ】


 『サロメ』フランツ・フォン・シュトゥック 1906年


 【鉄の杖を持つとされる男の子の彷徨】


   ダ・ヴィンチが考案したとされる潜水服

 潜水服(ダイビングスーツ)の詳細は


     

 ☆ http://karapaia.com/archives/52222713.html
 を参照してみてください。


 【洗礼者ヨハネの捕縛(幽閉から殉教へ)】



 【サロメの舞と洗礼者ヨハネの首の命脈】


ベルナルディーノ・ルイーニ 作『洗礼者ヨハネの首を受け取るサロメ』


 ところで、

 『ダ・ヴィンチの罠 黄金比(改)』 

 において、   

 ダ・ヴィンチと同極にあって、対極
に位置する画家がベクシンスキー
あると書きましたが、

 それは、

 あらゆる解釈を拒否する者とあらゆる
解釈を許容する者という違いだけでなく



 あからさまに終焉を語る者と気づかぬ
ままに手をこまねいていると破滅に到る
という物語を紡がざるを得ない者同士が
魅せる「黄金比率」であるというような
講釈(屁理屈)を垂れたわけです。


    画像元:サタンとイエス blog.goo.ne.jp

 結果として、一方は滅亡の惨状を、
他方は その成り立ちからのプロセス
とともに回避の祈りと願いを込めた
「罠」としてそれぞれの作品に表象
しているわけで、ベクシンスキーは
終末以外の解釈の余地を極端に恐れ、
いかなる解釈をも拒んだのであり、
   

  

 
 逆に、ダ・ヴィンチは「何でもあり」
の解釈を許すかわりに終末へのベクトル
を避ける道を「罠」に託したのだと、

 

 言わば、

 前者は「ジグソーパズル」で、唯一
の「解」に収斂され、収束される還元型
の絵画であり、
 
           画像元: amiranet.jp
 
 後者は「レゴ・ブロック」のように
自由な発想と想像力で自己の世界観を
ベースに様々な解釈が存在する発展型
(昇華系)の絵画芸術であると言える
のかもしれません。

         レゴブロック feature.cozre.jp
 
 もちろん、ダ・ヴィンチにも鑑賞者に
求めるべき「解」が自在性とともに包摂
されています。

 おそらくは、唯一の「解」ですら
公言してはいけなかったと思われる
ベクシンスキーの絵画に対して、

 【立方体世界(3次元空間)の隠された真実】

 
 数は少ないもののあらゆる解釈の余地
を残しながらも、同一の「解」への回避
を祈願して警告を発してしているのが、


  『洗礼者聖ヨハネ』 1513-1516年

    
   『洗礼者聖ヨハネ』 1513-1516年
   
 レオナルド・ダ・ヴィンチの絵画の



 「謎」ではないかと思うのですが ・・・

『最後の晩餐』で言えば、

 

  ユダのCG部分とユダの右手の素描

 
 ペテロの右腕が描かれている(黒枠内)『ユダの右手の習作』
            up
       

 

  大ヤコブの左手とトマスの左手の素描



 つまり、無数の選択が可能であったと
同時に無数の未来が、ダ・ヴィンチの前
に啓けていたのではないでしょうか。

 この辺りの補足としては、

『ダ・ヴィンチの罠 好奇心(改)』 

 を参考にしてみてください。

 若き日の彼が好奇心に駆られて入った
洞窟の内部で見た幻視と使徒ヨハネが
パトモス島で享けた啓示とは、本質的
には同じエネルギーであったとしても、 


   パトモス島のヨハネ      

 受信媒体としての感受機能の違いによって、
ダ・ヴィンチの脳裏にはさまざまな未来が
展開され、一方は『ヨハネの黙示録』
記されたおどろおどろしいばかりの終末の
描写となったものと思われますが、

 その意味においては、

 まさしくベクシンスキーの絵画は
『黙示録』の世界であって、

 
 【『ヨハネの黙示録』の蒼白い馬の物語】


 彼自身がどんなに解釈を拒もうとしても、
それこそが無意味な抵抗なのです。
 
 
 【『ヨハネの黙示録』の四番目に登場する馬の物語】


 我々の精神は「意味のない不幸」
には耐えられないように出来ているのです。

 たとえば、ベクシンスキーの最期の
ように「意味のない不幸」な事件や
天変地異などによる災厄に見舞われると、


            大津波webry.info
 
 その不条理無意味なる現実に
直視ができずに目をそむけ、オカルト
に走るか、因果律に関連付けて、その
理由を無理やり探そうとするのです。

 もしも、ダ・ヴィンチが

 現代に近い20世紀の真ん中あたりに生を
受けていたならば、無数にあったはずの
選択肢のほとんどを喪失してしまった
哀れな時代の寵児となっていたでしょう。

 そして、おそらく

 残された数少ない運命の岐路の中で彼は
ひとつの「正解」に辿り着き、積極的
により能動的に、万能の超天才たる能力を
発揮して、直接的に「罠」の成就に
アクセスするか、あるいはまた彼自身が
究極の「救世主」(メシア)そのものに
なっていたかもしれません。

 たとえ、それが「聖書」に預言されて
いた偽キリストや反キリストの類で
あったとしても ・・・・・・



 ダ・ヴィンチが言う、

  顔のコレクション blog.livedoor.jp
 
 「美は善ではない」という趣旨の
言葉には「美は悪かもしれない」とする
疑念があったのかもしれません。
 
    
 (なにせ変顔フェチですからねぇ)

 「美と醜とが並ぶと互いに
     より力強く見える」とか、

 「美しいものと醜いものはともに
   あると互いに引き立て合う」

 という言葉には、比べること自体が
「無意味」であって、それらはいつでも
状況や条件次第で逆転するものだという
思いがあったのではないでしょうか^v ゜

    

 不気味なベクシンスキーの絵には
気味の悪さを通り越した言い知れぬ寂寥
(せきりょう)と得体の知れない不思議
な魅力に覆われる時空が存在します。

 木からリンゴが落ちるように、まさに
重力に引き付けられるような、抗し難い
パワーを感じてしまうわけですが、

 非常に危険で魅惑的なエナジーです。

 それでは、再度、ベクシンスキーの
奇怪なる物語をご堪能ください。


 【終末の海を往く「ノアの箱舟」の物語】


 【現代版における「バベルの塔」の物語】


 【終末の名高い英雄「ネフィリム」の物語】


 【荒野で鉄杖の男の子を産んだ女の物語】


 【崩壊し破滅する「ノアの箱舟」の物語】


 【イエス・キリストの磔刑に纏わる物語】
 ①  
 ② 
 
 【廃墟で産声をあげる男の子の物語】
  

 【偽キリスト・反キリストの出現の物語】


 【選ばれし144,000人の天国への入口】


  【巡回飛行(ルーティンワーク)する下級天使】
 
 からの ・・・

 【ドジな天使のビル激突事故の実況見分】


 さらには、

 【ティファニーで朝食するUMAのカップル】


 「これがUMA(ウマ)じゃとぉ」


        馬の素描
 
 「UMA(未確認生物)ですよ !!」

 【偵察飛行をするUFOのルーティンワーク】


 「UFO(うふぉ)って、何じゃ」

 

 「UFO(未確認飛行物体)です」

   

 「ウフォ、ウフォ」

 やはり、

   
 ベクシンスキーはイッチャテたのか!?

 それとも、ダ・ヴィンチと同じような

 「神秘体験」をしていたのか?

  

 いずれにしても、非力なだけの我々には、
事の成り行きを、ただ瞠目して凝視する
ことしかできないのかもしれません。

 ワルシャワの自宅で全身をメッタ刺しに
する犯人の顔を、ただひたすら睨み続ける
ことしかできなかった彼(ベクシンスキー)
のように・・・

 

 それでも、なお、我々には

 

 「愛」があるというのだが ・・・



 【愛こそすべて(All You Need is Love)】


  しっかり組まれた愛する弟子ヨハネの両手

 (泣いていいやら、笑っていいやら ・・・)

 (悲しむべきか、喜ぶべきか ・・・)

 食卓の上で指を組むヨハネの両手と、

 
     ヨハネの両手

 ナイフを握りしめる謎の右手の持ち主と、

 

 食卓にそっと置かれたトマスの左手と ・・・

  
    トマスのものとされる左手の素描


  ・・・ って、さあ、

       
    (これって何か意味あんの)

 それは、
 
 次回の『ダ・ヴィンチの罠』で ・・・


『聖アンナと聖母子』『モナリザ』『洗礼者聖ヨハネ』

 ええい、黙って聞いてりゃ、

     
    (手間ばかりかけやがって!)

 それが次回の「手~間」(テーマ)ですよ。


『最後の晩餐』のヨハネ『岩窟の聖母』のマリア

    

     出典:www.2cb.info


     来るべきこの世の終わり www.youtube.com

 … to be continued !!
 
 それで、なにか ・・・
 
     ズジスワフ・ベクシンスキー 画

コメント一覧

小吉
コピーライターさんが書いた本のなかで、つけるタイトルによって作品の印象が変わると書かれていた。
そしてまたその作品を他の作品と並べる際にそれぞれの関係性でまた違った印象になるということも書かれていた。

あと日本人はものに名前をつけたがるよなーとも思った。
海外ではあんまりしない。
車にしろ交響曲にしろ何にしろ。
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