想定して、昨年末より書き進めてきたブログ記事でしたが、
『ブビ』=エーリヒ・ハルトマンの登場はあったものの
『ムトキン』=武藤金義に関しては、セリフでの出番が
冒頭にあったきりで、その後は一向に姿を見せないままに
年も押し迫り“除夜の鐘”を聞く破目になりました。
そこで、題目を急遽『歴史を演じた男たちⅠ』
に変更し、To Be Continued として年を跨ぐかたち
で、かろうじて新年を迎えることができたという次第です
面目ないことですが 『ブビ(ベイビー)とムトキン』
は体裁上、今回はキャンセルとさせてください

“空の宮本武蔵”

男のひとりとして、『歴史を演じた男たちⅡ』 の
なかで、今後、適宜に出演してもらおうと思っていますので
、何卒、なにとぞ、新年に免じて、ご勘弁のほどを …
そんなわけで、わがまま放題のスタートではありますが、
本年もよろしくお願い申し上げます。
さて、
5号の『撃墜王世界一の行方

的になった“撃墜王世界一”は エーリッヒ・ハルトマン
であるとする大方の意見に真っ向から反論(object to)する
ものではありませんが、

ハルトマンの撃墜数352機に肉薄する者が、同じくドイツ
のゲルハルト・バルクホルンの301機の撃墜を
除けば各国のトップエースをしても遠く及ばないという事実
からしても エーリヒ・ハルトマンの“撃墜数世界一”の
称号は揺るぎのないものでしょう

ただ、
『歴史を演じた男たちⅠ』 でも触れたように、

各国間で諸条件の違いがあって、単に数だけでは判断
できない以上、撃墜数だけで“撃墜王世界一”を
決めることに少なからざる疑問を感じ難色を示したわけで
、撃墜王ではなく“撃墜数の世界チャンピオン”
であるとか、世界最高記録保持者(ホルダー)として
エーリヒ・ハルトマンを評価するにとどまるわけです。
その彼にヒトラーが恭(うやうや)しく贈呈した勲章は、
『柏葉剣付ダイヤモンド騎士鉄十字章』でした。
当時のドイツで、軍人に与えられる最上位の勲章であり、
全ドイツ軍でわずかに27名しか、その栄誉に与(あず)かる
ことができなかったもので、“砂漠の狐”として有名な
将軍 エルヴィン・ロンメルもそのひとりです
… ですが、戦局の悪化にヒトラーはひとり悶々とします。
そして、総統は妄想を抱くのです。
いよいよとなったら、彼のような勇者たちが出現し、
“12人の円卓の騎士”となって、我がドイツランド
を救ってくれるに違いない。
そうだ
彼にこそ相応しい最高位の勲章を用意させよう。
こうして、ドイツが存亡の危機に瀕したときに現れる最も
勇敢な軍人12名のみが授与されると定められた最高位の
『黄金柏葉剣付ダイヤモンド騎士鉄十字章』
が作られます。
一説には、12という数字はキリストの最後の晩餐に因む
とも、また功績を挙げすぎた彼に見合うだけの『勲章』
が存在しなかったために新設されたとも言われますが …



正真正銘の前人未到にして空前絶後の
不滅の破壊王

して百万の援軍にも匹敵する英雄の中の英雄で、
敵方からみれば、「ソ連人民最大の敵・シュトゥーカ大佐」
と渾名(あだな)され言語道断にして茫然自失を
余儀なくされるほどの甚大な損害を被り、ソ連軍によって、
賞金10万ルーブル(現在の日本円にして、
およそ5000万円~1億円)が、その首にかけられたという
伝説の英雄ハンス=ウルリッヒ・ルーデル
その人なのです

おそらく彼は“世界一の被撃墜王”でもあると
思われるのですが、そのことにはおいおい触れるとして …
まずは、Wikipedia を参考に概略を記すと、
ハンス=ウルリッヒ・ルーデル(Hans-Ulrich
Rudel 1916年7月2日~1982年12月18日)は、第二次世界
大戦中のドイツ空軍の軍人(航空機操縦員、幕僚将校)。
ヨーロッパ東部戦線において、ソ連軍の戦車500輌以上と
800台以上の軍用車両を撃破する戦果を挙げる。
また航空機 9機を撃墜、地上砲火で30回撃墜される
これらの戦功によって、騎士鉄十字章の最高位とされる
『黄金柏葉剣付ダイヤモンド騎士鉄十字勲章』を授かる。
【戦績および戦果】
出撃回数 2530回(内、Fw190FやFw190D-9での出撃
が430回ある)
被撃墜回数 30回
戦闘による負傷 5回
戦車 519輌(戦車部隊1個師団の撃滅に相当する)
装甲車・軍用トラック800台以上
火砲(100mm口径以上)150門以上
装甲列車 4両
戦艦 1隻(マラート)
旗艦駆逐艦 1隻
駆逐艦 1隻
上陸用舟艇 70隻以上
航空機 9機(戦闘機 2、爆撃機 5、その他 2)
【受賞勲章】
騎士鉄十字章(出撃回数400回、戦艦マラート撃沈
の功による)
柏葉付騎士鉄十字章(出撃回数1000回による)
柏葉剣付騎士鉄十字章(出撃回数1600回による)
柏葉剣付ダイヤモンド騎士鉄十字章
(出撃回数1800回、戦車撃破数200輌による)
黄金柏葉剣付ダイヤモンド騎士鉄十字勲章
(出撃回数2400回、戦車撃破数463輌による)
その他にもドイツ十字章金賞など多くを受賞する
尚、艦艇の撃沈記録については、彼一人の戦果ではなく
共同戦果です。
ルーデルの残した記録は並外れて高いため、往々にして
伝説めいて語られますが、これらの戦績はあくまでも公式
の記録に基づくもので、戦友たちの証言等によれば、彼は
仲間の評価を上げるため、自らの戦果を他人の戦果として
申告させていたといいます。
この証言に従えば、実際の戦果は公式記録より多いこと
になるうえに、負傷をした際にも病院からこっそり抜け出し
ては出撃し戦列に紛れていたため、実際に上げた戦果は
さらに多かったものと思われますが、
結局のところ、ヒトラーの願いも空しく突出した夢のような
伝説的英雄がルーデル以外に出現するはずもなく、ドイツ
は敗北への道をひた走ります。
1945年1月1日、新設された最高位である『黄金柏葉剣付
ダイヤモンド騎士鉄十字勲章』の授賞式で、彼の身を案じ
今後の出撃を控えるように促すヒトラーに対して「総統、
もし私が飛行大隊と行動を共にすることが許されないので
したら、私は受賞と昇進とを辞退 申し上げたいと存じます」
と直訴し、ヒトラーを慌てさせます。
結果として、唯一無二の受賞者となるルーデルの訴えに
痛み入ったヒトラーは、事ここに至るに及びドイツの負けを
それとなく覚悟したのかもしれません

もっとも、ルーデルとヒトラーとは、極めて高い信頼関係
のうえに成り立っていたとされ、事実、ルーデルが著わした
『急降下爆撃』(高木真太郎 訳)のなかで、ヒトラーと
会うたびに深い感銘を受けたと何度となく記述していますし
、ヒトラー自身もルーデルを高く評価しており、大戦末期の
1945年4月14日にヒトラー自らの「全ジェット部隊の指揮を
執ってくれ」 との依頼に対して、ルーデルは 「私の経験は
急降下爆撃と戦車攻撃くらいのものです」と断っています。
4月19日にも繰り返し要請がありましたが、第2地上攻撃
航空団司令という責任からこれも拒み通し、ヒトラーが自殺
する3日前の27日にもベルリンに召喚されるのですが …
着陸場所に指定された広場がすでにソ連軍に占領されて
いたために実現せずに終わることになります。
ヒトラーは死ぬ間際までルーデルを信頼し、微かな希望
を彼に見い出そうと必死であった様子が弥が上にも窺える
エピソードです。
― 以上 ―
Wikipedia より適宜に抜粋・引用・加筆しました
歴史上では、
『黄金柏葉剣付ダイヤモンド騎士鉄十字勲章』を、手に
した者はルーデル以外には誰ひとりとしておらず、ヒトラー
の夢と野望は無残にも打ち砕かれ、円卓の騎士への希望
も消え去り、唯一の受賞者としての彼の『レジェンド』
だけが残ったというわけですが、
敗戦後(1945年)に、「何故あのように遅い機体(Ju87)で
あれだけ出撃(2500回)して、生き残ることができたのか」
と尋問する英米軍の将校に対して、
「これという秘訣はなかったのだが …」 と
嘯(うそぶ)いてみせたといいます。
とは言っても、
30回も撃墜されて、生きていること自体が奇蹟だし
、“被撃墜王世界一”というもうひとつの偉大なる
『レジェンド』も顕在にして、猶(なお)、健在です。
ところで、
『ムトキン』こと武藤金義が、さっきから舞台の袖で
出番を待っているのですが、なかなかタイミングに恵まれず
に燃料切れで墜落(失速)しそうな状況です。
歴史の舞台裏もブログ作成の顚末もてんやわんやで …
絶望的な残燃料(紙幅)の『ムトキン(武藤金義)』さん
ですが、緊急着陸で 『歴史を演じた男たちⅢ』
の舞台へのルートにフライトプランを変更しましょう

大晦日 はしょ(箸折=端折)る
そば(蕎麦=傍)から のびるなり
… … … で迎えた正月も、早や7日の七草です。
下の句から上の句を考える遊び(前句付け)が「川柳」
の元になったとか … ならば、逆に上の句(川柳)に下の句
をつけようということで、
あらためまして、
晦日すぎ はしょ(箸折=端折)る
そば(蕎麦=側) から かゆになり


ブログの出来ばえと“七草粥”にからめての一句、
はてさて、
判定は、皆さんの拍手次第ですが …

では、また『PART-Ⅲ』でお会いしましょう。