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透明人間たちのひとりごと

ダ・ヴィンチの罠 犬と猫

 このページの画像は、故あって表示されませんが、

連続性を担保する意味合いからも、そのままで公開し、

別途、新しく作り直すことにしました。

 同じ内容ですが、画像はその限りではありません。

  新たなページは、

 『ダ・ヴィンチの罠 犬と猫(改)』です。

 (以下、本文)

 

 最近では日本でもよく耳にするだけでなく、
年々歳々その盛り上がりの度合いが増して
いる年中行事としてのハロウィン🎃が
間もなくやってきます。

 実は、

 ハロウィン🎃は、キリスト教に関する
お祭りではありません。

 古代ケルト人の宗教(ドルイド教)における
秋の収穫を祝う祭、収穫祭なのです。

 カボチャの中身をソックリくり抜いて作った
「ジャック・オー・ランタン」を飾って

    
      ジャック・オー・ランタン

 魔女やお化けに仮装した子供たちが近所
の家々をまわって、お菓子(キャンディなど)
を貰ったりする風習ですが、



 日本においては子どもよりも若者たちが
仮装コスプレを楽しむようなイベントとして
全国各地で定着しつつあるようです。

 ハロウィン🎃と混同されるお祭りに
イースターがあります。

 こちらはイエス・キリストの復活をお祝い
する復活祭イースター・エッグ

      

 (基本は赤く染めた卵)が有名ですが、

   
  麦わらで飾られたイースター・エッグ

 現代では、チョコレートで作られた
ジェリービーンズやキャンディなどを

    

 詰めたプラスチックので代用すること
が多いようです。

 イースター(復活祭)は、イエスが



 にされてから3日後に復活したこと
記念記憶するためのキリスト教に
おける最も重要な祭りであって、カトリック、
聖公会、プロテスタントなど西方教会では
イースター・エッグ(復活祭の卵)を運んで
くるウサギとしてのイースター・バーニーも
復活祭の風物詩のひとつになっています。

   
 イースター・バーニーを描いた1907年の絵ハガキ


 イースター・エッグを赤く塗るのは
卵そのものが復活のシンボルなのですが、

      

 赤はキリストのによって世界が救われ、
そのによって人類再生することを
表しています。

 さて

 ここに同じシチュエーション(状況)を描いた
ヤコポ・バッサーノの絵画が2枚あります。


  『エマオの晩餐』Ⓐ ヤコポ・バッサーノ画


  『エマオの晩餐』Ⓑ ヤコポ・バッサーノ画

 エマオにおけるイエスと2人の弟子たちとの
食事の風景を描いた『エマオの晩餐』
のⒶとⒷですが、この場面の前段の話は、


  
    クレオパに語り掛けるイエス

 イエス・キリストの弟子がエマオ(地名)の
近くを2人して歩いていると復活したイエス
が弟子のひとりであるクレオパに近づいて、
何事か語り掛けるところから始まります。

 
   エマオに向かうイエスと弟子たち

 弟子たちはそれがイエスとは気づかずに、
その晩の食事に招待します。

  
       『エマオの晩餐』Ⓐ

 食卓でパンを分け、祝福をする姿を見て
それがイエス・キリストであることに気づく
という『ルカの福音書』24:13-32
にある場面を描いたもので、

  
       『エマオの晩餐』Ⓑ

 同じテーマのほぼ同じ構図の2枚の絵を
彼は微妙に描き違えて用意していたのです。

 たとえば、食卓にのぼるメイン料理ですが、

 Ⓐは魚料理、多分ウナギだと思われます。


  『エマオの晩餐』Ⓐ ヤコポ・バッサーノ画

 ハッキリとは確認できませんが、おそらくは
そうでしょう。

 実のところ、魚とキリスト教の結びつきには
古くて長い歴史があるのです。

 キリスト教がまだ、ローマの国教とはされず
に迫害を受けていた3世紀から4世紀の頃の
時代、キリスト教徒たちはお互いが同じ信仰
を持った者同士であることを暗示的に伝える
手段として下図のような魚のマークを用いて
いました。

    

 魚が何故キリスト教のマークになるのか

 それは、

 『最後の晩餐(CGの謎)』
 url http://sun.ap.teacup.com/japan-aid/398.html

 でも記したように、次のようなギリシャ語の
文章(単語)に隠されています。

 ΙΗΣΟΥΣ ΧΡΙΣΤΟΣ ΘΕΟΥ ΥΙΟΣ ΣΩΤΗΡ
 <イエス キリスト 神の 子 救い主>

 この文章を構成する各単語の頭文字を
順番に並べると「ΙΧΘΥΣ」となります。



 これはギリシャ語で「魚」を意味する
「イクトゥス(イクテュス)」と同じ発音となり、
初期のキリスト教徒の隠れシンボル
でもあったわけです。


 このことは後半でも触れると思いますが、
ダ・ヴィンチの『最後の晩餐』での
料理とも同じですね。

 それが、

 Ⓑでは卵と動物の丸焼きに変わります。


  『エマオの晩餐』Ⓑ ヤコポ・バッサーノ画

 卵は当然、復活したイエスをシンボリックに
表すものであり、

  
    『エマオの晩餐』Ⓑ テーブル

 運ばれてくるメイン・ディッシュは生け贄
(十字架での犠牲)の象徴としての動物の
丸焼き(首から先がないことに注目)です。


   『エマオの晩餐』Ⓑ 大皿の料理

 要するに、これはヤコポ・バッサーノが描く
『最後の晩餐』での大皿の上の子羊
と期せずしてつながるわけですが、

  

 ヤコポ・バッサーノはダ・ヴィンチの壁画
『最後の晩餐』を意識して、そこに
ある「罠」一端理解したうえで、
彼なりの『最後の晩餐』を仕上げた
わけであって、



  『最後の晩餐』ヤコポ・バッサーノ画

 その制作意図における秘密を2種類
『エマオの晩餐』に込めていた
ものと推理したわけなのです。 

 つまり、その主題はズバリ「犬と猫」
であってヤコポ・バッサーノは犬派(🐩)
として、ダ・ヴィンチは猫派(🐈)としての
『最後の晩餐』を描いたのですが、

 その解説は後に回すとして、

 このエマオにおけるイエス顕現
以外にも、イエスは何度か弟子たちの前
に現れます。

  
  『復活』シモン・チェホヴィッチ1758年

 復活したイエス・キリストが11人の弟子の
前に現れている場面(イエスの顕現)です。

 その状況は四つの福音書で、それぞれに
違っていて、イエスの復活後の顕現
報告する記述は多くの矛盾に満ちており

     

 聖書の記録の中でも最も信頼できない
もののひとつとなっています。

 


 そのことはダ・ヴィンチも承知しており、

 「解剖して分かったことだが、
 人間は死ぬように出来ている」


     (レオナルド・ダ・ヴィンチ) 

 という言葉には暗にイエス復活
懐疑的であるだけでなく、人間としての
永遠なる完全否定している
わけで、『最後の晩餐』の場面には、
そうしたダ・ヴィンチの心情と意思の発露が
秘密裏のうちに醸成されているのです。

 以前から申し上げているように、



 『最後の晩餐』とされる彼の作品は



 狭義には過ぎ越しの祭りの夜の最後
晩餐から磔刑死復活をした



 イエスが弟子たちの眼前に現れた時の

   
   
   
   
   

 一瞬をスナップしたものであって、






 一種の複合するスクリーンショット
としての静止画像データの集まりなのです。





 そして、

 広義には宇宙開闢(ビッグバン)から

  

 人類終焉(最後の審判?)までの



 スペクタクル時空劇(舞台劇)であり、

  

 それらは、



 テンペラ画法がもたらす壁画の劣化
及ぼす偶発的変化による未知の醍醐味
計算され熟慮され尽くした設計
基づく思考実験としての「罠」の仕込み
『最後の晩餐』真実なのです。




 さてさて、それでは、

 ヤコポ・バッサーノは似て非なる2種類の
『エマオの晩餐』を何故に用意した
のかということですが、


  『エマオの晩餐』Ⓐ   『エマオの晩餐』Ⓑ

 画家が同じモチーフの絵を2枚描くという
ことはまま見られることで、特に珍しいこと
ではありません。

 但し、

 大抵はその場合には、ほとんど同じ図柄に
なるのが普通です。

 言わば、1枚は依頼者用であり、もう1枚は
作者のアルバム用としての複製なのですが、

 この2枚はいくつかの点において明らかに
逆の意味もしくは対立する何かを表現しよう
とする意図が見て取れます。


       『エマオの晩餐』Ⓐ

       『エマオの晩餐』Ⓑ

 そのひとつが、犬と猫の描写の違いです。

 まず、

 ⒶとⒷでは二人の弟子に対する犬と猫の
位置がそれぞれに逆転します。

 その他にも、Ⓐでは給仕の奥の側に猫が、
Ⓑでは給仕の外側に犬が配置されていて、

 しかも、

 Ⓑの子犬は、猫か と見紛(みまが)おう
ばかりに鼻筋に沿ってタテに流れる白い毛
や耳も鼻も猫仕様ですが、長いヒゲはなく、
体つきや目の感じ、毛並みの色などは犬の
仕様で全体的には子犬を思わせています。

   
      『エマオの晩餐』Ⓑ 犬

 その姿も寝そべったうつ伏せの格好から
姿勢よく座ったポーズに変わっています。

 一方の猫はと言うと、

 Ⓐでは左側の弟子の座る椅子の横から
寝そべる犬を見ているようですが、

    
      『エマオの晩餐』Ⓐ 猫

 Ⓑの猫は右側の弟子の椅子の裾陰から
指示を待つかのように行儀よく座る子犬に
向けて鋭い視線を放っているようですが、

 この違いは何でしょう

 対立や敵対する者同士の関係を如実に
感じさせる対比であることは確かでしょう。

 ある意味で犬と猫は人間の友(ペット)と
しての永遠のライバルです。

 また、

 忠実で従順で、規律正しい群れの一員と
しての習性を持つ犬と自分勝手で我が道
を行くが如き振舞いの猫とは、神に対する
従僕なる僕(しもべ)としての犬とサタンや
悪魔の使いとしての猫という、対立し敵対
する者同士の評価にもつながります。
 
 『エマオの晩餐』Ⓐを反転すると

    
     『エマオの晩餐』Ⓐ 反転

 『最後の晩餐』(ヤコポ・バッサーノ)
での画面の右側を思わせるような位置に


  『最後の晩餐』ヤコポ・バッサーノ画

 丸まって寝そべりながらこちらに視線を
送る犬と、同様にこちらを鋭く見つめる猫
の姿がみられますが、

    

 その犬と猫が『エマオの晩餐』
では、給仕の手前で画面左の端に子犬が
座り、それを右側の隅っこから憎らし気に
睨みつける猫がいるという構成で、


       『エマオの晩餐』Ⓑ
   
      『エマオの晩餐』Ⓑ 犬
     
      『エマオの晩餐』Ⓑ 猫


 それが、

 Ⓐでは給仕の向こう側で画面の左に猫が
いて、画面の右端に丸まらずにうつ伏せに
寝そべる犬がいるというように


       『エマオの晩餐』Ⓐ

 それぞれの位置方向視線
動作などを微妙対比させることで
対立する構造相関関係を、

    
      『エマオの晩餐』Ⓐ 猫

 その形状の違いによって恣意的
表現しているものと思われるわけです。

 
 イエスもⒶとⒷではかなり違います。

 左手をパンの上に添えて右手で祝福の
ポーズを取り、優しい視線を鑑賞者である
こちらに送るのはどちらも同じですが、

     
     『エマオの晩餐』Ⓑ イエス

 の向きと支えるの方向が左右で
逆になっていますね。


       『エマオの晩餐』Ⓐ

 後光の表現方法(光輪の有無)や衣装
の配色も違います。

    
     『エマオの晩餐』Ⓑ 中央部

 そのどちらのイエスも高貴で神々しい
容姿に描かれていますが、Ⓐのイエス
が醸し出す雰囲気はヤコポ・バッサーノの
『最後の晩餐』におけるイエス
風貌に似ていて薄いピンクのドレスシャツ
に身を包む姿はⒷのイエスと同じ衣装
をイメージさせます。

   
      『最後の晩餐』中央部

 そして、

     

     『エマオの晩餐』Ⓑ イエス

 印象から受けるⒷのイエスの佇まいは

 


 ダ・ヴィンチの『最後の晩餐』での
イエスと似ている感覚に見舞われます。

 繰り返しになりますが、

 2種類の『エマオの晩餐』ⒶⒷの
メイン・ディッシュが、Ⓐではダ・ヴィンチの
『最後の晩餐』を思わせる魚料理
(ウナギ)で、Ⓑではヤコポ・バッサーノの
『最後の晩餐』での子羊
に繋がる補完材料としてのない
小動物の丸焼きが選ばれたわけです。
 
 但し、

  
    『エマオの晩餐』Ⓑ 皿の中身

 Ⓑの場合の丸焼きは食卓のに対応
する意味での親鳥(七面鳥など)では
ないかと思われますが、


   『エマオの晩餐』Ⓑ 大皿の料理

 そこにもヤコポ・バッサーノの深謀遠慮
が見え隠れしているようです。

       

 ダ・ヴィンチの描く『最後の晩餐』
と、その前後における彼の一連の聖書を
モチーフに仕組んだ数々の宗教シーンに
おける「罠」の構成と似た構図と構造
が、これら2枚のヤコポ・バッサーノが描く
異なった趣旨の『エマオの晩餐』
と、復活前の磔刑前夜でのイエスと弟子
たちの様子をその息遣いからニオイまで
を身近に感じさせるほど生き生きと活写
した彼の『最後の晩餐』には、


  『最後の晩餐』ヤコポ・バッサーノ画

 ダ・ヴィンチの「罠」と同種の意思が
そこに蠢(うごめ)きながらも働いていると
いうことです。

 しかしながら、

 その主張するべき事柄については、
同じ意図を表現するにしても同床異夢
というか、アプローチの相違と言うべきか、

 やはり、  

 犬派(🐩🐕)と猫派(🐈)の違い
よるものと言うほかはありません

 ということで、



 次回は犬派(🐶🐕)と猫派(😼😺)の

  

 アプローチの違いから天を指さす人物の

      
      
 「謎」と皿の上の子羊の「罠」

    

 について解明してみたいと思います。

 ところで

 「アンタはどっち派かのぉ」

  

 「わしゃ、狼派(🐺)じゃ」

    ガオー !!

   

 じゃなくて、

 ワンニャン派(🐩🐈)ですよね。

     

   ・・・ って、おいおい、



     むう ・・・



 … to be continue !!



  【洗礼者聖ヨハネの首とサロメの物語】 


コメント一覧

一発逆転
やる気満々のペテロがワンチャン、ワンニャン派だとしても、悪魔が入ったユダ(猫)が抜けたあとの新たな12使徒は忠実な犬ばかりで猫がいないということと、干支の十二支にも猫がいないことは偶然の結果だろうか?
江戸川ドイル
「ワンニャン派ですよね」のあとが「・・・って、おいおい」だから、そのつもりだよな!

ペテロの爺さんは、もう、やるき満々だし、ダ・ヴィンチの「むう・・・」も意味深だよね。
一発逆転
ニャンニャン(Nyan Nyan)って、中国では娘娘=女神や皇后の意味だけど、日本語ではヤバいよね!

ワンニャン派って、ワンチャンきわどいかも・・・
きくらげ
そうでしたね。 ときどき寄るつもりが、ほぼ毎日のチェックにルーティーン化してしまいましたが・・・

初登場ということで言えば、ポヨヨンさんの初登場当時の様子がわかると有難いのですが、それでおおよその結論が出せると思うので、知っている方はこのページにコメントください。
ココナン
きくらげさんの初登場は、このページだったんだ。
きくらげ
ハロウィン、イースター、ダ・ヴィンチでググったら、このページに来ました。

「ダ・ヴィンチの罠」というタイトルとのギャップを感じながらも、なんとなく読み進んでいるうちに少し興味がわきました。

ときどき、寄ってみることにします!
江戸川ケイシ
キリスト教的と言うか、聖書理解では、知恵を持つこと自体が悪(原罪)ということですよね。

ポヨヨンさんの「自由なのら・・・」の意味をずっと考えていたんですが、自由意志のことを言っているのかな?

誰からも支配されない、物理的に自由であるということとも違う完全なる「精神」の自由です。

もし「神」の陰謀があるのなら、それは自分自身の頭で物事を判断し考え抜く力を殺ぐこと、

要するに、彼ら(神々)が一番して欲しくないことは、誤解を恐れずに言えば、考えが間違っていようがなかろうが、そんなことは問題ではなく、自分で判断する精神の自由で、他人から与えられた考えであるか否か、それを拒否し否定できるかどうかの問題です。

「神」の支配からの解放がダヴィンチの罠の目的でもあって、「ペットでもノラでもない自由」なんだと・・・

ちょっと考えすぎたかな?

夜は気分を感傷的にしてしまうようです。
ポヨヨン
「ち-が-う-だーろー!」

わんわん🐩、にゃんにゃん🐈

ペットでも、ノラでもないよ! 

自由なのら・・・(=^・^=)
江戸川ドイル
音無しの構えのポヨヨンちゃんもスルー中なのかな?
むらさき納言
ずっと考えてたんですが、「ちーがーうーだーろー!」も、
わんわん、にゃんにゃんも、今までのポヨヨンさんのつぶやきからすると、ゴスペルさんが言うような単純なものじゃないような気がします。

違っていたら、ごめんなさいね。ドイルさん!
江戸川ドイル
そうだったの? ポヨヨンちゃん!

「ちーがーうーだーろー!」は、×(バツ)だよ!!

なんか、言いそうだから・・・
ゴスペル999
「わんわん、にゃんにゃん」の意味やけど、
やっと解ったぜよ!(今度は土佐弁かいな)

ドイル氏へのお礼で「アリガト」って、吠えたわけや!

せやろ、ポヨヨンはん!
むらさき納言
次のページでのPPRに関して、フランダースの犬(パトラッシュ)を仄めかしていた件をみても・・・

勘ぐっちゃいけないのはわかるけど、気になる存在ですね。

ポヨヨンさんは???
ゴスペル999
ただの鳴き声だけど、ポヨヨンさんがつぶやくと、意味があるように聞こえてくるから不思議だ!

犬と猫か・・・!?
ポヨヨン
なんか古文の授業みたい。

「ちーがーうーだーろー!」

わんわん🐩、にゃんにゃん🐈
むらさき納言
不明不詳さんが詠んだ和歌風の詩に応ずる返歌というよりも、こちらを贈歌としてください。

玉にキズ 小判に鉛の まがい物
    求めて空し 開かずの秘密

(むらさき納言)
江戸川ドイル
現時点での最新版「告発者」を読んで思うことは、
「ちーがーうーだーろー!」 違うだろよ!

「豚に真珠」なんて一言もなかったじゃんか。

失礼しました。

ポヨヨンちゃんの代わりに吠えてみました!
不明不詳
犬に玉 猫に小判の うたげかな
    求めよ叩け されば開かん

(詠み人知れず)
むらさき納言
下衆の勘繰りで言ったわけではないですが、誤解を招いたのなら訂正します。

ポヨヨンさんのつぶやきが的確でエグい、いえ、鋭いというのか、予言的でキーワードっぽいものだから、何かを知っているような気がして・・・

でも、ココナンさんの言う通り、何者であれ、詮索無用です。

遠慮ないつぶやきを聞かせてください。
江戸川ドイル
やっぱ、そうだよな。
勘ぐるなんてゲスだよなぁ・・・

ゴメンね! ポヨヨンちゃん。

前言、撤回です!
ココナン
謎めいたコメントが魅力のポヨヨンさんですが、言い換えとか、次の節にある聖句とかはゴスペルさんが思いついたアイデアであって、ポヨヨンさんとは直接には関係ありません。

〇〇〇が何かはわかりませんが、何者でもいいじゃないですか。詮索するのは良くないですよ!
江戸川ドイル
すげえ! さらっとかわしたね。

でも、○○○じゃないよね? ポヨヨンちゃん!
ポヨヨン
ポヨヨンはポヨヨンだよ。
イヌでもネコでもブタでもないよ。

( ^🐽^)・・・で、何か!?

 およっ。 ブ、ブタじゃん!
むらさき納言
日本もしくは日本人には無関係であるはずのよその国のお祭りであるハロウィン(収穫祭)に
騒ぎまくる無意味さを「豚に真珠」と譬えただけならまだしも、ゴスペル999さんが指摘したような意味合いを込めて言ったのだとしたら、
「豚に真珠」を言い換えれば「猫に小判」ですよね。

マタイの福音書になぞらえれば、

【犬に神聖なものを与えてはなりません】
【猫の前にも小判を投げてはなりません】

となります。

 犬と猫・・・

そして、その次の節は有名な聖句のひとつである
「求めよ、さらば与えられん」です。

ポヨヨンさん、あなたはいったい何者ですか?
ゴスペル999
「犬派、猫派に分ける趣旨がよう分らん」と言ったが、
ポヨヨンさんの「豚に真珠」でバチッとひらめいたぜよ。

いかん! ゴスペル999や、福音的(ゴスペル風)にいかなあかんわ!

マタイ伝7:6にある「豚に真珠」を言い換えて、次の節に進めってこっちゃな。

ポヨヨンさんに倣って、ここはワンフレーズ・サジェションでやめとこ!

その方がミステリアスやし・・・
江戸川ドイル
「豚に真珠」って、マタイの福音書7章6節にある「聖なるものを犬に与えてはなりません。豚の前に真珠を投げてはなりません」から出来た成句(ことわざ)だよね。

謎かけなの? ポヨヨンちゃん!
ポヨヨン
きょうはハロウィン。
ジャパニーズにはブタに真珠じゃ、ブー🐽
ココナン
ペスト流行の裏には「風が吹けば桶屋が儲かる」式の因果関係があったんだ!
三味線の皮になる日本の猫も哀れだけど、火あぶりにされたというヨーロッパの猫の恨みがネズミやペスト菌に乗り移っていたのかもね。
むらさき納言
そういう見方、つまり、みのるさんの言う婉曲に教会の愚行を非難する意図もあったのかもしれませんが、
素直にみれば、やっぱり、Let it Go(レリゴー)→ありのままで、生きている猫の自在性に対して最高傑作と評価したのではとも思われます。

猫を虐待し虐殺した中世のヨーロッパでは、そのせいで、ネズミが増えて、ペストが大流行したわけですから、自業自得なのですが、それも含めてダ・ヴィンチは「猫は最高傑作である」としたのかも・・・
みのる
ダヴィンチが『猫は最高傑作である』と言ったのは、猫を悪魔の象徴のように虐待しいる教会に対して、「馬鹿げたことをしている」と、遠まわしに非難する思いが含まれていると思います。
江戸川ケイシ
ココナンさんやポヨヨンさんの言うように視点が犬的(実直で素直で開放的)であるか、猫的(用心深く慎重で懐疑的)な描写であるかの違いを強調する表現のような気がしますが、
ゴスペル999さんの指摘のように、どんなに小さくても「猫は最高傑作である」とダ・ヴインチは言っています。

ヤコポ・バッサーノの言葉はありませんが、「猫の目には、すべてのものは猫に属していると映っている」という英語のことわざや「猫のようにミステリアスに書けたらと思う」というエドガー・アラン・ポーの言葉もあります。

ポヨヨンさんが、ネコっぽいかどうかはさておいて、猫が上から目線で、ポヨヨンさんがミステリアスなのは確かなようです。
ポヨヨン
犬目線、猫目線なのニャー(=^・^=)
ゴスペル999
「エマオの晩餐」の2枚と「最後の晩餐」に犬と猫が登場するのは、ヤコポ・バッサーノの意図によるものであることに疑う余地はないが、その意味がようわからん。

犬派、猫派に分ける趣旨も同様であるが。
ココナン
あくまで、切り口や視点の違いを表現するのに犬派、猫派としているだけで、犬的な見方とか猫的なアプローチや解釈による描写みたいなことだと思うのですが・・・
正直、よくわかりません。
怪傑ハマリオ(天邪鬼)
犬派、猫派って、何の関係があるんだよ!

そもそもダビンチの最後の晩餐に犬も猫も居ねーし、それこそイミフじゃね?
むらさき納言
ダ・ヴィンチの猫派は決定でしょう。

ヤコポの作品には動物が多数描かれていますが、犬も猫もいます。

ただ、主役を張っているのは犬で、ポインター系の猟犬が多いようです。

それも、たれ耳の白と茶のブチが好みのようで、その意味からも『エマオの晩餐』Ⓑの子犬は異質です。

犬、猫、どっちと聞かれれば、犬派になると思いますね。
江戸川ドイル
確かに、PYNはネコかもしれない。
あ、いや、ダ・ヴィンチは猫派だと思うよ。
自分勝手にマイウェイを爆走するタイプだし・・・
ゴスペル999
犬と違って猫は自分自身で自ら家畜(イエネコ)化したようで、遺伝子はほぼ不変のまま・・・

つまり、ダヴィンチの言うように、猫は最高傑作であって「猫はありのままで完璧な存在だった」のである。

したがって、ダヴィンチが猫派であることに異論はないが、ヤコポ・バッサーノが犬派かどうかは議論の分かれるところだろう?

そういや、ポヨヨンさんはネコっぽいよなあ。
ポヨヨン
おそいーっ! もうくたびれたァ~。
けど、ハロウィンこそパリピポだよ!
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