時間が止まったように動かない絵画を
見てダ・ヴィンチは こう思ったかもしれません。
(死んでいるに等しいものだ)
平面的で、しかも、死んだように動きのない
絵画のなかの人物たち ・・・
「絵画とは、感じられるというよりはむしろ
見られる詩、 詩とは、見られるというより
はむしろ感じられる絵画」
(レオナルド・ダ・ヴィンチ)
そうあるべきだし、そうでなくてはならないと
思ったダ・ヴィンチは 死んだ絵画の中から
切り取った一場面を視点と時間を変えながら
二面、三面、四面・・・と増やしていけるような
そんな作品の制作に挑んだのでした。
平面世界(2次元空間)を多面化して、
異次元(3次元空間+時間=4次元時空)
の世界を構築する。
Cliford-torus
そんな途方もない実験にチャレンジ
した壁画こそが時空劇『最後の晩餐』
だったのです。
パラパラ漫画やアニメーション的なイメージ
をオーバーラップ(二重写し)させる試みは、
「ウィトルウィウスの理論」を図解した
「ウィトルウィウス的人体図」
での実証実験で済ませたダ・ヴィンチは
「罠」のアンカー(最終走者)である
『最後の晩餐』へとバトンを手渡し、
いよいよ最終の総括作業に入るわけです。
この辺りについては、
『ダ・ヴィンチの罠 幾何学』
http://sun.ap.teacup.com/japan-aid/511.html
を参照してみてください。
ダ・ヴィンチの実証主義には、まず仮説が
あって、実験を試みます。
『受胎告知』のアナモルフォーズ
(歪像画)や『東方三博士の礼拝』
における多次元構成(構想)など ・・・
そして、
思い通りの結果を得たとしても、それだけで
は納得せずに、他者による同一結果を求める
という、現代での科学的実証実験の発想を
すでに、
ダ・ヴィンチは持っていましたが、時代はまだ
科学の夜明けには程遠く、ましてやカトリックの
束縛がそれを許してはくれませんでした
フロイトは、そんなダ・ヴィンチを評して
「人がまだ寝ている暗いうちに、一人で先に
目を覚ましたような男だ」と語っています。
ところで、
ダ・ヴィンチは興味深い言葉を残しています。
それは、「無」に関して語ったものですが、
まるで、
四次元キューブ
「多次元空間」、「多次元時空」
果ては、自己相似性やフラクタル
について語っているような文言なのです。
フラクタル画像 ロマネスコのコラージュ
「我々の周りにある偉大なことの中でも、
無の存在が最も素晴らしい。
その基本は時間的には過去と未来の
間にあり、現在の何ものをも所有しない
というところにある。
この無は、全体に等しい部分、部分に
等しい全体を持つ。分割できないものと
割り切ることができるし、割っても掛けて
も、足しても引いても同じ量になるのだ」
(レオナルド・ダ・ヴィンチ)
少なくとも、ダ・ヴィンチの言う「無」が
ゼロを意味するものでないことは明白で、
ここでの「無」は量子力学的な「無」
(何もないのではなくて、とてつもなく大きな
エネルギーが一瞬に現れたり消えたりして
いる不安定な“量子的なゆらぎ”の状態)や
多次元空間あるいは自己相似やフラクタル
の概念などを彷彿とさせるものです。
他にも、
「あらゆるものは、
他のあらゆるものと関連する」
「あらゆるものの部分は、それ自身の
うちに全体の性質を保っている」
さらに、
この部分と全体に対する考え方は、
「どんな部分も全体に組み込まれる
ようにできている。 だからそれ
自体は未完成から逃れられる」
という言葉に引き継がれて、最後には ・・・
「五感は魂に仕える従僕だ」
(レオナルド・ダ・ヴィンチ)
として昇華・還元されるわけなのです。
たとえば、
友人である数学者ルカ・パチョーリの名著
『神聖比例論』(1509年)には多面体
の挿絵などを提供していますが、
『神聖比例論』挿絵 blog.livedoor.jp
そのパチョーリが『最後の晩餐』の
完成のはなむけに『神聖比例論』
におさめた1498年12月14日付の献辞の
文章がありますので紹介します。
「あなた方のうちの一人が私を裏切ろうと
している」という言葉を絶した真実を告げる
キリストの声を耳にした時の、これ以上に
鋭い使徒達の注視の様子を想像すること
が出来ません。 彼らの身振りや行為を
通じて、使徒達は実際に互いに語り合って
いるように見えます。
ひとりが別の者に、この者がまた別の者に
激しい疑念にさいなまれて話しかけている
ようです。 我らがレオナルドは、その繊細
なる手をもって、このように見事に壁画を
描き上げたのでした。
数学者のパチョーリも、さすがに「罠」
の本質には気づけなかったようで、
ルカ・パチョーリの肖像画 1495年 wikiperia
このような賛辞を送っているわけですが、
そこには彼が数学者であったとともに修道僧
でもあったことが影響していると思われます。
この辺りの事情については、
『ダ・ヴインチの罠 予告版』
http://sun.ap.teacup.com/japan-aid/400.html
を参考にしてください。
さて、そうは言っても、
そうしたパチョーリのような感想が一般的な
見方で、ほぼ万人がもつ共通の認識でしょう。
事実、
ダ・ヴィンチは映画監督が作品を撮影する
時のように細かな演技指導をしています。
人物の描写には最大にして細心の注意を
払い、それぞれの動作やその瞬間における
精神状態や感情の昂ぶりなどの心のうちを
物語るような演出に努めています。
『最後の晩餐』の素描(初期)
手稿のなかにその過程を覗き見ることが
できるスケッチやメモが見つかりますが、
『最後の晩餐』と円などの図形の素描
そのストーリーボード(絵コンテ)によれば、
「酒を飲んでいた者はグラスをテーブルに
置いて話かける相手の方に振り返る。
もう一人は手の指をよじらせながら、眉を
しかめて仲間を見る」(シモンとタダイか)
・・・ に始まり、
「こちらの男は、両手を開いて掌を見せ、
肩をすくめて驚いた口をしている」
どうやらアンデレのようですが ・・・ 等々。
このような実験的な動きを十三もの異なる
ケースで表現すると同時に画面全体を調和
させて違和感のないコントロールに腐心して
いるわけです。
この辺りの考察は、
『ダ・ヴィンチの罠 謎の手』
http://sun.ap.teacup.com/japan-aid/401.html
に詳しいのでチェックしてみてください。
その中でも、
「振り向いているもう一人の者は、手に
ナイフを握り、テーブルの上のグラスを
ひっくり返している」
この一文は重要で、これに該当する
ような人物は描かれていませんが、ユダ
とペテロの描写と微妙に交錯します
ので覚えておいてくださいね
(塩壺は倒したけどナイフ握ってねえし・・・)
要するに、
この頃のダ・ヴィンチはミラノで舞台演出家
として成功し、絶大の支持を得ていた時期で
、ミラノの宮廷で何十人もの俳優やダンサー
の演技・振り付けの指導をしていたわけです
から、多岐にわたる独自のパフォーマンスに
しても朝飯前だったのかもしれません
いやはや、
またしても前置きに紙幅の大半を消費して
しまい、「黄金比」はおろか、ヨハネと
ナイフの関連性も右腕の謎解き
も皆無といった状態では、いまさらチープ
な言い訳などはできませんが、
ヒトの手の血管
この右手の血管をみてください。
つまり、
こうした人間(生き物)の身体に形成される
血管網と自然が造る形状や形態とが非常に
似ていることが謎を解くヒントなのです。
植物の葉脈も、樹木の枝や大地を流れる
河川も、稲妻の光や都市を縫うように這う
道路網も、それぞれに似かよった形をして
いることに着目して手稿に記していますが、
要は、
自然はデザインされていて、人体も
またデザイン(設計)されたものだと考えて
いたのかもしれません。
そうした延長線上に、類比(アナロギア)と
いう方法論があって、それが自然界の形態に
おける自己相似性やフラクタルの
概念へとつながっていくわけです。
それ以前に「人体比率」にも当然の
如く興味や関心があり、そのひとつが
「ウィトルウィウス的人体図」
として結実したわけなのですが ・・・
その根源には「すべてはひとつ」
に繋がるとする万物の事象に共通する
真理の探究があったのです。
要するに、それは
陳腐なインテリジェント・デザイン
などではなく、人間も自然も、この宇宙
の森羅万象のすべては完全を模倣
するが如き「思想型」であって、
異質なるもの同士のあいだに見られる
デザインの近似性や相似性、及び
それらの構造や機能の類似性などが、
そのことを物語っていると考えたわけです。
畢竟、
出典:gogazzine.net
それがイデアとともに在る人智の及ばぬ
超越的な宇宙論理としてのロゴス
(サムシンググレート)なる存在であると ・・・
レオナルド・ダ・ヴィンチは
そんな風に「神」や「宇宙」(自然界)を
理解していたのではないでしょうか
従って、
「黄金比」は内的秩序の部分的な
現われであって、次元・時空の法則に
おける森羅万象のすべてを形成する
偉大なる力の働きによるものだと考える
出典:www.yukawanet.com
そんな
ダ・ヴィンチが、この法則をフル活用しない
わけもなく、『最後の晩餐』のみならず、
出典:ndalog.blogspot.jp
『モナ・リザ』をはじめとする多くの作品
に「黄金比」が用いられているようです。
出典:jamservice.webcrow.jp
ダ・ヴィンチのラスト・メッセージである
『洗礼者聖ヨハネ』の手は、両方ともに
回外になっています。
すべて回外で描かれている手 hatenablog.com
一方、『モナ・リザ』の両手は回内です。
すべて回内で描かれている手 hatenablog.com
仮説が正しければ、
右手は回内、左手は回外のイエス hatenablog.com
『モナ・リザ』のモデルはB.C(紀元前)
からの存在であり、『洗礼者聖ヨハネ』
のモデルはA.D(西暦)後に存在した者という
ことになります。
回内、回外とその仮説については、
『ダ・ヴインチの罠 裏付け』
http://sun.ap.teacup.com/japan-aid/507.html
『ダ・ヴィンチの罠 蓋然性』
http://sun.ap.teacup.com/japan-aid/508.html
などを参考にしてください。
ダ・ヴィンチがフィレンツェの守護聖人である
洗礼者聖ヨハネにシンパシーを
覚えていたのは疑いようのないことで、
出典:s.webry.info
彼の最後の作品がそうであったように、
彼の姿に投射した彼自身の分身を、
彼、もしくは彼の「人となり」を感じさせる
『聖アンナと聖母子』『モナリザ』『洗礼者聖ヨハネ』
人物や持ち物に投影させています。
・・・ って、
だから、さあ、いろいろ詰め込み過ぎて、
(分かんないっちゅうの)
ということで、この続きは次回以降となります。
おいおい、
「何だかバタバタじゃのぉ」
「雑然としてゴチャゴチャです」
それで、サブタイトルが、
「掃除せい !!」なのか
「相似性ですけど」
う~む ・・・
… to be continue !!

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小吉

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やぶにらみ

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