『聖書』は絶対に正しい!
そう信じている人間が世界にはどれほど
いるのだろう?
ここで言うところの『聖書』とは、
主に『旧約聖書』のことですが、
ユダヤ教、キリスト教、イスラム教に
共通する聖典が『旧約聖書』です。
この3つの宗教の信者だけで世界の人口
の半数を優に超えているわけで、世界史を
語るうえにおいてどうしても無視できない
のが『旧約聖書』なのです。
果たして、
我々が『旧約聖書』と呼んでいる
ものは、BC15世紀頃からBC5世紀頃に
かけて、複数の人間たちによって書かれた
書物の集合体であり、いつ、どこで、誰に
よって編纂されたかは分かっていません。
恐らくは、長い年月をかけていくつも
の物語が徐々に付け加えられながら纏め
あげられて、現在のかたちになったもの
と考えられていますが、
『旧約聖書』は 歴史上において
最も重要な書物でありながらも、同時に
最大級の禁忌的なタブーを抱えています。
『聖書』は「神」の言葉であり
人によって書かれたものでは断じてないと
して、強く反発する者たちのほかにも、
『聖書』は絶対に正しい!
と信じて疑わない人間は存外に少なく
ないようなのです。
時にはその解釈の違いから殺し合いに
発展してしまうケースもあって、宗教的
なイデオロギーの相違が宗教戦争を勃発
させることは枚挙にいとまがありません。
今般のガザ戦争の顚末には、いわゆる
〝パレスチナ問題〟があって、一義的に
は、2023年10月7日の「ハマス」による
イスラエルへの奇襲攻撃が戦端を開いた
ように思われがちですが、
その前提には1948年のイスラエル建国
以来の宿痾(しゅくあ)としての国土を
めぐる揉め事が続いていたわけです。
さらに、その大前提としての争い事は
いにしえの『旧約聖書』の時代に
まで遡って展開されていたのです。
さて、
『ダ・ヴィンチの罠 仮舞台』の冒頭で、
中東の歴史を知らなければ、誰も世界
の真実と形而下における地政学上の真理
はおろか、形而上の学問的意義や神学的
な意図を見い出すことは出来ないように
思われると、書きましたが、
神学における『聖書』と、歴史学
における『聖書』は、まったく違う
もので、神学の世界では「真理」で
ある『聖書』も、歴史学では単なる
「資料」に過ぎないわけです。
そうした「資料」に過ぎないだけ
の『創世記』によれば、
「神」は、アブラハムに対して、彼の
子孫を「空の星のように浜辺の砂のように
生み増やす」と約束されました。
しかし、
妻であるサラは石女(うまずめ)で子供
に恵まれず歳月だけが過ぎ去っていく中で
二人は日夜、「神」に祈り求めましたが
願いは叶いませんでした。
もはや望みは絶たれたと断念したサラは、
当時の掟に従い自分の女奴隷(エジプト人)
のハガルを、アブラハムの側女として彼に
与えることにしました。
ある時、天使はハガルに、こう告げます。
やがてハガルは身籠りますが、ハガルは
驕り高ぶって、女主人であるサラを見下す
ようになります。
サラはとても悩み苦しみました。
時が満ち、ハガルは長男(イシュマエル)
を生むことになります。
しかし、やがて、サラも高齢(約90歳)
になって、待望の子供を授かるのです。
超、超、超高齢出産になるやないか❓
なにか嫌な予感が ・・・
生まれた子供はイサクと名付けられますが
世継ぎをイサクにしたいサラはアブラハムに
イシュマエルとその母のハガルを追い出して
欲しいと懇願します。
アブラハムは悩み抜いて「神」に祈り
求めました。
「神」はアブラハムに言いました。
「心配することはない。サラの言うこと
を聞き入れなさい。私はイサクを大いなる
国民にするだけでなく、イシュマエルをも
大いなる国民にするであろう。二人ともに
お前の子供だからである」
しかしながら、結局、アブラハムは、
ハガルと長男であるイシュマエル親子
を追放する事にしました。
追放されたハガルとイシュマエルは後に
民族を起こし、今日のアラブを形成する基
となります。
つまり、
イシュマエルは今日のアラブ民族の祖先
となったわけです。
一方、サラが生んだイサクの子ヤコブは、
天使との相撲に勝利し、イスラエルの称号
を与えられます。
「天使とヤコブの戦い」アレクサンドル・ルイ・ルロワール note.com
彼らイスラエルが信奉するのがユダヤ教
であり、ヤコブから12部族が生まれます。
そのイスラエル民族によるユダヤ教から
ダビデ、ソロモンを経て、パレスチナの地
は、さまざまな民族の支配下に置かれます
が、ローマ帝国時代のユダヤ属州にイエス
が生まれ、彼の共同体(ユダヤ教ナザレ派)
は、
やがて、異邦人が
主体となるキリスト教へと、その摂理
や信仰の対象を変化させて行くのですが、
そもそも、
このキリスト教の教理自体が間違って
いて、本来「救世主」(メシア)で
あるべき人物に「手違い」が生じて
いたのです。
それから、さらに、
7世紀になると最後の預言者とされる
ムハンマドが現れイスラム教が生まれる
わけですが、
イスラエル12支族(士族・氏族) w.atwiki.jp
結果として、
救世主の選定を間違えてしまった
世界は大きく狂い始めていくのです。
このイシュマエルとイサクの関係が
、洗礼者ヨハネとイエスの場合の予型
であり、同じく異母兄弟の関係にある
ことを暗示しているものと、仮定した
ダ・ヴィンチは大胆な推理を始めます。
それというのも、
『ダ・ヴィンチの罠』による
解釈では、洗礼者ヨハネとイエスは祭司
ザカリヤを共通の父に生を受けたわけで
それぞれの母は、エリサベツとマリアの
従姉妹になります。
このあたりの経緯については、
を参考にしてみてください。
しかも、
ダ・ヴィンチはイエスが「救世主」
であるとは思っていませんでした。
彼にとっての「救世主」(メシア)
は、〝洗礼者ヨハネ〟だったからです。
洗礼者ヨハネ(サンドロ・ボッティチェッリ画)
ところで、
ガリラヤ湖畔での顕現(ヨハネ21:1-14)blog.goo.ne.jp
ガリラヤでの顕現において4人の弟子が
いないということはどういうことでしょう。
ガリラヤ湖畔での顕現のシーンの時点では、
ペテロ、トマス、ナタナエル(バルトロマイ)
、大ヤコブとヨハネ、それに2人の弟子の
計7人の前にイエスが現れた(ヨハネ21:2)
わけですが、
他の2人の弟子は、ペテロの兄弟アンデレ
と、ペテロと同じくベッサイダの出身である
フィリポであったと推察されます。
ガリラヤへ行くように指示されたのは、
11人の使徒ですから4人足りませんね。
イメージ www.bvi.de
4人と聞いて勘の鋭い人はピンときた
かもしれませんが、一連の作品における
ジャンルやグループごとの括りとして
、「4」による編成や組み合わせに一貫
した拘(こだわ)りと哲学を持っていた
と思われるダ・ヴィンチですが ・・・
それはガリラヤでの顕現の場において
居合わせなかった4人の弟子たちと何か
関係があるのでしょうか?
有り体に言えば、その通りで、大いに
関連するという結論が導かれます。
たとえば、
『モナ・リザ』の絵に現出する4人の
女性たちは、立体(正多面体)パズル
の展開において、正四面体に変化・変容
する場合に、
自己双対する正四面体 kochi-u.ac.jp & www.kuboj.com
自己双対する内なる正四面体(赤輪郭)
の4つの面は、「罠」の根源に隠匿
される4つの事象に対応する女性たちで、
向かって右側から、それぞれ、
「4人のモナリザ」 blog.kenfru.xyz
タマル、ラハブ、ルツ、バテシバである
と想定しました。
そして、これに、双対する
自己双対する正四面体
外なる正四面体(黒輪郭)の4つの面を
表貌・相貌・形貌する作品(肖像画)が、
『ジネヴラ・デ・ベンチの肖像』(1474-78年)wikipedia
2⃣ 白貂を抱く貴婦人(ラハブ)
『白貂を抱く貴婦人』(1490年頃)wikipedia
3⃣ ミラノの貴婦人の肖像(ルツ)
『ミラノの貴婦人の肖像』(1490-96年)
4⃣ モナ・リザ(バテシバ)
『モナ・リザ』(1503-1509年頃)
表象(イメージ)するものと考えました。
そして、
ガリラヤでの顕現に居合わせなかった
弟子たちは、小ヤコブ、マタイ、タダイ
、シモンの4人であって、
彼らが、第四幕に登場するように配置
されていることを、アンデレの肩越しに
、左手で指し示しているのが、第一幕に
おける小ヤコブなのです。
つまり、
第一幕では、バルトロマイに投影された
プロデューサー兼ステージ・ディレクター
のダ・ヴィンチが舞台の全域を監督として
見定め、助監督の小ヤコブが第四幕までの
流れを説明し、アンデレが未来の出来事に
衝撃を受けて驚く様子が描かれています。
もちろん、もっと別の本来的な舞台演出
が用意されていたわけで、
それらの詳細については
『ダ・ヴィンチの罠 時空劇』
『ダ・ヴィンチの罠 ロゴス』
『ダ・ヴィンチの罠 真善美』
などを参照してみてください。
このことは、
ダ・ヴィンチが窓の数をヒントにして
「罠」を紐解く解くカギとなるように
描いた3枚の聖母子たちの姿と、
『ブノワの聖母』 『カーネーションの聖母』 『リッタの聖母』
最高傑作のひとつとして知られている
『最後の晩餐』での使徒ヨハネの
姿に、究極の「罠」を仕込んでいた
ことの証左でもあるのですが、
前述したように、
『聖書』が歴史学において、重要な
「資料」(史料)であったとしても、
果たして、
どこまで信頼に足るだけの史料であるか
についての議論を待つまでもなく、結論は
すでに彼の脳裏で醸成されていたのです。
ジャンルやグループごとの括りとして
、「4」による編成や組み合わせに一貫
した拘(こだわ)りと哲学を持っていた
レオナルド・ダ・ヴィンチは、
最初からこのような展開を考慮に入れて
大掛かりな「罠」を仕組んでいたわけで、
自己双対する正四面体
イエスの系図に登場するイレギュラー
な女性たちの存在が、「罠」の原点で
あり、根源となるべき最小形態の「核」
(赤輪郭)に、こうした4人の女性たちを
配置するのは当然の帰結だったのです。
タマル(不義・姦通)
ラハブ(異邦人・裏切り)
ルツ(異邦人・婚前交渉覚悟)
バテシバ(不貞・姦淫)
イエスの系図における4人の女性 sandacc.org
に纏わる「秘め事」として、不義、
姦通、異邦人(異星人)、裏切り、婚前
交渉、不貞、姦淫などの疑念を臭わせて
真の「救世主」(メシア)であったと
グループとしての「4」の編成を下記に
示せば、
【窓の数】による「4」の編成、
① 『ブノワの聖母』
② 『リッタの聖母』
③ 『最後の晩餐』
④ 『カーネーションの聖母』
【肖像画】女性による「4」の編成、
① 『ジネヴラ・デ・ベンチの肖像』
② 『白貂を抱く貴婦人』
③ 『ミラノの貴婦人の肖像』
④ 『モナ・リザ』
【肖像画】男性による「4」の編成、
① 『サルバトール・ムンディ』
② 『音楽家の肖像』
③ 『洗礼者聖ヨハネ』
④ 『自画像』
【野外・荒れ野】における「4」の編成、
① 『受胎告知』
② 『聖ヒエロニムス』
③ 『東方三博士の礼拝』
④ 『アンギアーリの戦い』
【岩場・洞窟】における「4」の編成、
① 『岩窟の聖母』2作品
② 『糸車の聖母』2作品
③ 『聖アンナと聖母子と幼児ヨハネ』
④ 『聖アンナと聖母子』
といった具合に、ジャンルごとに4つずつ
のグループ編成で構成されるように作品を
創作していったものと想像されるのですが、
ふむふむ。
(う~む・・・)
窓の数が「罠」を解くカギとしての
ヒントになっているとすれば、
【窓の数】による「4」の編成、
① 『ブノワの聖母』
② 『リッタの聖母』
③ 『最後の晩餐』
④ 『カーネーションの聖母』
での聖母子のモデルは、それぞれに、
① 『ブノワの聖母』における聖母子は
エリサベツと赤子の洗礼者ヨハネであり、
『ブノワの聖母』jfruits.com
② 『リッタの聖母』における聖母子は
ダ・ヴィンチの母親であるカテリーナと
赤子のレオナルド・ダ・ヴィンチであり、
『リッタの聖母』
③ 『最後の晩餐』の使徒ヨハネには
マグダラのマリアと彼女のお腹の中に
いるイエスの子が投影されていて、
『最後の晩餐』部分 amazing-trip.xyz
④ 『カーネーションの聖母』の聖母子
がマリアと赤子のイエスになるわけです。
『カーネーションの聖母』
こうした母と赤子の組み合わせの違いは
「罠」が計画された当初からのもので、
「十分に終わりのことを考えよ。
まず最初に終わりを考慮せよ」
(レオナルド・ダ・ヴィンチ)
と言った 彼自身の言葉にもあるように
ダ・ヴィンチは最初からこのことを考慮
に入れていたと思われてなりません。
さらに、
窓の数に着目すれば、その数が1~4に
増えるにしたがって、窓の外の景色が徐々
に上空から地上に近づいてきていることが
分かると思いますが、
これも「罠」の伏線ひとつです。
次回では、窓の外に映る景色が持つ意味
や、母と子の組み合わせに秘められた意図
などについての解説を予定しています。
・・・ って、
タイトルの「秘め事」って 、
どこへ行っちゃたの❓
これじゃあ、どうにも、
「おえりゃあせんのう」
出典:businessinsider.jp
なんちゃってね。
出典:sinefil.tokyo
ちなみに、
「おえりゃあせんのう」というのは岡山弁で
「駄目だなあ」という意味だそうですが・・・
秘め事(カフカ)Official-YouTube より www.youtube.com
「え~、やだぁ、わたし妊娠したの!」
ええ、そっち、
なんだかなぁ