カメラマン気分

カメラマン気分

早い話が昨日

2004-07-19 10:17:22 | Weblog
「何故編集するんだ?」と
面と向かって言われた訳だけど
何故だろうね

まず言える事は
今の僕にとって撮影行為と編集行為とは等価なんですよ

まあでもアートしたいから編集してるって訳ではないなぁ
写真に対して何かを求める為に編集している訳ではないねぇ
もっと周辺的なものですよ
今の僕にとっての編集は

どっちかというと
撮影を編集として捉えているかも
そしてレタッチをもっと周辺的なものとして捉えています


写真とは現実の編集である

2004-07-19 10:03:24 | Weblog
例えば写真撮る時にフレーム内に写したくないものがあったら
それをどかすなりカメラのアングルを変えて切り取るなりするじゃないですか
例えば床にゴミが落ちてたらどかしたり

それとレタッチソフトで電線とかコンセント消すのと
何か違いはあるかと言ったら本質的には違いなんて無いですよ
床にゴミが落ちてるのも現実なのに
それをどかしてつまり編集しちゃう訳ですから

写真は基本的には対象を0から作り上げないから
(そりゃコンミチコみたいな人もいるけれど)
撮影者の創作でもなんでもなくて
撮影者は編集者じゃなかろうか
雑誌の編集者とかに近い気がするよ
映画監督とか

魅力ある被写体は既に存在するのだから
後は如何に複写をさせてもらうか
そして複写するということは編集するということだ

少なくとも今の僕の場合は。

写真とは、複写という名の編集行為である
なんちゃって


写真に作家性というものがあるならば

2004-07-19 09:27:16 | Weblog
作家性の無い写真なんてありえない
被写体を選んだり
瞬間を選んだり
ピントを合わせる対象を選んだり
構図を作ったり
結局写真は作家性に満ちているという事になってしまう

事実に対して撮影者が編集という名の広義のフィルタをかける
ある意味報道ステーションみたいなもんだ


お前は言うことがころころ変わると

2004-07-19 02:13:52 | Weblog
友達に言われたよ。
否定的ではなく肯定的に言われた。

そりゃ言うことは変わるよ。
思うことは変わるんだもの。
それこそ脳のネットワークの重み付けは変わっていくし、
だから言うことが変わっていくのはしょうがないさ。

撮る写真も変わっていくね。
ちょいと前までは花なんて撮らなかったけど、
最近は花ばっかり撮っているよ。
コンパクトカメラを使うようになってから、
写真が自分の視線に近づいていく感覚がある。
自分が撮りたいと思う物を素直に撮れる。

街なんかも以前は撮らなかったし。
でも今は好きな街をぶらつきながらコンパクトカメラで写真を
撮っているよ。

今はそういう気分なのだろうね。

目とカメラが一体化してくると
撮っている写真に自分の心が写るような気がして恥ずかしい。

今日もちょこっと一眼レフを使ってみたのだけど、
一眼レフはなんか重戦車みたいな感じだね。
コンパクトじゃ打ち落とせないくらいに被写体が迫ってくる場合
やっぱりこっちも一眼レフで応戦しないと、みたいな。
うーん、応戦だと物騒だなぁ。
適当な言葉が見つからない。

一眼レフだとじーっと見続ける感じだね。
それも主観的に。

女の子に関して言えば、
目がきらきら輝いていると
コンパクトはとてもじゃないけど撮れない。
今の僕の場合。
一眼レフでこっちも見つめ返してじゃないと。

ふと思ったんだけど、
究極のカメラってのは
攻殻機動隊の時代にあるんじゃないだろうか。
それこそ目とカメラが。

写真を撮ったということは

2004-07-19 01:55:14 | Weblog
できあがった写真には撮影者の意図が入ってしまう。
ただ撮っただけの写真でも。

フレームで切り取るわけだし、
時間を切り取るわけだし、
撮る対象も選ぶわけだし、
撮る瞬間も選ぶ訳だし、
写真を撮るという行為自体が選択の連続であって、
そこにはどうやっても撮影者の意図が入ってしまう。
これはやむを得ない事実であって、
どうしようもない。
カメラが自律的に動き始めない限りは。
(音楽においてはオヴァルプロジェクトなんかが
自律的な音楽もしくは音響を試みていると思う。)
カメラは純粋な複写装置だが、
撮影者は純粋ではない。

写真には真実は写らないのであって、
そこには事実しか写らない。
写真は、現実世界を2次元空間へ写し取る写像行為であって
そしてその写像におけるパラメータはそのかなりの部分を
撮影者が決める。

つまり撮った写真には「そのまま」は写らない。
じゃあ何が写るのかというと撮影者の意図が写ってしまう。

写真は撮影者の意図、そして選択行為の塊だ。

写真には「そのまま」は写らないのであって、
どちらかというと、
それはもう撮影者の意図「しか」写らないんじゃないか、
という気がしてくる。



そしてもう一つ。
写真を撮る人間に表現力なんてないと思う。
写真は純粋な複写ではないとは言ったけれど、
それでも結局カメラは複写装置な訳だ。
そして写真には撮影者の意図は写るけれど
撮影者の表現なんてものは写らない。
表現が写るとすれば、
それは被写体の持つ表現力だ。
僕に表現力なんて大それた物は無いわけだ。
写真は0から作ることはしないから、
芸術作品にはなり得ない、と思う。

現実世界の複写をさせてもらっただけで
「作品撮った!」
なんて言ってもしょうがないじゃないか。


まぁ僕も作品なんて言葉を使ったことが何度かあるけれど。


今の自分が読むと恥ずかしいよ。
作品なんて言葉。