花好き老人の休日

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0085 あほんだらの出来事

2024-08-16 22:17:27 | 日記


   いつも見て頂き感謝です🙇




    夏スイセン
  この花も曼珠沙華の仲間で
  花が終ってから葉っぱがは
  えて来ます💮




     最後の恋だった

 50過ぎてから恋をするように
それまでも、そぶりを見せる女性は何人かいたが、嫁に逃げられてからの事が心に残っていて、どうしても一線を越えることができなかった🥴

 1998年に、18歳年下の女性が
色目を使って寄ってきた、俺もまんざらでは無く、意を決して付合う事にした✌️
 そして、初めてのデート
嵐山の紅葉狩りに、彼女は何かに付けて身体を密着させてきた🤗
そんな時普通は男として、イチモツが反応するはずなのに、音無しの構え❔
 デート終わりに彼女はホテルに行きたそうだったが、自信がなく泣く泣く駅で別れた🥴

 帰ってから、色々試したが一向に反応しない🤢
恥を忍んで医者に診てもらったら
  ED  になっていた
原因は分からない😮‍💨
その後彼女からの誘いにのったけど、やはりホテルには行けない、かと言って病気を告白するには恥ずかしく、
また、逢うのが億劫に成ってきた。

 と 云うことでこの恋は自然消滅

気持ちはやっと前向きになったのに
身体が駄目だって
  泣くに泣けない失恋になった🥴


        でわまた👋








0084 あほんだらの出来事

2024-08-13 22:12:59 | 日記

  いつも見て頂き感謝です🙇




    モミジアオイ




     阪神淡路大震災

 1995年1月17日
   午前5時46分

俺は夜勤の為会社に居たのだが
丁度材料も無くなり、製造を終えて
掃除をしていた時
ドンと突き上げる様な衝撃があったので、手すりに捕まり身体を固定した
やがて横ゆれに変わり、長く感じた😮‍💨
目の前に阪神高速3号神戸線があるんだけど、その高速道路の水銀灯が凄く揺れていて、あちこちで閃光がはしっていた🥴
一方、会社の中では、4トンもあるパルプが1個落ちていた。
また、出荷前の板紙が全て崩れていただけど、人的被害は無かった✌️
会社の片付けが終ってから帰路に付いたんだけど、余震が二度三度あり🚲での通行は困難だった🥶

 家に帰ると、住んでいたアパートはペチャンコ
皆が屋根瓦を剥がしていたから
(誰か埋まってるんですか❔)
って声をかけたら
(あんたや、あんたが見えないからもしやと思って、どこ行ってたんや)
夜勤で会社に行っていたと説明して
皆で、避難場所の小学校へ
TVでは神戸の被害を中継していた
大変なことが起きたと認識せざるを得なかった🤢
しかし、避難所では、水もなく食べ物も無い、市の職員も来ない、暖房もなく毛布にくるまって寒さを耐えていた
TVで放映されてる避難所では、いろんなものが有るのに凄い差別だった🥶

俺は3交代勤務なので、会社の方で
独身寮の空き部屋を貸してくれた
だから、自分は良かったけど、残った避難所にいた人は、散々市の職員に詰め寄ったみたいでした🥴





        でわまた👋






0083 あほんだらの出来事

2024-08-10 22:31:31 | 日記


 いつも見ていただき感謝です🙇







   JR尼崎駅南側の向日葵



     新事業を受け継ぐ


 1992年9月
本社大阪製紙が、産業廃棄物を少くする事に乗り出したのが4月
廃棄物を廃棄するには1t→15万円必要、月2000トン出る為この費用を削減するべく新事業を始めた❕
しかし、中々製品にならなかった🤢
そして、9月下請け会社である大阪紙販【この年4月に、大和興業と大阪紙販が合併して、大阪紙販株式会社になった。】に事業を譲渡されて、責任者に、俺が選ばれた🥴
 受け継いだけど、まだ大阪製紙の部長が指揮を取っていた❕
 2週間、部長と話し合って最後に、俺のやり方でやらして欲しいとお願いした✌️
 許可が出たので、部長のやり方の正反対で何とか製品になった🤓

 その後、完全に任されることに🤓

廃棄物から作った製品は製鉄所に販売し、月200万円程に、その為産業廃棄物は月200トンに減り、その差額で利益が出たと判断され、その後、俺の昇給は、従業員のトップを退職まで続いた🤗



        でわまた👋







0082 あほんだらの出来事

2024-08-09 22:43:34 | 日記

 いつも見ていただき感謝です🙇



     ガザニヤ



      解体工事



 意気揚々とアパートへ帰って見ると
え❔❔❔❔❔
住んでいたアパートが半分以上壊されていた🥶

 何か分からずに呆然としていると
解体業者の責任者だという女性が
(生活そのままの部屋があるから、不思議に思っていたんだ。何処に行っていたんですか❔)
って
聞いてきたから、入院していた事を話すと
(ここは地上げにあって、既に持ち主が代わっているよ、地上げ屋に連絡してみたら、私たちは、1週間だけ待ってあげるから、引越をしてくださいね)

大家にも地上げ屋にも連絡が取れず、
一銭の保証も無しに引越を迫られた🤢

 とりあえず会社に報告して、休暇を延ばしてもらい、
急いでアパートを探した
幸いに安いアパートが近くにあったから引っ越した🥶

 こうして、退院したてに引っ越すとは想像もして無かったが、何とか住むところが出来た😮‍💨

解体業者には、待ってもらったお礼を言って、解体工事を始めて貰った

 地上げにあった他の住人はどのくらいの補償で引っ越したのかなぁ~❔
俺は、なんにも無し🥴






       でわまた👋






0081 あほんだらの出来事

2024-08-05 00:01:40 | 日記

  

 いつも見ていただき感謝です🙇





  暑さには強いはずの向日葵
 少し疲れたみたいでした😮‍💨





      緊急入院

 1989年7月
中頃から、自分で作った料理が何故か不味く感じるように🤢
しかし、会社で食べる弁当は、いつもと変わらず美味しかった❕
 そんな日が1週間程続いた朝
仕事前のラジオ体操をしていたら、
事務員のおばちゃんが
(早野さん、身体が動いていないよ❔)
言われても゙、自分ではいつも通りだった
その日、14時間仕事をして家に帰って体温を測ってビックリ
 40.8℃
しかし、身体は動くし少しだるい感じだったから、明日病院に行こうって思って寝た
朝起きて熱を測ったら昨夜と同じだった
🚲で行きつけの病院へ行った
血液検査で敗血症と診断され即入院
また🚲で帰り入院道具を持って入院
医師の触診で、肺の下のところが跳び上がる程痛かった
急いで肺のレントゲン投影をしたら
左の肺胞が真っ白
右の肺へ草の根のように白い筋がのびていた🥴
 
 行きつけの病院は、肺の専門では無かったから、県立病院へ連絡してくれて、1週間後転院した
その頃、やっと高かった熱が37℃代まで下がったが、
倦怠感が強く、また、12時間毎に点滴される抗生剤の匂いが胃から上がって、食事が出来なかった、
それから1週間で抗生剤を錠剤に変更されてから、いきなり食欲が旺盛になり、3度の食事を大盛りに、それでも足りないから10時に食堂でトースト、15時にうどん、20時にラーメンを出前してもらって食べた🤓

 昼間は、暇だから看護師の手伝いをしたりして居た

そして県立病院に来て3週間で退院出来た。

 肺の影は無くなったが少し微熱があったのだが、食欲旺盛だから大丈夫だということだった🤓

 これで当初入院3ヶ月の加療だったのに、約1ヶ月で退院出来た🤗






         でわまた👋