若い頃、能に夢中になったことがあり能楽堂によく通った。
まだ国立能楽堂がなかったので、主に渋谷の観世能楽堂と水道橋の宝生能楽堂、
南青山にある観世銕之丞家の小さな能舞台で行われる「銕仙会」の演目にも出かけた。
能の公演では必ず狂言も一緒に上演される。
上演時間が1時間半から2時間以上もかかり内容も重苦しい能が終わると
ほっと一息といった感じで明るい喜劇である狂言が上演されるのだ。
ストーリーが謡(うたい)で語られ何を言っているのかさっぱり分からない能に比べて
狂言は演者の台詞が聞き取れるし、
じっとしたまま長々動かなくなってしまう能に対して狂言は動作もスピーディーだ。
能は難解だが狂言は親しみやすいとよく言われた。
でも私は狂言があまり好きではなかった。
その親しみやすさがむしろ嫌だったのかも知れない。
だから私の能楽堂通いはあくまで能を見るためだった。
その頃、能や狂言は、やっと一般の人達が気軽に見に行けるようになったところだった。
「ぴあ」という雑誌が能や狂言の上演情報も載せていて
公演の予定やチケットの入手方法が私達にも分かるようになったからだ。
それまでは客のほとんどが謡の先生である能楽師からチケットを買わされた素人のお弟子さん達だった。
一般の能楽愛好家を広く開拓しようとしていたのは
能楽界の風雲児であった故観世寿夫の遺志を受け継ぐ「銕仙会」ぐらいだろう。
それでも狂言師の野村万作は当時すでにとても有名だった。
彼が世間に広く知られるようになったきっかけは
ネスカフェゴールドブレンドというインスタントコーヒーのCMだ。
”違いが分かる男”として各界の権威のような人が紹介されていたシリーズに
野村万作が出演していたのだ。
「狂言は猿に始まり狐に終わる」という印象的なナレーションは今も強く記憶に残っている。
狂言師の修行の過程を表したもので、
「靭猿(うつぼざる)」の猿の役から始めて、大曲「釣り狐」の狐の役で集大成ということらしい。
野村万作は端正な顔立ちでいかにも古典芸能を継承する人という雰囲気だったから
狂言があまり好きでなかった私も野村万作は好きだった(笑)
それから月日が流れ、
NHKの大河ドラマ「花の乱」(1994年)で
応仁の乱の東軍総大将細川勝元役を見たことのない俳優が演じた。
時代劇役者としては痩せすぎで少々貧相でもあり演技も妙で他の役者から浮きまくっていた。
誰なのこの人と思ったその俳優は野村万作の息子である野村萬斎だった。
正直言うと私はこの時からずっと野村萬斎があまり好きではない。
彼の声の出し方や台詞の言い方、顎から喉をぎゅうっと引いたようにする姿が
どうにも苦手なのだ。
ただ、同じ狂言の和泉流で宗家の継承問題が起きた時、
和泉元彌とその母親の大騒ぎを見るにつけても
萬斎は元彌とは正反対でストイックに芸に精進しているように感じられた。
そんなもろもろの思い出があるものだから、今回、BS朝日で放送された
「テレビエッセー おやじの背中~野村万作・萬斎・裕基 父子3代物語」を興味深く見た。
番組冒頭、野村万作が息子萬斎について
「そろそろ50歳なのだから、普及よりも自分の芸を充実させろ。それが普及につながる。
目立ったことをやることが普及ではない。」
と苦言を呈していたのには大いに共感した。まさに正論だ。
さすが人間国宝野村万作は自分の子であっても手厳しい。
84歳になるという万作だが、弟子に稽古をつける時、
彼が少し動いて手本を見せるだけでもうそこには奥深い狂言の世界が広がっているようで
とても感心した。
声にも佇まいにも動く姿勢にも気品がある。
萬斎は自分に随分自信があるようだが父である万作にはまだ及ばないと感じた。
16歳の孫裕基くんに至ってはいまだ素人のようだが、
祖父万作を心から尊敬しているという彼が
ますます精進して立派な狂言師になってくれることを期待している。