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ヴィルヘルム2世との対立

2015-03-16 10:30:08 | 日記
1888年6月、フリードリヒ3世が在位99日にして崩御し、ウィリーがヴィルヘルム2世として第三代ドイツ皇帝に即位した。ヴィクトリアは早速この孫に「私は断腸の思いでいます。気の毒な貴方のお母さんのために出来るだけのことをしなさい。また高貴で慈愛にあふれ、この世で最も偉大であった貴方のお父さんを手本となさい」という手紙を送った。この時にはヴィルヘルム2世も「最愛のおばあちゃま」宛てに「母の願い事を叶えるために最大の努力をしているところです」と母を重んじているかのような返信をした。だが反自由主義者のヴィルヘルム2世とビスマルクは「イギリス女」ヴィッキーを事実上の幽閉状態に置いていた。ついにヴィッキーはイギリスに帰りたいと吐露する手紙をヴィクトリアに送るようになり、それを読んだヴィクトリアは日記に「腸が煮えくりかえる思いである」と書いている。
ビスマルクの外交手腕でドイツ帝国はヨーロッパ政治の中枢になっていたが、海軍力ではイギリスに水をあけられていた。ドイツの工業力は飛躍的に伸びており、強力な海軍を建設することも不可能ではなかったが、ビスマルクはあくまで外交で各国を操ってドイツの国際的地位を優位にしようと考えていたため、他国に警戒感を強めさせる過大な軍事力は邪魔だった。一方ヴィルヘルム2世はいつまでもドイツの海軍力をイギリスの下にしておくつもりはなく、イギリスを越える大植民地帝国を創り上げるつもりだった。それを邪魔立てするつもりなら祖母の国との対決も辞さない覚悟だった。ヴィクトリアはヴィルヘルム2世が6歳の頃「『あの恐ろしいプロイセン流の誇りと野心』を持たないよう育ってほしい」と日記の中で祈願していたが、その願いは叶わなかった。
1889年4月、ヴィルヘルム2世がウィーンを訪問していた際に英国皇太子バーティもウィーンを訪問し、バーティは甥に会談を申し込んだが、ヴィルヘルム2世は自分がまず会見して敬意を表すべき相手はオーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフであり、まだ皇太子に過ぎないバーティではないとして拒否した。この件にヴィクトリアもバーティも「叔父にあたる者に対して無礼である」と激怒した。この騒動は8月にヴィルヘルム2世が訪英してバーティと和解することで何とか解決したが、ヴィクトリアは英独関係に不安を感じるようになり、ビスマルクに自分の肖像画を送るなどして彼を引き込もうとし、ヴィルヘルム2世を抑えさせようとしたが、ビスマルクは1890年にヴィルヘルム2世により辞職に追いやられた。 ヴィルヘルム2世はヴィクトリアやバーティが尊属として上から目線で語ってくることが気にくわず、「イギリスは自分を皇帝として処遇していない」と批判するようになった。それに対してヴィクトリアは「私と皇太子は、孫であり甥である彼とは親密な関係にあった。にもかかわらず『皇帝陛下』としての待遇を公私問わずに要求してくるとは狂気の沙汰である。」と怒り心頭に語っている。しかしこうした見解はヴィルヘルム2世だけのものではなく、バーキン 25cm トゴ ゴールド 多くのドイツ国民も自分たちの皇帝を子供扱いするイギリス女王に無礼なりと感じている人が多かった。
ヴィルヘルム2世は年に一度訪英したが、ヴィクトリアにとっては煩わしい行事になり、外務官僚たちにとっても外交儀礼に苦心させられる行事となった。前述したようにヴィルヘルム2世は1896年ジェームソン侵入事件の際にトランスヴァール共和国大統領クリューガーに祝電を送った。「イギリスに悪気があってしたのではない」というヴィルヘルム2世の弁明をヴィクトリアも一応受け入れたが、ヴィクトリアの内心の怒りは強く、その後様々な理由を付けてヴィルヘルム2世の訪英を拒否するようになった。ようやくヴィクトリアの勘気が解けてヴィルヘルム2世が訪英を許されるようになったのは1899年になってのことだった。

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