合唱連盟の誕生
2005年2月20日「記念誌座談会」を開き、連盟設立時の苦労を聞いた。
出席者:古谷隆起先生・清原浩斗先生・元合唱連盟副会長望月叔子さん・川 栄美子さん、編集委員
昭和20年8月15日の第二次大戦終結後、全国民が焼け野原を目前に“国家復興”への意欲を
燃やしていた。終戦後の茨木市もご多分に漏れず、人々は「安全で平和な生活をしたい、
その上で心に潤いを持ちたい」と願いつつ懸命に生きていた。「音楽は心の泉、生活に歌声を・・」
との思いを茨木の人たちに伝え、広げていきたいという願望のもとに音楽運動”を実践した
横田孝郎氏(歯科医さん)は学生時代から音楽を愛し歌も楽器演奏も堪能で、優れた指導力の
持ち主であったので、一緒に歌いたい人達を集めて、養精中学校を母体とする
「母のコーラス」を誕生させた。その後、教育制度は一新され茨木市内には新制中学校が次々と
設立され、父兄の教育熱も上昇した。そして社会教育としてのPTA活動が盛んになり、教養や
文化に対する意識は日々高まっていき各学校で「PTAのコーラスグループ」が結成された。
そうして生まれたグループは、練習を続けるうちに、音楽や合唱に対する意欲が出て技術的にも
向上していくようで、「発表の場がほしい・練習の成果を聞かせたい」という声がメンバーの
中から聞こえ始めた。そこで「母のコーラス」が出演していた市民音楽会に参加し始めた。
この音楽会は、当時の茨木市が社会教育の一環として昭和24年に「音楽連盟」が主催していたもので、
以来毎年開催された。市民音楽会の内容は声楽(合唱)、吹奏楽の演奏、お琴や三味線などの
演奏もあって、音楽愛好グループにとっては唯一の発表の場であったしかし、「音楽のジャンルの
違い・時間的余裕のなさ・お互いの発表を聴き合う難しさ」などの問題や市の音楽会の進行自体にも
支障が生じ始めたので「合唱だけの発表会をしよう」という声に押されて「合唱連盟を作ろう」
と立ち上がったのは古谷先生と当時の茨木市議会議員であった近藤 勉氏(故人)であった。
二人は技術のしっかりした人を・・・・と春日丘高校に着任2年目の清原先生に依頼した。先生は
地域の合唱団との交流が持てることを喜び、2人の申し出を快く受け協力の意志をしめした。
《古谷(チーフ)近藤(行政)清原(技術)》という三人の強固な協力体制が整い昭和50年12月9日
「茨木市合唱連盟」は誕生した。それからの3人の活躍は目覚しく、「連盟ニュース第1号」を
発行したり、公民館で「第1回交歓会」などを催した。以後、茨木市の合唱団体は広く市外へ向けても
活動の場が広がっていった。
そして、39団体を擁する市内最大の団体となった茨木市合唱連盟は、 2005年12月9日、30歳の誕生日を
迎えた。私たちはこれからも『美しいハーモニーをもとめて』茨木市に誰からも愛される合唱の泉を作り
茨木市合唱連盟をさらに充実したものにする努力を続けていきたい。
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2005年2月20日「記念誌座談会」を開き、連盟設立時の苦労を聞いた。
出席者:古谷隆起先生・清原浩斗先生・元合唱連盟副会長望月叔子さん・川 栄美子さん、編集委員
昭和20年8月15日の第二次大戦終結後、全国民が焼け野原を目前に“国家復興”への意欲を
燃やしていた。終戦後の茨木市もご多分に漏れず、人々は「安全で平和な生活をしたい、
その上で心に潤いを持ちたい」と願いつつ懸命に生きていた。「音楽は心の泉、生活に歌声を・・」
との思いを茨木の人たちに伝え、広げていきたいという願望のもとに音楽運動”を実践した
横田孝郎氏(歯科医さん)は学生時代から音楽を愛し歌も楽器演奏も堪能で、優れた指導力の
持ち主であったので、一緒に歌いたい人達を集めて、養精中学校を母体とする
「母のコーラス」を誕生させた。その後、教育制度は一新され茨木市内には新制中学校が次々と
設立され、父兄の教育熱も上昇した。そして社会教育としてのPTA活動が盛んになり、教養や
文化に対する意識は日々高まっていき各学校で「PTAのコーラスグループ」が結成された。
そうして生まれたグループは、練習を続けるうちに、音楽や合唱に対する意欲が出て技術的にも
向上していくようで、「発表の場がほしい・練習の成果を聞かせたい」という声がメンバーの
中から聞こえ始めた。そこで「母のコーラス」が出演していた市民音楽会に参加し始めた。
この音楽会は、当時の茨木市が社会教育の一環として昭和24年に「音楽連盟」が主催していたもので、
以来毎年開催された。市民音楽会の内容は声楽(合唱)、吹奏楽の演奏、お琴や三味線などの
演奏もあって、音楽愛好グループにとっては唯一の発表の場であったしかし、「音楽のジャンルの
違い・時間的余裕のなさ・お互いの発表を聴き合う難しさ」などの問題や市の音楽会の進行自体にも
支障が生じ始めたので「合唱だけの発表会をしよう」という声に押されて「合唱連盟を作ろう」
と立ち上がったのは古谷先生と当時の茨木市議会議員であった近藤 勉氏(故人)であった。
二人は技術のしっかりした人を・・・・と春日丘高校に着任2年目の清原先生に依頼した。先生は
地域の合唱団との交流が持てることを喜び、2人の申し出を快く受け協力の意志をしめした。
《古谷(チーフ)近藤(行政)清原(技術)》という三人の強固な協力体制が整い昭和50年12月9日
「茨木市合唱連盟」は誕生した。それからの3人の活躍は目覚しく、「連盟ニュース第1号」を
発行したり、公民館で「第1回交歓会」などを催した。以後、茨木市の合唱団体は広く市外へ向けても
活動の場が広がっていった。
そして、39団体を擁する市内最大の団体となった茨木市合唱連盟は、 2005年12月9日、30歳の誕生日を
迎えた。私たちはこれからも『美しいハーモニーをもとめて』茨木市に誰からも愛される合唱の泉を作り
茨木市合唱連盟をさらに充実したものにする努力を続けていきたい。
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