またまた、「書を語る(落語家:柳家小さん)」を読みました。そこには、
「書や絵の生命?ウーン、それは線でしょうな。どんなに構図が良くったって、線が生きてないと、
字も絵も死んじまいますね。」
「うまい、下手をこえて、素直な書がいいですね。」
「自分だけでよろこんでるのは困る。書は自然でなくちゃいけない。そして読めなくてはいけない。」
「”書は人なり””落語は人なり”と置き換えてもいいかも知れませんな。」
「いちばんのものは噺家個人の人間性に起因すると思いますよ。」
「師匠の真似しかできない弟子って、つまりませんよ。」
「芸事ってえものは、苦労して積み上げないと、いいものは結局できませんな。楽してやったものはやっぱり
底が浅いから客がついてこない。」
…など、様々な事が書かれていた。
書の生命は、線。私もそう考えてます。
例えば書作品で、本物とコピーでは、やはり本物の方が生きています。
最近のカラーコピーの質は素晴らしいけども。
白黒コピーも、形は正確ですが、勢いも色も本物と並べて比べてみると違います。
そういえば、古典の拓本って白黒だから、線が死んでいるという事なのでしょうか?
それを私たちは臨書しています。何故だろう?
結局のところ、年賀状等をいただく時など、
やはりカラー印刷よりも、手書きが一番感動します。
人となり等がわかって感動等します。
古典なんかもそうで、数千年前に偉い人達が鑑賞し、
感動的な評価をして、それが広まった。
その良いものを、私たちが憧れて、臨書しているのだと思います。
過去の私には「自分はこう書いた。このあたりが上手いでしょ。どう?」
と、良さをアピールする時がありました。アピールは大切かもしれないが、観ていただいた
相手にそれが伝わってないなら、ナンセンスです。
自身の心に、相手を思いやる気持ちをも込めて書く、それが優しさだったり、
温かみとして現れます。そういう感想を相手からいただけたた時は、最高に幸せです。
最後に、こう思っても、筆を持たなければ作品はできません(笑)
「書や絵の生命?ウーン、それは線でしょうな。どんなに構図が良くったって、線が生きてないと、
字も絵も死んじまいますね。」
「うまい、下手をこえて、素直な書がいいですね。」
「自分だけでよろこんでるのは困る。書は自然でなくちゃいけない。そして読めなくてはいけない。」
「”書は人なり””落語は人なり”と置き換えてもいいかも知れませんな。」
「いちばんのものは噺家個人の人間性に起因すると思いますよ。」
「師匠の真似しかできない弟子って、つまりませんよ。」
「芸事ってえものは、苦労して積み上げないと、いいものは結局できませんな。楽してやったものはやっぱり
底が浅いから客がついてこない。」
…など、様々な事が書かれていた。
書の生命は、線。私もそう考えてます。
例えば書作品で、本物とコピーでは、やはり本物の方が生きています。
最近のカラーコピーの質は素晴らしいけども。
白黒コピーも、形は正確ですが、勢いも色も本物と並べて比べてみると違います。
そういえば、古典の拓本って白黒だから、線が死んでいるという事なのでしょうか?
それを私たちは臨書しています。何故だろう?
結局のところ、年賀状等をいただく時など、
やはりカラー印刷よりも、手書きが一番感動します。
人となり等がわかって感動等します。
古典なんかもそうで、数千年前に偉い人達が鑑賞し、
感動的な評価をして、それが広まった。
その良いものを、私たちが憧れて、臨書しているのだと思います。
過去の私には「自分はこう書いた。このあたりが上手いでしょ。どう?」
と、良さをアピールする時がありました。アピールは大切かもしれないが、観ていただいた
相手にそれが伝わってないなら、ナンセンスです。
自身の心に、相手を思いやる気持ちをも込めて書く、それが優しさだったり、
温かみとして現れます。そういう感想を相手からいただけたた時は、最高に幸せです。
最後に、こう思っても、筆を持たなければ作品はできません(笑)
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