「お助けしたい!」
心が折れてる時、荒んでる時、、、こういう人達は何か感じる物があるのか
それとも私が不幸オーラを出して歩いてるのか
特に親しくしてたわけでもない知り合いが言ってきた
よくよく聞いてみるとある宗教の会員だった
今までの私なら せっかく言ってくれてるし、、と見学だけのつもりで行ってただろう
でも断れた
一つ自分の殻が取れた気がした
「私は大勢集まって教祖様を崇めたり踊ったりするのは自分とは違う
私は一人で静かに自分と向き合って、その時その時感じた事を行動に移して自分で答えを見つけていく、それが私には一番合ってる」
何故か足を止めたあの神社
一人でお参りし、ベンチに座って山を、木々を空を眺め、風を感じ、鳥の囀りを聴く
遠くに聞こえる電車の音、、、
誰も何も教えてはくれない
お参りしても神様が何かを言ってくれるわけでもない
父のお墓参りにも月命日には行って手を合わせる
仏様が、ご先祖様が、父が何かを言ってくれる事もない
でも心が落ち着く
母との絶縁、父はお墓の中でどんな思いでいるだろう
ごめんなさい 墓石に手を当てて語りかける
いつか、母も息子も許せる時が来るのだろうか
今は憎しみしかない
許せる時がくるなんて想像もできない
「人は目の前で起きている事でもうダメだ などと思うが、神様仏様はその人の人生を長いスパンで見ている。今 起きている事は人生の中の一コマにしか過ぎない。悪い事のように思える事の中にも良い事が含まれている事がある」
そのような言葉を言ってくれた人がいた
日々を乗り越えている毎日
産んでくれた母と産んだ息子から受けたあり得ない言葉の数々
当時の感情からすると許すという感情ではないが落ち着いてはいる
一コマになりつつあるのか
その中に良い事が含まれているのだとしたら
それはなんだろう
今の時点では良いことなんてあるはずもないとしか思えない
まだまだ一人で自分と向き合う時間が必要なようだ
空、暖かな日差し、冷たい風、木々の葉のざわめき、
大自然に包まれて目を閉じる
大きな力が私に何かを気づかせてくれる
それを静かに待つ
歩くのも決めるのも自分
神様も仏様もその思いに寄り添ってくれるだけ
努力も考えもせず神様仏様に縋っているだけでは何も始まらない
生かされた意味もいずれわかってくるんだろう
自分に常に問いかけよう
今までもそうだったように、笑って話せる時は必ず来ると信じて