青色日誌

還暦を超え、子育てもひと段落。さて!

40th モンタレー・ジャズ・フェスティバル演奏旅行記 その1

1997年09月22日 | 本番記録
当旅行記をご覧頂く前に、3月5日の記事をご覧頂いてから
お読み頂けますとありがたく思います。

その3までで約25000字。原稿用紙60枚程でやや長文ですが、
是非とも最後お読みいただき感想などを頂けますと幸いです。



はじめに

 平成9年9月21日、午後3時、私にとって生涯忘れることの出来ないアメリカモンタレージャズフェスティバルでのステージが始まった。レアサウンズジャズオーケストラの海外演奏記録として、この感動を何かに残さなくてはと、精一杯言葉で表現をしてみた。17日から22日までのツアー記録はさることながら、それまでに至る私のトランペット四半世紀も記録として綴ってみた。
 素人の文章に読みづらいところも多々あるかとは思いますが、おみやげ話として最後までお読み下さい。又、読み終えて感想を頂けると有り難いものであります。

     平成9年10月      あおやき 36才の秋




 別に気取ったわけではないが、機内ウエルカムドリンクをウイスキーのストレートを選び一口含んだ。日頃呑み慣れているはずが妙に辛い。喉元からつたっていく感触がじっくりと分かる。アメリカツアーは今始まった。

 雲海を目下に、ほろ酔い加減が、旅立つ前までの興奮を徐々に鎮めていくのが良く分かった。このツアーが出来ることは、この仲間に感謝し、会社の人たちに感謝し、そして何より家族に感謝したい。そんな思いをメモに綴った。何かこみ上げる物を感じながら、空の旅が嫌いなはずの自分が飛行機を楽しんでいることに苦笑した。思えば四半世紀の歴史を数えた私のトランペット人生。ここまで続けるとは当初思いもしなかった。
 
 中学入学の春、姉が所属していたからと言う理由だけで、吹奏楽部の門をたたいた。本当はトロンボーンがやりたかった自分は(当時谷啓を尊敬していた)身長が足りないと言う理由でトランペットに回された。入部の理由の貧困さと、希望楽器でないことを理由に当時のトランペットに寄せる思いはかなり低い物であった。しかし、親から受け継いだのかその音楽に対する思いはどんどん膨らんでいった。その年のクリスマス、父親から買ってもらったヤマハ製のトランペットは今でも生涯の宝物として我が家にしまって有る。高校1年生。やはり吹奏楽を続けていた私に、このツアーに参加していたかどうかの分かれ目ともなる出会いがあった。T村先輩。地元のジャズバンドで吹いてみないかという誘いであった。ジャズとの出会いである。今まで吹いていた音楽がものの見事に覆させられる思いの一瞬であった。後に大学の先輩として指導を仰ぐことにもなったA見氏のテナーサックスのアドリブにとてつもない異次元の音楽を感じたことは今も忘れない。そこで自分のジャズトランペットと言う物への憧れが日に日に膨らんでいった。今は建物自体がなくなってしまった瀬戸市民会館でのコンサートでジャズとしての初舞台を踏んだことはこのアメリカツアーに行くときと同じ様な興奮があったように覚えている。
 スインギング・オール・スターズ。今の私の人生感を確立してくれた素晴らしい大学生バンドであった。大学の選択は、ここまで来れば音楽で選択をすると決め込んでいた。父親の猛反対に反し、母親の賛成は確かに心強いものであった。入学前年に学生バンド日本一を決めていたエリートバンドである。さすがに練習はただものではない。今でも色々な人と話をするに365日中360日大学に通っていたのは学内では野球部かスイングかと言われるほどであった。それはそれは苦しかった。何故ここまでしなければならないのかと悩み苦しんだことも多かった。


一番練習をしていた頃のステージ。リードラッパとしての初舞台でもあった。

 第1回目の海外遠征のチャンスはその時に訪れた。スイングが学生バンド日本一になったという事でヨーロッパでの一大ジャズフェスティバルであるスイスのモントルー(極めて紛らわしいがアメリカはモンタレーである)ジャズフェスティバルへの招待であった。一年生の夏のことである。もともと高校一年生からジャズトランペットの「いろは」を学んだつもりでいた自分に、学生日本一バンドのそれには通用しないことが分かりかけて悩んでいた頃であった時の話であった。行きたい。でもお金がない。それと技術がない。先輩達の遠征を見送った後に随分の虚脱感が残った。 
 大学2年生夏、常勝バンドとして位置付けされていた「山野ビッグバンドジャズコンテスト」に於いて重責を担うこととなった。1曲目 THE FLY という曲で、ほんの3コーラス後のソロであった。自分のこのトランペット人生での一つのキーワードの曲となったわけだが、ものすごい緊張におそわれたことは今でも忘れない。無難と言う言葉が余りにも適切であろう、緊張感から特別素晴らしいソロが出来たわけではなく、かといって極端なコード逸脱もなくと言った感じだったろうか、しばしふるえが止まらなかった。東京日本青年館でのステージは持ち時間30分を大盛況で幕を閉じた。結果発表で最優秀グランプリの栄誉を受けた我々は異常な興奮に包まれ歌舞伎町を呑みまわった。瀬戸市民会館に続きこのステージは2つめの自分を成長させてくれたステージであった。又、この結果をスイングジャーナル紙が3面に亘って捕らえ、緊張さなかの自分のソロのシーンが掲載され、これも又2つめの宝物として大切に保存して有ることは言うまでもない。
 仲間が増えだした。音楽という物を通じての人とのつながりがどんどん膨らんでいく。スイングという殻の中だけでは物足りなくなってきたのが大学4年の春先のことであった。名古屋圏内の大学の上手い者だけ集めてイベントをしよう。ヤマハ名古屋店のS藤さん、現ジャズラブオーケストラ代表Mさんとの出会いは又新しい経験を予感させた。CBジャズオーケストラ。カレッジビッグバンドの略称としての安易な命名では有ったが(ヤマハの場所から納屋橋オーケストラにしようなどと言う意見もあったが)中身は着実に濃いビッグバンドの創設である。運営が私達に委ねられたため、随分エネルギーを注いだ。メイン行事を取りあえず第一回のリサイタルと定め、無性に又練習を重ねた。自慢ではないが、やはり日本一を経験しているスイングのメンバーが大勢を占める形となったが、ここで今飛行機に同乗しているT橋との出会いがあった。今にいたって彼とは腐れ縁である。
 名古屋市公会堂。今私の仕事場の一番近くにあるその会場に、いわゆる青春をそそぎ込んでいた。不幸にも昨年亡くなってしまった当時ビクター音楽産業名古屋支社長で在られた戸島さんと飲み屋で知り合ったことも、このころの思い出の一つである。私達のその活動に理解と、親しみを頂き、当時ジャズボーカルとしてビクターより出ていた仲村裕美さんとのステージを実現させてくれたことは、一企業の重役が無償で私達学生を相手して下さったことに、社会を経験すればするほどありがたさの実感がこみ上げてくる。


モノクロの写真が時代を語る?懐かしい顔が・・・。

 千人動員。生涯での3つ目の重要なステージになった名古屋市公会堂。84年3月の雪の降る日であった。大成功とT島さんに賞賛を頂いた。A石、K岡、Y岡、O木曾、N村、N尾、I国、M山・・・、そしてT橋。無二?の親友が沢山出来た。卒業年度、散っていく地方出身者と男泣きをした。

 本業を逸脱してとすごい勢いで親父に叱られた。確かなだけに全面降伏である。留年。部活のない学生生活。いわゆる普通の学生がいつもしていることと同じ状態を経験することとなった。それと挫折を感じていた。今思うと、学生の時に本業逸脱をしていて挫折を感じ、良かったように思えてならない。今なら大変だ。勿論親には言えない事だが。普通の学生は、本質をたどれば勉学で忙しいのだろうが、ジャズ喫茶へ出入りしたりして精彩に欠く一時期を送っていた。その頃サニーサイドというジャズ喫茶でこの人と出会う。今飛行機の斜め前の席に座っているO地さんだ。所属バンドの無くなった唯一の時期であるこのときにマスターの薦めでO地さんのバンドを紹介していただき、O地さんも次の日曜日練習があるからと快く受け入れてくれた。名古屋市芸術想像センターの1階のリハーサル室がそこであった。社会人ビックバンドというものは、高校生以来の経験であった。芸術創造センターの案内板に「レア・サウンズ ジャズオーケストラ練習場」と書いて有る。記念すべきレアサウンズとの出会いである。N川さん、S藤さん、F込さん、I川さん。現メンバーの古株との出会いでもある。勿論今飛行機に乗っている。23才夏のことであった。
 下手。そう思った。嫌な自分がそこにいた。人間誰しもが経験するのだろうか、鼻高々の自分がそこにいた。日本一になるために練習を積み重ねたバンドと、週一回趣味の範囲で演奏する物とは随分の隔たりがあって仕方ないな。後にその考えは払拭されるがとにかく演奏に面白味無かった。嫌な自分はまだ暫くいた。このバンドを乗っ取ってやろう。私の知っているCB時代にやってきた人たちを参画させよう。Y岡をサックスの柱に、T橋をリズムの柱に誘った。彼らも私が居るという安心感と音楽に対する情熱ですんなり参加してきた。レベルがあがったように思えた。が大きな間違いであった。何を今更ながらではある。オーケストレーションを成功させる最大の鍵はプレーヤー同士の人間関係であると言うことを知っているはずであったのにも関わらず、乗っ取ってやろうという考えの基(後にN川バンドマスターにそんな考えでいたという事を話をしたら、お前の考えは分かっていたと言われた事も忘れられないが)アマチュアの域ではとても上手くなろうはずはあり得なかった。このバンドの人間になろう。そう思って練習を再開したのは半年も経った後だったろうか。地味な活動が続いた。が音楽に対しての情熱は地味にはならなかった。
 人生の転機が訪れた。就職である。悩んだ。この際ここに書く話とは違ってくるので父親の会社を選択したという結論だけに留めておく。父親と、現社長の指導の基、いわゆる武者修行に大阪に出ることとなった。本業逸脱で激怒した親父の顔が終始頭をよぎった。社会人として、立派になろう。確か男泣きをしたときの皆の合い言葉は、「今度は社会で出世しよう」であった。出来すぎの感があるが・・。大阪の町は活気があった。レアサウンズは期間限定休部の状態とした。  
 大阪には、先の沢山居る無二?の親友の一人であるK岡が就職で出向いていた。彼の会社が突然の辞令発令で彼が転勤となったのは、私が大阪に着任した1ケ月後の慌ただしいものであった。彼からの連絡で阪急梅田の大スクリーンの下で待ち合わせをして、二人で「引継」に出かけた。彼も又私と全く同じ人間であった。大阪の社会人ビッグバンドでトランペットを吹いていて、転勤とのことで欠員は責任を持って埋めるなどといい私に引き継いだのであった。「グローバルジャズオーケストラ」との出会いであり、N村さん、O本さん、H脇さん、I佐さん達との出会いでもあった。本業を・・の言葉は、社会人として、皆常識として持っており、逆に社会をそこで学ばさせていただいた感が今ではある。


グローバルのステージ。2年間で随分沢山のステージ経験しました。

 上手い。今度はそう思った。レベルが高かったというのか、自分が衰えていたというのか。バンマスで有り、トランペットを吹いているN村さんの人間性にも随分引かれた。大阪でのアフターファイブを有益にしてくれた。アフターファイブのみならず、当時の私の仕事での御客様までが、何処からともなく話を聞き込み、何故か営業で苦労していたその会社の門が開かれたことも功を奏した。
 2回目の海外演奏のチャンスはここでやってきた。上手い。と始め思ったのも無理はない。大阪でナンバーワン。全国トップクラスのこのバンドは、知名度も確かなものであり、プロのミュージシャンとも精通をしていた。アメリカ。ロシアン・リバー・ジャズフェスティバル。本場アメリカのジャズ・フェスティバルへの参加だ。今回のモンタレー同様有名なフェスティバル。知っているからこそ気持ちが疼く。入社2年目の武者修行の身である私には余りにも過酷な選択肢をN村さんは提示してきた。「いけへんか」「いきたいですよ」・・・。みんなの乗った飛行機は、離陸していった。又も虚しさだけがこみ上げた。仕事しよう。

 良い人たちに囲まれると、人間性が豊かになってくる。仕事は順調に推移していった。生活のパターンが確立されると、何事も上手くいくものである。こんな話が持ち上がった。「レア」と「グローバル」とのジョイントコンサートをやらないか、と。N川さんと、N村さんの両バンドマスターの私に対する心使いがひしひしと感じられた。1バンド20名、どちらかが旅をしないといけない。今まで双方のバンドは面識がない。パイプ役は当然私がするほか無かった。
 ヤマハホール。決して大きくないこのホールは人生4度目の感動を与えてくれるステージとなった。CB時代に練習場として幾日も通ったヤマハ名古屋店。ジョイントコンサートは私にとって、人間の温かみを感じざる得ない特別のステージであった。その時、以前に思っていた練習量の音楽から、音楽はハートであると言う考え方に変化していった。自費で新幹線に乗り移動をして下さったグローバルの皆さんとも、今でも交友は途絶えない。
 レアサウンズ復活である。現会社へ入社が決まり、予想していた以上の展開が待ちかまえていた。立場である。本業逸脱とか何とかというレベルではない。全く音楽が出来ない状況に陥り掛けてしまった。名古屋に戻り仕事の状況も一転し、いわゆる修羅場という奴を経験することとなる。週一回の練習は当然のように参加は不可能と化していった。そんなとき、レアサウンズのバンドマスターN川さんと、ドラマーのS藤さんと会社の近くで一杯呑むことととなった。今後の私の活動が主なる話題であった。私と十ほど先輩にあたる彼らの考え方は私の苦悩を和らげた。止めようと思っていた自分をくいとどめて下さったのだ。まずは仕事をしろ。そして認められてから余暇をすればよい。とは言うものの四六時中人間は仕事をしているわけではない。時間が空いたら吹きにこい。と。本業逸脱の言葉のあったあの頃の自分は、この言葉と共に私の頭から無くなった。人生を勉強した思いがした。当然仕事に熱中をした。
 人生の転機が又おとずれる。結婚である。人並みに幸せな結婚にこぎ着けた私を祝福してくれたのも、多分に漏れずジャズ仲間であった。流行りの二次会というものを彼らは設営をしてくれた。グローバルを卒業してから約2年後の出来事であったが、N村さんを披露宴にご招待をしたところ、二次会全員で祝福に行くよとの返信。我々の結婚式二次会はレアサウンズジャズオーケストラとグローバルジャズオーケストラの共演と相成った。勿論記憶に残る5度目のステージとなった。最後の二十セントという百人程しか入らない店に、プレーヤーだけで50人ほど。総勢130人の祝福を頂くこととなった。嬉しかった。本当に嬉しかった。ここまで来ると、ジャズなしではとうとう人生が語れなくなってきたようであった。
 

最後に「Aトレイン」の2バンド大合奏。皆さんお世話になりました。

 結婚後も仕事のハードさは続いた。人には言えぬ苦労も付いてまわった。仕事の歴史を語る執筆で有ればこの当たりが一つのクライマックスを迎えていると思う。その仕事の延長となるが、会社が40周年の記念行事を行うこととなった。運営責任者の重責を担っていた私は、アトラクションの選択の時に、生バンド演奏で花を添えてはどうかという考えを持っていた。言うまでもなくレアサウンズにお願いするつもりで。言い出すことに勇気がいった。音楽からの離脱を宣言していただけに(事実上活動していたという状況ではなかったが)迷った。誰に気を使うと言うわけではなく、自分に対して苛立ちがあった。他をあたってみても大した物は見つからない。勿論学生時代には企業の周年記念行事等のアトラクションのアルバイトはかなりの経験があっただけに余計他のアトラクションがつまらなく見えてくる。やってみよう。そう思わせてくれたのはやはり機中の仲間であった。 平成7年夏、6度目の思い出のステージは国際ホテルであった。始めてプレーヤーとしてではないところでの思い出のステージであった。司会者が私であったため、プレーをしないところで、何故か居心地が悪く緊張した覚えがある。約2時間の宴席、レアサウンズには約1時間のステージ。白の譜面台と白のジャケットに会社のマークを掲げ自分なりに納得のいくステージを作り上げることが出来た。やって良かった。そう思ったのは会が終了したとき、本業逸脱と激怒したあの親父と音楽禁止をうたった社長がバンドのメンバーに敬意を表してくれたからだ。涙が出てきた。
 比率の問題ではなく、家庭と仕事と音楽の三位一体の日々が続く。勿論過去のように音楽活動は活発でない。しかし過去の栄光という気がしないのも現在進行形で気持ちだけは進んでいるからなのだと思う。親ばかは人間の特権と思いちょっとだけ子供に触れたい。長女もどういう訳か音楽音痴の家内の教育の基、三歳からピアノを習っている。このころの記憶に残る番外編ステージがあった。愛知厚生年金会館がそこである。先ほどから書き続けている思い出のステージは妙に小さな所ばかりになってしまったが、実際には活動盛んな学生時代には名古屋の全てのホールを何回と無く経験したものであった。この厚生年金会館に於いては出来たての時に高橋達也と東京ユニオンという日本ではダントツで有名であったビックバンドと共演をした場でもあった。何が子供と厚生年金会館か。親ばかの極致であります。ピアノの発表会がそこで行われただけであります。しかしながら自分でやっているより緊張をしてカメラを構える自分に小さな幸せを感じた。
 ついでながら親ばかにもう一つ付き合っていただきたい。これもこのころの話であったろうか、バンドのメンバーの方の口利きで、生協のファミリーコンサートとかやらで、稲沢市民会館(これがまた立派なところ)で演奏をする機会があった。節操がないと言われればそれまでだが、何にでも手を出すレアサウンズは、演歌から歌謡曲果ては童謡、漫画の主題歌とクラシック以外なら何でもこなす。この日も童謡と漫画の主題歌が混ざっていた。主催の生協の方々の薦めで、童謡等を歌うコーナーでバンドの方々のお子さんもステージに乗って下さいと言うのだ。親子初共演。目の前で娘が肩で息をして歌っている。またも緊張しましたね。妙にこれは。
 国体という言葉はメジャーですが、国民文化祭、略すと国文と言うものが歴史こそ国体ほどではないにしろ、何十年に渡り国体同様さまざまな県が主催して行っていると言うことをご存知でしょうか。94年秋、三重県で開催されビッグバンド部門にてレアサウンズがエントリーされました。ステージはまあ普通に終わり、ゲストの演奏を待つばかり。そうです。その時のゲストは、小学生の時あこがれた谷啓バンドでありました。面白い。これにつきます。何せ音楽音痴の家内(二度も言うと怒られるかな)が妙に楽しんでおりましたから間違いなく楽しい。先見の明とはこの事でしょうか?中学一年生の時に身長が足りなくてトランペットに回されていて改めて良かった。と思ったときでもありました。
 この頃連続して海外演奏のチャンスが到来しました。レアサウンズ自体が今回の目的地であるモンタレーでの国際ジャズパーティー(ジャズフェスティバル開催地だけに色々な行事が開催されている)の出演だ。ジャズフェスティバルのような大々的なものではないにせよ、レアサウンズ海外初演奏ツアーである。行きたい。なんとしても行きたい。三度目のチャンスではないか。でも行けない。会社の立場が今ではない。N川さん、S藤さんに言われたその言葉の時期ではない。苦しかった。私とO地さん以外全員参加との話を聞き、T橋が、又いつも一緒にトランペットを吹いているU山が、I井が「行きましょうよ」と。こんな苦しい事はなかった。二月、年度末に繁忙期を迎える私達の仕事にとって、又今の私の立場にとって、アメリカは余りにも遠かった。そしてレアサウンズは海外にて演奏を成功させた。仕事に熱が入った。そして翌夏。遠いアメリカは私に又ほんの少しだけ寄ってきた。グローバルジャズオーケストラのN村さんからの電話である。「モンタレージャズフェスティバル一緒にいけへんか」有り難い声である。グローバルを卒業して7年も経ったろうか。まだ一緒にやらないかというお声を頂く。有り難いのと空しいとの交錯である。行けない。まだ行けない。4回のチャンスは潰れた。

 そして昨年の今頃、5回目のチャンスが訪れた。何か忘れかけていたアメリカがすぐそこまで来ていた様な感覚であった。決めるのは極めて早かった。行く。絶対に行く。この考え全くの迷いがなかったのが不思議なくらいで有った。理由は深くはない。トランペットと共に四半世紀の集大成がしたかった。それと周りが認めてくれる自信もあった。が、練習は余り出来なかった。出来なかったというよりしなかったが正解であろう。こんな事言うとバンドのみんなに怒られるが、かといって仕事を曲げて練習に打ち込むつもりがなかった。むしろ仕事には加速が付いていったくらいかもしれない。ジャズは「思い」で演奏が可能であるという事を教えてくれたのもレアサウンズであるのだから、何の心配もなかった。そして一年の歳月は流れた。
この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 40th モンタレー・ジャズ... | トップ | ブログはじめます »