青色日誌

還暦を超え、子育てもひと段落。さて!

40th モンタレー・ジャズ・フェスティバル演奏旅行記 その2

1997年09月22日 | 本番記録
 着陸態勢に入った飛行機はゆらゆらと揺れだした。やはり飛行機嫌いである。どうも嫌な気分である。高度がどんどん下がる。目下の雲海はみるみる迫り、雲の切れ間からとうとう姿を現したアメリカがそこにあった。どれだけあこがれたか、どれほど待ったか。本物の西海岸である。飛行機に対する緊張か、武者震いか分からない「かっか」とするものを体で感じる。サンフランシスコ国際空港。私のアメリカ第一歩は感動的であった。
 入国審査の所で今回のアメリカツアーを企画してくれたK坂氏と合流をする。彼が今後のお世話をしてくれることとなっている。そんな彼は私と同じ歳、彼が早稲田大学ハイ・ソサエティー・ジャズ・オーケストラのトランペッターとして、学生時代、山野ビッグバンドコンテストで私たちと戦った間柄でもある。彼に会い、何となく夢が現実に迫ってくる時間を体で感じられた。簡単なスケジュールの説明の後、彼のアドバイスが「是非今日は今から、頑張って寝ないで欲しい、そうすれば翌日から時差ボケは必ず無くなる」とのこと。早く体調を整えたかった。本番の日が絶好調でなければ、夢の達成にならない。妙にK坂氏の教えを守るかのように寝ないことに心掛けた。皆も同じ考えなのか、妙に元気である。単なる観光旅行ではないと言うことがそうさせている。とはいえ、初日は終日観光である。メンバーだけ乗せた大型バスは、サンフランシスコの観光地へと走る。ツインピークルというサンフランシスコ市の中で一番の高台へバスは上る。素晴らしい眺め。左にゴールデンゲートブリッジ、右にベイブリッジ。日本人観光客化したレアサウンズの仮にもミュージシャンはカメラを手に手にポーズをとる。なんかちょっと違うが、まあいいか。


抜けるような青空。旅程全てが好天に恵まれた。

 通常ならばもう少しゆっくりと見物をするのだろうが、時間が限られている、次へ次へと進む。K坂氏は慣れており、写真タイムと称した時間を細かくくれる。仮にもミュージシャンはカメラを手にぞろぞろとバスから降りる。今思えば、滑稽である。昼食を、フッシャーマンズワーフという海辺の観光地でとることとなった。茹で立てのカニを屋外でかぶりつく。ビールが又旨い。青空に又青い海。来て良かった。これから何度と無くその気持ちを味わうこととなった第一回目と言うところか。観光旅行もジャズツアーである。タワーレコードのショッピングである。個人的感想だが、東京の方が豊富に思えた為眠くなってしまった。さすがに疲れた。午後3時。トータル24時間以上寝ていないこととなってきた。でも、寝てはいけない。
 ラマダホテルへチェックイン。何故かバンマスN川さんと同部屋である。普通なら同期T橋となろう所だがT橋は奥さんを連れてきたためこうなったのかな。社長秘書のような位置づけになってしまった。今日は夜ジャズクラブへ行くこととなっており、出発時間までフリーとなった。夜8時ロビー集合。但し、夜は大変危険ですから絶対一人で外出しないで下さい。というK坂氏の注意をもっとちゃんと聞いていれば良かった事件が数時間後に起るとは誰もその時は想像もしなかった。
 やはり皆寝ない。有志だけで市内観光を。と言っていたらほとんどがまもなく集まってきた。夕暮れにはまだ間がありそうな4時頃であったか。チャイナタウンでビールにラーメン等と言いながら、アメリカ西海岸の大都市サンフランシスコを散歩する。よく映画などで出てくる路面電車(ケーブルカーと呼んでいる)が行き交う町はアメリカを肌で実感させる。来て良かった。又も記念写真を撮りながら30分も歩き続ける。元気だ。チャイナタウンでワンタンヌードゥルとビールを呑む。この頃から24時間アルコールが体内から消えることがない。


現実に見るケーブルカー。まるで映画の主人公にでもなったかのよう。

 ほろ酔い加減から現実に戻ったのはその数分後。はたと気づけば暗闇が迫っている。「はよかえろまい」誰とも無く足早にホテルを目指す。坂の町だけに上ってくる車のヘットランプが眩しい。帰宅を急ぐ人の流れが少なくなってくると、街が様変わりしていく。何か怖い。15人ほどであった集団も足早に進むにつれ5人くらいに分散していた。まとまっていると時間がない。薄情などと言うのではなく帰らねばと言う思いがただただ先走るのだ。冗談ではなく、歩幅がだんだん大きくなっていく。まるで競歩だ。ホテルが見えてきた。集合予定時刻8時のたった15分前。夜である。とりあえず汗をかいたので着替えをして皆ロビーに集合をした。どっと疲れが出てきてロビーのソファーは日本人集団観光客のだれた姿があった。
 いない!一人足りない。もう一度点呼する。Y井さんがいない。「誰が最後に見た!?・・・」時間はどんどん過ぎる。8時20分。誰もどうしようもないのと疲れているのと取り留めのない時間が過ぎる。O地さんが「捜索隊を出そう。多分パウエルストリートを逆に行ってしまったのではないか。あそこまでとりあえず行こう。Y井さんはトランペットだから、トランペットで行こう」妙な集団意識だ。K坂氏は、呉々も気を付けて。としかいいようがない感じである。当然O地さんの意見に賛同をしてトランペット救助隊は出発した。友情出演トロンボーンO関隊員を含め6人。ホテルを出た通りを三人づつで二手に分かれた。O地、M崎、私のAチーム?は進行方向左車線を進む。と、そのほんの矢先である。私の後ろに2メートルにもなろうかという黒人の大男が極めて低音のいわゆるドスの利いた声で「タバコくれ!」と私をつついた。つついたというのか押したというのか・・。もっともタバコくれと言う言葉がすぐ理解できたわけではないだけに(この場合ヒアリングが出来る出来ないの論議ではない)一瞬の空白が今でも忘れられない。胸のポケットから取り出し、差し出すと、5、6本をワシ掴みにして当然のこと「サンキュー」も無ければ「グッドナイト」も無く去っていった。後に、全部持っていかなかったのは良心的?だとかいう意見もあったが、そんなレベルではとても無い。そのやりとりをよそに、U山、I井、O関の捜索隊B班は一歩前を進んでいた。「やばい。戻ろう」誰とも無くA班は捜索隊の使命を放棄し、B班にもそれを勧めるため歩み寄った。
 成すすべもなく、時間は間もなく9時を迎えようとしていた。取りあえずバンマスが残る。みんなはバスに乗って目指すジャズクラブに行って来れ。さすがにこの場合、バンマスが残ったところでどうなるわけでは無いと言うことが分かっているだけに気持ちが重い。しかし、手が出せない状態は皆をその指示に従わせた。バスの電気までが薄暗い。
 「Y井さんだ!」バスの前方に座っていた誰かが立ち上がって指を指す。全員がバスの座席から立ち上がる!感動的であった!!こんな事が感動的でよいのだろうか。でも映画のワンシーンの如く、Y井さんは、全速力で、走っていた。バスの中で弁明記者会見が始まった。さまよい歩いたというかさまよい走ったY井さんは「ごめんなさい。怖かったです」息切れをしながら弁明をした。無事で良かった。皆の顔が疲れた顔から笑顔に変わった。
 本場のジャズクラブを味わった。何か色々あったながーい一日の終わりは心地よいジャズと地ビールである。心とお腹にしみじみしみわたった。この場面、さすがに私も疲れはてており、記憶が薄い。ホテルに戻ると貪るように寝た。

 爽快な朝である。雨などほとんど降らないと聞いていただけに今朝の快晴も当然のように明るい。K坂氏の言うとおり、時差ボケは消えている。街は木曜日18日の朝。昨日の夕刻とはガラリと街は姿を変え、ビジネスマンが行き交うエネルギッシュな街であった。今日もスケジュールはいっぱいである。バスに乗り込み出発をした。目指すは、BYRON HOYTという大きな楽譜屋さんである。ジャズツアーの楽しみでもあった。程なく到着して驚く。すごい量である。昨日のレコード屋の比ではない。こんな店は今まで見たことはない。全員でビッグバンドの譜面をめくる。数が多い。バンマスの指示で一人二曲選ぶこと。部費にて賄うとのこと。とは言うものの、サンプルの音がない。プロで有ればスコアさえ眺めれば分かるのであろうが、そこはアマチュア。日本で輸入CDを選んでいるような状態だ。必ず「スカ」が有る。そこのところは大目に見てもらうこととして取りあえず40曲選び出した。総額20万ほどの買い物であったが、日本で購入する4分の1ほどの価格に加え、まずこれだけの曲が選べないと言うメリットから何か随分バンドが裕福になった感じがした。
 今日はダブルヘッターで演奏が待ちかまえていた。まず最初の目的地、カリフォルニア州立大学、バークレー校でのランチタイムコンサートの出演だ。ご存知の通り、バークレーと言えば余りにも有名な大学である。バスでベイブリッジを渡り程なくバークレーの街に入る。学生街と聞いてはいたものの、完全に一つの大きな街である。ジャズアンサンブルの部室を拝借することとなり学内を歩く。日本のキャンパスとは全然違う。賑やかであり、驚くのは、色々な年代の人が居るのだ。勿論年長の学生さんもいるようだが、学生の子供(赤ちゃん)をあやすその学生の親が芝生で遊んでいる。我々の前に、オーストラリアのハイスクールバンドが演奏をした。今後彼らとの接点が増えるが、彼らの演奏を聴きながらアメリカでの第一声がまもなくで有るにも関わらず、全く緊張していない自分がそこにあった。


晴天の校庭での演奏。すごく楽しかった思い出です。

 夢のアメリカ演奏が始まる。やはり緊張していない。それと同時に唇の状況が最高である。空気が乾燥しているからか何故なんだろう。良いことでも悩むのはおかしい。校庭に学生の輪が広まる。「うけてる!」皆がそう思ったに違いない。自画自賛で恐縮だがいい演奏である。S谷が片言の英語で曲を紹介する。いつもだとN川さんがMCをつとめるわけで曲間に色々な話をしてくれる(くどいこともよくあるが)これが特にトランペット隊には曲間の休憩時間で有効であるのだが、今回は違う。S谷が一生懸命話をしてくれるも、それはさすがに英語。なかなかそれ以上の言葉はなく、曲間が狭い。しかし、それすらも私には負担にならないほど絶好調であった。暖かい拍手を頂く。取りあえず成功である。ランチタイム5分前に時間通り終了。皆笑顔で片づけにはいった。
 昼食をバークレーの街でとる。食い物が皆でかい。こういう物を食べているから大柄なんだと改めて思う。相変わらずその集団はビール、ビールとさまよい歩く。ここへ来て何リットル呑んだのであろうか。

 昼過ぎ、バスはいよいよ目指すモンタレーへと向かう。バスで点呼が始まる。この頃から昨夜の教訓を得て、パート別点呼に切り替わる。パートリーダーがバンマスにそのパートが揃っていることを報告する。まるで会社組織のようだが極めて合法的だ。勿論、それでも最後に「Y井さんいる?」の言葉は付いてまわる。因みに最終名古屋空港着陸までこの「Y井さんいる?」は続いた。
 アメリカ大陸を見る。街を外れたその果てしない大陸は、改めてアメリカを感じさせる物であった。フリーウエーを多分百キロ以上であろうスピードでバスは走る。ちょっと怖い。揺れが睡魔を誘う。3時間という時間は丁度昼寝に打ってつけであった。全員が寝ていたようだ(私も寝ていたので確かではないが)
 モンタレーの街に到着する。憧れの街にとうとう来た。今一度奮い立つ物を感じながらハイアットリージェンシーホテルの正面玄関へとバスは滑り込む。驚くことにこのホテル、平面的にばかでかい。ロビーからバスに乗って部屋に移動するのだ。ボーイも電気自動車に乗ってルームサービスなどをやっている。全くアメリカ的だ。我々は9号棟の1階の部屋をあてがわれた。またもN川さんと同じで有る。(嫌だと言っているわけではない)ここでツアー最終日まで4泊する事となっている。従ってずっとN川さんと同部屋と言うこととなった。(決して嫌だと言っているのではないょ)又社長秘書のような役割を有り難く頂戴した思いでいたのは、多分私一人だろうが。
 爽快な部屋であった。入り口の反対はなんとゴルフ場のグリーンなのだ。そこにテーブルがおいて有る。丁度18番のティーショットの眺められるポジションである。余りゴルフの好みではない私でさえも、この広大なグリーンには溜息が出た。バルコニーに出てタバコを吸う。同部屋が男でなかったらもっと良いと思うも、多分N川バンマスも同じだったろうに。
 休む間もなく活動が始まる。チェックインほんの30分後集合である。ここが観光旅行とはだいぶ違う。観光旅行なら後はディナーで疲れをいやす。日本で有れば、温泉に浸かって宴会を待つだけ。全く今回は体力旅行だ。ところが好きなこととなれば人間は活発なものだ。


部屋の目の前に広がる素晴らしいロケーションのホテル。何時までも目に焼き付いています。

 最終目指すモンタレーのジャズフェスティバルの会場までは、ホテルから歩いて15分くらいのところにある。いよいよ である。
 モンタレージャズフェスティバルについて少しだけ触れておくと、東のコンコードジャズフェスティバルと双頭する西のフェスティバルとして40年の歴史を誇るジャズの祭典である。著名なミュージシャンを創出してきたことは言うまでもなく、又ライブレコードも沢山出ている。ライブ・イン・モンタレーと言う奴がそれである。毎年、この9月の第3金土日の3日間、概ね昼時から深夜零時頃まで開催される。一つの大きな競馬場を会場に仕立てているようだが、何せ広すぎて何が競馬場の何処なのかまでは分からない。一つのメインアリーナをとりまき3つの別の会場から成り立つ。勿論その会場に入場するのにチャージがかかり、メインアリーナへは更にチャージがかかる。メインアリーナは、やはり超大物のステージが有り、我々は演奏目的もさることながら、これらのプレイにも心弾ませてやってきたわけである。私達はサタデーアフタヌーンプレーヤーというバッチを頂いていた。土曜日3時から1時間、ナイトクラブという会場での予定であった。

 今日は木曜日、実は開催前の前夜祭が関係スタッフ並びにプレーヤー達とバーベキューパーティーと言うことで今日行われるのであった。勿論会場は本番で使用する会場の一つ、ガーデンステージ。ダブルヘッター第2戦はこのバーベキューパーティーでのスタッフとプロを客にしての演奏なのだ。先のオーストラリアのバンドと我々だけがチャンスを頂いた。開始まで2時間余り、アメリカ本場のバーベキューを食べる。旨い。ビールを呑む。旨い。本番前がこれでいいのかと思えるほど、またまたリラックスしている。そういえば、だんだんと寒くなってきた。旅立つ前に寒暖の差が激しいことは聞いていた。話が前後するが、出発前日、どこからか情報を聞きつけられたグローバルジャズオーケストラのN村さんから激励の電話を頂いた。これが又とてつもなく嬉しかった。「やっといけるがな。がんばりや」その言葉だけが記憶に残っていたが、ここに来て寒暖の差の激しさも情報として教えてくれたことに気づいた。昼間は短パンTシャツでも暑く、夕暮れから夜ともなればセーターが入る。大げさに聞こえるかもしれないが、事実息が白いのだ。
 楽器が冷えていた。チューニングが極めて難しい。全然いつものポジションと違う。演奏中に変えなければ・・。久しぶりにミュージシャンの感覚に戻った。でも緊張していない。メンバーが会場の中で著名なトランペッター、ビル・ベリーを見つけた。事も有ろうみんなは、一緒にやってくれないかなあ等と盛り上がる。ここまで来ると、怖い物知らずだ。折衝成立。なんと最後の曲で突然出てきてアドリブをして下さるというのだ。それも彼の指示の許、曲前に私を紹介するなというのだ。観客を驚かせ最後に盛り上がろうと言う粋な計らいなのだ。音楽は言葉を越える。譜面は世界共通。改めて来て良かったと思う瞬間であった。
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