吐き気がする。
生きる理由を探している。
時々、考える。
なんのために生きるのか。
思えば、社会人になる前から死にたがりだった。何かがあるたびに生きていたくないと強く思った。
死ぬことの何が怖いのか。
その問いに対する答えは明白だ。痛みや苦しみを伴うからに決まっている。自分が死んだあとの周囲の人間のことなんか、死んでしまえば考える頭も残っていないのだし、要するに、自分本位に死んだって構わないのだ。
事故は嫌だ。災害は嫌だ。それは、怖さと悲しさを伴うからだ。感情なんて無くなってしまえばいいのに。
もし、痛みも怖さも苦しみもない死に方があるのだったら。もしかしたら、私はこの世にいないかもしれない。
精神的な弱さで、何度も死にたいと思った。
壊した足の痛みで、何度も死にたいと思った。
ついこの間は、死ぬか苦しむか悩んだ腹痛の末に通院の道を選んだ。
何度も何度も、生死の看板の目の前に立って、それでも生きることを選んでしまった。
どうして生きようとするのか分からない。
年々、何にも楽しみを得られなくなってくる。太宰治や、三島由紀夫を読んで、暗澹たる気持ちの共感を求めはするが、いままで夢中になったコンテンツがすべてどうでもいいと思う。
生きる理由。
生きる理由。
もう少し、他人に興味が持てればいいと思う。
他人の行動に一喜一憂し、共感し、喜怒哀楽を分かち合えれば、仲間意識も出てくるのだろう。
私にとってはたかが他人だが。
何に付属してきた縁だとしても、一度絶ちきってしまえばそれきりじゃないか。逆に、それきりで切れるものならいちいち結ぶ必要もない。友人なんて数あるだけ邪魔だとさえ思う。
生きる理由。
死ぬ理由。
死んでもいい理由。
かつて太宰治が記していたらしいが、「夏用の着物を貰ったので、夏までは生きようと思う。」という文言、これは妙に的を得ているなぁと感心する。太宰治にとって、生きるということはそれくらいの価値だったのだ。5度の入水を行った先生に、死に対する恐怖感は無い。あるのは、行き続けることへの恐怖だったのだと思う。
私はまだ、生きることへの恐怖と、死ぬことへの恐怖の均衡が釣り合っているにすぎない。そんな理由だけど、それくらいが、死ななくてもいい理由になっていると思う。