3月5日 只今強風
2日のブログを読んでくれた友人が、こんな素敵なメッセージを送ってくれたので
ちょっと 紹介します。
ーーーーーーーーー***---------
ちょっと長いので、お暇な時に・・・
「やさしいウソをあなたに・・・」
日本メンタルヘルス協会 衛藤信之 ブログより
「インディアンは嘘つかない」は有名な言葉だ。
しかし、彼らもウソをつく。彼らネィティブ・アメリカン(通称:インディアン)とつきあうと、
それはウソだとわかる。ただ、彼らは人の悪いウソはつかない。
白人が北アメリカに上陸した時。先住民族だった彼らは、侵入者である白人にトウモロコシの作り方を指導して、風土病の治し方を教えた。そんな彼ら先住民に対して、白人は彼らの土地を奪い、西へと追いやり、抵抗する部族を容赦なく虐殺しました。
一部の部族をのぞいて平和主義だったインディアンは、共にこの土地で一緒に暮らそうと交わした契約書の文面は、そのたびに書きかえられて、白人にウソをつかれた。だから、真実は「白人は人の悪いウソをつく。我々、インディアンは、人の悪いウソをつかない」ということだろう。
人の悪いウソとは、そのウソで、誰かが迷惑をこうむったり、片寄った者だけが、利益を得たりするウソのことです。
女の子の肩に毛虫がついていて、そっと手ではらった。相手が「何?」と言ったときに、「糸くずが肩に」と言うのと、「すごく気持ち悪い毛虫が肩にのっていたから」と言うのとどちらが人を幸せにするでしょう。このようなことを人は、「ウソも方便」と言います。
「ウソも方便」とは、法華経に出てくる話だそうです。医者が留守の間に、子供が薬を飲んでしまい、その薬の解毒剤を飲ませようとしても飲まない。子供に「お父さんは老齢だから死ぬかもしれない。もし、お父さんが亡くなって、淋しくなったら、この薬を飲みなさい」と解毒剤を子供に渡す。「この薬を飲めば、お父さんは帰ってくるから」とウソをついた。そして、医師は外出した時に、つかいの者に「お父さんが亡くなった」と子供達へウソを伝えさせた。悲しくなった子供達は、お父さん会いたさに薬である解毒剤を飲んで救われたという話からきています。これも子供を助けるためについたウソです。
ずーっと以前「一杯のかけそば」という、心温まる話がありました。あれは作者が創作した話で、真実ではないとかで、作者に非難が集中しました。“坊主憎けりゃ袈裟まで憎い”で、作者の不祥事などが出てきて、人々は急にその話しに関心をなくしました。僕は、あれはあれで、心が温まったのだから、「幸せにしてくれてありがとう」という気分でした。
サンタクロースも、ピーターパンも信じている者の中に生きている。それは、人をほんのひと時、幸せにしてくれる、やさしい魔法。
先日、ある相談者が、子供を中絶して苦しんでいた。もちろん、これは社会的にも、倫理的にも許されないことかもしれません。でも、人生には誰にもわからない背景があるのもの。経験をしたことのない人間が、倫理の刃(ヤイバ)で相手を切り刻むのは、好きではない僕は、ただ相談者の話を黙って聞いていた。
たまたま、先日、他の先生とのジョイントの講演会で、聴講で来られていたメンタルの卒業生でもある、日本笑い学会副会長の昇 幹夫先生が、小児歯科臨床の冊子のコピーを持って来てくださった。それには「胎内記憶」と書かれていた。同じ産婦人科医である池川 明先生の講演会に行って来られたという話。
昇先生は「胎児の段階から記憶があるということは、D・チェンバレン博士の『誕生を記憶する子供たち』にも書かれているけど、保育園児の3600人のアンケートの中で、生まれる前から「この人の子供として生まれる」と決意して、産まれて来る子もいるそうだよ。天上の世界は、平和すぎて退屈するので、自分を高めるためや、人に何かを学ばせるために産まれるそうなんだ」と僕の講演が始まる前の控え室で、あわてて概略を話してくれました。
また、休憩時間に昇先生が話してくれた話で、僕が印象に残った話の一つに、飲酒運転による事故が起き、炎上している車の中から子供二人を救い出すことが出来なかったお母さんの夢枕に子供たちが現れ、「僕達は今、すごく満足している。なぜなら、役割が終わったから。僕達はあの事故で、社会を教育するために生まれてきたのだから。お母さん、泣かないで。お母さんには役割があるでしょ。」と言われて、ご両親はそれから飲酒運転撲滅に立ち上がり、テレビに出る頃には泣かなくなったという話でした。
中絶手術をした彼女に、なにげなくその話を思い出して「その子も、何かを君に気づかせる為に、君の中に存在したのかもね」その子が生まれた、生まれなかったことを悲しむだけではなく、その子が、君に何を教えたかったの意味を感じないとね。それを感じてあげないほうが悲しがるかもね。たとえば、しっかりと人生設計を考えるとか、SEXを考えるとか、なぜ、自分は中絶する立場にいるのか・・・と、僕が話している最中に彼女は頬に涙が光った。
その涙を見て、あまりに現実離れした話しに少し照れた僕は、こんな話は、「ホント」か「ウソ」かは、分からないし、妄信するのも、宗教家みたいで気がひけるけどね。何かを考える材料になる時もあるしね。と言い訳っぽく話しだすと、彼女は「今の話し、今の私にはとっても必要でした。今は言葉にならないけど、何かを考える時期なのでしょうね」と自分にいい聞かせるように深くうなずいた。
あまりに荒唐無稽な突飛な話に、自己反省したものの、彼女の感謝の言葉に安心した僕は続けて話し始めた。
心理学者ユングは、偶然を、“意味ある偶然”(シンクロニシティ)と呼んでね。僕がたまたま最近聴いた話を、ふと頭に浮かび、今、君に話していることにも何か意味が隠れているかもしれないね。それにインディアンも「必要なことは、必要な時に起こる」と言っているし。と僕が話している間、彼女はずっと何かを感じようとしていた。「今日は先生に話ができて良かった」とはからずも感謝されて、僕も偶然をつかさどる神様に感謝をした。
荒唐無稽な話の中にも、何か人を癒す力が宿っている。映画でも、歌でも。それが、真実か、虚か、は意味をなさない。それを“何の目的を持って”伝えるかが重要なのだと思う。
以前、家族のように愛していた小鳥が死んだことをズーッと悲しむ少女に、「君が泣いていたら、天国で、小鳥は飛び立てないかもしれないね。だって、ペットは愛してくれる飼い主のために生まれて来たのに、飼い主を泣かしていることはペットの役目をはたしていないと鬼に責められるんだってさ。だから、鬼から責められないように、君が小鳥と出会ったこと、そして天国に行った小鳥のことも喜んであげなきゃね」と話したことがある。
その少女は、その話を受け入れ泣くことは止めたことがあった。もちろん、ペットは人間のために生まれたわけではないし、そんなことを望んではいないかもしれない。そんな発言を僕がすると動物愛護団体や、意味なく重箱の隅をつつく人には、お叱りを受けるかもしれません。
ただ僕が大切にしていることは、言葉じりよりも、その荒唐無稽の物語を、何の目的のために話すかが重要なことだと思う。
また、今僕が少女に話した鬼の話は僕の創作ではない。原型の話があるのです。
三途の河原では、小さな子供が石を積んで塔を作っているそうです。でも、作っても鬼が来て、持っている金棒で、幼い手で積んだ石の塔を壊すのです。「泣くな!お前達が悪いのだ。お前達は、親を学ばせるために生まれて来たのに。お前達の親は泣いているだけで、修行をすることもしない。恨むなら、お前たちの両親を恨め!」
仏教によると、子供が親を苦しめることは罪が重いのです。幼い子の早すぎる死は、両親にとってこれほど苦しく、悲しいことはありません。それを償うために、子供たちは賽(サイ)の河原で石を積むそうです。
それを解放するのは親の布施(善行)だそうです。布施といってもお金ではありません。それは、いつも笑顔で、誰かのために生きる布施が大切だそうです。これは「法華経(ホッケキョウ)」の中の方便品(ホウベンポン)の経文が基本になっています。
最初、僕がこの話を聞いた時は、亡くなった子供がかわいそうと、反発を感じましたが、子供を早く亡くした親をなんとか救ってやりたいという優しさが背景に隠れていることに気づきました。
誰かを助けたいという思いからくる人の良いウソ。僕はそんなウソの魔法をいっぱいたくわえたいし、学びたいと考えています。
今、マスコミを騒がせている。視聴率を上げたいための、データーのねつ造も、耐震構造で利益をあげる人の悪い「嘘」も、過去を愛したであろう人を傷つける「真実」の暴露本も。「ウソ」、「ホント」は、僕にはどうでも良いことなのです。大切なのは、そこに優しいまごころがあるのか。でも、もっとも僕が敬遠したい人は、それらのニュースに「許せない!」と叫んでいる一般大衆かな。人それぞれに隠された痛みも知らずに、自分の日常のウソを棚にあげて、人をさばいてやまない「嘘」です。
僕はウソには、その背景に流れている人々の優しさがなければならないと思うのです。誰かに語る「おとぎ話」の背景には、語る者が、聞く者に対しての愛があってほしいと・・・虚と実を越えて、誰かを救いたいと、愛する思いが、誰かの心を癒すものだから。
ねぇ、そう思いません。
2日のブログを読んでくれた友人が、こんな素敵なメッセージを送ってくれたので
ちょっと 紹介します。
ーーーーーーーーー***---------
ちょっと長いので、お暇な時に・・・
「やさしいウソをあなたに・・・」
日本メンタルヘルス協会 衛藤信之 ブログより
「インディアンは嘘つかない」は有名な言葉だ。
しかし、彼らもウソをつく。彼らネィティブ・アメリカン(通称:インディアン)とつきあうと、
それはウソだとわかる。ただ、彼らは人の悪いウソはつかない。
白人が北アメリカに上陸した時。先住民族だった彼らは、侵入者である白人にトウモロコシの作り方を指導して、風土病の治し方を教えた。そんな彼ら先住民に対して、白人は彼らの土地を奪い、西へと追いやり、抵抗する部族を容赦なく虐殺しました。
一部の部族をのぞいて平和主義だったインディアンは、共にこの土地で一緒に暮らそうと交わした契約書の文面は、そのたびに書きかえられて、白人にウソをつかれた。だから、真実は「白人は人の悪いウソをつく。我々、インディアンは、人の悪いウソをつかない」ということだろう。
人の悪いウソとは、そのウソで、誰かが迷惑をこうむったり、片寄った者だけが、利益を得たりするウソのことです。
女の子の肩に毛虫がついていて、そっと手ではらった。相手が「何?」と言ったときに、「糸くずが肩に」と言うのと、「すごく気持ち悪い毛虫が肩にのっていたから」と言うのとどちらが人を幸せにするでしょう。このようなことを人は、「ウソも方便」と言います。
「ウソも方便」とは、法華経に出てくる話だそうです。医者が留守の間に、子供が薬を飲んでしまい、その薬の解毒剤を飲ませようとしても飲まない。子供に「お父さんは老齢だから死ぬかもしれない。もし、お父さんが亡くなって、淋しくなったら、この薬を飲みなさい」と解毒剤を子供に渡す。「この薬を飲めば、お父さんは帰ってくるから」とウソをついた。そして、医師は外出した時に、つかいの者に「お父さんが亡くなった」と子供達へウソを伝えさせた。悲しくなった子供達は、お父さん会いたさに薬である解毒剤を飲んで救われたという話からきています。これも子供を助けるためについたウソです。
ずーっと以前「一杯のかけそば」という、心温まる話がありました。あれは作者が創作した話で、真実ではないとかで、作者に非難が集中しました。“坊主憎けりゃ袈裟まで憎い”で、作者の不祥事などが出てきて、人々は急にその話しに関心をなくしました。僕は、あれはあれで、心が温まったのだから、「幸せにしてくれてありがとう」という気分でした。
サンタクロースも、ピーターパンも信じている者の中に生きている。それは、人をほんのひと時、幸せにしてくれる、やさしい魔法。
先日、ある相談者が、子供を中絶して苦しんでいた。もちろん、これは社会的にも、倫理的にも許されないことかもしれません。でも、人生には誰にもわからない背景があるのもの。経験をしたことのない人間が、倫理の刃(ヤイバ)で相手を切り刻むのは、好きではない僕は、ただ相談者の話を黙って聞いていた。
たまたま、先日、他の先生とのジョイントの講演会で、聴講で来られていたメンタルの卒業生でもある、日本笑い学会副会長の昇 幹夫先生が、小児歯科臨床の冊子のコピーを持って来てくださった。それには「胎内記憶」と書かれていた。同じ産婦人科医である池川 明先生の講演会に行って来られたという話。
昇先生は「胎児の段階から記憶があるということは、D・チェンバレン博士の『誕生を記憶する子供たち』にも書かれているけど、保育園児の3600人のアンケートの中で、生まれる前から「この人の子供として生まれる」と決意して、産まれて来る子もいるそうだよ。天上の世界は、平和すぎて退屈するので、自分を高めるためや、人に何かを学ばせるために産まれるそうなんだ」と僕の講演が始まる前の控え室で、あわてて概略を話してくれました。
また、休憩時間に昇先生が話してくれた話で、僕が印象に残った話の一つに、飲酒運転による事故が起き、炎上している車の中から子供二人を救い出すことが出来なかったお母さんの夢枕に子供たちが現れ、「僕達は今、すごく満足している。なぜなら、役割が終わったから。僕達はあの事故で、社会を教育するために生まれてきたのだから。お母さん、泣かないで。お母さんには役割があるでしょ。」と言われて、ご両親はそれから飲酒運転撲滅に立ち上がり、テレビに出る頃には泣かなくなったという話でした。
中絶手術をした彼女に、なにげなくその話を思い出して「その子も、何かを君に気づかせる為に、君の中に存在したのかもね」その子が生まれた、生まれなかったことを悲しむだけではなく、その子が、君に何を教えたかったの意味を感じないとね。それを感じてあげないほうが悲しがるかもね。たとえば、しっかりと人生設計を考えるとか、SEXを考えるとか、なぜ、自分は中絶する立場にいるのか・・・と、僕が話している最中に彼女は頬に涙が光った。
その涙を見て、あまりに現実離れした話しに少し照れた僕は、こんな話は、「ホント」か「ウソ」かは、分からないし、妄信するのも、宗教家みたいで気がひけるけどね。何かを考える材料になる時もあるしね。と言い訳っぽく話しだすと、彼女は「今の話し、今の私にはとっても必要でした。今は言葉にならないけど、何かを考える時期なのでしょうね」と自分にいい聞かせるように深くうなずいた。
あまりに荒唐無稽な突飛な話に、自己反省したものの、彼女の感謝の言葉に安心した僕は続けて話し始めた。
心理学者ユングは、偶然を、“意味ある偶然”(シンクロニシティ)と呼んでね。僕がたまたま最近聴いた話を、ふと頭に浮かび、今、君に話していることにも何か意味が隠れているかもしれないね。それにインディアンも「必要なことは、必要な時に起こる」と言っているし。と僕が話している間、彼女はずっと何かを感じようとしていた。「今日は先生に話ができて良かった」とはからずも感謝されて、僕も偶然をつかさどる神様に感謝をした。
荒唐無稽な話の中にも、何か人を癒す力が宿っている。映画でも、歌でも。それが、真実か、虚か、は意味をなさない。それを“何の目的を持って”伝えるかが重要なのだと思う。
以前、家族のように愛していた小鳥が死んだことをズーッと悲しむ少女に、「君が泣いていたら、天国で、小鳥は飛び立てないかもしれないね。だって、ペットは愛してくれる飼い主のために生まれて来たのに、飼い主を泣かしていることはペットの役目をはたしていないと鬼に責められるんだってさ。だから、鬼から責められないように、君が小鳥と出会ったこと、そして天国に行った小鳥のことも喜んであげなきゃね」と話したことがある。
その少女は、その話を受け入れ泣くことは止めたことがあった。もちろん、ペットは人間のために生まれたわけではないし、そんなことを望んではいないかもしれない。そんな発言を僕がすると動物愛護団体や、意味なく重箱の隅をつつく人には、お叱りを受けるかもしれません。
ただ僕が大切にしていることは、言葉じりよりも、その荒唐無稽の物語を、何の目的のために話すかが重要なことだと思う。
また、今僕が少女に話した鬼の話は僕の創作ではない。原型の話があるのです。
三途の河原では、小さな子供が石を積んで塔を作っているそうです。でも、作っても鬼が来て、持っている金棒で、幼い手で積んだ石の塔を壊すのです。「泣くな!お前達が悪いのだ。お前達は、親を学ばせるために生まれて来たのに。お前達の親は泣いているだけで、修行をすることもしない。恨むなら、お前たちの両親を恨め!」
仏教によると、子供が親を苦しめることは罪が重いのです。幼い子の早すぎる死は、両親にとってこれほど苦しく、悲しいことはありません。それを償うために、子供たちは賽(サイ)の河原で石を積むそうです。
それを解放するのは親の布施(善行)だそうです。布施といってもお金ではありません。それは、いつも笑顔で、誰かのために生きる布施が大切だそうです。これは「法華経(ホッケキョウ)」の中の方便品(ホウベンポン)の経文が基本になっています。
最初、僕がこの話を聞いた時は、亡くなった子供がかわいそうと、反発を感じましたが、子供を早く亡くした親をなんとか救ってやりたいという優しさが背景に隠れていることに気づきました。
誰かを助けたいという思いからくる人の良いウソ。僕はそんなウソの魔法をいっぱいたくわえたいし、学びたいと考えています。
今、マスコミを騒がせている。視聴率を上げたいための、データーのねつ造も、耐震構造で利益をあげる人の悪い「嘘」も、過去を愛したであろう人を傷つける「真実」の暴露本も。「ウソ」、「ホント」は、僕にはどうでも良いことなのです。大切なのは、そこに優しいまごころがあるのか。でも、もっとも僕が敬遠したい人は、それらのニュースに「許せない!」と叫んでいる一般大衆かな。人それぞれに隠された痛みも知らずに、自分の日常のウソを棚にあげて、人をさばいてやまない「嘘」です。
僕はウソには、その背景に流れている人々の優しさがなければならないと思うのです。誰かに語る「おとぎ話」の背景には、語る者が、聞く者に対しての愛があってほしいと・・・虚と実を越えて、誰かを救いたいと、愛する思いが、誰かの心を癒すものだから。
ねぇ、そう思いません。