まつくりさんの幼稚園時代、最後の発表会・・・。今回は劇と想像パフォーマンスの2題。
3日前の全員でするリハーサルでは、全然見ている側(観客)に何を伝えたいのか?やっていること(ストーリー)自体も不鮮明で、子どもたちも緊張して硬くなっている様がありありだったが、当日蓋を開けると、リハの時と全く違う子どもたちの姿に驚く。お客さんに伝えようという気持ちとそれを惹きだす演出手法がいくつか修正されていて、担任の努力とそれに応えたこどもたちのわずか数日での本気モードに驚き・・・。
当日他県の幼稚園の副園長先生が観に来ていてやっぱり驚かれていたが、自園の発表会での子どもたちとの姿の差異について語っておられたのが印象的。やることの楽しさに終わっていることに対して、見せることの楽しさがお客に伝わってくる表現風景とのこと。親に見せるだけの発表会から子どもの発想を活かした表現を中心にした発表会にここ数年の間に変えながら、もう一つ越えきれない何か?、何がそうさせるのか? 知りたい・・・と。そこで互いの発表会の特徴を対話の中で整理してみると・・・・
一つは舞台空間の差異。遊戯室(ホール)での舞台は一緒だが明らかに舞台と客席との仕切りがあるのに対して、木の花は舞台袖というものがない。ホール全体が舞台になる。いわば出ずっぱり。30分近い劇の間、途中の場面転換も含めて子どもの役であり、セリフが回ってこない間も、例えば小人はその村のお仕事をし続けている、など、常に緊張を自分でコントロールしながら世界を創る役目を担い続けている・・・・。
二つ目はお客さん自身の醸し出す臨場感というか緊張感。それもピリピリしたものではなく温かい視線の中で。一般にお客さんはお客さんで演じ手は子ども。これも二分されているのが普通。しかし木の花はお客さんもその世界の造り手であると同時に出番をよその学年の親以外全員(年長のみならず年少、年中、そして年長の保護者)。相互に同質体験を共有し担っている要素も加味されているだろう。つまり「お客様」ではない、当事者意識であり同質体験者が知る連帯感に近い感覚。
そして三つ目はやはり積み上げてきた経験値。発表会のための発表会ではなく、その土台にここでの遊びや生活、体験して身に着けてきたものが織り込まれている、刷り込まれているのでは・・・ということ(狭い意味でも取り組みの過程で実際に街に出掛けてエレベーターを体験する、より広い意味では子どもたちの遊びであり生活そのものの積み上げが劇の背景)。この点はやっている側の子どもたちが終わった後の感想(振り返り)で、最初は緊張していたけどだんだん気持ちが乗ってきた、楽しくなってきた、と互いの響き合う感性と共に皆が口をそろえていたことにも伺える。(前日の予期せぬ出来事で当日欠席せざるを得なかった子の代役に急きょ立った友達数名、全く違和感なくすんなりとその子の役柄を演じられるのも共に今まで修羅場?緊張感のある場を共に潜ってきた仲間だけのことはある、と改めて実感。)
親の出し物にも抱腹絶倒し感涙しながら富山の先生はとても満足気。次へのヒントを得たようだ。今度はぜひそちらの発表会を観させてください。(昨年は公開保育でこどもたちの発想を活かしたいい保育を見せて頂いたので。)
3日前の全員でするリハーサルでは、全然見ている側(観客)に何を伝えたいのか?やっていること(ストーリー)自体も不鮮明で、子どもたちも緊張して硬くなっている様がありありだったが、当日蓋を開けると、リハの時と全く違う子どもたちの姿に驚く。お客さんに伝えようという気持ちとそれを惹きだす演出手法がいくつか修正されていて、担任の努力とそれに応えたこどもたちのわずか数日での本気モードに驚き・・・。
当日他県の幼稚園の副園長先生が観に来ていてやっぱり驚かれていたが、自園の発表会での子どもたちとの姿の差異について語っておられたのが印象的。やることの楽しさに終わっていることに対して、見せることの楽しさがお客に伝わってくる表現風景とのこと。親に見せるだけの発表会から子どもの発想を活かした表現を中心にした発表会にここ数年の間に変えながら、もう一つ越えきれない何か?、何がそうさせるのか? 知りたい・・・と。そこで互いの発表会の特徴を対話の中で整理してみると・・・・
一つは舞台空間の差異。遊戯室(ホール)での舞台は一緒だが明らかに舞台と客席との仕切りがあるのに対して、木の花は舞台袖というものがない。ホール全体が舞台になる。いわば出ずっぱり。30分近い劇の間、途中の場面転換も含めて子どもの役であり、セリフが回ってこない間も、例えば小人はその村のお仕事をし続けている、など、常に緊張を自分でコントロールしながら世界を創る役目を担い続けている・・・・。
二つ目はお客さん自身の醸し出す臨場感というか緊張感。それもピリピリしたものではなく温かい視線の中で。一般にお客さんはお客さんで演じ手は子ども。これも二分されているのが普通。しかし木の花はお客さんもその世界の造り手であると同時に出番をよその学年の親以外全員(年長のみならず年少、年中、そして年長の保護者)。相互に同質体験を共有し担っている要素も加味されているだろう。つまり「お客様」ではない、当事者意識であり同質体験者が知る連帯感に近い感覚。
そして三つ目はやはり積み上げてきた経験値。発表会のための発表会ではなく、その土台にここでの遊びや生活、体験して身に着けてきたものが織り込まれている、刷り込まれているのでは・・・ということ(狭い意味でも取り組みの過程で実際に街に出掛けてエレベーターを体験する、より広い意味では子どもたちの遊びであり生活そのものの積み上げが劇の背景)。この点はやっている側の子どもたちが終わった後の感想(振り返り)で、最初は緊張していたけどだんだん気持ちが乗ってきた、楽しくなってきた、と互いの響き合う感性と共に皆が口をそろえていたことにも伺える。(前日の予期せぬ出来事で当日欠席せざるを得なかった子の代役に急きょ立った友達数名、全く違和感なくすんなりとその子の役柄を演じられるのも共に今まで修羅場?緊張感のある場を共に潜ってきた仲間だけのことはある、と改めて実感。)
親の出し物にも抱腹絶倒し感涙しながら富山の先生はとても満足気。次へのヒントを得たようだ。今度はぜひそちらの発表会を観させてください。(昨年は公開保育でこどもたちの発想を活かしたいい保育を見せて頂いたので。)