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脳の孤独  (novelistに乗せた作品です。)

2012-07-12 09:01:23 | 現代小説

脳の孤独

また心にもない反論をしちゃたあ~と反省しながら
素直な心が後悔を促す。

そうだなあ~自分でも何故反論するのか自分ながら
理解に苦しむことが多い。

心と脳は他人なのだと何時も思うことがある。
脳は心の指示を拒否する時空しさが襲うのだ。
何でまたこんなことを繰り返すのって葛藤が起こる。
無駄な反省だと思いながら繰り返す。

「ほ~らまた水道の雫がちとちと雫が落ちて居るよ。」

蛇口が古くなって締め切れない。そのうち治そうと思う矢先の
注意に理恵は素直に「はい、すみません。」と言わない。

心では素直に「そうだね。そのうち治すからね。」と言う
気持ちがあるのに口から出た言葉は、

「解って居るわよ。そんなに言わないで、気が着いたら
貴方も蛇口を閉めてよ。」と言っちゃう~~

あああ~~また拒絶反応を起こしちゃったああ~~と反省するが
態度には出ない。

「私って素直でないのね。」と悲しむことが多い。

「ちょっと貴方~~本当は反省して居るのよ。素直に反省して
実行しているのよ。」

「だったら何で反抗するようなことを言うんだよ。」

自分でも解らない。扱い難い自分が居る。
なんでだあ~~一人茶の間で反省に浸ることが多い。

それは私だけではない。子供にもその態度はある。

これを反抗期とか、生意気とかと言う眼差しで良いだろうか。?
ず~~^と考えて来たことだ。

子供にもこんな悩みがある筈だ。
書いて置こう。書いてみようと思った。


治癒能力

人間には沢山の臓器やそれぞれの働きの筋肉や機能がある。

心臓も。腎臓も 胃も。それぞれ特有の働きと拒絶反応とある。
見逃してならないのは治癒力だ。
医学が容易に越えられない拒絶反応だ。
治癒の中には護りもあり、それが拒絶反応なのだと
自分の反抗の自己防衛をする。


待てよ。あの反抗は私ではない。言い訳でもない。反省もして
実行もして居るのだ。

すまないとも思って心の頭を下げて居るのだ。
なのに口から出る言葉は反抗。拒絶の言葉だ。
夫も私も感情が昂ぶる。

こんなつまらない蛇口位で何を興奮して居るんだと
心の私が叫ぶのに~~脳は平然として居る。

「早く過ちを認めなさいよ。」と心が言うのに

脳は平然として、そんなこともあるよ。そんな小さなことで
鬩ぎあうのはつまらないと言う度胸の良い脳が居る。

繰り返しながら思うのに脳独自の防衛拒絶だと思うように
なった来た。

それが良い~そうだ~それが脳の本当の声だ。
脳の叫びだぞ。それで自分を護る治癒能力が働くのだよ。」
と聴こえる。

繰り返し扱い難い脳と心の付き合い方を裁けるようになった。
ひとりでにやりとする余裕が出来て来た。

孫の仕草を注意すると、必ず言訳か反抗するが、
この反抗を心ではなく脳の拒絶反応と待てるようになった。

反抗が腹立たしくなくなって来た。
寛大になれた自分に笑みが浮かぶ。苛々を説き伏せることが
出来るようになった。

家族の争いや親子の争いの殆どは心でなく脳の習性なのだと
受け止められるようになった。

自分の脳の構造と習性と向き合うことが家族を理解する
一歩だと思った。

医学にもない、心理学でも眼に触れない自分の体の働きを
キャッチして書き記すことに創作の意義を感ずる。

感情の浄化

寂しさも、辛さも、悲しさも、空しさも通じ合わないと思い込む
ことから起こる心理だと思うとじっとして居られない胸が騒ぐ。

私も家族ももしやこの記事を読んでくださる方の共鳴があれば
生きて居る実感を味わえるかもしれない。

不確かな心理だとしても心の医学として心の一ページを鮮やかに
残したい。

あくまでも個人的な感性かもしれないが伝えても、
一夜語り明かしても解決しない、心と心の平行線や対立がここで
少しでも解消できれば嬉しい。

どんなに科学が進歩しようと、理論が解明されようとこの問題は
解決しない。幸せは遠のくばかりである。

人間が社会的な生物である限り、重要な感情の浄化槽は
高度な仕組みで創り上げなければならないと感ずる。

孤独という感情に動かされて、人間は他人との接点を持とうとする
そのすれ違いがまた孤独を呼ぶ。
こんな繰り返しは無駄だ。

孤独の研究は幸福の研究とも良く似ている。
ダニエル・ギルバートの幸福論が頭に浮かぶ。
幸福とは訪れるものではない。創り出すものだと
知る時脳と心の習性を分析して見る必要がある。


脳と心のしくみから、「つながり」を求める動物としての
人間の本性に迫る必要がある。


人間らしさを失わないために、愛し合う習性が衰えないために
拒絶反応がプラスとして捉えられるまで
人間の脳の ユニークさを見詰めたい。

一人一人の違いを見極める脳の調節遺伝子を見逃さない
なら拒絶反応もまた認めなければならない。
拒絶の屈折がまた違うのだ。
受け止める姿勢から観察する、見守る姿勢に変わった
自分を書き残す作品の中に残して置きたいと思う。

くも 膜下で手術を余儀なくされた夫の頭は3倍位大きく
膨れた。これは脳そのものではないがびっくりした。

自分の身体が敏感なら、他者への共感も強まる。

だが育ちや環境から来る脳の拒絶反応と思えたら
孤独も寂しさも襲わなくなるのだ。

それどころか違いを爽やかに受け入れられるだろう。

自分と他人の間に違いを越えた個々の距離が視えて来るのだ。

天使のような視線が自分の眼差しから流れる時
自分の脳と体に神の存在を見るだろう。


生きる不安定がここから生まれるとすれば
不安要因は取り除く必要がある。
脳の習性が生む運命に翻弄される人間の悲劇は避けたい。


対立や拒否が心ならずもの行動であるなら学問としてではなく
思いやりや、労りの視点から考えたい。

これも不可能なら愛さなければならない親子の絆や
愛を誓った夫婦の絆を繋ぎ止めなければ子供に負を
及ぼすのだ。

見えない力、神の気まぐれとも言ってよい運命によって、
対立や争いが起きて居るとしたら情けない。

自分の感性の汚れや埃を除去するとすれば
ケガレや軽蔑の対象となる拒否の正体を探りたい。

人間の存在はそれ自体が不条理な存在であり、
拒否の正体に目覚めたとき、初めて人間として今
つまらない家族の摩擦や夫婦のストレスの罪に
目覚めると思う。
 
脳の振り子

辛い体験や悲しい体験、忍耐の必要な体験、頑張ると言った
マイナス作用の心を体験することは脳を使うチャンスである。

脳は使わないと眠って居ると同じだ。
感性も鋭くなるチャンスなのだ。

忍耐から得た喜び、辛い体験から得た答えを掴んだ時
努力や辛抱から得た答えは喜びに変わる、感激に変わる。

辛さと心地よさの幅は最大に大きな距離を持ちその心と
脳の振り子には絶対忘れない感激の振り子が働いた時だ。

脳と心の健康を保つためには 心の振り子、脳の振り子が
大きいほど耐久力がある。強い人間の姿が視えて来る。
強くなりたい時苦しさ、辛さを挑戦に置き換えられたら
嬉しい。

その根底には臓器の拒絶反応や人間ならではの他にない
ユニークな能力、調節能力を引き出すことが進歩した現代の
賢く生きる視点ではなかろうか。

その振り子の幅はマイナスに大きく振れる視方、捉え方や
プラスの振り子の快感を体験して見ることだと思う。

ここに幸せは生まれるのでなく生み出すのだと言う
ダニエル・ギルバートの幸福論が心の隅にどっかりと腰を下ろすのだ。