「When life gives you lemons, make lemonade」

朝、外へ出ると、「神秘的で、荘厳で、言葉では表すことのできない崇高な世界」が見える。

われらの狂気を生き延びる道を教えよ

2024-08-01 23:58:04 | 日記

🔳ある声:
少女を殺せば、妊婦を殺せば、女を殺せば、
やがては、そこに人々はいなくなる。
だから機関銃で弾倉が空になるまで少女の身体に弾丸を撃ちこむ。
狙撃兵が少女の頭に狙いを定め撃ち殺す。
子どもたちがいる学校を砲撃する。
(「妊婦を撃てば2人を一発で片付けられる」そう発言した女性閣僚がいた)

孫の少年と共にロバを引いている老人に兵士が
ロバの尻にキスすることを強要する。
孫の少年やそれを見た人は服従学び、劣等を自覚するだろう。
日々、屈辱を与える。

恐怖を与え、土地を奪い、仕事をなくし、殺す。
家を壊し、道をなくし、村や街が存在した記憶を消す。
経済を破壊し、人間の自立の基盤を消滅させる。
人々は牢獄にいれられたと同じに、
虚ろになり、精神を病み、肉体は細り、自滅する。

(現実にコンクリートの壁が築かれた。そこは牢獄だ)


そのために無駄のない綿密な計画が練られ、狡知が動員される。
消しゴムで消すように、その土地から人々の姿を消す‥。

最初からそうだったのだ。
デイル・ヤシーン事件を見よ。

https://00m.in/TBwMJ

ウィキペディア(Wikipedia)*見れないときは、「デイル・ヤシーン事件」検索。

できれば保存して。消されないうちに?!

https://00m.in/fukCO

https://00m.in/ynley


しかし、それは我々がこの現代に経験したことと同じではないか?
この悲惨はあの悲惨と同じではないか?

ああ、パレスチナ、イスラエル!

われらの狂気を生き延びる道を教えよ
 

🔳イスラエルの若者が自分たちハードロックグループの
名にその名をつけた。

DIR YASSIN

「この名前は、シオニズムとイスラエルの歴史の「崇高な」血なまぐさい事実を集団意識の中に取り戻す努力の一環として選ばれた」


「The band formed in December 1997 from the ashes of other local hardcore bands.
The original line-up was Kobbi (guitar, ex-Urban Skate Fanatics), Fede (drums, ex-USF as well), Haim (bass, ex-Wackout, Shma Israel), Adi (vocals, ex, uh, about half of the local bands ever: Public Domain, Ethos, Useless ID, Shma Israel, Nekhei Naatza - and also played with Negative Impact for a while) and Federico (ex Nekhei Naatza and temporary member of USF).
The name was chosen as an effort to bring the sublimed bloody facts of Zionism and Israel's history back into its collective consciousness.」
(彼らはイスラエル国内で活動したのち、ドイツなどへ渡り、それから解散したらしい。20年前の情報だが。
記憶だけで書いている。今でも当時買ったCDを時々聴く)
https://www.angelfire.com/il/deiryassin/main.htm

DIR YASSIN - "Brotherly Mass Grave"

https://x.gd/dYyov


https://www.youtube.com/watch?v=8b3lzmdWnqU&t=5s
Dir Yassin - Discography (LP, 2005)

🔳パレスチナ問題:ウィキペディア(Wikipedia)
https://00m.in/bwrNV


あるユダヤ人のたたかい

2024-07-27 10:31:19 | 日記

 

もう20年以上前のことになるだろうか。

(パソコン、外付けのHDにバックアップをとっておいた記録が
いずれも使えなくなった)

毎日新聞の現地記者(日本人)の署名記事。その内容は、
①パレスチナの少女が小学校へ朝登校している時に、
占領者兵士、特にその指揮官によって自動小銃の弾がなくなるまで
撃たれ続け死んだ。(いつもの道が占領者によって通行禁止になった)
②パレスチナの少女が家で母親と料理している時に、占領者の狙撃兵に
によって頭を撃たれ死亡した。
③小学校へ砲撃され多くの子どもが命を失った。
衝撃を受けた記者の息づかいと記事を書く震える指を想像できた。



サラ・ロイを知ったのは、それからしばらくしてだった。私も日本で開かれた小規模の講演に参加した。


彼女の言葉を紹介したい。



サラ・ロイ:

「私にとって神とは何なのか」というのは、それとしていい質問だとは思います。

しかし、いま世界中にある、このような痛みや苦しみを考えたとき、

われわれが、より問うべきことは、

われわれこそが神にとって何者なのか、

私は神にとって何者であるのか、

ということではないでしょうか。

(* 「講演」の後、質問に答えたもの)


SARA ROY ”Failing Peace Gaza and the Palestinian-Israeli Conflict ” 2007

前回の記事で紹介した文章の後も、それから、その前から、そしてずっと今に至るまで

彼女は、顔を背けないで立ち向かっている。

彼女に限らず、人種、宗教、国籍の違いをこえて、そうした人々がいるということを忘れずにいたい。


ユダヤ人とイスラエル建国

2024-07-24 22:37:10 | 日記

 

17頁の文章の抜粋です。わからない単語はそのままに、読んでみてください。(自分はそうして読んでいます。)



After the war ended, My aunt Frannia desperately,
and understandably wanted to go to Palestine/Israel.
To join their sister who had been there for ten years.
The creation of a Jewish state was imminent and Frania felt it was the only safe place
for Jews after the Holocaust.

My mother disagreed and adamantly refused to go.
She told me so many times during my life that her decision not to live in Israel
was based on a belief, learned and reinforced by her experiences during the war,
that tolerance, compassion and justice cannot be practiced nor extended
when one lives only among one’s own.
“I could not live as a Jew among Jews alone,” she said .
“For me, it wasn’t possible and it wasn’t what I wanted.
I wanted to live as a Jew in a pluralist society,
where my group remained importand to me
but where others were important to me, too.”



Frania emigrated to Israel and my parents to America.
It was extremely painful for my mother to leave her sister
but she felt she had no alternative.
(They have, however, remained very close and felt have seen each other
many times both here and in Israel. )
I have always found my mother’s choice and the context from
which it emanated remarkable.




(Google 訳)
戦争が終わった後、叔母のフランニアは、パレスチナ/イスラエルに行
きたいと切望していましたが、それは当然のことでした。10年間そこ
に住んでいた姉と合流するためです 。ユダヤ人国家の創設は差し迫っ
ており、フランニアはそこがホロコー スト後のユダヤ人にとって唯一
の安全な場所だと感じていました。

母は反対し、断固として行くことを拒否しました。
母は私の人生の中で何度も、イスラエルに住まないという決断は、
戦争中の経験から学び強化された信念に基づいている
と私に話しました。

それは、寛容、思いやり、正義は、自分の仲間だ
けで暮らすと実践も拡大もできないという信念です 。

「私はユダヤ人の中でユダヤ人として生きることはできませんでした」
と母は言いました。 「私にとっては、それは不可能でしたし、私が望ん
でいたことでもありませんでした。私は、自分のグルー プが私にとっ
て重要でありながら、他のグルー プも私にとって重要である多元主義
社会でユダヤ人として生きたかったのです 。 」

フランニアはイスラエルに移住し、両親はアメリカに移住しました。
母にとって妹と別れるのは非常に辛いことでしたが、他に選択肢がな
いと感じていました。 (しかし、二人はとても親しい関係を保ってお
り、こことイスラエルの両方で何度も会っていると感じています 。 )

私はいつも、母の選択とそれが生まれた背景が注目に値するものだと思
っていました。

  

誤って削除してしまい、再投稿です。