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もうひと月以上も経ってしまった。11月、長浜 奈津子 (Natsuko Nagahama)さんの朗読を聴きに、成城学園前のアトリエ第Q藝術を訪れた。
長浜さんが、俳優座の全国ツアー「人形の家」を終えてほどなく、華やかな大舞台とは真逆の小劇場は、長浜さんを待つ椅子一脚を見守る人々で、すでに埋め尽くされていた。
共演は、バイオリニスト・喜多 直毅 (Naoki Kita)さんただ一人。
語られるのは太宰治の「人間失格」。
喜多さんが下手に立ち、上手の椅子に長浜さんが腰掛けると、空気がぴんと張り、客席が息を詰める。
登場人物たちが、ぽつりぽつりと語り始める。
和服姿の長浜さんは、衣装を変えるわけでもなく、ことさらに声色をつけるのでもない。でも、みるみる「姿が変わる」。登場人物が魂を得て、長浜さんの体を使い始める、その臨場感に、観客は飲み込まれる。
そして、喜多さんのバイオリンが、時に軋み、時に澄み切って、それらの魂を加速させ、火をつけ、みずから命を得て叫び始める。
「おとがたり」という女優とバイオリニストの共演は、「音」と「語り」ではない。バイオリン自身が語り、もがき、語りは徐々に音楽に変わる。長浜さんと喜多さんの、どちらが力尽きてもおかしくない一騎打ちだとわかってくる。
一番印象深かったシーン。酒に溺れてついに雪の上で喀血した主人公が、薬屋に助けを求めて駆け込む。薬屋の女店主は、主人公の病み果てた姿に驚いて立ち竦み、酒をやめるようにと言い聞かせる。女店主は主人公のために必要な薬を見繕い、「どうしても酒が飲みたくて我慢できなくなった時には、これを使うように」と言って、最後にモルヒネを渡す。
薬屋のひんやり薄暗い空気の匂いがし、そっとその包みを差し出す女店主の姿が、それは本当は長浜さんなのだが、自分の目の前に現れる。心臓を掴まれたように衝撃的だった。
抵抗のしようもない転落、人生の恐ろしさを突きつけられて、あの時客席の誰もが息を止めたのではないか。
実のところ、太宰治は、私には少し苦手な作家だった。実家の本棚にあった何冊かは、中学に上がるくらいまでには読んでしまったのだが、太宰の作品は好きになりきれなかった。10代の自分には、太宰は頼りなくて、その頼りなさが煩わしかった。
太宰の文章は読点に特徴がある。読んでいると、読点のリズムが書き手の浅い呼吸に同調させて、不安を掻き立てる。
原文の特徴を生かしつつも、長浜さんの落ち着いた深い声質は、その苦しさを和らげて、以前読んだ時には通り過ぎてじった、主人公をめぐる女性たちのつつましい愛情や、かすかなユーモアに気づかせてくれた。
舞台の感激を少しでも持ち帰りたくて、帰りに受付で喜多さんにCDを一枚選んでいただいた。帰って、CDをプレイヤーに載せながら、モノクロのジャケット写真が、津軽の海辺であることに気づいた。「おとがたり」は、最後まで手の込んだ仕掛けに満ちていた。
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