某の日々是好日

本来無一物。身一つあれば何とでもなる

山内一豊誕生地

2020年02月15日 17時00分00秒 | 史跡めぐり


山内一豊誕生地。
   
山内一豊は天文一四年(1545)岩倉城の家老山内但馬守盛豊の二男として、この地に誕生した。
大正八年(1919)二月神明生田神社の遷座式に一枚の棟札が発見され、これが一豊のこの地での誕生の有力な資料となり、山内家では史家沼田頼輔文学博士に調査を行なわせ、岩倉のこの地を一豊誕生の地と認め、ここに贈従三位山内一豊公誕生地の碑を建てた。
父盛豊は岩倉城落城(永禄二年三月)のとき戦死。一豊一五歳の時であった。その後、一豊は家臣の五藤浄基が供で母や弟妹と共に刈安賀の城主浅井新八郎政高の許に身を寄せ、しばらくして牧村政倫のもとに寄寓。ついで山岡景隆に仕え、永禄十年(1567)~元亀元年(1570)頃織田信長に仕える。天正一二年(1584)には長浜で五千石の領主となり、同一八年(1590)遠州掛川に移封六万石の領主となった。秀吉の死後徳川家康に味方し、慶長五年(1600)四国土佐で二〇万二千六百石の領主となり、高知城を築城。そして五年後の慶長一〇年(1605)九月二一日一豊没す。享年六一歳(案内板より)。






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岩倉城跡

2020年02月15日 15時00分00秒 | 史跡めぐり


岩倉城跡。
    
岩倉城は文明十一年(1479)頃 織田伊勢守系の兵庫助敏広が築城した。敏広はこの城によって、尾張上四郡(丹羽・葉栗・中島・春日井)を支配し、下四郡(愛知・智多・海東・海西)を支配する清洲城の織田大和守敏定に対し武威を示し、当時の尾張では清洲城と並んで、もっとも重要な城であった。
城跡は東西約91m、南北約171m、標高10m台地上にあって、内外二重堀があったといわれ、城跡の南側には外堀とか丸の内といった地名も残されている。
岩倉城は引治三年(1557)織田伊勢守信安が末森城主織田信行(信長の弟)と同盟を結んでいたということで、信長に攻められ、その後、永禄元年(1558)の浮野合戦で敗れ、翌二年三月遂に落城した。
本丸跡の「織田伊勢守城址」の碑は安政七年(1860)に建てられたものである(案内板より)。






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浮野古戦場

2020年02月15日 14時00分00秒 | 史跡めぐり


浮野古戦場。
    
永禄元年五月二十八日 二千余騎をひきいた織田信長は 岩倉城主織田伊勢守信安を攻撃のため浮野へ陣を進めた
この日は小競合いの瀬踏み程度に終ったが つづいて七月十二日犬山城主織田十郎左衛門が千騎ばかりを従えて馳せ加わったので総勢三千余騎が浮野を中心に争い 死闘二刻に及び首級九百余を討ち取った これを浮野合戦と呼び この首級を埋めた地(通称浮剕首塚)に建碑した(碑文より)。
  



 
「信長公記」によると、
    
「浮野合戦の事」
一、七月十二日、清洲より岩倉へは三十町に過ぐべからず。此の表、節所たるに依つて、三里上、岩倉の後へまはり、足場の能き方より浮野と云ふ所に御人数備へられ、足軽かけられ候へぱ、三千計りうきうきと罷り出で、相支へ候。
一、七月十二日午の剋、辰巳へ向つて切りかゝり、数剋相戦ひ追崩し、爰に浅野と云ふ村に、林弥七郎と申す者、隠れなき弓達者の仁体なり。弓を持ち罷り退き候ところへ、橋本一巴、鉄炮の名仁、渡し合ひ、連々の知音たるに依つて、林弥七郎、一巴に詞むかけ候。「たすけまじき」と、申され候。「心得候」と申し候て、あいかの四寸計りこれある根をしすけたる矢をはめて、立ちかへり候て、脇の下へふかぶかと射立て候。もとより一巴もニツ玉をこみ入れたるつゝをさしあてて、はなし候へぱ、倒れ臥しけり。然るところを、信長の御小姓衆・佐脇藤八、走り懸かり、林が頸をうたんとするところを、居ながら大刀を抜き持ち、佐脇藤八が左の肘を小手くはへに打ち落す。かゝり向つて、終に頸を取る。林弥七郎、弓と太刀との働き比類なき仕立なり。
 さて、其の日、清洲へ御人数打ち納れられ、翌日、頸御実検。究竟の侍頸かず千弐百五十余りあり。




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