なかよしだ!きっず

益田市立吉田小学校の広報委員会の運営する「なかよしだ!きっず」ブログです。

秦佐八朗

2011-09-27 15:35:52 | 6年生
 みなさんは、秦佐八朗さんを知っていますか。
 秦佐八朗さんは、明治6年3月23日に益田市美都町に生まれました。明治10年5月に、美都小学校に、入学して明治19年に卒業しました。明治29年岡山第3高等中学校を、卒業する。
 明治41年に、ドイツに3年間留学する。
 そして、昭和13年11月に、死去りました。
 でも、益田市には、こんな有名な人がいたので、ぜひ、みなさんもきてください。
 

秦 佐八郎さん

2011-09-27 15:35:01 | ニュース・今日の出来事
みなさんは、秦佐八郎さんを知っていますか?
秦佐八朗さんは、男子8人、女子5人の家に末っ子としてうまれました。
生まれた場所は、『島根県益田市美都町』です。
もとx2は山根という名前だったけど「秦」家に養子としていった為
秦という名字になりました。養子となったのは、明治20年です。
その後私塾にはいりました。明治23年に岡山に出て、第三高等学校医学部に入学し、
その後結婚しました。
学校を卒業したあと、岡山の病院で働くようになりました。
研究所に入所、数年後、サンバルサン606を作成しました。
僕は、この人みたいに、ひとを助けれるようになりたいです。
 

漢検★

2011-09-27 15:26:14 | 広報委員会
こんにちは~
土曜日にあるピアノの時、ピアノの先生が、夏休み中の受けた漢検の結果が、返ってきました~
結果は・・・
なんと合格
一緒に受けた嵐も受かりました~
私と嵐が受けた級は、5級
小学6年生の漢字です
難しかったけど練習して良かった~

じゃあ、次は4級?
と思うかも知れませんが・・・
次は、数検6級(小学6年生レベル)を受けたいな~
とは思っているので、次は数検6級の練習を頑張ります
では・・・バイバイ


          翔大好き

グラントワについて

2011-09-27 15:24:50 | 6年生
 益田市は、グラントワが、有名です。
 グラントワは、社団法人建築業協会が、全国のすぐれた建築物を表彰する、第48回BSC賞を受賞しました。瓦は、石州瓦独特の赤瓦が28万枚も使われています。館内には、石見美術館などが備けられています。大ホールには、有名人の方がたくさん来てくださっているそうです。                               みなさん、近くに来たらグラントワに行ってみてください。

秦 佐八郎博士の話を聞いて

2011-09-27 15:11:45 | 6年生
 今日2時間目に、秦佐八郎さんの話を聞きました

 秦さんは世界で初めて科学の力で薬を生み出しました。秦さんは医というのは『他の為に生して己の為にせず、これ即医業の本体なり』この意味は「医者というものは自分の儲けのためや、自分の身分を高くするためではない。人の命を守ったり、人の苦しみを和らげたり、健康にしてあげるための仕事である。」という意味の言葉を残しました。サルバルサン606という薬をノーベル医学賞を受賞したエールリッヒと一緒に3年間研究し、この薬医を生み出しました。
 その後、病院で倒れ、昭和13年に65歳で亡くなりました。

秦 左八郎さんのすごいところ。

2011-09-27 15:10:01 | ニュース・今日の出来事
 みなさんは、秦 佐八郎さんについて何か知っていますか。 
 秦さんは、明治6年の3月に生まれ、8男として生まれたそうです。そして、美都から匹見へ匹見から、岡山へ行き、医者になるための勉強をしました。なぜ、岡山まで行かないといけないかというと、大きな学校は6つしかなくてその内の1つが岡山だったからです。
 大人になり、恐ろしい菌の研究に成功し、努力が認められ、東京へ行き、ドイツへ留学を3年間しました。そこで、ノーベル賞をもらったことのある、エールリッヒという人と研究しました。そして、研究に成功し、ドイツで発表しました。
 秦 佐八郎さんの 医というのは「他ノ為ニ生シテ己ノ為ニセズ、コレ即医業ノ本体ナリ」という言葉があります。これには、意味があります。医者というものは自分の身分を高くするためではなく、人の命を守ったり、苦しみをやわらげたり、健康にしてあげるための仕事であるという意味があるそうです。 
 だから、医者というのは簡単にはなれないと思いました。

この人は、益田の素晴らしい人です。

益田の秦さん

2011-09-27 15:06:39 | 6年生
 今日、2時間目に秦佐八朗さんについての話を聞きました。
 皆さんは秦佐八朗さんを知っていますか。
 佐八朗さんは益田市の美都町に生まれ、たくさんの兄弟に囲まれて育ち、お母さんが優しく育ててもらったそうです。そして、14歳になったときに、勉強ができるのならと養子をお父さんに進められました。佐八郎さんは悩んだそうです。医者になることを決意して養子になることも決意したそうです。でも、医者になるための勉強ができるところが近くて岡山にあったそうです。佐八郎さんの時代は、車も無かったそうです。益田市美都町から岡山県まであるいっていったそうです。18歳の時に岡山大学医学部に入ったそうです。学校の教科書に載っていない事も他の資料で努力したそうです。伝染病の研究も8年間もやったそうです。そして、34歳でドイツへ留学したそうです。サルバルサンという薬を見つけたそうです。その後も色々な薬品も調べていき、人々の難病も治していったそうです、
そして、65歳で亡くなったそうです。


益田には、秦佐八朗さん以外にも雪舟さん・柿本人麿さんにも関係したまちです。

秦佐八郎さん

2011-09-27 15:04:45 | 6年生
 みなさんは、秦佐八郎さんを知っていますか。秦佐八郎さんは、明治6年3月23日に美都町都茂で山根家の八男として生まれました。子供のころは、わんぱくで「がきたいしょう」でした。いたずらをすると、お母さんは「さあさんや、ちょっとくらの2階へ来てやんさい」と呼び、優しく静かな声で言い聞かせたそうです。そんな佐八郎さんが、ノーベル医学賞こうほにもなるなんて、このときだれが思ったのでしょうか。そして、明治20年、佐八郎さんが14歳のときに秦家の養子になったのです。
 明治23年に佐八郎さんは、岡山へ行きました。当時は、列車などなかったので大変なことでしたが、佐八郎さんは、がんばって歩いていき、私立岡山医薬学予備校に入学し、岡山第三高等中学校医学部へ入りました。そこで、佐八郎さんは、たくさんの勉強をし、教科書に書いていないことも、他の資料で調べました。やがて、先生も知らないことも知るようになったことから「秦は天才だ、秀才だ」などと言われるようにもなりました。
 佐八郎さんは、その努力が認められ、北里柴三郎博士のもとでペストの研究をし、ドイツに留学すると次は、エールリッヒ博士のもとで梅毒について研究をしました。そこで、佐八郎さんは、魔法の弾丸ともいわれる世界初の化学による薬、サルバルサンを開発したのです。
 そうして、秦佐八郎さんは、益田の秦、島根の秦でもない、世界の秦になったのです。


 わたしは、この二学期に秦佐八郎さんの生まれ育った美都町に行きます。美都は、ゆずの生産地として益田でも人気で、温泉もあり、とてもいいところです。みなさんもぜひ益田自慢の美都町へ来てみてください!

秦佐八郎さんを知っていますか?

2011-09-27 15:01:35 | 6年生
秦佐八郎さんは明治6年3月に美都で生まれました。
ドイツに恐ろしい菌があり秦佐八郎さんは8年間研究をしました。
その菌は肉がくさる病気がはやっていて痛くはないけど歩くたびに肉が破れるという病気がはやっていたそうです。
秦佐八郎さんは8年間研究をしてやっと薬ができたそうです。
秦佐八郎さんは、山根家から秦家へいく決心をしました。そして、秦佐八郎という名前になりました。秦さんは8年間薬の研究をしてあきらめず頑張っていてすごいとおもいました。8年間もしていたらあきらめようと思うことがあったと思うけどあきらめずにがんばったおかげで薬ができたとおもいました。
秦佐八郎さんは、昭和43年11月22日65歳で亡くなりました。


 益田に来たときは、ぜひ、秦佐八郎記念館に来てください!

秦佐八郎さん

2011-09-27 15:01:35 | ニュース・今日の出来事
 皆さんは、秦佐八郎さんを知っていますか                     佐八郎さんは、益田で生まれました。佐八朗さんは、18才の時に岡山大学医学部にはいりました。秦さんは、ドイツに6年間留学していて、梅毒とゆう、病気を研究をして  606サルバルサンを、開発しました。
 梅毒とは、アメリカで流行した肉腐るという怖い病気です。バルサンは魔法の弾丸とまでゆわれるほど効き目がありました。
秦さんは、それでノーベル賞のこうほまでえらばれました。益田の秦さんとまでいわれました。 

益田の有名人

2011-09-27 15:01:21 | 6年生
 みなさんは益田の有名人、秦佐八朗という方を知っていますか。
 秦佐八郎さんは現在の益田市美都町で生まれました。
 佐八朗さんは14才で医者を目指したそうです。そして、養子にいきました。

 4年たって18才になると岡山大学医学部に入り、教科書や医療に関する資料などを使って一生懸命勉強していました。この成果で伝染病気研究所に入りペストの研究を8年間続けてきました。そして、ドイツのエールリッヒ博士が佐八朗さんにドイツへきてほしいということでドイツへ向かいました。
 37才で「サルバルサン」という薬を発明しました。
 こうしてたくさんの出来事をおくってきた秦佐八朗さんはこの一生を昭和13年11月22日になくなってしまいました。この時佐八朗さんは65才でこの一生をとげました。


こんなすごい方が益田にいることを沢山知って、ふるさとの良さを紹介していきましょう。

知っていますか?

2011-09-27 14:59:45 | 6年生
 今日、学校に秦 佐八郎さんについてお話をしに、美都の「秦 佐八郎記念館」から来ていただきました。
 秦佐八郎さんは、現在の美都出身の方です。
佐八郎さんは、山根家の8男目に生まれました。そして、名前も佐八郎となりました。
 14歳になったとき、遠い親戚の秦家が「あとつぎが、いないから佐八郎をくれんか、立派な医者にするため勉強させるから」と言ってきました。
佐八郎さんは、今いるにぎやかな家をはなれるのがさみしくてどうしようかと考えていました。そして、「人のためにがんばって勉強します」とようしになりました。
 18歳のとき岡山大学の医学部に入りました。かっけになるほど勉強しました。
 明治31年に8年間ペスト菌の研究をしました。 
 明治43年バルサルサンを発見し、そのころ流行っていた梅毒などの病気を治しました。
 ノーベル医学賞の最終試験に行きましたが、取ることができませんでした。
 昭和43年11月22日65歳でなくなりました。

 
 もし、益田に来たときは・・・ぜひ、秦 佐八郎記念館に来てください!

益田の秦 佐八郎さん

2011-09-27 14:59:45 | 6年生
 今日、総合の時間で益田の医学者、秦 佐八郎さんについて勉強しました。
 皆さんは、秦 佐八郎さんのことを知っていますか。秦さんは、明治6年に山根家の8男として生まれ、14歳の時に秦家に養子に行きました。
 それから、秦さんは医学者になるために18歳のときに岡山県にある医学部に入りました。秦さんはとても勉強をする努力家で、夜も勉強をし、「かっけ」という病気になるほどだったそうです。
 そして、明治31年8月に伝染病研究所に入り、ペストというおそろしい病気の研究を8年間にもわたり、しました。
 34歳のころにはドイツへ留学し、「梅毒」という病気を3年間という短い間でやり、ついに世界で初めての科学りょうほう、「サルバルサン」という薬を発見したそうです。その後、秦さんはノーベル賞の候補になりました。
 秦さんが残した言葉は、
 医というのは「他のために生して己のためにせず、これ即医業の本体なり」という言葉です。この言葉は、今の医学にも受け継がれています。


このように、益田にはこんな有名な人がいました。このほかにもたくさんの魅力があります。ぜひ、益田に来てみて下さい!