3・11、東北新幹線内での被災と避難の記憶
平成23(2011)年3月11日 14:46
東日本大震災
東北新幹線仙台駅通過後の第4三本木トンネル内での被災と避難
後編
<2011年3月12日12:00頃・避難所を去る>
昼前、大泉さんが奥さんと車(ランドクルーザー・3ドア四駆・ディーゼル車)で到着した。現状を説明したが、ここにいても結果が見えないのでいっしょに行きましょうと言われ、避難所の人たちと別れて出ていくことにした。
「お腹空いてないですか。これ食べてください。」
迎えにきてくれたせめてものお礼に、先ほど避難所でもらったパンを渡した。大泉夫妻は食パンを分け合って美味しそうに食べた。昨日盛岡で地震が発生したあと店が閉まってしまい、何も食べていないということだった。
避難所を後にして仙台方面に向かうが、車の量は少ない。信号機は点いておらず、道路には亀裂が入った箇所があり段差が所々にある。家は倒壊していないが瓦が崩れている。しばしばガソリンスタンドに行列を見かける。ランドクルーザーは盛岡を出る際、軽油を満タンにしてきていたが給油しておきたかった。
大泉さんが昨日タイミングよく手に入れていた自動車の電源を使用した携帯充電器を借りて、会社と自分の携帯を充電した。
<2011年3月12日13:00頃・仙台市内>
仙台市内は停電している区画と電気がついている区画がある。街中のコンビニは営業しており店の外まで列が出来ている。だが避難しているというイメージがない。若い人がコンビニ袋をぶらさげて携帯電話をいじる風景を目にし違和感を覚えた。街中では、理髪店の電動ポールが回転し営業しているように見える。また地震によるものなのか古いからなのか判断がつかないが、壊れそうな自転車屋がパンクの修理をしている。しかし地震で病院の煙突が倒れ通行止めになった場所があり迂回路が設定されている道路もある。日常と震災時の非日常が入り混じった状態で、一見すると大きな混乱があるようには見えない。
大通りを行くと路面店の自動車ショールームなどの大きなガラスが割れている。ユニクロで普段着など着替えを購入したかったが閉まっており、ほかの店も本日休業の貼り紙がしてある。ガソリンスタンドが稀に開いていると行列ができている。
<2011年3月12日14:00頃・角田方面に向かう>
津波が国道6号を越えたという情報があり、4号線を使い角田市方面から大泉さんの自宅がある新地町へ向かうことにした。
進むにつれて道には亀裂が多くみられるようになる。橋と道路のつなぎ目がズレて段差になっている箇所がありゆっくりと通過する。空は多賀城市のあたりから立ちのぼる火災の煙と雲が上空でひとつになり奇怪な景色になっている。通り過ぎる道なりに佇む農家もやはり停電しておりひっそりしている。道路の陥没した箇所に危険を示すポールの置かれているのが目立つ。
午後2時過ぎ車載ラジオで福島第一原子力発電所で水蒸気爆発が起こったというニュースが流れた。地震発生以降テレビを見ておらずラジオ放送もなかなか聴ける状態になかったため甚大な被害を結びつけて理解できていなかった。しかし、様々な場で発生している悲惨な状況についてあらためて実感した。
大泉宅のある新地町は福島第一原発の双葉町の方角にあり、今後の状況によっては被曝も免れない可能性があった。大泉夫婦は自宅のことが気になるので様子を見に新地町へ行きたいと主張し、もしもの場合も考え私には海側と鹿狼山に隔てられた角田に留まる方が安全なのでそうしてくれと言った。再び避難所に行くのは気が引けたが、同行しても足手纏いになるかも知れず角田に留まることにした。避難所の運用はまだ進んでいなかったが、どうにか出張などの宿泊客を受け入れていた緑ホテル角田に泊めてもらえることになった。大泉さんは新地町方面がどんな状況か確認し、明日迎えにくると言いランドクルーザーで静かに走り去った。
<2011年3月12日15:00頃・緑ホテル角田①>
ホテルは避難所になっているわけではなく、辛うじて営業しており5,500円を支払い部屋の鍵を受け取った。角田市内は断水のため手を洗う代わりにオシボリを使いトイレは各室のものを使用せず1階トイレを共用する。トイレの水はやはり川から運んでいた。また停電しており照明は消えたままでエレベータも動いておらず、フロア移動は屋外の非常階段を利用した。部屋は2階の一室を利用することになったが、それ以上の階は大きな余震がくると危険なので使用禁止だった。そのため宿泊者の数も限られており混雑している様子ではなかった。
1階エントランスにイスやソファが集められ皆が黙って座っている。片隅に置かれたラジカセからNHKの震災ニュースが流れているが、ときどき聞こえなくなる。
ホテル内は携帯も圏外で、停電のため充電もできない。しばらく2階の個室にいたが、余震がグラグラと繰り返され今にも建物が壊れるのではないかという心持ちになり気味が悪い。他の人たちがいる1階に行くことにした。非常階段を降りながら外に停まっているトラックを見ると、各室で地震のせいで転倒し壊れたテレビや絵画の額が山積みされており、建物に亀裂こそ入っていないが大きな揺れが来たことを示していた。
<2011年3月12日15:30頃・角田の街にて>
街の様子を見るために外に出て移動しながら携帯電話の電波が繋がる場所を見つけることにした。しばらく歩き回ると弱々しいが電波の繋がる場があり、自宅や会社にメールを入れ現状について送信した。
近所にスーパー・マーケットを見つけたので行ってみると閉店しており、明朝8時に「店頭販売」を実施すると貼紙してあった。なぜ今ではなく明朝の開店なのか、明日になり事態が好転するとは思えなかった。飲み物や食糧、できれば懐中電灯や携帯ラジオ、タバコが欲しかったが諦めた。大通り沿いの大型DIY店は閉まっており、コンビニやドラッグ・ストアに行列ができていたが、すでに食料や乾電池は無くなっていた。少し離れた場所で舗道に段ボール箱を出し野天でわずかな食品を販売している人を見つけたので、残っていた煎餅と飴、缶コーヒーを購入することができた。なんとも生き延びるには頼りない食品だが、夕飯の代わりになれば良いと思った。
<2011年3月12日16:30頃・緑ホテル角田②>
ホテルに戻り1階のソファに腰掛けタバコを一服しながら、隣でタバコを吸っている同じような境遇の男性に話しかけてみた。自分の事情も簡単に説明しながら、いつからここにいるのか尋ねると、仙台近くで地震にあいここまで逃げてきたのだという。別の人たちの中には、海側からここまで来たという人もいるらしい。しかしここに泊まっている人たちは車に乗ってきたのではなく、地震発生直後にバスなどを利用して移動してきたようだ。
懐中電灯を購入するためスーパーへ行ったが閉まっていたと話すと、朝のうち開店していたが昼には閉じたという。電池や懐中電灯はすぐに売り切れたそうだ。周りにいる人を見るとペンライトのような小さな懐中電灯を持っており、夜は真っ暗で部屋の鍵穴もわからないと言いニヤリと笑った。夕暮れが近づいていた。出遅れたと思った。
<2011年3月12日17:30頃・緑ホテル角田③>
ホテル内では限られた照明を生かすため自家発電機が使用され、エントランスにはフロアスタンドライトやテーブルライトの灯りが点り仄かな明るさが維持されていた。
午後6時近くにフロント係が食堂で夕食を提供すると伝えてきた。ホテルには夕飯はついていなかった筈だがこの状況を鑑みて臨時で対応してくれたようだ。夕飯は、おにぎりや卵焼き、ウインナーソーセージ、生野菜など簡単なものが用意されており、驚いたことに缶ビールを飲んでくださいと渡された。ありがたかった。食欲はあまりなかったが、疲れ切った体や神経にアルコールが柔らかく染み込んでいくのがわかった。他の宿泊客にも笑顔が広がりしばし安堵感に浸った。
<2011年3月12日20:00頃・緑ホテル角田④>
缶ビールを2本飲み酔っ払った。まだ午後8時前だがあとは眠るだけだった。自室は暗闇のためしばらくエントランスでタバコを吸い寛ぐことにした。しかしラジオは津波の被害や福島第一原発の惨状を流し続けており不安感が忍び寄ってくる。インフラの復旧はいつになるのか、いつになったら家に帰れるのか、先行きが見えないことでせっかく食事で満足したにもかかわらずつい余計なことを考えてしまう。
自室へ戻ることにした。しかし廊下はドアや鍵穴の位置もわからないほどの暗闇だ。携帯電話のバッテリーは残り少ないため電源を切っており使いたくなかった。使い捨てライターで鍵穴を探るがなかなか見つからない。繰り返しライターをつけていると指が熱くなり何度もやり直しやっと開けることができた。我ながら怪しい姿だと思った。
部屋の窓から外を見ると街灯も信号も点いておらず周囲の建物も灯りが無く闇の中にいた。それでも上弦の月が冷たく地上を照らし、山(四方山)の稜線と空の境目がわかった。試しに携帯電話の電源をオンにしてみたが、電波は繋がらずメールも電話もできないとわかった。
もらったお手拭きで顔や体を丁寧に拭き、繰り返し来る余震に心休まらないままベッドに横になった。なかなか寝つけなかったが、酔いと疲れのおかげでいつの間にか眠りに落ちた。
<2011年3月13日06:00頃・緑ホテル角田⑤>
午前4時頃に目を覚ましたが寒いのでベッドから出られなかった。午前6時近くになり夜が明けたのでエントランスに降りてみると、石油ストーブのおかげで暖かかった。
朝の習慣でトイレに行くと、トイレは流す水量が足らなかったため詰まったらしく、ホテルの職員が直して清掃している最中だった。ちょっと動揺したが、食欲がなく少食で普段と違った避難生活をしているせいか、トイレを使いたい気持ちは起こらなかった。
ホテルで朝食におにぎりや漬物などを出してくれた。本当に嬉しかったが、前述のひまわり園のようにここもやがて閉まる可能性があると考えると、安定した時がいつまで続くのだろうと心配ぜずにはいられなかった。その後、ホテルの協力業者と思われる人が、野菜や卵などの食料を段ボール箱に入れ「おはようございます」と勢いよく入って来たのを見て急に勇気づけられた。こんな時は自分を励ますために何がきっかけになるかわからない。電車が動くようになるまでは宿泊を続ける覚悟をしておこうと思った。
ホテルの宿泊費は停電のためカード払いができず、所持する現金も減って来ていた。銀行に預金はあってもキャッシュディスペンサーが止まっていて現金を引き出せず、ホテルのフロント係に平時に戻ったら必ず送金するので宿泊を継続したいと相談した。するとこんな状況ですからとすぐに理解してくれ、ホテルが用意した台帳に日付や住所と氏名、会社名などを記入し登録してもらった。台帳にはすでに数人の名前が書かれおり、同様に支払いを後日送金することになっていた。地震発生から三日目だったが、ホテルの人たちが工夫しながら細かな機転を速やかに効かせていることに感服した。
<2011年3月13日09:00頃・ホテル周辺>
午前9時を回ったので、朝から営業している筈のスーパーマーケットに行ってみるとすでに買い物客がいた。店では販売できるものを入り口付近に出して営業していたが、やはり電池や懐中電灯はなくパンのようなすぐに食べられるものもなかった。別のお店に行ってみたが閉店していた。近くにある工場に通りかかると勤め人たちが徒歩や自転車で続々と集まって来ており、どんな状況でもそれぞれ頑張ろうとしているのだと心強く思った。
<2011年3月13日11:00頃・緑ホテル角田⑥>
午前11時頃、大泉さんがホテルに迎えにきてくれた。
ホテルのフロントに「先ほど宿泊を続けるとお願いしましたが、知り合いが来てくれたので、チェックアウトすることにします」と話すと、「よかったですね」と笑顔で答えてくれた。有難い気持ちでいっぱいになった。
このとき役所からホテルに避難者を受け入れ可能かどうか問い合わせが来た。ホテル側は急な申し入れに咄嗟のことで宿泊客がいるので受け入れはむずかしいと話していたが、厳しい状況を踏まえあまりいい環境ではないがエントランスに12~3名くらいなら居場所を確保できると回答していた。自分はここを出ていくが、予想していなかったことが始まっていると思った。
ホテルを後にする前に、昨日から避難をともにしていた同じ境遇の会社員に挨拶をしたが、彼も「よかったですね」と言ってくれた。この先どうなるのかわからないが、ひまわり園の時と同じように自分だけがこの状況から抜け出し、みんなを残していくようで申し訳ない気がした。
<2011年3月13日12:00頃・角田市役所へ>
大泉さんの話によると、会社の仙台支店で営業担当のS君が地震の後に行方不明になっており、地震発生前に角田市役所に立ち寄ったらしいという。角田市の後どこに行くか話していなかったか確認したいので市役所へ行ってみることにした。
角田市役所では、壊れたもののかたづけや行政機能の復旧対応に追われていた。市役所にはS君と当日打ち合わせをした担当者がいた。S君がどこに向かったかはわからないが、次の現場へ車で移動するという話は出たらしい。大泉さんの考えでは、仙台方面に向かうにせよ、または地震発生後に家族のところへ向かおうとしたにせよ、自動車で国道6号線を使ったと思われるので、その場合は津波にのみこまれた可能性が高いという。暗鬱とした気持ちになった。(後にS君は津波にのまれ亡くなったことがわかりました。ご冥福をお祈りいたします。)
角田市内には倒壊したり損壊した家屋があり甚大な被害が出ていた。常磐線の新地町駅は津波で壊滅状態だと大泉さんが言い、阿武隈急行線の角田駅まで確認に行ったがやはり被害が出ており全線運転見合わせで駅舎は静まり返っていた。ただ駅周辺では微弱だが携帯電話の電波が反応し会社と家族に状況報告のメールを送信することができた。ガソリンスタンドはタンクローリーが来れずガソリンが底をつき開店休業状態であり車による移動に問題が発生していた。角田から十数キロ内陸に入った東北本線の白石駅にも念のため行ってみたが、駅員が一名いたものの運転見合わせで復旧のメドは立っていないという。
帰宅できる可能性は薄れていた。打つ手が無く新地町の杉目にある大泉さん宅へ寄せてもらうため移動することにした。
<2011年3月13日15:00頃・新地町杉目>
陥没したり段差のできた道路を注意しながら新地町へ向かった。通過途中の公園はすでに臨時の緊急災害対策基地化しており、自衛隊や警察、消防車両などが駐車していた。ヘリコプターも飛来しヘリポートもあるようだった。また道路が交差する箇所にはパトカーと警察官がいて規制に当たっていた。群馬県警のパトカーもおり広域で東北地方への協力体制が築かれつつあることがわかった。
小一時間で大泉さん宅に到着した。大泉宅はサイドボードなどの家具が大きく移動したり食器が転がり落ちて割れたりしていたが家そのものの損壊はないようだった。家は高台にあり庭の右手に見える山の向こうは相馬市だった。新地町の山側に家があったおかげで、電気など街への供給元と異なっていたことが幸いし、電気、水道、ガス(プロパンガス)、電話などインフラは問題なく使えた。すぐに風呂に入るよう促された。着替えがなかったので新品の肌着と大泉さんの会社の作業服(サイズがほぼ同じ)を用意してくれた。使い捨て歯ブラシと髭剃りをもらい、久しぶりの風呂に天国気分を味わった。風呂上がりに庭に出て、残り少なくなったタバコを一本吹かした。生きた心地がした。
<2011年3月13日16:30頃・新地町>
ひとごこちつき、大泉さんが新地町の方へいっしょに行きましょうと声をかけてきた。まだ新地町の中心部へ行っていないと言う。大泉宅の軽トラックに二人で乗り込み坂を下り向かった。
国道6号線まで来て車を止めた。道路近くには、傾いた家屋と流されてきたと思われる自動車があった。路上から新地町を臨む。ぬかるんだ土地が開けている。彼方にポツンと駅舎の半壊した階段が見える。それ以外に何もない。
日が暮れかかっていた。初めてみる景色なのでもとから水田か荒れ野だったように見える。しかし、ここに街が広がっており友達の家もあったのだと大泉さんが涙で喉を詰まらせながら話してくれた。惨状は想像していたが恐ろしくて見にくることが出来なかったのだと言う。しばらく無言で国道6号線に佇んでいたが、気を取り直して引き返すことにした。
戻る途中で農道の角にビールの自販機を見つけた。明かりが灯っている。試しに千円札を入れてみると問題なく購入できそうなので500ml缶を3本買った。この自動販売機は災害と無関係に利用者が来るのを待っていたのだと思うと不思議な気がした。
<2011年3月13日18:00頃・大泉宅にて>
家に着くと猫が二匹近寄ってくるのが見えた。大泉さんの飼い猫だった。猫は主人の留守宅で地震に遭遇した。家の外にいたのですでに被爆したかも知れないと大泉さんが呟いた。猫たちは大泉さんの作業服を着た自分の足に擦り寄って来た。人恋しいのだ。
大泉さんの奥さんがご飯と漬物、味噌汁を用意してくれ夕飯をいただくことにした。大泉さんが趣味で集めたというコンバット・レーション(戦闘糧食・軍隊の行動中に兵員に配られる缶詰やレトルトパウチによる食糧)もおかずで食べようということになった。先ほど購入した缶ビールを酌み交わしながら新地町や角田市の惨状について思い出して話し合い、仙台支店長にも行方不明のS君のことや自分の避難状況について電話で説明した。携帯電話はソフトバンクはつながったがドコモは繋がらなかった。インフラが使える状態とは言え、部屋の片付けはまだ終わっておらず雑然と物の転がった部屋での食事は腹を満たすというより心に沁みた。
<2011年3月14日08:00頃・被災地を後にする>
翌朝、自宅に戻るための方法について大泉さんと相談した。会津鉄道を利用して東武鉄道まで行けば首都圏に行けるのではないか。朝のニュースでは新潟から東京へ向かう新幹線の試運転を始めるという情報を流していた。やはり新潟まで行けば良いのか。会津若松駅に電話で運行状況を問い合わせてみると、やはり運行の見込みは立っていないという。只見線などのJRも同様だった。
大泉さんに言われ家の裏にあるお地蔵様を見てみると、首の部分から折れて頭が地面に転がっていた。この家が助かったのはお地蔵様が身代わりになってくれたおかげでしょうと大泉さんが言った。そうかもしれないと思った。
結局、福島方面は原発による被害の広がりが不明であり、これを避けて少しでも首都圏に近づくには新潟経由で動く以外にないということになった。会社には新潟経由で戻る旨の連絡をとり列車の運行がなかったり乗れない場合を考えて、念の為、駅近くのビジネスホテルを予約しておくことにした。
奥さんがにぎってくれたおむすびを大切に持ち、午前8時半頃新潟へ向け出発した。行程は白石市を通過して山形の南陽市に入り新潟の関川村方面から新潟駅へ向かう国道113号線を利用するルートを選んだ。かなりの道のりだ。七ヶ宿辺りまでは震災による重苦しさがあり、積もった雪とともに刺々しさを感じた。が、山形県に入り南陽市が近づくにつれ空気が穏やかになり雰囲気が一変した。深呼吸すると穏やかな空気が体内に補填され安心感のようなもので満たされていく。113号沿いの店で缶コーヒーを買ったついでにタバコを売っているところはないか尋ねると、少し戻った十字路の向こうに自動販売機があるとのんびり教えてくれた。販売機まで歩き購入し、その場で静かに煙を燻らせた。普通の生活と日常を感じた。
沿道のガソリンスタンドにはちょっとした列ができていたが、すぐに給油することができた。スタンドの人がタンクローリーが今日から来ていると教えてくれた。福島では軽油は手に入らないと思っていたので、ここで給油できたことは安心感につながった。大泉さんが家に戻る時も給油できそうなので良かったと思った。
関川村あたりは晴れていて地震が嘘のように長閑な景色が広がっていた。こんな事態じゃなければ村上の美味しい地酒を飲みたいですねと残念そうに大泉さんが言う。
<2011年3月14日13:30頃・新潟駅>
午後1時半を過ぎて車は新潟駅南口に到着した。持参してきたおむすびを食べましょうと大泉さんに話しかけたが、持っていってくださいと言う。ありがたくいただいておくことにした。それから大泉さんと別れた。「ありがとうございました。帰り道も気をつけて。奥さんによろしくお伝えください。あとで連絡します。」この震災について二人で経験してきたことがここにあると、あらためて感じた。
駅員に東京方面の新幹線は運行する予定があるのか確認すると、14時半頃発車する列車があると言われみどりの窓口へ急いだ。3月11日の東北新幹線・盛岡行きの切符を見せると、すぐに払い戻してくれて代わりに大宮までの切符をくれた。スムーズな対応に驚き、自分同様被災して新潟まで逃げてきた人たちが他にもいたのだろうと考えた。
発車時刻まで時間があったので、待合室でおむすびを食べた。やっと家に帰れると思うとほっとした。11日から今日までの色々なことが脳裏に去来する。しかし一方で安心するのはまだ早いと頭の中で警鐘がなる。いつ危険な事態に追い込まれるかわからない。家に着くまで緊張感を絶やすわけにはいかない。不安を追い払うため懐中電灯と携帯ラジオを手に入れようと駅に近い家電販売店へ行ってみたが、懐中電灯と携帯ラジオだけが売り切れていた。被災した新地町から250km余り離れた日本海側の新潟市では街行く人の姿や商業施設に異常が感じられない。日常が戻っているのだ。それにも関わらず懐中電灯やラジオは売り切れており、自分も同様だが人の恐怖心や危険から遠ざかろうとする姿勢に圧倒された。
午後2時過ぎに、東京へ行く上越新幹線に乗車できた。しかし発車するまで気が気でない。東北本線も常磐線、阿武隈急行線も全て被災し運休していたからだ。新幹線が動き出すと信じられない気持ちに襲われた。動いていること自体が不思議に思えた。トンネルでは被災した時の車内が頭を過り息がつまる。高崎まで来た時、ようやく安全なところに来た気がした。
午後4時半頃、大宮駅に到着した。自宅へ向かう私鉄は地震の影響で一部区間運行していなかったためタクシーに乗った。いよいよ帰宅できると安堵感に浸ったが、車窓から外を眺めると屋根の棟が崩れている戸建て住宅があった。夕暮れ空を背景にしたその傷跡は異様に見えた。被災地から逃げられたと思ったがそうではなかったのだ。ふと角田のホテルやひまわり園で別れた避難者の人たちのことを思い出し無事であることを祈った。
(大泉さんはしばらく盛岡にある博物館に責任者として勤務した後、大型特殊免許を取得し地元の復旧・復興のために活躍した。おおらかで頼りになる人柄で誰からも好かれる好人物だったが、残念ながら持病の心臓病が悪化し帰らぬ人となった。合掌。)
(後編終了。『3・11、東北新幹線内での被災と避難の記憶』完)