文齋窯の今日この頃

初代 小川文齋伝 その2

文齋窯の小川文齋です。
投稿が遅くなりましたが、
初代 小川文齋伝の続きをいきたいと思います。
 


皆さんは鹿背山という場所をご存じでしょうか?
京都の南端、木津川市にある山です。

古くから一條摂家の所領であった場所です。
(昭和30年頃の鹿背山焼窯跡)
 
文政10年に鹿背山焼北窯が創始した頃、
関白左大臣であった一條忠良は
茶道を通して陶磁器を理解し
鑑賞する機会に恵まれていました。
 
富子夫人は茶陶に造詣の深い熊本藩主細川家の出身であり、
 
一條忠良の姫が嫁いだ岡山藩主池田家は備前焼を持ち
 
母方の里は紀州藩徳川家で、
十代藩主治宝の御庭焼である偕楽園焼で有名です。
 
鹿背山焼の振興に力を入れ名声を高めたのは
関白忠良の次々代、左大臣一條忠香です。
 
前回お話しした弘化二年の禁令の緩みは
鹿背山においても一條家より
南窯の築造許可が出された年でもありました。
 
出願人の豪商吉田茂左衛門は天保十一年、
五条坂窯で雲洞中川利三郎が創製した
日本で最初の銅板染付の独立窯を鹿背山に求めました。

しかし、築窯したものの
焼成は思い通りにはいかず、頓挫してしまいます。
雲洞利三郎は打開策を茶碗山の森部佐吉に相談することになります。
 
小川文助は佐吉の助言により
鹿背山の陶窯築造に赴くことになります。

現在の発掘調査の状況がわからないのですが、
丘陵傾斜面を削り階段を作って構築したのでしょうが、
文献には「窯数九箇所を設け」と記載があるようなので
九房からなる登窯であったと思われます。
 
この築窯の成功により、弘化四年、
一條家から褒詞と永世禄を賜り、
御抱陶工として鹿背山にとどまることになりました。


今回は文助が鹿背山に向かう背景がメインでした。
では次回はこの続きを書きたいと思います。

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