鞄を持って当たり前のように帰ろうとしていたサイラスは、アンジェリカに見咎められると、ギクリと足を止めて振り返り、きまり悪そうに笑いながら頭をかいた。
「ごめん、今日は研究所に行きたい気分なんだよね」
「じゃあ、気分を切り替えてください」
アンジェリカは冷ややかに言い放った。何かにつけて研究所に逃げ込もうとするサイラスに、彼女は次第に強気な態度を見せるようになっていた。助手としての使命感がそうさせているだろう。それでもサイラスにはあまり効果はなかった。笑顔のまま、のんびりとした口調で、のらりくらりと反論する。
「別に今日中にやらなくちゃいけないものでもないよ」
「でも、あしたはあしたで課題の採点がありますから」
「そうだね、じゃああしたは今日の分まで頑張るよ」
「もう……」
アンジェリカは口をとがらせて膨れ面を見せた。
たいてい彼女の方が折れることになる。ジークのように正面きって言い返してくる相手には強いが、サイラスのように微妙に論点をずらしてかわす相手には弱いのだ。もっとも今日の場合は、あまり切羽詰まった状況でないため、しつこく食い下がらなかったというのもあるだろう。
とりあえず彼女の優しさに感謝しつつ、サイラスはニコニコしながら手を振って、アカデミーの狭く散らかった自室をあとにした。
特に何かがあったわけでなくても、気分が乗らない日というのはある。
そういうとき、サイラスはなるべく無理をせず、可能であればそこから離れるようにしている。つまりは気分転換である。その方が効率よく進められると思うのだが、アンジェリカの賛同はなかなか得られなかった。気分転換自体は否定しないが、その気分転換が多すぎると言うのだ。確かにそれはもっともだと納得するものの、あまり反省はしておらず、怒られながらもこうやって逃避を繰り返しているのである。
日は傾きつつあるが、まだ空は青く、空気も暖かいままだった。
アカデミーを出たサイラスは、大きく深呼吸をして凝り固まった背筋を伸ばすと、研究所に向かって歩き出した。教師としての仕事や雑務が多いため、日が落ちてから研究所に向かうことが多く、明るいうちにこの道を歩けるのは、今日のように仕事を放り出してきたときくらいである。残してきたアンジェリカには悪いことをしたと思いつつも、この開放感に幸せを感じていた。
「先生!」
背後から弾んだ声が聞こえて振り返ると、金髪の少年が人なつこい笑顔を浮かべて駆け寄ってきた。その後ろから、小柄な少女もついてきている。
「やあ、アンソニー」
サイラスは笑顔で応じた。少女の方に見覚えはなかったが、少年がユールベルの弟であることはすぐにわかった。サイラスは人の顔を覚えるのは得意な方ではないが、その人目を引く容姿のせいか、一度会っただけにもかかわらず強く印象に残っていた。
「今から研究所へ行くの?」
「そう、君は学校帰り?」
「そんなところ。ちょっと遠回りして寄り道してたけど」
身長はサイラスと変わらないくらいだが、屈託なく答える表情は年相応に子供であり、サイラスは少しほっとしていた。ユールベルの家で見たときの彼はやけに大人びていて、時折、ふと深く仄暗い何かをその瞳に覗かせることもあり、何となく気になっていたのだ。
アンソニーは隣の少女の肩を引き寄せて続ける。
「紹介するよ、こっちは僕の彼女のカナ=ゲインズブール、そしてこちらが魔導科学技術研究所の研究員で、アカデミーの教師も兼務しているサイラス=フェレッティ先生。姉さんがお世話になってるんだ」
「こんにちは」
「初めまして」
緩いウェーブを描いた茶髪をふわりと弾ませ、カナは膝を折って可愛らしく挨拶をした。見ているだけで幸せが伝わってくるかのような笑顔を見せている。マシュマロのように甘く柔らかい雰囲気の子だとサイラスは思った。
「あのさ……先生、ちょっと時間ある?」
「いいけど、どうしたの?」
躊躇いがちに尋ねてきたアンソニーを見て、サイラスは不思議そうに尋ね返す。しかし、彼はそれには答えず、隣のカナに申し訳なさそうな顔を見せながら、その顔の前で左手を立てて片眉をひそめた。
「ごめんカナ、今日は先に帰ってくれる?」
「えっ? あ……うん、わかったわ」
突然のことに、彼女は一瞬だけ戸惑いの表情を浮かべたが、すぐにエメラルドの瞳をくりっとさせて素直に頷いた。アンソニーの腕からぴょんと飛び出すと、短いスカートをひらめかせながら振り返り、屈託のない笑顔を見せる。
「じゃあまたあしたね! 先生もさようなら。今度はゆっくりお話したいな」
会ったばかりのサイラスにも気後れすることなく、彼女は人なつこく挨拶をした。サイラスもつられるように笑顔になって、丁寧に挨拶を返した。
…続きは「遠くの光に踵を上げて」でご覧ください。
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