「東京ラビリンス」第3話・互いの秘密

　ピンポーン――。
　広くはないアパートの部屋に、電子的なチャイムの音が響き渡った。
「はーい」
　誠一は軽い調子で返事をすると、読んでいた新聞を床に置き、はやる気持ちのまま足早に玄関へと向かう。その日は非番だったため、洗いざらしのシャツにジーンズというラフな格好ではあるが、清潔感を損なわないよう、それなりにこざっぱりと身なりは整えてあった。
　それというのも、澪が来ることになっていたからである。
　平日なので学校を終えてからになるが、ここ、誠一の部屋で一緒に過ごそうと約束していたのだ。澪はまだ高校生なので、夜までというわけにもいかず、いられるのはせいぜいが一時間ほどである。それでも、互いの休日が重なることの少ない二人にとっては、切り捨てることのできない貴重な時間だった。
　誠一は鍵を開けてドアノブをまわす。
　他に尋ねて来る人間に心当たりもなく、ちょうど予定の時間だったこともあり、澪が来たのだろうと疑いもしなかった。何の警戒もなく、大きく扉を押し開く。
　だが、そこにいたのは、外見だけはよく似た別人だった。
「……遥？」
　予想外のことに混乱して、誠一は目をぱちくりと瞬かせた。あたりを見まわしてみるものの、彼ひとりきりで、澪と一緒に来たというわけではないようだ。訝しげに眉を寄せると、それに答えるように、遥は無表情のまま口を開く。
「会いに来るなら非番のときにしろ、って言ってたから」
「それは、そうだが……どうしてここを知ってるんだ？」
「澪に聞けばわかるって言ったの、誠一だよ」
　確かにその通りであるが、職務中に押しかけられると迷惑だと言いたかっただけで、家に来てほしいなどと思っていたわけではない。第一、あれからまだ二日しか経っておらず、来るにしても早すぎだと言わざるをえない。
「それで、何の用だ？ まだ話があるのか？」
「せっかく来たのに、上げてくれないの？」
　まるで小さな子供が何かをねだるときのように、遥は大きな瞳でじっと見つめて尋ねた。さっさと話を終わらせて帰ってもらうつもりだったが、やはり一筋縄ではいかないようだ。誠一の表情に抑えきれない苛立ちが滲んだ。
「これから澪が来るんだよ」
「だから追い返すつもり？」
　どうやら遥はそう簡単に諦めるつもりはなさそうだった。口では彼に敵わない。他の住人の目もある玄関先で、いつまでも不毛な押し問答を続けるわけにはいかないだろう。
「澪が来るまでだぞ」
　誠一は溜息まじりにそう言うと、入口を塞いでいた自分の身を退けて、不本意ながら、独り暮らしの部屋へ彼を招き入れた。

　遥は何の遠慮もなく中へ進むと、スクールバッグを下ろして、小さな丸テーブルの前に座る。わかっているのかいないのか、いつも誠一が使っているクッションを、ちゃっかりとその下に敷いていた。
「僕はコーヒーでも紅茶でもどっちでもいいよ」
「……待っていろ」
　誠一は完全に遥のペースに巻き込まれていた。深く溜息を落とすと、すぐそばの流しに向かい、ヤカンに水を入れてコンロの火にかけた。

「遥、言っておくが、澪と別れるつもりはないからな」
　誠一はマグカップを棚から取り出しながら、低い声でそう切り出した。
　遥が今日ここへ来たのは、おそらくその話に決着をつけるためだろう。だから、先手を打って、自分の気持ちを伝えておこうと考えたのだ。澪が苦しむことになると言われて、多少は悩んだが、澪本人に無断で別れを決めるなど出来るはずもない。そもそも、この話自体が、遥のハッタリである可能性も捨てきれないのだ。
「ねえ、誠一の趣味ってゲーム？」
「えっ？」
　唐突にまったく別の話題を振られて、誠一はインスタントコーヒーの瓶を持ったまま、きょとんとして振り返った。いつのまにか、すぐ近くに遥は立っていた。そして、その手には――。
「うわあぁあぁぁっ！！！」
　絶叫ともいえるくらいの悲鳴を上げて、誠一は、すさまじい勢いで遥が持っていた箱を取り上げた。今さら手遅れであるが、とっさにそれを背中に隠す。熱湯と氷水を一気に頭からかぶせられたような、目まぐるしく混乱した感覚が誠一を襲った。
「どこから持ってきた？！」
「寝室の机の引き出し」
「勝手に漁るなっ！！」
　それは、18歳未満が遊ぶことを禁じられている、いわゆる美少女ゲームと呼ばれるものである。パッケージにも、裏側に小さくではあるが、そういうイラストが掲載されている。当然ながら、これがどういうものであるか、遥にも察しがついたのだろう。
「澪はこのこと知ってるの？」
「知ってるわけないだろう。君と違って無断で引き出しを開けたりしないからな。別に隠しているわけではないが、あえて言うようなことでもないし、それに、澪はまだ17歳だし……」
「ふーん」
　その相槌は凍えるほど冷たかった。誠一は唾を飲み、眉を寄せて尋ねる。
「澪に告げ口しようと思ってるのか？」
　二人を別れさせたがっている遥である。こんな格好の材料を逃すはずはないだろう。もしかすると、そういう弱みを探すために、部屋に上がり込んだのかもしれない。
「言っておくが、そのくらいで壊れるような俺たちじゃない」
「そう、良かったね」
　感情のない遥の言葉が、着実に誠一を追いつめる。これしきのことで澪が愛想を尽かしたりはしないだろうが――そう信じているが、何かしら負の感情を持たれることは避けようがなく、そのことを考えると恐怖感は禁じ得ない。
「……あの、遥クン？ やっぱり黙っててもらえるかな。パフェ奢るから」
「自信ないんだ？」
　遥は突き放すようにそう言うと、僅かに顎を上げ、蔑むような冷たい目を向けた。図星を指された誠一は、返す言葉もなく、うつむき加減で唇を固く結ぶ。自分の不甲斐なさに、そして彼の卑怯なやり口に、徐々に苦々しさがこみ上げてきた。

　ピンポーン――。
　本日、二回目のチャイムが鳴った。
　緊張の糸が切れたように、誠一は重い吐息をもらす。
「澪が来たみたいだな。君はもう帰れよ」
　澪が来るまでという条件であり、短かったが、約束の時間は終わりである。持っていたゲームの箱を、扉のついた戸棚に押し込むと、遥をその場に残して玄関に向かった。

「こんにちは」
「いらっしゃい」
　今度こそ、訪問者は澪だった。大きく開いた肩口に、短いプリーツスカートという、やや肌寒そうな格好ではあるが、茶色を基調としたコーディネイトは、十分に秋らしさを感じさせた。
　澪がここに来るときはいつも私服である。そうするように言ってあるのだ。
　制服姿の女子高生に出入りされるのは、さすがに世間体が悪いと自覚している。どんな噂を立てられるかわからない。悪くすれば、通報されてしまうかもしれないのだ。私服であれば、はっきりとした年齢がわからない以上、多少若く見えたとしても、むやみに騒ぎ立てられることはないだろう――。
　澪との交際に問題はないと主張しておきながら、これだけ気を遣っているという事実に、誠一は胸の内でこっそりと苦笑した。遥には絶対に秘密である。人の弱点をとことん衝いてくる彼に、こんなことを知られてしまえば、どんな行動を起こされるかわかったものではない。
　誠一は扉を押さえたまま、澪を中へと促した。彼女は弾むように足を踏み入れ、靴を脱ごうと視線を落とす。そのとき、誠一のものより小さな革靴に気づき、屈んだ姿勢のまま、やや困惑ぎみに誠一を見上げた。
「誰か来てるの？」
　誠一は右手を腰に当てながら、乾いた笑いを浮かべて答える。
「君のお兄さんだよ」
「遥、さっそく来てるの？」
　澪は大きな漆黒の瞳をぱちくりさせた。その口ぶりからすると、遥が彼女にこの場所を聞いたというのは、どうやら本当のことのようだった。

「いらっしゃい、澪もコーヒーでいいよね？」
　湯気の立つヤカンを片手に振り返り、遥は真顔でそんなことを言った。まるでこの家の主であるかのように振る舞っているが、彼がこの家に来たのは今日が初めてである。しかし、澪はこの状況を疑問にも思わず、「うん、ありがとう」と当たり前のように笑顔を返していた。
「……君、何やってるの？」
　誠一は低い声でそう言い、早く帰れと目で訴えた。眉間に深い皺が刻まれる。それでも、遥は少しも意に介することなく、マグカップに熱湯を注ぎながら平然と答える。
「お湯が沸いたから、コーヒー淹れておこうかと思って。マグカップ、二つしかないみたいだけど、誠一の分はどうすればいいの？」
「いいよ、なくて」
　誠一はもう言い返す気にもなれなかった。
　しかし、澪は無邪気に誠一と腕を絡めると、嬉々として声を弾ませる。
「じゃあ、私たち一緒に飲むことにするね」
　彼女の屈託のない明るさは、いつも誠一の救いとなっていた。疲れたときも、沈んだときも、彼女といるとあたたかい気持ちになれる。それは、付き合い始めの頃から、今もずっと変わらなかった。
　澪はふと思い出したように、肩にかけた鞄から、茶色の紙袋を取り出して言う。
「これ、櫻井さんから。マフィンだって」
「ああ、ありがとうと伝えておいてくれ」
「うん」
　櫻井さんというのは、橘家の執事である。老人といっても差し支えないくらいの年配の男性で、澪が生まれるずっと前から、もう何十年も橘家に仕えているそうだ。お菓子作りが得意らしく、これまでも何度か澪が持ってきていたが、実際、どれも本職が作ったものと遜色ないくらいに美味しかった。
「たくさんあるから、遥も食べてね」
　澪はそんなことを言いながら、うきうきと紙袋からマフィンを取り出し始めた。もはや遥に帰れなどとは言えない状況である。誠一は観念して小さく溜息をついた。

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