千尋はもう何時間もそうやってパソコンに向かっていた。ひとり黙々とコードを書き、走らせ、修正し、組み上げていく。遅れているわけではなく、可能なかぎり前倒しで進めるのが千尋の流儀なのだ。
ふう——。
一段落すると、椅子にもたれながら大きく伸びをした。
そのときあくびが出たことで眠気を自覚して、コーヒーを飲もうと傍らのマグカップを手に取るが、すでに中身はなかった。軽く溜息をつき、空のマグカップを持ったままリビングに向かう。
暖房のきいた書斎から出ると、目の覚めるような冷たい空気を肌に感じた。今日はいっそう寒さが厳しい気がする。それでもコーヒーを入れるだけなら、わざわざ暖房をつけなくても大丈夫だろう。
台所でマグカップを洗い、電気ケトルに水道水を入れてスイッチを押す。その場に立ちつくしたまま何気なく視線を上げると、レースのカーテンを引いた窓側がやけに白いことに気がついた。
シャッ——。
窓際に向かい、中央からカーテンを開く。
わずかに結露した窓ガラスの向こうに一面の銀世界が広がっていた。いまも白いものがちらちらと舞い降りている。その景色に、千尋はあらためて季節の移ろいを実感してそっと息をついた。
逮捕されたあの夏の日から、約半年。
ハルナに対する未成年者誘拐罪については不起訴となり、自宅に戻っている。彼女の両親が事を大きくすることを望まなかったらしい。おそらく自分たちの虐待が露見することを恐れたからだろう。
ただ、会社は退職を余儀なくされた。不起訴とはいえ未成年者を誘拐したのは事実であり、社名にも傷をつけたのだから当然だ。懲戒解雇でなく自己都合退職扱いにしてくれたのは、せめてもの温情だと思う。
それでも犯罪者として名前が報道された以上、再就職は容易でない。貯金を切り崩しながら身の振り方を考えるつもりでいたが、ありがたいことに退職後すぐ元上司から仕事の打診があった。
そういうわけで、いまはフリーランスのSE・プログラマとしてやっている。
基本的には在宅だが、開発環境などの関係で短期的に会社に常駐することもある。元同僚たちと机を並べるのはいささか気まずいが、表向きは何も気にしていないかのように平然としていた。
現在はかつての取引先からもいくつか依頼を受けている。単純に収入でいえば会社員のときより多い。以前から堅実な資産運用を続けていることもあり、金銭面での不安はなかった。
気がかりなのはハルナだけだ。
警察に連行されたあの日からハルナとは一度も会っていない。彼女がどうなったのかもわからないままだ。親元に帰されたのどうかだけでも知りたかったが、誘拐犯の自分に教えてもらえるはずはなかった。
しかし、その気になれば突き止めることは可能だろう。名前や年齢といった重要な手がかりはすでに得ているし、夏の制服から中学校のあたりがつくので、千尋ひとりでも何とかなるはずだ。
ただ、現状を知ったところで自分に何ができるわけでもない。彼女と接触することすら世間的には許されない。もし悲惨な状況にあっても助けられないのだと思うと、知ることが怖くなった。
そのくせ、いつかハルナのほうから来てくれるのではないかと、ほのかな期待を抱いている。だからまわりの住民から白い目を向けられながらも、彼女と暮らしたこのマンションに住み続けているのだ。
もっとも、そのいつかというのは彼女が成人したあとの話である。いくら会いたくても未成年のうちに会いにくるとは思えない。それでは再び千尋が逮捕されかねないとわかっているはずだ。
しかし七年が過ぎるころには、もしかすると千尋のことなんかもうどうでもよくなっているかもしれない。好きなひとや好きなことができて自分の人生を謳歌しているかもしれない。
そう思うと寂しいが、それでも別に構わないと思う。ただ生きていてくれるだけで報われる。幸せになっているなら言うことはない。たとえそこに自分が関わっていなかったとしても——。
カチッと音がして、電気ケトルの湯が沸いたことに気付く。
千尋はレースのカーテンを閉めると台所へ向かい、インスタントコーヒーをマグカップに入れて沸いたばかりの湯を注ぐ。ふわりと香ばしいにおいが湯気とともに立ち上り、気持ちが緩むのを感じた。
ダイニングテーブルのいつもの場所に座り、リモコンでテレビをつけると、ローカルニュースが隣の市で起こったコンビニ強盗を伝えていた。それを聞き流しながらゆっくりと熱いコーヒーを飲んでいく。
そのうちに何となく甘いものが食べたくなり、台所へ向かった。冷蔵庫を開けて薄型のチョコレートをひとつ手に取ると、ふいに背後のテレビから「女子中学生」「自殺」と聞こえて、思わず振り返る。
昨日、市内の中学校に通う女子生徒が、交差点で乗用車に跳ねられて死亡しました。自ら飛び込んだという目撃情報があり、自殺と見られています——女性アナウンサーがそう読み上げたあと、現場映像に切り替わった。
瞬間、千尋は息をのむ。
そこには、ハルナと最初に出会ったあの交差点が映っていた。
背筋に冷たいものが走り、チョコレートが手から滑り落ちてフローリングに転がる。こんなのは偶然だと自分に言い聞かせながらも、じわじわと嫌な汗がにじむのを止められなかった。
それから丸一日、書斎にこもってネットニュースを読みあさった。
いや、読みあさるというよりひたすら探していた感じだ。センセーショナルな事件ではないため世間の関心も低いのだろう。報道の数自体が少なく、その内容もほとんどがごく簡単に事実を伝えているだけだった。
新たにわかったことは、鞄の中に遺書が残されていたということくらいだ。内容は遺族の希望で公開していないものの、原因はいじめではなく、学校関係者もいじめはなかったと話しているという。
その話にますます疑惑が深まった。遺書として両親の虐待のことを書いていたのなら辻褄が合う。ハルナではないと信じたい気持ちと、ハルナかもしれないという不安が、心の中でせめぎあっていた。
ハルナ、おまえはいまどこでどうしてる——?
うなだれながら机に肘をついて両手で頭を抱える。指先に力がこもり髪がくしゃりと音を立てた。そのときふいにくらりと目眩がするのを感じて、ギュッと目をつむってやりすごす。
そういえば、この一日ほとんど飲まず食わずで一睡もしていない。空腹はそうでもないが、体中がカラカラに渇いているし頭脳も疲れて鈍くなっている。そろそろ限界のような気がしてきた。
それでもどうしてもハルナではないという確証を見つけたかった。だが、現実問題としていつまでもこうしているわけにはいかない。仕事も明日には再開しないと間に合わなくなる。
どうすればいい、どうすれば——。
ひどく追いつめられて頭をかきむしるように両手に力をこめたそのとき、とある考えがひらめいた。すぐさまノートパソコンに飛びついて新規タブで有名SNSを開き、キーワード検索を始める。
これまで報道記事ばかり探してきたが、SNSになら目撃者や関係者からの生の情報があるかもしれない。千尋自身は一度もSNSをしたことがなかったため、なかなかそこに思い至らなかった。
女子中学生 自殺
女子中学生 車 事故
中学生 自殺
中学生 車 事故
中学生 車 跳ねられ
思いつくワードで片っ端から検索してみるが、報道記事へ誘導しているものや報道記事を引用しているものが見つかるだけで、有用な情報はなかった。それでもあきらめずに他の検索ワードを考える。
榛名希
心臓が破裂しそうなほどの激しい鼓動を感じながら、エンターキーを押す。
しかし、表示されたのはゲーム・アニメ関係の話題ばかりだった。どうやら似たような名前のキャラクターがいるらしい。思わず舌打ちするが、それだけではないはずだと気を取り直してスクロールしていく。
半年前までさかのぼると、ハルナの公開捜査に関する投稿がひとつ見つかった。「榛名希って同級生やわ」というコメントをつけたうえで、いまは削除されている公開捜査の記事を共有している。
この同級生が、もし女子中学生の自殺についても何か投稿していたら。そう考えて、おそるおそるアカウントを表示してみたところ、今度はコメントをつけずに報道記事を共有していた。
榛名希だとも同級生だとも書いていない。けれど——。
公表されていないから言及できないだけかもしれない。他の投稿から浮いているこの記事をわざわざ共有したのは、やはり同級生だからではないだろうか。そして同級生ならハルナだと考えるのが自然である。
さらにこの子と相互フォローしているアカウントをひとつずつ見ていく。やはり結構な割合のアカウントが自殺の報道記事を共有しており、そのうちのひとりが続けて言及する投稿をしていた。
——前の日は普通に学校に来てたのに、どうして・・・
もちろんまだハルナと決まったわけではない。ただ、この子も同級生だとすればその可能性は格段に高くなった。次第に汗がにじんで息苦しくなるのを感じつつ、グッと奥歯をかみしめる。
さらに相互フォローのアカウントを次々とたどったものの、決定的な情報は見つけられなかった。ひとまず新たな手がかりを探すべくキーワード検索に戻り、必死に想像力を働かせる。
JC 車 ひかれ
いささか微妙な気はしたが、いまは思いついたものをすべて試していくしかない。エンターキーを押して検索結果がずらりと表示されると、その一番上の投稿を目にしてハッと息をのんだ。
——近所でJCが車にひかれたっぽい
文言の下には事故現場らしき写真が表示されている。それがハルナと出会ったあの交差点であることは一目でわかった。日付からいっても、報道されていた女子中学生の自殺で間違いないだろう。
搬送されたあとなのか被害者は写っていない。ただ、アスファルトに残された生々しい血痕とブレーキ痕、あたりに散らばるライトの破片が、ここで事故が起こったという事実を物語っている。
傍らには傷だらけの学生鞄が落ちていた。ハルナが持っていたものと似ている気がしたが、そもそも学生鞄なんてどれもたいして違いはない。他に手がかりがないかと拡大表示して目をこらすと。
ドクン、と大きく心臓が跳ねた。
その学生鞄には小さなペンギンのぬいぐるみがついていた。初めてハルナと出かけたときに買ってやった水族館のおみやげと同じものだ。あのころの彼女はそれをショルダーバッグにつけていた。
トラックパッドにのせた手が震え出す。
女子中学生、原因は公表しないが学校でのいじめはなかった、ハルナの同級生が自殺の報道記事をSNSで共有している、現場はハルナがかつて自殺を試みた交差点、学生鞄についているペンギンのぬいぐるみ——。
ハルナでないという確信がほしくて必死になっていたのに、見つかる情報はことごとくハルナに繋がってしまう。ここまでくるともう認めざるを得ない。やはり、あの自殺した女子中学生はハルナだったのだと。
「うぐっ……うっ……」
目頭が熱くなり、抑えきれない嗚咽とともに涙があふれていく。
こんなふうに泣くのは物心がついてから初めてのことだ。止め方などわからない。ノートパソコンが濡れるのも構わずその上に突っ伏して、ただみっともなく泣き続けるしかなかった。
◆目次:自殺志願少女と誘拐犯
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