瑞原唯子のひとりごと

「機械仕掛けのカンパネラ」第10話 揺らぐ真実



 七海はぼんやりと目を開いた。
 そこは常夜灯のみのともる薄暗い部屋だった。それでも見覚えのない部屋だということはわかる。拓海と暮らしているマンションでもなければ、拓海と泊まっていたホテルの客室でもない。
 どうやら七海はベッドに寝かされているようだ。もぞりと体を起こして一通り部屋を見まわしてみる。ベッドの他にはソファとローテーブルくらいしかない。そのローテーブルには七海が着ていたブルゾンとキャップが置かれていた。
 あっ――。
 それを見てようやく何があったのかを思い出した。武蔵を父親の墓に連れて行き、果物ナイフで刺し殺そうとしたが、逆にそのナイフを奪われてしまった。そして血濡れの真っ赤な手で迫られて――それからの記憶がない。
 布団をまくって自分の体を確認する。衣服や肌のところどころに血がついているが、どこも怪我はしていないようだ。脚がついているので幽霊というわけでもない。おそらく血は武蔵のものではないかと思う。
 ベッドから降りると靴下のまま扉の方へ歩いていき、ドアノブに手をかける。そのとき扉の向こうからうっすらと声が聞こえてきた。音を立てないようそっと顔を寄せて耳をすます。
「それでは、お大事にしてください」
「ありがとうございました」
 ここではないどこかの扉がパタンと閉まり、足音が遠ざかる。
 ひとつは聞き覚えのない声だが、話の内容からすると医者ではないかと思う。礼を述べたのは橘家にいた遥とかいう若い男のようだ。ふう、と小さく溜息をつくのが聞こえた。
「あんまりバカなことしないでよね」
「ッ!!! おい、怪我してんだぞ!」
「自業自得」
 遥と話をしているのは武蔵だ。七海のナイフを掴んで手のひらが切れたので、医者を呼んで治療してもらったのだろう。思ったよりも元気そうで、残念なような安心したような複雑な気持ちになる。
「なんでわざわざ素手でナイフの刃を掴んだわけ? 相手が手練れならともかくただの子供だよ? 攻撃をよけてナイフを叩き落とすとか、鳩尾に一撃入れて気絶させるとか、背後にまわって羽交い締めにするとか、武蔵なら他にいくらでもやりようがあったよね」
「…………」
 沈黙が落ち、七海もそのまま体をこわばらせて息を詰めた。すこしでも物音を立てれば盗み聞きしていることが知られてしまう。息苦しくなってきたころ、ギュッとかすかな音がして遥の声が続いた。
「まさか、殺されてあげようとか考えてたわけじゃないよね?」
「そうはっきりと思ったわけじゃないが……すこし迷った」
「バカじゃない? そんなので罪滅ぼしになると思ったわけ?」
「自己満足だってことはわかってる」
 呆れたような遥の声と、疲れたような武蔵の声。
 刺してはいないが自分が殺したようなもの――墓の前で聞いた武蔵の言い分を思い出す。やはり俊輔を殺したという自覚は持っているのだろう。だが、刺していないという話は信じていいのかわからない。
「だいたい武蔵のせいだなんて確証はないよね」
「でもあのタイミングじゃ、他に考えられない」
 武蔵はそう反論して吐息を落とす。
「俺を逃がした直後だぜ。組織なのか個人なのかはわからないが、公安の人間が犯人と考えるのが自然だろう。国家に対する裏切り行為になるなら、秘密裏に始末されたとしても不思議じゃない」
 七海は眉を寄せる。
 武蔵を逃がしたから国家に対する裏切り行為? 始末された? 急に話が難しくなり頭がこんがらかってきた。武蔵は悪いことをして警察に捕まっていたのだろうか。それを警察に勤めていた父親が逃がしたのだろうか。
 七海の知るかぎり、父親は決して悪事に荷担するような人間ではない。犯罪者の脱走に手を貸すだなんて絶対にありえない。だから、武蔵が勝手なことを言っているだけで事実ではないはずだ。
「あの子のこと、すこし調べたんだけど」
「……何でそんな勝手なことするんだよ」
「橘にも無関係じゃないからね」
 遥が口にした『あの子』とはおそらく七海のことだろう。扉に耳を寄せたまま、ドクドクと鼓動が速くなるのを感じつつ息をひそめる。
「あの子がいま一緒に暮らしてるのは公安の人だよ」
「何だって?」
「それも国家機密に関わる仕事をしてるみたいだね」
「そうか、そいつが俊輔を殺したんだとしたら……」
「拓海はそんなことしない!!」
 頭の血管がぶちぎれそうなほどの激情に駆られて、気付けばバタンと扉を叩きつけるようにして飛び出していた。革張りのソファに並んで座っていたふたりを全力で睨み、こぶしを握り、喉に痛みを感じながらも声のかぎり訴える。
「拓海はお父さんのたったひとりの親友だった! お父さんが殺されてひとりになった僕を引き取って、犯人から守ってくれた! わざわざ僕を死んだことにまでしてくれて!」
「それがおかしいんだよ」
 遥は冷ややかに七海を一瞥し、ゆったりと背もたれに身を預けながら腕を組む。
「たとえば武蔵が犯人だとして、鉢合わせたその場で君の口を封じるならわかるけど、いったん逃げたあとで君の命を狙うのは無意味だ。捕まる危険を冒してまですることじゃない。普通に考えれば、犯人の目撃情報はすでに警察に話しているだろうからね」
 そう言われれば――。
 あのあと警察で犯人のことを聞かれた覚えがある。何を話したかは記憶にないが、聞かれるまま素直に答えたのではないだろうか。当然、犯人の容姿についても話しているはずだ。
「そのくらい公安の人間ならわからないはずがないのに、どうして君を死んだことにする必要があったんだろうね。人ひとりを死んだことにするって相当大変なことだよ。おかしいと思わない?」
「それは、拓海が慎重だから……」
「その慎重な人が、当時と同じマンションに君を住まわせておくのはどういう了見? 本当に狙われてるなら引っ越した方がいいと思わない? いくら戸籍を改竄して死亡したことにしても、同じマンションに出入りしていたら簡単に見つけられるよ」
「そんなの……わからないし……」
 次第に声が小さくなる。
 事件当時、七海たち親子は拓海と同じマンションに住んでいた。七海たちは二階で拓海は一階である。つまり、部屋は二階から一階に移ったものの、事件後も同じマンションに住み続けているのだ。
 彼がどのように考えているのかは知らない。彼なりの考えがあって同じマンションに住み続けたのかもしれないし、あるいは七海と同じように疑問を感じていなかっただけかもしれない。
 けれど――。
 最近、拓海が復讐を妨害するような行動をとっていたことを思い出す。七海が誤解しているだけかもしれない。でもそうでなかったとしたら。そして七海を引き取ったことに何か別の目的があるのだとしたら。
 そんなことはない。
 そんなはずはない。
 自分の思考を打ち消すようにふるふると首を振る。そもそも父親の敵を取ろうと七海に言ったのは拓海なのだ。銃の扱いだって教えてくれた。偽装のためにそこまで面倒なことをするとは思えない。
「真壁拓海が君のお父さんと同じ仕事をしていたのなら、武蔵とも面識あるかもね」
 遥はそう言うとどこからか一枚の写真を取り出した。写っているのは拓海なのだろう。それを無言でぴらりと隣の武蔵に掲げて見せる。
「あ、こいつ俺を捕まえたやつだ」
 見た瞬間、彼は迷いなくそう言い切った。
 遥は写真をガラスのローテーブルに置き、すっと七海の方に差し出す。案の定そこには拓海の姿があった。スーツを身につけているので、通勤中か仕事中に隠し撮りされたものと思われる。
「真壁拓海が武蔵を捕まえたということなら、当然、彼は武蔵のことを知っていたはずだけど、君はそういう話を聞いていた?」
「…………」
 拓海は武蔵の似顔絵を見ても知っている素振りはみせなかった。けれど、それは仕事上のことだから言えなかっただけかもしれない。そう、仕事に関することは家族にも話せないと父親も言っていた。何もおかしなことじゃないと必死に自分に言い聞かせる。
 そんな七海をじっと見つめながら、遥は言葉を継ぐ。
「真壁拓海は君のお父さんと親友で同僚だったんだよね。それならなおさら気付いたとしてもおかしくないよね。君のお父さんが武蔵を逃がしたことに」
「お父さんが犯罪者を逃がしたりするもんか!」
 七海はカッとして言い返した。いくら順序立てて説明されても信じない。そんな頑なな気持ちで遥を睨みつけるが、彼は冷静に受け止めて訂正する。
「武蔵は犯罪者じゃないよ」
「悪いことをしたから捕まったんだろう?」
「この国にとって都合が悪かったってだけ」
「都合が悪いってどういうことだ?」
「存在自体が国家機密みたいなものかな」
「意味がわからないんだけど」
 七海が怪訝に眉をひそめると、遥は説明を重ねる。
「小笠原近くの海底の国で、僕たちとは別の進化をたどったもうひとつの人類ってところ。その詳細についてはまだほとんど把握していないし、脅威でもあるから、扱いについては慎重になっているんだと思う。今のところ存在を公表する気はないみたいだね」
「…………」
 何か余計にわからなくなった気がする。
 そもそも本当のことなのだろうか。あまりに現実離れしていてまるで映画か小説のようだ。煙に巻くつもりではないかという考えが頭をよぎったが、ごまかすのならもうすこし信憑性のある話をするように思う。
「七海」
 それまで黙っていた武蔵が重々しく口を開いて顔を上げた。その左手にはまぶしいくらいにまっしろな包帯が巻かれている。ふとナイフを掴んで血まみれになった手を思い出し、七海はぞわりと身震いした。
「俺はさらわれた姪を捜すためにこの国に来たんだ。他にも神隠しのように消えた子供が何人もいて、調べていくうちに、どうやらこの国の仕業じゃないかとわかってな。俊輔はその話を信じて俺を逃がす手筈を整えてくれた。俊輔がいなかったら何もできないまま犬死にしてた。だからあいつには本当に感謝している」
「……姪は見つかったの?」
「ああ、数か月前に無事保護した。いまはこの橘の家にいる」
 最初に武蔵と会ったとき、俊輔に良くしてもらったと言っていたことを思い出す。もし彼が不当に拘束されていたのなら、そして姪を救うという事情があるのなら、父親が同情して逃がすというのもわかる気がする。
 武蔵たちの話をすべて嘘だと断じることはできないが、だからといって無条件に信じることもできない。武蔵を信じれば拓海を疑うことになってしまう。何が真実で何が嘘なのか考えれば考えるほどわからなくなってきた。
「ねえ、真壁拓海にも話を聞いてみようか?」
 七海が頭を悩ませていると、遥は意味ありげな笑みを浮かべてそう提案した。ゆったりと革張りのソファから立ち上がり、七海の前まで足を進め、じっと奥底まで見透かすように双眸を覗き込む。
「彼が真犯人かどうかはわからないけど、何か隠しているのは確かだと思う。君も気になってることがあるんじゃない? だったらこの際すべてはっきりさせようよ」
「……いいよ、そうしよう」
 七海は静かに答え、挑む思いで強気に見つめ返した。
「僕は、拓海を信じてるから」
 七海の復讐を妨害していたことは事実だとしても、さすがに父親を殺した真犯人だなんてことはありえない。絶対に。揺らぐ不安な気持ちを無理やり奥深くに押し込んで、自らを奮い立たせるようにそう言い聞かせた。




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