瑞原唯子のひとりごと

「自殺志願少女と誘拐犯」第3話 手探りで始まる監禁生活

 ピピピピッ、ピピピピッ、ピピピピッ。
 寝ぼけ眼のまま、千尋は腕を伸ばして手探りで目覚まし時計を止めた。あまり疲れがとれていないように感じて溜息をついたそのとき、いつもはないはずの気配を感じてビクリとする。
 そうだ、誘拐してきたんだった——。
 すやすやと隣で眠っているハルナを見て、深く息をつく。
 ひとり暮らしゆえベッドはこれひとつしかなく、来客用の布団もないため、ここで一緒に寝てもらうことにしたのだ。ダブルサイズなので窮屈というほどでもない。彼女も大丈夫だと言っていた。
 現に、隣の千尋が体を起こしてもなおぐっすりと寝こけている。心身ともに疲れているせいもあるのかもしれない。サイズの合わないTシャツと短パンを身につけたまま、小さく丸まっていた。
 腕の内側には茶色くなった内出血の痕がいくつも見える。もしかしたらとふいに思ってTシャツをまくってみると、やはり背中にもあった。こちらは広範囲にわたっているのでひどく痛々しい。
 そういえば、きのう後頭部に手を置くとたんこぶらしきものがあった。他にもセーラー服の襟元がすこし破れていたり、髪が無造作に切られていて不揃いだったり、いろいろと不自然なことが多い。
 憶測でしかないが、親から暴言だけでなく暴力も受けていたのかもしれない。そう考えると辻褄が合う。
「ん……うぅ……」
 Tシャツをまくり上げていたせいだろうか。彼女はむずがるような声を上げて身じろぎすると、眠そうに目をこすりながら体を起こした。ぼんやりしているが千尋のことは認識しているようだ。
「おはようございます」
 あちこちに寝癖がついたぼさぼさ頭のまま、伏し目がちに挨拶をする。
「眠いならもっと寝てろ」
「おにいさんは?」
「オレは会社に行くから」
「じゃあ、私も起きます」
「無理はしなくていい」
「大丈夫です」
「……なら朝食にするか」
 千尋がベッドから降りると、彼女は急いでウエストの紐を結び直してついてきた。追いつこうとパタパタと小走りになる。五分丈の短パンはまるで長ズボンのようになっていた。

「そうだ、おまえシャワー浴びてこいよ」
 リビングへ向かう途中、思いついたようにそう言って浴室に入る。
 ついてきたハルナにシャワーの使い方や、シャンプー、コンディショナー、ボディソープのありかなどを教えていく。浴槽はあるがゆっくりできる休日しか使わない。平日は基本的にシャワーだけだ。
「悪い、下着の替えは今晩までには用意する」
「すみません……」
 さすがに千尋のボクサーパンツではサイズが合わないだろうし、我慢していまのを穿いてもらうしかない。今日一日くらいなら構わないだろう。
「じゃあ、オレは朝食の用意をしとくから」
「おにいさんはおふろ入らないんですか?」
「寝る前に入った」
 基本的には朝だが、汗をかきすぎたときなどシャワーを浴びてから寝ることもある。ハルナもいることだし、明日からどうするかは考えなければならないが、とりあえずいまは彼女に使ってもらっても問題ない。
 千尋は戸棚からバスタオルを取り出して彼女に手渡すと、廊下に出て引き戸を閉めた。

「ありがとうございました」
 ハルナは思ったよりも早く出てきた。
 朝食はまだできていない。出てくるころに合わせて作ろうとしていたのだが、読みが外れてしまった。ひとまず彼女をダイニングテーブルに着かせて、オレンジジュースを出す。
「ドライヤー使うか?」
「いいです」
 見たところ水滴が落ちないくらいしっかりと拭かれているので、とりあえずこれで風邪をひくようなことはないだろう。使いたかったら言えよ、とだけ告げて朝食作りを再開する。
「待たせたな」
 五分ほどしてダイニングテーブルに皿を並べると、ハルナは目をぱちくりさせた。
「どうした?」
「豪華ですね」
「豪華って」
 トースト、スクランブルエッグ、ウィンナー、レタスといったありきたりな洋風の朝食で、豪華といえるほどのものではない。急いでいてトーストだけのときもあるが、普段はだいたいこんな感じである。
 本当にろくなものを食ってなかったのかもな——。
 これしきの朝食を見て豪華だと驚いたことといい、レトルトのスパゲティを食べたときの反応といい、そう思わざるを得ない。だから、こんなに小さくやせっぽっちなのかもしれない。
「食えよ」
 そう言って食べ始めると、ハルナも小さな口でトーストにかぶりつく。その何の変哲もないトーストに、スクランブルエッグに、ウィンナーに、ひとり静かに感動をかみしめているようだった。

 ハルナが食べ終わるのを待って後片付けをし、会社へ行く支度をする。
 まだここに慣れていない彼女をひとり残していくのは不安だが、致し方ない。今日は外せない重要な会議があるので休むわけにはいかないのだ。

「チャイムや電話が鳴っても出なくていいからな。おまえのことがバレるとまずい」
 黒の革靴を履きながらそう言うと、ハルナは後ろで重たいビジネスリュックを抱えたまま神妙に頷いた。聡い子なので、事細かに説明するまでもなく状況を理解しているに違いない。
「メシはキッチンのものを適当に食え。それと……」
 彼女からビジネスリュックを受け取ってひとまず右肩にかけると、その手でスラックスのポケットを探って目的のものを取り出し、よく見えるように掲げる。
「一応、これを渡しておく」
 ここの玄関の鍵だ。千尋が日常的に使っているものではなく、書斎にしまっておいた予備のうちの一本である。戸惑いながら顔を曇らせる彼女の手を取り、そっと落とす。
「もし気が変わったら、いつでもここを出て行ってくれて構わない。そのときは玄関の鍵をかけて、一階エントランスの郵便受けに入れておいてくれ」
 ひとりになることで正気に戻る可能性もあるので、そのときのために備えておかなければと考えたのだが、彼女は気に入らなかったらしい。思いきりむくれながら鍵を突き返してくる。
「私、出て行きません」
「それでも持ってろ」
「でも」
「いいから持ってろ」
「……はい」
 結局、彼女が折れた。渋々ながらそっと鍵を握って胸元に引き寄せる。その顔には何とも形容しがたい微妙な表情が浮かんでいた。
「行ってくる」
「はい」
 横目で彼女を見ながら、千尋はビジネスリュックを背負い直して外に出る。重量感のある黒い扉がゆっくりと閉まるのを待ち、二つの鍵をかけると、足取りの重さを自覚しつつエレベーターへと向かった。

 その日、千尋は普段と変わりなく仕事をこなした。
 自宅に残してきたハルナのことが気にならなかったわけではない。どうしているだろうかと休憩中に思いをめぐらせることはあったが、定時で帰るためにも仕事には集中するようにしていた。
 しかし、夕方からの進捗会議が思いのほか長引いてやきもきした。こればかりは千尋がひとり急いだところでどうしようもない。結局、一時間ほど残業してからの帰宅となってしまった。
 二つの鍵を開けて、扉を開く。
 すぐに突き当たりのリビングに目を向けるが、磨りガラスは暗く、とても明かりがついているようには見えない。エアコンが動いている気配もない。物音もまったく聞こえずひっそりとしている。
 出て行った、のか——?
 気持ちが変わるかもしれないと思って鍵を渡したのだから、想定の範囲内だ。やっかいごとがなくなったのだから喜ぶべきだろう。感傷的な気持ちになるのはきっといまだけである。
 ただ、郵便受けに鍵が入っていなかったのが気にかかる。急いでいてうっかり忘れてしまっただけかもしれないが。足早に廊下を進み、リビングの扉を開けるとすぐに電灯のスイッチを押した。
「っ……!」
 蛍光灯で照らされて、視界に飛び込んできた光景にビクリとする。
 窓際のフローリングに見覚えのないものが横たわっていたのだ。しかしすぐに人間だとわかった。顔は見えなかったが、やせっぽっちの小さな体にサイズの合わない服——ハルナである。
 一目散に駆けつけると、ハルナ、と呼びかけてそっと慎重に抱き起こす。大量の汗をかいてぐったりとしているが、意識はあるようだ。苦しそうに息をしながらぼんやりと千尋を見やる。
「すみ、ませ、ん……」
「どうしたんだ」
「あ……暑くて……」
「待ってろ」
 近くのクッションを枕代わりにして仰向けに寝かせると、エアコンを入れた。
 今朝、家を出るときはつけたままにしておいたはずなので、彼女がわざわざ切ったのだろう。エアコンもつけず、窓も開けず、こんな日当たりのいい部屋にいたら暑いに決まっている。
「ほら、飲めそうか?」
 台所で冷たいオレンジジュースをグラスに注いできて、それを差し出す。
 彼女はだるそうに体を起こして受け取ると、よほど喉が渇いていたのか一気に飲み干し、ふうと息をついた。それだけでだいぶ復活したようだ。千尋は安堵し、背負っていたビジネスリュックを下ろしてその場に座る。
「なあ、おまえエアコン切って電気もつけないで何やってんだよ」
「え……でも、私がいることを知られたらいけないので……」
 それは千尋が出かけるまえに言ったことだった。
 誘拐監禁中なので当然だが、だからといってここまでしてほしかったわけではない。チャイムや電話を無視してくれるだけでよかったのだ。彼女なりに真面目に考えてのことだとは思うが——。
「バカか、それで死ぬようなことになったら本末転倒だろうが。病院には連れて行けないんだから気をつけろ。そもそもオレの部屋なんか誰も気にしてねえから、変に気をまわさないで普通に過ごしてればいいんだ」
「すみません……」
 ハルナはしゅんとうなだれる。
 千尋は溜息をこらえ、彼女の手から空のグラスを取って立ち上がった。そのとき——ぐぅとおなかの鳴るような音が聞こえた。彼女を見下ろすと、恥ずかしそうにますます身を縮こまらせている。
「昼メシは食ったのか?」
「その……すみません……」
「食ってないってことだな」
 適当に食えと言ったはずだが、悩んだあげく躊躇してしまったのかもしれない。
 幼少時から虐待を受けつづけてきた子供は、怒鳴られないよう、殴られないよう、いつも大人の顔色を窺ってビクビクしている。年相応に無邪気でいることができない。彼女もそうなのだろう。
 千尋は無表情のまま口を引きむすんで台所へ向かった。そして空になったグラスに再びオレンジジュースを注ぎ、戸棚を開けてポテトチップスの小袋をつかむと、彼女のところに持って行く。
「とりあえずこれでも食っとけ」
「……開けていいんですか?」
「開けなきゃ食えないだろうが」
 ハルナは不器用な手つきで袋を開けて食べ始めた。相当おなかが空いていたらしく、まるでリスのように一心不乱にかじっている。
「なあ、ハルナ」
 しゃがんで呼びかけると、彼女は手を止めておずおずと顔を上げた。
「オレはおまえが何を食べても何を使っても怒ったりしない。冷蔵庫でも戸棚でもどこでも自由に開けてもらって構わない。ただ、できるだけ後片付けはしておいてくれると助かる」
「はい……」
 返事は素直だが、その声には戸惑いがありありとにじんでいた。これまで自由が許されていなかったのなら無理もない。そのうえ相手がきのう出会ったばかりの男では、全面的に信頼するのも難しいだろう。
「不安に思うことがあればオレのスマホにかけてこい。電話はそれを使え」
 千尋は背後のキャビネットに置いてある固定電話を指さした。
 それでも彼女の表情は晴れないが、いまの千尋にできることといえばせいぜいこれくらいである。毎日きちんと昼食まで用意していくのはさすがに難しいので、ある程度は彼女自身に委ねるしかない。
「それ食べ終わったらシャワー浴びてこいよ」
「はい……あの、着替えって……」
「ああ、食べてるあいだに用意しておく」
「ありがとうございます」
 ハルナは心からほっとしたように安堵の息をつく。
 着替えはきのうのうちにネット通販で注文しておいた。もうエントランスの宅配ボックスに届いている。無駄にならなくてよかったと思いながら、背後のキャビネットを開けてカードキーを取り出す。
「荷物を取ってくるが、すぐに戻る」
 よくわかっていないのか、彼女はきょとんと不思議そうな顔をしたまま頷いた。
 千尋はふっと表情をゆるめてリビングをあとにする。ゆっくりと閉まっていく扉の向こうから、ポテトチップスの袋を探るような音が聞こえてきた。


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