瑞原唯子のひとりごと

「ピンクローズ - Pink Rose -」第26話 覚悟

「レイチェル、ミルクティが入ったよ」
「ありがとう」
 サイファが白いテーブルにティーポットを戻しながら声を掛けると、窓越しの空をぼんやりと眺めていたレイチェルは、我にかえったようにニコッと微笑んで振り向いた。ティーカップを手に取り、少しだけ口をつけ、丁寧な所作で音を立てないようソーサに戻す。

 サイファはここ二ヶ月ほど仕事が忙しく、休日出勤続きで、レイチェルとはほとんど会うことが出来ずにいた。会えたとしても文字通り顔を会わす程度で、のんびりとお茶を飲むような余裕はなかったのである。
 その仕事もつい先日ようやく一段落した。
 そのため、今日は上からの命令で代休ということになり、サイファは久々に自宅で一日を過ごすことになった。一人でのんびりと疲れた体を癒すのも悪くはないが、それより何より、まずレイチェルにゆっくり会いたいという願いを叶えるのが先だと思った。ずっと楽しみにしていたことである。浮き足立つ気持ちのまま、今朝の早い時間に連絡を取り、家庭教師の授業が終わったら一緒にティータイムを過ごそうと誘ったのだった。
 レイチェルも喜んでその誘いを受けてくれた。だから、今、こうやってサイファの部屋でミルクティーを飲み、サイファの話を聞き、甘く愛らしい微笑みを見せているのである。
 しかし、彼女の様子には少し気がかりなこともあった。
 サイファと会話をしているときは普段どおりなのだが、それ以外のときになるとぼんやりしていることが多く、虚ろに空を眺めていたり、遠くを見つめていたり、心ここにあらずといった感じなのだ。
 もしかすると、会えなかった二ヶ月の間に、何かがあったのかもしれない。
 サイファは僅かに眉根を寄せる。しかしすぐに表情を取り繕って頬杖をつくと、もう一方の手を伸ばし、慈しむように彼女の柔らかい頬を包み込んだ。そのまま、小さな子供を安心させるような優しい声音で言う。
「レイチェル、僕で良ければ、遠慮しないで何でも話してね。話したくないことは無理には聞かないけれど、話して解決することもあるかもしれないし、そうでなくても心の負担は軽くすることが出来ると思うから」
 レイチェルは目をぱちくりさせてきょとんとしていた。前置きもなく唐突にこんな話を切り出されれば、面食らうのも無理からぬことだ。だが、彼女はすぐにニコッと小さな笑みを浮かべて言う。
「ありがとう」
 紡がれた言葉はそれだけだった。
 何もないのならはっきりとそう言うだろう。おそらく彼女は話さないということを選択したのだ。つまり、話せないほど深刻な悩みを抱えているということになる。聞き出したい気持ちはあるが、そんなことをすれば、口は開いても心は閉ざしてしまう。それでは本末転倒なのだ。
 一緒に暮らしていれば、いくら忙しくとも顔を合わせる機会はあるわけで、少なくとももう少し早く異変に気づくことは出来ただろう。深刻な悩みになる前に手が打てたかもしれない。
 あと8ヶ月か――。
 それは二人がともに暮らせるようになるまでの時間である。
 レイチェルが16歳になったらすぐに結婚できるよう、サイファは水面下で少しずつ準備を進めていた。まだ早いという反対意見もあったが、一番の問題だったアルフォンスはどうにか説得し、ラグランジェ家で最も大きな力を持つ前当主のルーファスにも承諾を受けた。これで障壁となるものは何もない。あとは双方の両親を巻き込んで本格的に行動を起こすだけである。
 幼い頃から待ち望んでいたその日は、足音が聞こえるほどすぐそこまで来ていた。
「サイファ、どうしたの? 大丈夫?」
 サイファが考えを巡らせていると、レイチェルが不安そうに覗き込みながら尋ねてきた。これでは立場が逆である。心配している相手に心配されてしまっては世話がない。自分の不注意に思わず苦笑を漏らして答える。
「僕は大丈夫だよ。少し考え事をしていただけだから」
「ずっとお仕事が忙しかったんでしょう? 疲れているんじゃない?」
「まあね、でも、だからこそレイチェルに会いたかったんだよ」
 それは、彼女を気遣っての言葉ではなく、サイファの偽りない本心だった。彼女の愛くるしい笑顔を見ると元気になれる。この笑顔を見るために、そして守っていくために、つらくとも頑張ろうと思えるのだ。
「これからも僕と一緒にティータイムを過ごしてくれる?」
「ええ、私も楽しみにしているもの」
 レイチェルはティーカップに両手を添えて、ふわりと花が咲いたように、可憐に愛らしく微笑んだ。それは、まさにサイファが切望していたものだった。

 二人の間に穏やかな時間が流れる。
 向かい合ってミルクティーを飲んで、温かいスコーンを口に運んで、取り留めのない会話をして、二人で笑い合って、ときどき見つめ合って――。
 たったそれだけのことで、サイファは心から満たされていくのを感じた。
 しかし、レイチェルが同じ気持ちでいるかはわからなかった。彼女の笑顔は幸せそうに見えた。だが、会話が途切れて静寂が訪れると、また目を細めてふっと遠くを見つめるのだ。
 やはり悩みがあるのだろう。
 もどかしく思いはするものの、それでも無理に聞き出すようなことはしないと決めていた。彼女が相談しやすい雰囲気を作り、ときおり優しく促しながら、彼女自身の決断で口を開くのを待つしかない。それが最善であると判断してのことである。焦ってはいけないと思った、そのとき――。
「サイファ、あのね……」
 レイチェルはぼんやりと遠くを見たまま、淡い声で切り出した。
「ん、何かな?」
 サイファは彼女を怯えさせないよう、しかしこの機会を逃がさないよう、柔らかいながらもしっかりとした口調で聞き返した。そして、ティーカップを口に運びながら、にこやかな笑みを浮かべて次の言葉を待つ。
「私、子供ができたの」
「!!」
 サイファは口に含んだ紅茶を吹きそうになった。それをこらえて飲み込むと、今度は気管に入ってしまい、ゲホゲホと咽せながら涙目で顔を上げる。
「えっと……それって、ペットを飼い始めたってこと?」
「そうじゃなくて、私のおなかの中に赤ちゃんがいるの」
「あ……あのね、レイチェル……」
 彼女の突拍子もない発言に慣れているサイファも、これにはさすがに狼狽せずにはいられなかった。困惑した笑みを張り付かせながら途方に暮れる。彼女がなぜそんなことを言い出したのか見当もつかない。もちろんサイファには身に覚えなどなかった。
 もしかして、何も教わっていないのか――?
 彼女はもう15歳であり、数ヶ月後にはサイファと結婚することになっている。なのに、そういったことに関して何の知識もないのだとすれば大問題である。アルフォンスもアリスも今まで何をしていたのだと心の中で嘆息した。
 とりあえず、間違った思い込みだけでも正さなければならない。どのように説明しようか頭を悩ませながら、慎重に言葉を選んで口を開く。
「知っているかな? 赤ちゃんってコウノトリが運んでくるわけじゃないんだよ?」
「知っているわ」
 レイチェルは当然のようにさらりと答えた。
 そのまっすぐに前を見据えた表情は、夢や幻想を語る少女のものではない。
 ゾクリ、とサイファの背中に冷たいものが走った。
 まさか、本当に――?
 額に汗が滲んでいく。頭はぐちゃぐちゃに混乱していた。何が何だかわからなかった。考えもまとまらないままに上ずった声を漏らす。
「じゃあ……でも、そんなこと……だって僕たちはそんな……」
「サイファじゃないの」
 対照的に静かに落とされた彼女の言葉。
 ドクン、と飛び出しそうなほどに大きく心臓が跳ねる。同時に、頭の中に鋭い閃光が走った。そこに見えたものは荒唐無稽とも思える推測――。なぜそんなことを思いついたのか自分でもわからない。信じたくはない。だが、それは残酷なまでに抗いがたい説得力を持っていた。おそるおそる、それでもまっすぐに彼女の目を見て尋ねる。
「もしかして、ラウル……?」
 レイチェルはじっと見つめ返し、無言でこくりと頷いた。
 ――ガタン!
 サイファは両手をついて勢いよく立ち上がった。優雅な意匠の白い椅子が後方に弾き倒され、カップの中のミルクティーが波を打って縁から零れた。
 頭の中が真っ白になる。
 言いたいことも聞きたいことも山のようにあるはずなのに、口を半開きにしたまま、ただその場に立ちつくすことしかできない。白いテーブルの上に置かれた手は、固く握りしめられ小刻みに震えている。その上に、額から伝った汗がポタリと落ちた。
 僕は、馬鹿だ――。
 きつく奥歯を噛みしめてうなだれる。金の髪がはらりと頬に掛かった。窓越しに降りそそぐ明るい光が、それをより鮮やかに華やかに煌めかせ、その下の顔に深い影を落とした。
 これまで疑惑を持ったことは一度たりともなかった。二人のことを信用していたというよりも、そんなことは考えすら及ばなかったのだ。だが、その考えが頭に浮かんだとき、まるでバラバラだったパズルが一瞬で完成したかのように感じた。ピースは手元にあったのだ。一つ一つは何でもないことでも、すべてを正しく合わせれば見えてくるものがある。難しいことではない。なのに、なぜ今の今まで気づかなかったのだろうか。もっと早く気づいていれば止められたはずなのに――。
 後悔するだけでは何も始まらない。
 サイファはゆっくりと深く息をしてから顔を上げると、きょとんとしているレイチェルに、出来うる限りの落ち着いた口調で尋ねる。
「お医者さんには診てもらったの?」
「ううん、でも間違いないと思うの」
 レイチェルはサイファを見上げて真面目に答えた。
「……行こう」
 サイファは静かにそう言うと、向かいに座るレイチェルの手を取り、早足で彼女とともに部屋を後にした。ティーテーブルの上には、飲みかけのミルクティーが二つ、そのままの状態で放置されていた。

…続きは「ピンクローズ - Pink Rose -」でご覧ください。

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