瑞原唯子のひとりごと

「東京ラビリンス」第23話・代償

「バイクがここから落ちたのは間違いない」
 悠人はそう言いながら、眉をひそめて大きく歪んだガードレールを見つめた。その手には壊れたミラーが握りしめられている。先ほど崖下の海に潜って拾ってきたものだ。そのため、頭から靴先までずぶ濡れで、足もとには小さな水たまりができている。寒さのせいか、小刻みに体を震わせて奥歯を食いしばった。
「もう一度、探してくる」
「落ち着いて師匠」
 背を向けて海に戻ろうとした悠人を、遥は冷静に引き留める。
「澪たちが研究所を去ってから、どれだけ経ったと思ってるの。真冬の海にそんなに長くはいられない。今も海の中にいるんだとしたら……この極寒の海の中にいるんだとしたら、生きている可能性は限りなくゼロに近い。師匠が命を懸けることじゃないよ」
「しかし……」
 悠人は唇を噛み、反論の言葉を飲み込んだ。
 遥は目を細めて濃紺の空を仰ぐ。
「澪は生きてるよ、絶対に」
 今はそれしか言えなかった。何の根拠もない発言であることは、悠人もわかっていただろう。だが、それを口にした遥の気持ちは伝わったらしく、顔をつらそうに曇らせながらも小さく頷いた。
 遥は後ろに振り返り、車の後部座席を覗き込んだ。
「篤史、何か手がかりは?」
「可能な限りの映像や写真を探しているが、今のところ手がかりらしきものは見当たらない。あの男の名前か職業がわかれば、もっと探しようがあるんだけどな」
 篤史の声には苦悩と焦燥が滲んでいた。それでも諦めてはいない。膝に載せたノートパソコンから目を離さず、指を踊らせるようにキーボードを叩いている。その険しい表情を、ディスプレイの光がぼんやりと浮かび上がらせていた。

 澪がバイク男に連れ去られてから、すでに一時間半ほどが過ぎている。
 連れ去られてすぐ悠人に追ってもらえば、もしかしたら奪還できていたかもしれない。しかし、バイク男の攻撃で遥のイヤホンマイクが壊れてしまい、身体も打ちのめされていたため、すぐに状況を報告することは叶わなかったのだ。もちろん、遥と連絡が取れなくなった状況を、悠人が放置していたわけではない。篤史に指示を出して様子を見に行かせたが、遥たちはすでに森に入ったあとで、簡単に探し出すことができなかったのである。
 遥がようやく体を起こしたところで、篤史に発見された。真っ先に彼のマイクを借りて悠人に報告する。
 当然、悠人はすぐさま澪を探しに行こうとしたが、不意に現れた公安の溝端がそれを引き留めた。どうやら断りもなく近くで作戦を監視していたようで、研究所周辺の不穏な様子に気付いてやって来たらしい。美咲が少女を連れて行方をくらましたことを知ると、二人を捕らえるべく公安に大掛かりな動員をかけた。そして、何かを知っているはずだということで、大地の身柄までもが拘束されてしまった。
 遥たちには、それを止めるだけの根拠も権限もない。
 しかし、澪の拉致に関する態度にだけは、どうしても納得がいかなかった。捜索してくれるよう頼んでも、なおざりな返事をするだけである。美咲と少女を捕らえることだけに注力しているようだ。人道的観点から少女を救い出す、という彼らの言い分に違和感を覚えざるをえない。
 すでに剛三にも連絡をとり動いてもらっているが、圧力がかかっているのか、警視庁も澪の捜索に色よい反応を示さなかった。上層部に詰め寄っても歯切れの悪い返事ばかりである。捜索を拒んでいるわけではないが、今すぐに開始する気配はないとのことだった。
 澪は、僕たちが探すしかない――。
 協力的でない警視庁や警察庁の態度を知り、遥がそう決意を固めるのに時間はかからなかった。もちろん、大きく打ちのめされている悠人の代わりに、自分がしっかりしなければならない、彼の役割を引き受けなければならない、ということも自覚していた。

「もし澪とバイク男が生きているなら、もうここから離れてしまった可能性が高い。僕たち三人だけでやみくもに探しても見つけられるものじゃない。今、じいさんが周辺を捜索する人員を集めてるから、僕たちは家へ帰って態勢を立て直した方がいいと思う」
「賛成だ。悠人さんをそのままにしておくわけにもいかないしな」
 篤史は手を止め、ちらりと悠人に視線を流す。
 全身から水を滴らせながら立ち尽くす彼は、寒さのあまりガタガタと震え出し、月明かりでもわかるくらい真っ青になっていた。着替えはおろかバスタオルさえないこの状況で、いつまでもここに留めておいては、大袈裟でなく命にも関わりかねない。雪こそ降っていないが、おそらく気温は氷点下である。
「すまない……」
 これほど弱々しい彼の声は、今まで聞いたことがなかった。
 遥は無言のまま首を横に振り、後部座席に悠人を押し込んだ。続いて自分も乗り込む。篤史は後部座席から運転席に移ると、アクセルを強く踏み込んで、誰もいない夜更けの道路を走らせた。

「いったい何を隠し立てしているのだ! ……誤魔化すでない!! 今回の依頼についても、少女を救出するという目的ではなかったのだろう。美咲の研究が目的か? 美咲と大地をどうするつもりなのだ?!」
 遥たちが剛三の書斎に戻ると、彼は電話に食いつかんばかりの勢いで詰め寄っていた。しかし、追いつめられているのが彼の方であることは、その焦った口調からも苦々しい表情からも明らかである。
「もう良いわ!!」
 剛三は捨て台詞を吐き、電話の子機を叩きつけるように充電スタンドに戻した。椅子の背もたれに身を預けて深く息をつくと、正面に立っていた悠人をちらりと一瞥して言う。
「悠人、まずシャワーを浴びて着替えてこい」
「……澪を守れず、申し訳ありませんでした」
「すべての責任は私にある」
 深々と頭を下げた悠人には目を向けず、剛三は遠くを見やり噛み締めるように言う。肘掛けに置いた手には力がこもり、押しつけた指先は白くなっていた。悠人は何か言いたげな表情を見せていたが、その唇を引き結ぶと、もう一度頭を下げてから書斎をあとにした。

「さっきの電話の相手は誰だったの?」
「楠警察庁長官だ」
 遥の予想通りの答えだった。ひとまず悠人を書斎から出て行かせたのは、そのことを知られたくなかったからだろう。確かに、憔悴した今の悠人に聞かせるには酷な話である。
 剛三は眉をひそめながら、執務机に肘をついて両手を組み合わせた。
「警視庁に圧力をかけているのは彼で間違いないようだ。研究所の人体実験が公になっては厄介だろうと脅してきおったわ。だが、厄介なのは警察庁も警視庁も同じことだ。我々は互いの弱みを握り合っているのだからな」
「どうするの?」
「警察を頼らずに澪を探すしかあるまい。出来る限りの人員は集めている。海と周辺を隈無く捜索すれば、何かしらの手がかりは見つけられるだろう。もうひとつ別の作戦も考えているが、それは悠人が戻ってきてからにしよう」
 遥は扉の方を一瞥したが、まだ戻る気配はない。
「父さんと母さんは?」
「大地は公安の方で取り調べを受けておる。この事実を公表するつもりはないらしく、手荒なこともしないと約束してくれたが、美咲が戻るまで返すわけにはいかないそうだ。要は人質だな。とはいえ、我々にも美咲の行き先など見当がつかんし、あまり公安を信用する気にもなれん。美咲本人から話を聞いてみたいところだが……」
「とりあえず、今は澪の捜索を優先だね」
「ああ……遥、おまえは大丈夫なのか?」
 いつもの剛三らしくなく、どこか気遣わしげに歯切れの悪い質問を投げかけた。
 それが何についてのことなのかは、言われずとも理解している。
「僕はちゃんと冷静に受け止めてるし、そうしなければならない理由もわかってる。この状況を嘆いたところで何にもならない。澪を探さないといけないし、師匠を守らないといけないし、橘家を支えないといけない。泣いてる暇なんてどこにもないよ」
 遥がそう答えると、剛三は渋い顔になって視線を落とした。
 隣の篤史も怪訝な表情で横目を流している。
「無理はするなよ」
「別にしてない」
 遥は前を向いたまま無愛想な答えを返す。嘘をついたわけではないが、取り繕うほどの余裕はなかった。篤史は物言いたげに目を細めて溜息をつくと、遥の頭にガシッと手を置き、髪がくしゃくしゃになるくらい乱暴に撫でまわした。

 悠人が戻ってくると、剛三は打ち合わせ机で二つ目の作戦を説明した。
 それは、大胆であるが納得のいく内容で、聞いた三人は誰も異を唱えなかった。いや、これまでも澪以外が反論することは基本的になかった。だから、今日はこんなにも静かなのかもしれない――そう思うと、遥の胸に乾いた風が吹き抜けた。だが、今は感傷に浸っている場合ではない。
「わかったけど、それにはバイク男の写真がいるんじゃない?」
「似顔絵でも良かろう。問題は誰に描いてもらうかだが……」
 剛三はそう言いながら難しい顔で考え込む。
 今日はフルフェイスのヘルメットを取らなかったが、遥は以前にバイク男の顔を見たことがあった。似顔絵を作成することは可能だろう。ただし、警察の協力が得られない以上、自分たちで似顔絵の描ける人物を捜すしかないのだ。
「遥、おまえには画家の血が流れておろう」
「無茶なこと言わないでよ。絶対無理」
 美術の成績はどちらかといえば良い方であるが、特別に絵が上手いわけではなく、ましてや似顔絵など描こうとしたこともない。記憶を頼りに再現するなど、とてもじゃないができる自信はない。
「画家の知人はおるが、今すぐとなると……」
「私に心当たりがあります」
 剛三の言葉を遮ったのは悠人だった。振り向いた三人の視線を受け止めると、その瞳に強い光を宿し、落ち着いた口調で語り始める。先ほどまでの弱々しさは見られない。少なくとも表面上は、普段の冷静な彼に戻っているようだった。

 夜明け前の静寂に包まれながら、悠人の車は裏通りを走行していた。
 遥はその助手席に座り、星々のきらめく夜空をぼんやりと眺めていた。研究所に乗り込もうとしていたことが、遙か遠い昔の出来事であるかのように感じられる。しかし、実際にはまだあれから数時間しか経っていない。
「ねぇ、師匠」
「どうした?」
 悠人は運転を止めることなく、静かに聞き返した。
 遥は自分の膝元に視線を落として言う。
「師匠がひとりで責任を感じることはないよ。僕も澪も自分でやりたいって言ったんだから」
「いや、僕は保護者としてそれを止めなければならなかった。たとえ剛三さんに歯向かうことになっても、澪や遥に恨まれることになっても……まあ、今だから言えることだけどね。あのときは、精神的にきついだろうとは思っていたけど、身に危険が及ぶとは考えてもいなかった。その認識の甘さも含めて僕の責任だ。それに……」
 悠人はそこで言葉を切り、前を見据えたまま僅かに顎を引いた。
「大地と美咲を止められなかったのも、僕の責任だ」
 その横顔は苦しげでありながら、どこか寂しげにも見えた。大地とも美咲ともずっと昔からの付き合いだったのだ。他人に把握できるほど単純な心情ではないだろう。遥は膝に置いた手をそっと握り締めると、訊きたかったことも、言いたかったことも、声にすることなく胸の奥にしまい込んだ。

「さあ、どうぞこちらへ」
「申し訳ありません、朝早くに……」
 悠人はそう言ったが、まだ朝ともいえない未明の時間である。しかも、突然電話で叩き起こして面会を申し込んだのだ。非常識だとなじられても返す言葉はない。にもかかわらず、優しい笑顔で快く迎え入れられるなど、ほとんど奇跡のようなものである。
 もっとも、悠人には初めから勝算があったようだ。
 遥たちをにこやかに案内する品のよい女性は、中堂由衣――悠人が高校時代に付き合っていた相手である。遥は今日が初対面であるが、剛三や澪から彼女の話は聞いていた。かつて悠人がファントムではないかと疑っていたこと、画家を目指して美大に進学したが叶わなかったこと、美大在学中に画商の中堂に見初められ結婚したこと、今でも悠人に未練のある素振りを見せていることなど、どれもあまり好ましい話ではない。
 そんな彼女にこうやってわざわざ会いに来たのは、バイク男の似顔絵を描いてもらうためである。悠人によれば、彼女は似顔絵を得意としていたらしいのだ。はっきりとは言わなかったが、自分の頼みであれば断らないという目算もあったのだろう。
「澪さん!!」
 突如頭上から振ってきた声に、遥たちは顔を上げる。
 そこには、吹き抜けの二階から身を乗り出す男性がいた。由衣の息子の幹久である。彼は目を大きく見張って呆然としていたが、すぐ我にかえると、転げ落ちんばかりの勢いで階段を駆け下りてきた。脇目もふらず遥の手を取り、両手で優しく包み込むように握りしめる。
「誘拐されたと聞いて心配しました。無事だったのですね!」
 そう声を弾ませる彼の顔はキラキラと輝いていた。
 対照的に、遥は上目遣いでじとりと睨みつける。
「僕は、澪の兄です」
「……えっ?!」
 優美な雰囲気に似つかわしくない素っ頓狂な声。それが何に対してのものなのか、おおよその見当はついている。遥は不快感を露わに嘆息した。しかし、幹久はその手を柔らかく握ったまま、にっこりと魅惑的な笑みを浮かべて言う。
「失礼いたしました。とてもよく似ていらっしゃるので驚きました。この白魚のような手も、まるで……」
「幹久、あなたはもう部屋に戻りなさい。今はそういう話をしている場合ではないのよ」
 由衣は半ば呆れながら窘めた。それを聞いて幹久の表情が曇る。
「それでは、澪さんはまだお戻りになられては……」
「はい、ですから由衣さんにご助力いただこうと」
 悠人は淡々と答えた。口調こそ丁寧だが決して目を合わせようとせず、幹久を快く思っていないことは容易に想像がつく。しかし、幹久本人はそのことに気付いていないようだ。握っていた遥の手をそろりと離すと、悠人に向き直り、自分の胸元に手を置いて真摯に問いかける。
「僕に、何かお手伝いできることはありませんか?」
「ありがとうございます。お気持ちだけで十分です」
「……澪さんのご無事を祈ります」
 申し出を断られてしまった以上、祈るくらいしかできないだろう。幹久は胸元の手をギュッと握りしめながら、その端整な顔にやりきれなさを滲ませ、長い睫毛を伏せて視線を落とした。もしかすると、いまだに澪への想いを断ち切れていないのかもしれない。
 悠人は無表情を保ったまま、ゆっくりと深く頭を下げた。

 遥と悠人は客間へ通された。
 さすが画商の家と言うべきだろうか。上質な西洋アンティーク調の家具と、同じくアンティーク調の内装が、過剰でもなく、簡素でもなく、センス良く上品にまとめられている。壁には、この雰囲気に調和する小さめの絵画がいくつか飾られていた。
 由衣は奥のソファを二人に勧め、その向かいに腰を下ろした。ローテーブルにはすでに描くための準備がなされている。少しでも時間を短縮するために、あらかじめ用意しておいてくれたのだろう。彼女は置かれたスケッチブックと鉛筆を手に取ると、さっそく似顔絵の作成に取りかかり始めた。
 まずは、対象者の容姿や雰囲気を一通り聞き取り、大まかにあたりをとって輪郭から形作っていく。その間にも対話を止めることなく、軌道修正しながら少しずつ細部を描き込んでいくのだ。
「遥さん、悠人さん、どうかしら?」
 由衣はまだラフ段階の絵を立てて見せると、意見を求める。
 しかし、悠人の口は開かない。彼もバイク男の顔を見たことはあるのだが、格闘に集中していたときで、おまけに逆上していたこともあり、明確には覚えていないと言っていた。代わりに、よく記憶していた遥が答える。
「口はもう少し小さかったと思います」
「わかったわ」
 由衣は柔らかく微笑み、再びスケッチブックに鉛筆を走らせた。
 悠人は小さく溜息を落として立ち上がると、窓に向かい、カーテンを掴んでガラス越しに外を見つめた。彼の目に何が映っているのかわからない。ただ、そのうつむき加減の横顔には、自分の無力さに打ちひしがれたような、暗澹とした空疎な微苦笑が浮かんでいた。

「ねえ、悠人さん」
 由衣はスケッチブックに鉛筆を走らせながら、呼びかける。
「悠人さんは、澪ちゃんのことが好きなんでしょう?」
 不意に図星を指され、悠人は外に目を向けたまま小さく息を呑んだ。彼女の真意を測りかねているのだろう。窓ガラスに置いた指先に力をこめ、少しだけ顎を引いて表情を引き締めた。
 それでも由衣は躊躇なく踏み込んでいく。
「だから今まで独身だったのね」
「いや……それ、は……」
「私、洞察力には自信があるのよ」
 その一言で、悠人は口をつぐんだ。
 由衣は手を動かしながら一方的に話を続ける。
「澪ちゃんに向けたあなたの眼差し、そして、今日のあなたの態度で確信したわ。悠人さんって意外と気持ちを隠すのが下手なんだもの。初めて会ったあのときから……私と付き合うのが本意でなかったことも、私との会話を面倒がっていたことも、最後まで好きになってくれなかったことも、すべて承知していたのよ」
 その口調はとても穏やかだった。責めているようには聞こえないが、本音はわからず、遥は固唾を呑んでじっと彼女を見つめる。悠人も同様の心境なのだろう。いや、当事者であるがゆえ、より大きな不安を感じているはずだ。後ろ姿が心なしか硬直しているように見えた。
「顎はもう少し細いです」
「少しだけでいいの?」
「はい」
 遥が似顔絵を指さして指示を出すと、由衣はにっこりと微笑み、顎の部分を消して描き直し始める。これで似顔絵に集中してくれればと思ったが、目論見どおりにはいかなかった。彼女はサラサラと軽快な音を立てながら、物柔らかに悠人への質問を再開する。
「橘君への当てつけだったんでしょう?」
 橘といっても遥のことではなく、彼女と同級生だった大地のことだ。二人は同じ高校に通っていたのだから、互いに面識があっても不思議ではない。だが、彼女の発言についてはまるで意味がわからなかった。しかし――。
「……それは、少し違う」
 悠人には思い当たる節があったようだ。ゆっくりと振り返り、揺れる眼差しで由衣の横顔を見下ろす。
「佐藤の告白を断ったら絶交だと……あいつが、大地が突然そう言い出したんだ。だから僕は断れなかった。もっとも、あいつは何の気なしに言ったらしく、あとで訊いたら言ったことすら覚えてなかったんだが……おまえには悪いことをしたと思っている。今さら詫びたところで許してはもらえないだろうが」
「じゃあ、橘君に感謝しないといけないわね」
「感謝?」
 悠人が訝るように眉をひそめると、由衣は手を止め、顔を上げて華やかに微笑みかけた。
「私はそれでも嬉しかったのよ。大好きな人の彼女になれて」
「…………」
 悠人は何も答えず、曖昧な表情でただじっと立ち尽くしている。
 訪れた静寂の中、鉛筆の控えめな摩擦音だけが響いていた。

「さ、これでどうかしら?」
「……よく似ています」
 スケッチブックを立てて尋ねた由衣に、遥はこくりと頷いて返事をする。社交辞令などではない。遥の記憶そのものといえるくらいそっくりで、似顔絵として本当に申し分のない出来だった。
 由衣はほっと息をつくと、あらためて自分の描いた似顔絵と向かい合った。
「そう、この人が澪ちゃんを……生半可なモデルさんでは敵わないくらい端整な顔をしているわね。これで背が高くて脚も長いだなんて、街中を歩いているだけでも目立つし、まわりが見逃すわけないわよ? すぐに身元はわかるんじゃないかしら」
「そうだといいんですけど……」
 普通に考えればそうかもしれない。だが、美咲の研究所を狙ったことから考えても、不思議な力を使うことから考えても、そこらで平凡に暮らしている人物だとは思えなかった。バイクではフルフェイスのヘルメットを被り、神社ではマスクをしていたのだから、普段から常に顔を隠していた可能性が高い。もしかすると、すでに指名手配されている犯罪者であることも考えられる。
 遥がじっとうつむいて思考を巡らせていると、窓際の悠人が進み出て、由衣からスケッチブックを受け取った。それを脇に抱え、深々とお辞儀をして礼を述べる。
「今日は本当にありがとうございました」
「私にできることならいつでも力になるわ。澪ちゃんの無事を祈ります」
「後日、あらためてお礼に窺います。今度はご主人がご在宅のときに」
 中堂家の主人は海外出張のため不在だが、当然、彼にも礼を尽くさねばならないだろう。事後報告にはなるが、橘家の緊急事態だったといえば、彼が嫌な顔をすることはないはずだ。
「ねぇ、悠人さん?」
 由衣は柔らかいシフォンのロングスカートを揺らしてソファから立ち上がった。正面から悠人と向かい合い、背の高い彼を見上げて、少女のように可愛らしく小首を傾げる。
「ひとつだけ、私のお願いを聞いてくださる?」
「何でしょう?」
 悠人は平静を装いながらも、若干表情を硬くして尋ね返す。
 そんな彼を見つめて、由衣は思わせぶりに微笑んだ。紅を差した艶やかな唇がそっと動く。
「怪盗ファントムの正体を、教えていただけないかしら」
 一瞬にして、空気が凍りついた。
 息をすることさえ憚られるような緊迫した雰囲気。三人とも口を開かない。気の遠くなるような長い沈黙が続き、重苦しい何かがじわじわと全身にのしかかる。悠人の顔からは血の気が失せているようだ。普段の彼ならともかく、今の彼では対処が難しい。
「ごめんなさい、言ってみただけよ」
 遥が意を決して立ち上がろうとしたそのとき、由衣はクスッと笑ってそう言った。
 それでも悠人は緊張を解かなかった。
 顎を引いてスケッチブックを抱え直すと、一歩後ずさり、前を向いたまま後ろ手で窓の鍵を探った。両開きの大きな窓がゆっくりと外側に開いていく。レースのカーテンがふわりと柔らかく風をはらんだ。
 まさか、師匠は――。
 悠人は後ろ向きでベランダに躙り出ると、軽やかに床を蹴って飛び上がり、手すりの上にすくっと降り立った。背後に浮かんだ目映い月が、ジャケットのはためくシルエットを、鮮やかに浮かび上がらせている。
 遥はソファから立ち上がった。
「師匠……」
「僕は、かつて怪盗ファントムだったよ」
 穏やかな声を夜風に乗せると、身を翻し、ベランダを蹴って外に飛んだ。
 広い背中はすぐに視界から消える。
 由衣は胸元で両手を重ねてぱちくりと瞬きをした。やがて、ふっと目を細めて表情を和らげると、重ね置いた手に力を込め、緩やかに瞳を閉じてうつむいた。彼女にとっては長年の願いが叶ったことになる。けれど――その幸せそうな横顔に横目を流しながら、遥は密やかに眉をひそめた。


…これまでのお話は「東京ラビリンス」でご覧ください。

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