瑞原唯子のひとりごと

「東京ラビリンス」番外編・Andante - クリスマスイヴ

「おまえ、日比野の娘とはまだ友人なのか」
「友人です」
 悠人は眉ひとつ動かさずに答えた。
 剛三が飽きもせずたびたび思い出したように尋ねてくるが、返事はいつも同じである。もちろん嘘偽りのない真実だ。彼の期待するような展開になることは今後もないだろう。それどころか、いつまで友人でいられるのかもわからないというのに――。
 今のところ、涼風からそういう話はまったく出ていない。例の元カレとどうなっているのか気になるが、あれきり話題にも上らず、こちらからわざわざ尋ねるような勇気もない。そろそろ切り出されるのではないかと不安に思いながらも、そんなことはおくびにも出さずに会いつづけていた。
 無表情のまま思考をめぐらせていた悠人に、剛三が静かに言う。
「24日、25日は休みをやる」
「……どういうことでしょうか」
 悠人の方から休暇を申請したことはあっても、剛三の方から与えられたのは初めてである。しかも二日も。思いきり眉根を寄せながら訝しんでいると、彼はニヤリと口の端を上げて、二つ折りにされた紙をすっと差し出してきた。何となく嫌な予感がしたが、立場上無視するわけにもいかずに受け取る。ぺらりと開いて中を確認すると――。
「……何ですかこれ」
「クリスマスプレゼントだと思ってくれ」
 紙を持つ手に我知らず力がこもった。奥歯を食いしばり、破り捨てたい衝動をこらえる。
「私には必要のないものです」
「どう使うかはおまえの自由だ」
「…………」
 まるで心の奥底を素手でかきまぜられたかのようだった。うつむいたままくちびるを固く引きむすんでいると、正面で溜息をつく気配がした。
「なあ、悠人」
「……はい」
「これでも私なりに責任を感じているのだよ。さんざんおまえを焚きつけておきながら、結局、澪と結婚させてやれなかったからな。それゆえ、今度こそはうまくいってほしいと願っておる」
 意外な話に驚いて顔を上げる。
 剛三は自分の都合しか考えていないと思っていた。悠人の気持ちを利用しているだけだと思っていた。まさか彼なりに気に病んでくれていたとは――しかし、剛三のせいではない。何度となく焚きつけられたのは事実だが、あくまで自分の意思で行動したつもりである。そして彼女に選ばれなかったのは悠人自身の責任だ。
「剛三さんには関係ありません。放っておいてください」
「おまえが臆病になるのもわからないではない。だが、好きな気持ちを隠してずるずると友人関係を続けるなど、不毛でしかないと思うがな。立場や年齢といった何かネックになることがあるのならともかく、今回はそういうわけでもないのだろう?」
 諭すようにそう言われたが、何も答えたくなかったし反応を探られたくもなかった。素知らぬ態度をよそおい、いつもより丁寧に一礼して書斎をあとにする。彼からもらった紙を、右手の中でぐしゃりと握りつぶしながら――。

 悠人は自室に戻ると、ベッドの上に腰掛けてそのままパタンと仰向けに倒れた。上半身が硬いスプリングで小さく揺れる。そして、見慣れた天井を眺めながら深く息をつき、幾分か冷えてきた頭で思案をめぐらせた。
 剛三の言うことは間違っていない。
 不毛でしかないというのはいささか言い過ぎだと思うが、終わりを待つだけという意味では確かにそういえるだろう。臆病風に吹かれて涼風に恋人ができるのをただじっと待っているくらいなら、すこしでも可能性のある今のうちに想いを告げた方が良いのではないか。たとえ、この友人関係に終止符を打つことになるとしても――。
 悠人はベッドに寝転がったまま、ずっと右手に握りしめていたくしゃくしゃの紙を開いた。そこには剛三直筆の文字が並んでいる。余計なお世話にもほどがあるが、悠人のためにここまでしてくれたのだと思うとすこし感慨深い。しばらく無言で見つめたあと、内ポケットから二つ折りの携帯電話を取り出して上体を起こした。

「悠人さん!」
 待ち合わせ場所の駅西口に向かうと、涼風が人混みの中から目ざとく悠人の姿を見つけて駆けつけてきた。吐く息は白い。仕事帰りではないようで、ベロア地と思われるワインレッドのフレアワンピースに、襟にファーのついた雪のように白いコートを羽織っていた。彼女にしてはめずらしくイヤリングとネックレスを身につけている。そろいのものらしく、それぞれに淡いピンク色の小さな宝石が輝いていた。
 通りを歩きながら、涼風はきょろきょろとあたりを見まわして言う。
「クリスマスなのでいつもより人が多いですね」
「ああ」
 街路樹も、ビルも、店舗も、無数のイルミネーションで飾り付けられており、街へ出れば否応なくクリスマス時季であることを思い知らされる。そして、クリスマスイヴの今夜は人々も浮かれているように見える。ケーキやチキンの箱を持っている通行人もちらほらと目につき、恋人どうしと思われる幸せそうな二人組もそこかしこにいる。
 自分たちはどう見えているのだろうか――。
 そんなことを気にするなど女々しいにもほどがある。自分自身であきれつつも、せめて不釣り合いに見えないことを願ってしまう。
「予約した店ってどこなんです?」
「そのホテルのレストランだ」
 涼風に尋ねられ、前方に見えている三連の高層ビルを指さして答えた。グレードの高さで有名な外資系ホテルである。涼風もそのことを知っていたのか、あるいは洗練された外観で察したのか、驚いたように目をぱちくりとさせた。
「クリスマスなのによく予約できましたね」
「知人から予約を譲られただけなので」
「あっ、だから急に誘ってくれたんですね」
 普通に考えれば、クリスマスの数日前にこんなホテルのレストランなど予約できるはずがない。前々から計画していたと誤解されるのも嫌なので言いわけめいたことを口にしたが、まるきり嘘でもないだろう。涼風は素直に納得したらしく、それ以上は追及せずにクスッと小さな笑みを浮かべた。

 吹き抜けかと思うほどの高い天井は、開放感のある壮大で贅沢な空間を作り出していた。おまけに窓側は全面ガラス張りである。52階からの夜景はまるで映画のようで現実味がない。光を散りばめたような高層ビル群がやけに遠く、グラデーションを描いた濃紺色の空がやけに近く感じる。
 悠人たちが案内されたのは、窓際のいちばん奥まったところに用意されたテーブル席だった。ここだけ孤立したかのように隣のテーブルと距離がある。普通にしゃべっているかぎり、ほかの客に会話の内容を聞かれることはないだろう。
 剛三がコース料理を予約していたことはメモで知っていたが、ドリンクについてもぬかりなく手配していたようで、シャンパンがボトルで用意されていた。それも、アルコールに詳しくない悠人ですら知っている有名なヴィンテージだ。
 そのシャンパンをフルートグラスに注いでもらい、涼風と乾杯する。
 味については値段ほどの価値があるのか正直よくわからなかったが、クリーミィとさえ感じる泡のきめ細かさとなめらかさには感動を覚えた。彼女も目をぱちくりさせながら「おいしい」と興奮ぎみに声を上げていた。悠人とは違い、口当たりだけでなく味そのものも気に入ったようだ。
 コース料理はクリスマスだからか通常とは違う特別なものらしい。とはいえ、通常のものを知らないので何が違うのかはよくわからない。ただ、色彩や装飾にクリスマスらしさを出そうという工夫は感じられた。もちろん取ってつけたようなものではなく、料理とうまく調和している上品で繊細なアレンジである。
 シャンパンも、料理も、涼風はいつも以上に楽しんでいる様子だった。そして、そんな彼女を見られたことが何よりも嬉しかった。それだけでここに誘った甲斐があったといえる。たとえ、このあと苦い結末が待ち受けているのだとしても――。

 楽しい時間はあっというまに過ぎていく。
 きれいに飾り付けられたデザートを食べ終わり、食後のコーヒーを口に運ぶと、本来の目的を意識して緊張が高まってきた。コーヒーカップをゆっくりとソーサに戻し、テーブルの上で重ねた両手を見つめながら話を切り出す。
「急な誘いで申し訳なかった」
「いえ、予定がなかったから誘ってくれて本当にうれしかったわ。こんな高級ホテルのレストランなんてめったに来られないもの。予約を譲ってくれたお知り合いの方に感謝しなくちゃ」
 涼風は肩をすくめてニコッと笑う。
 これが橘剛三のお膳立てだと知ったら彼女はどう思うだろう。騙しているようで罪悪感を覚えるが、今はまだ本当のことを話すわけにはいかない。悠人は曖昧に微笑み返した。
「断られるんじゃないかと思ってたよ」
「どうして?」
「クリスマスイヴだからな」
「私、彼氏とかいないんですけど」
 涼風は冗談めかした口調でそう笑い飛ばしたが、悠人のこころは晴れない。脳裏にとある人物の姿がちらついている。
「……元カレは?」
「えっ、別に会う予定なんかないですけど」
「再会したとき会う約束をしてなかったか?」
「してないわよ?」
「別れ際に『また』って言っていただろう」
「そうだったかしら」
 不思議そうな顔をしながら、彼女は記憶をたどるように小首を傾げた。
「言ったとしたら同窓会でってことだと思うわ。私、引っ越したきり高校の同級生とは連絡をとってなかったから、行方がわからなくて同窓会の案内も出せなかったんですって。だからあのとき連絡先は教えたけど、同窓会の案内のハガキが来ただけで、個人的な連絡なんて来てないわよ」
 思わずむきになった悠人に不快感を示すことなく丁寧にそう説明すると、口もとに手を添えてくすっと笑う。
「悠人さんがこんなことを気にするなんてビックリしたわ」
「君に恋人ができたら、友人関係を解消する約束だからな」
 そっけなく応じながらも、希望がついえていなかったことがわかりひそかに安堵する。ただ、涼風がどう思っているかわからないので気を抜くのはまだ早い。伏せた目を上げると、正面の彼女がにっこりと人懐こく微笑みかけてきた。
「これからも友人でいてくださいね」
「ああ……いや、それは……」
 何と答えればいいかわからずしどろもどろに言いよどむと、コーヒーに手を伸ばして一息つく。それでも気持ちは落ち着かない。どう話を展開させるか思案して自然と表情が硬くなる。その反応を目にして、涼風は何かに思い至ったようにふいと眉を寄せた。
「悠人さん、もしかして彼女ができたの?」
「いや、まだ……近いうちにそうなればいいとは思っているが」
「そうだったのね。友人としてうまくいくことを願っているわ」
 悠人の心臓は壊れそうなほどドクドクと脈打っているのに、涼風は微笑を浮かべてすこし寂しそうにするだけだった。友人として会えなくなるのは残念だが、それ以上ではないということだろうか。急速に希望がしぼんでいくのを感じる。だとしてもここまできて怯むわけにはいかない。
「その友人という話だが……」
「彼女ができるまでっていうお約束でしたよね」
「ああ……そうなんだが……」
「それまでは友人でいてもいいんでしょう?」
「いや、君との友人関係は今日で終わりにしたい」
「……あの、理由をお聞きしても?」
 揺れる彼女の双眸をまっすぐに見つめ、背筋を伸ばす。つられるように涼風の背筋も伸びた。
「涼風」
「はい」
 二人のあいだの空気は否応なく張りつめていく。
 悠人は早鐘のような鼓動を感じながらも、目をそらさず凛然と告げる。
「君が好きだ。友人ではなく恋人として付き合ってほしい」
「…………」
 まるで時が止まったかのように、涼風は姿勢を正したまま表情も変えずに凍りついた。しかし、事を理解するにつれて大きく目をみはり、薄紅色の小さなくちびるを震わせ始める。見開いた目からは真珠のような涙がぽろぽろと零れ落ちた。
「ゆ……悠人さん、ひどい……」
「えっ?」
 彼女は口もとを指先で覆い、止めどなく涙をあふれさせながらうつむいた。
「悠人さんに恋人ができるだけでもショックだったのに、友人をやめたいとまで言われて、もう私のことは邪魔だとしか思われてないのかなって……もう二度と会えなくなるんだろうなって……うぅっ……」
「すまない……緊張していて……」
 涼風に言われて、ようやく配慮が足りなかったことに気がついた。自分の不甲斐なさにギリと奥歯を噛みしめる。どうすれば彼女の涙を止められるのかもわからない。好きなのに泣かせることしかできないなんて。こんなことになるくらいなら告げなければよかった。不毛でも涼風に恋人ができるまで友人でいればよかった。悠人は冷静さを失ったまま泥沼の自己嫌悪に陥る。しかし――涼風は心を落ち着けるように深く呼吸をすると、頬を濡らしたまま顔を上げてふわりと微笑んだ。
「悠人さん、昔からずっと好きです」
 心にしみいるその声に、言葉に、悠人はハッと息をのんだ。
 涼風の気持ちは今も変わっていなかった。みっともない本当の姿をさらしたにもかかわらず、幻滅することなく受け入れてくれたということだ。心変わりしたと勝手に思い込んだことを申し訳なく思う。彼女の一途さを疑ったというよりも、自分に自信が持てなかったことが原因だろう。こんな自分を本当に好きでいてくれるのか、情けないがまだ自信がない。
「恋人として、付き合ってくれるのか?」
「私を悠人さんの恋人にしてください」
「……君を大切にする」
 胸が熱くなるのを感じながら真摯にそう答えると、涼風は瞳を潤ませたまま屈託のない笑顔でうなずいた。その拍子に涙がこぼれて星のようにきらりと光る。どこまでも広がる濃紺色の夜空を背にして――。それは、悠人がいままで見た中でいちばんきれいな涙だった。


…本編・他の番外編・これまでのお話は「東京ラビリンス」でご覧ください。

ランキングに参加しています

名前:
コメント:

※文字化け等の原因になりますので顔文字の投稿はお控えください。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

 

  • Xでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最新の画像もっと見る

最近の「小説」カテゴリーもっと見る

最近の記事
バックナンバー
人気記事