瑞原唯子のひとりごと

「遠くの光に踵を上げて」第66話 若者と権力者

「えー、ルナちゃん、いないの?」
 アンジェリカは不満げに声をあげた。王妃アルティナはティーカップを片手にくすりと笑った。
「アカデミーが休みの間はずっと一緒に過ごすって、ラウルがね」
「ラウルが……」
 アンジェリカは半信半疑でつぶやいた。アルティナを疑っているわけではないが、ラウルがそんなことを言うとは、にわかに信じられなかった。
「あんなヤツでも怖いんじゃないかしら」
 アルティナはやわらかい表情でほおづえをついた。
「娘が自分より私たちに懐くのが、ね」
 ラウルが仕事をしている昼間は、アルティナが彼の娘ルナを預かることになっていた。そのためルナは、ラウルよりアルティナたちと過ごした時間の方が長いという日も少なくなかった。
「久しぶりに会えると思ったのに残念」
 アンジェリカは軽く口をとがらせ、肩を落とした。その隣では、アルティナの息子アルスが、床にあぐらをかき大きなクッションを抱きしめながらむくれていた。
「ルナをとられた気分だぜ。さびしくて仕方ねぇやっ!」
 そう叫びながら、やり場のない怒りをこぶしに込め、そのクッションにぶつけた。
 アンジェリカはぱっと顔を輝かせながら両手を合わせた。
「じゃあ、今からみんなでラウルのところに押しかけない?」
「駄目よ。ラウルには医者としてのお仕事があるんだから」
 アルティナの向かいで紅茶を淹れていたレイチェルは、優しい口調で娘をたしなめた。アンジェリカは無言で口をとがらせた。
「じゃあよ、ジークのところに行くってのは?」
 アルスは無邪気に言った。アンジェリカは目を見開いた。
「あいつ、ちっとも会いに来ないし、こっちから押しかけてやろうぜ。確かナントカ研究所ってところじゃなかったか?」
「え、でも……」
 アンジェリカが何か言いかけたが、アルティナの声がそれを遮った。
「レイチェル、今日の私の予定って、会議ひとつだけだったわよね」
「ええ、行政改革推進委員会の定例会議。午後からね」
 アルティナは腕時計に目を落とした。
「時間はじゅうぶんにあるわね。よし! 行くわよ!」
 気合いの入った声をあげると、勢いよく立ち上がった。
「え?!」
「ホントか!」
 アンジェリカはとまどい、アルスは大喜びした。
「研究所って、ちょっと興味があったのよね」
 アルティナは声を弾ませた。顔はにこにこ足どりは軽やかで、見るからに浮かれている。
 アンジェリカは遠慮がちに切り出した。
「でも、あそこは関係者以外は入れてもらえないって……」
「なーに言ってんのよ。私は王妃よ、王妃! 立派な関係者じゃない」
 言われてみれば確かにそのとおりだ。しかし、彼女にはもうひとつの懸念があった。
「ジークの邪魔になるんじゃ……」
「ちょっと見学するだけよ。心配性ね」
 アルティナは笑顔で彼女を覗き込み、頭を軽くぽんと叩いた。アンジェリカは納得しないまま黙り込んだ。
「外に出るのも久々ね。わくわくするわ!」
 よく通る声でそう言いながら、息子とともにさっそく部屋を出ようとしていた。
「止めないの?」
 アンジェリカは母親に振り返って尋ねた。レイチェルはにっこりと笑った。
「私も見てみたいと思っていたのよ」
「…………」
 アンジェリカは不安な気持ちを抱えたまま、レイチェルとともに、アルティナたちのあとについていった。

「ターニャ=レンブラントに所長のことを教えたんだってな」
 サイファは窓枠にもたれかかり腕を組んだ。背後からの光が、彼の鮮やかな金髪をよりいっそう際立たせている。
 ラウルは机に向かったまま、ペンを持つ手を止めずに答えた。
「口止めされた覚えはない」
「口止めしたところで、上手く取り繕ってくれはしないだろう」
 サイファはふっと小さく笑った。
「長く生きているわりに嘘が下手だからな、おまえは」
 細く開いた窓から緩やかに風が舞い込み、白いカーテンの端を静かにはためかせた。ラウルは無表情で自分の仕事を続けていた。その隣のベビーベッドでは、ルナがすやすやと寝息を立てている。
「教えてやろうか、嘘のつき方」
 ラウルは手を止め、その声の主を鋭く睨みつけた。サイファは挑みかけるように不敵に笑った。その表情を見て、ラウルは眉をひそめた。
「必要ない」
 吐き捨てるようにそう言うと、再び書類に目を向けた。
「必要ない、か……」
 サイファはラウルの言葉を反芻し、目を伏せため息をついた。
「清廉潔白な人間は言うことが違うな」
 ラウルは再び睨みつけた。
「怒らせたいのか」
「怒る?」
 サイファは顔を上げた。組んだ腕をほどき、ラウルに歩み寄る。
「おまえが私を?」
 彼の肩に腕をのせ、もたれかかるように顔を近づけた。
「逆じゃないのか」
 ラウルは何も答えなかった。書類に目を落としたまま、無表情を保っていた。だが、彼の目は文字を追ってはいなかった。
 サイファはふっと笑って体を起こした。
「冗談だよ」
 そう言ってラウルの背中を叩き、後ろのパイプベッドに腰を下ろした。
「しかし、潔癖性だと大変だな。コネなどめずらしいことでもないのに。私は試験すら受けずに魔導省へ入ったぞ」
「何の自慢にもならんな」
 ラウルは背を向けたまま、無愛想に返した。サイファは手を組み、ニッと口端を上げた。
「プライドなど些末なものだということさ。きれいなままでは、泥の河は渡れないんでね」
「おまえはやりすぎる」
「限度はわかっているつもりだよ」
 今度はゆったりと穏やかに笑った。
「さて、と……そろそろ時間だな」
 腕時計を見ながら立ち上がり、ラウルに振り向いた。
「おまえも来るか?」
「仕事中だ」
 彼は顔を上げることもなく、冷ややかに言い放った。
「そうか。では、代わりに謝っておいてやるよ」
「余計なことをするな」
 怒りを含んだ低い声とともに、鋭い視線をサイファに向けた。しかし、サイファはそれを待っていたかのようだった。にっこり笑って小さく右手を上げると、医務室をあとにした。

…続きは「遠くの光に踵を上げて」でご覧ください。

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